5
七月になり、私は十七歳の誕生日を迎えた。
幼い頃から心待ちにしていたその日は、想像していたよりもずっと特別で、胸が震えるほど眩しい一日だった。
東部では、十七歳になった令嬢が正式に社交界に加わる際、デビュタントボールにて皇后陛下から祝福のティアラを授かるという伝統がある。
それは一人前の淑女として認められた証であり、貴族令嬢にとって生涯に一度だけ許される大切な儀式だった。
煌びやかな大広間には数え切れないほどの貴族達が集まり、その視線が一斉に私に向けられる。
純白のドレスは幾重にも重なるレースと刺繍で彩られ、肘まで覆う白いグローブには真珠が縫い込まれていた。
鏡の前で身支度を整えた時には実感がなかったのに、大理石の階段を下り、多くの人々の前に立った時、自分が本当に大人への一歩を踏み出したのだと理解した。
少し離れた場所には、お父様の姿がある。
いつもは堂々としているお父様が、どこか誇らしそうに、それでいて少しだけ寂しそうな顔で私を見守っていて、その姿を見て胸が温かくなった。
そして私はルヴァン王国の皇后陛下の御前に進み出る。
深く頭を垂れると、静まり返った会場に陛下の声が響き、その後そっと髪へ触れる感触がした。
顔を上げると、宝石を散りばめた美しいティアラが私の頭上に輝いている。
そして会場を埋め尽くす拍手が沸き起こり、私は正式に社交界に迎え入れられた。
あの日の光景は、きっと一生忘れないと思う。
そして迎えた八月。
夏の訪れと共に、各地では社交界シーズンが始まっていた。
春から秋にかけてのこの時期は、大規模な夜会や舞踏会、晩餐会が最も盛んになる季節であり、若い貴族達が交友関係を広げ、未来の縁談や政治的な繋がりを築く重要な時期でもある。
デビュタントを終えたばかりの私にとっても、本格的な社交界の始まりだった。
そんな中、私は薫様に誘われ、中部で開催される大規模な社交夜会へ参加することになった。
会場となるお城に到着すると、私は思わず息を呑んだ。
夜の闇の中に浮かび上がるお城はまるで幻想の世界そのもので、高くそびえる塔の窓からは無数の灯りが零れている。
正面広場には各地から集まった豪奢な馬車が幾重にも並び、色とりどりのドレスを纏った令嬢達と正装姿の紳士達が次々と城内に吸い込まれていく。
薫様にエスコートされながら大広間に足を踏み入れると、さらに目を見張った。
天井には巨大なシャンデリアが幾つも吊るされ、その光を受けた大理石の床が鏡のように輝いている。
生演奏が優雅に流れ、人々の笑い声や談笑が絶えず響き渡る光景は、まるで一つの王国がそのまま収められているかのようだった。
東部も十分華やかだと思っていたのに、ここには各地方から集まった有力貴族達が一堂に会している。
視界のどこを見ても人、人、人で、私は思わず目を瞬いた。
『すごい……こんなにたくさんの方がいらっしゃるのですね』
思わずそう呟くと、隣を歩く薫様が小さく笑う。
「当然だろ?中部最大の社交夜会だからな、東西南北から貴族がこぞって集まるらしい。今年は例年以上に参加者が多いと聞いてるよ」
『東部の舞踏会とはまた雰囲気が違うのですね』
「ああ。それに、まだ始まったばかりだ。もう少し時間が経てば、さらに増えるぞ」
その言葉に思わず会場を見回してしまう。
これ以上増えることを考えただけで、少し圧倒されてしまった。
「セラさん、少し緊張なさっていますか?」
振り返ると、千鶴様がくすくすと笑っている。
そしてその隣には、千鶴様をエスコートするはじめ様の姿があった。
『大丈夫です』
「本当でしょうか?」
千鶴様がそう言うと、はじめ様は静かに会場を見回してから口を開く。
「ここは東部の夜会とは規模が違う。初めてなら戸惑うのも無理はないだろう」
落ち着いた低い声は相変わらずで、余計な言葉を多く語らないところも昔のままだった。
『はじめも初めて来た時は驚いたでしょう?』
「そうだな。だが俺は驚くより先に警戒した」
『警戒?』
「ああ。これだけ人が集まれば、それだけ厄介事も起きるからな」
いかにもはじめらしい答えに、思わず小さく笑みが零れてしまう。
千鶴様も同じことを思ったのか、肩を揺らして笑っていた。
「はじめさんらしいですね」
「事実を言っただけだ」
真面目な顔で返され、私と千鶴様は顔を見合わせる。
すると薫様が呆れたように肩を竦めた。
「お前は相変わらずだな」
「殿下こそ油断なさらぬよう」
「誰に言ってるんだ」
初めて訪れる土地、初めて参加する大規模な社交夜会。
本当なら緊張して落ち着かないはずなのに、薫様と千鶴様、そしてはじめがいてくれるだけで不思議と心強く感じる。
煌びやかなシャンデリアの光を見上げながら、私はこれから始まる夜会に胸を躍らせていた。
大広間へ入って間もなく、私達は主催者である中部侯爵家に挨拶へ向かった。
それを皮切りに、まるで堰を切ったように次々と人々が集まってくる。
東部の王太子である薫様がいる以上、それは当然のことだった。
中部の有力貴族、西部の伯爵家、南部の騎士団長を務める名門の当主、その嫡男や令嬢達。
紹介される名前だけでも覚えきれないほどで、私は笑顔を絶やさないようにしながら必死に会話を続けていた。
「殿下、本日はお越しいただき光栄です」
「こちらこそ招待に感謝する」
「そちらの方がアストリア公爵令嬢でいらっしゃいますか?」
『お初にお目にかかります。アストリア家のセラと申します』
「お噂はかねがね」
そんな言葉を何度聞いたことだろう。
社交界に出る前は想像もしていなかったけど、私自身も思っていた以上に知られているらしい。
お父様の名声なのか、それともデビュタントの話が広まっているのか。
理由は分からないけど、初対面の方々から名前を呼ばれる度に少しだけ不思議な気持ちになった。
ふと視線を上げると、遠くの方からも何人かの若い令息達がこちらを見ている。
その中には明らかに私を見ている人もいて、少し落ち着かない気持ちになった。
最初は気のせいかと思っていた。
でも紹介を受けるたびに誰かがこちらを振り返り、会話の途中であっても視線だけはこちらに向けられる様子を見ているうちに、それが勘違いではないのだと理解する。
広間では数え切れないほどの人達が談笑しているというのに、なぜかその視線の先には私がいることが多かった。
「セラ嬢ですね。お会いできて光栄です。デビュタントのお話は中部にも届いておりますよ」
紹介されたのは私と同じくらいの年頃の伯爵家の令息だった。
人懐こい笑みを浮かべるその方に、私は淑女として恥ずかしくないよう微笑みを返す。
『ありがとうございます』
「実はずっとお会いしてみたいと思っていたんです。実際にお会いしてみて分かりましたが、皆が噂するのも無理はないですね」
『噂、ですか?』
「ええ。東部に信じられないほど美しい公爵令嬢がいると、社交界では随分前から話題になっていましたから」
予想もしていなかった言葉に、私は思わず目を瞬いた。
すると近くにいた別の若い男の人達まで笑みを浮かべながら会話に加わる。
「僕もその噂を聞いておりました。けれど正直なところ、少し大袈裟なのではないかと思っていたんです」
「同感ですね。ですが実際は逆だったようです」
「ええ。むしろ皆様、控えめにお話しされていたのでしょう」
穏やかな笑い声が広がる。
好意的な言葉ばかりだけど、あまりにも真っ直ぐな賞賛を向けられると何て返せば良いのか分からなくなってしまう。
『いいえ、とんでもございません』
ようやくそう答えると、一人の令息が少し照れたように笑った。
「ですが本当にお綺麗です。皆が女神のようなお方だと話していましたが、今日こうしてお会いして納得いたしました」
「アストリアの白百合と呼ばれるのも納得です」
「本当に愛らしい方ですね」
私は曖昧な笑みを浮かべながら返答を探していると、その空気を察したように隣から静かな声が響いた。
「セラを困らせないでもらえるかな」
その場にいた誰もがすぐに姿勢を正したのは、それを口にしたのが東部の王太子である薫様だったからだろう。
「し、失礼いたしました、殿下」
若い令息達が慌てて頭を下げると、薫様は微笑みを崩さないまま軽く肩を竦める。
「謝る必要はない。ただ、あまり褒めすぎると本人が困ってしまうからね」
東部の未来を担うのに相応しい威厳ーと品格を備えながら、それを決して押し付けることなく自然に振る舞う姿に、周囲のご令嬢達が熱を帯びた視線を向けているのが分かる。
けれど長年薫様の傍にいる私には、その完璧な微笑みの奥に僅かな不機嫌が隠れていることも分かってしまった。
それからしばらくしてようやく人の波が途切れ、私達は少しだけ大広間を離れることになった。
回廊に出ると張り詰めていた緊張が少しだけ解けていく。
私はほっと息を吐きながら薫様を見上げた。
『先程は助けてくださってありがとうございました』
すると薫様は前を向いたまま不満そうに眉を寄せた。
「あいつら馴れ馴れしいな。次から次へと寄って来て、鬱陶しいったらない」
先程まで完璧な王太子として振る舞っていた人と同じとは思えない言葉だった。
思わず目を丸くしてしまう私に構うことなく、薫様はさらに小さく呟く。
「こんなことなら陛下に婚約を早めるよう、もっと強引に言っておくべきだったな」
薫様は真面目な顔でそんなことを仰るから、その様子がおかしくて、でも少しだけ嬉しくて、私は思わず笑ってしまう。
すると薫様は怪訝そうにこちらを見た。
「何がおかしいんだよ」
『いえ。ただ、先程まで皆様の前にいらした薫様と同じ方には見えなくて』
「当たり前だ。本当の俺の姿はセラだけが知っていればいい。そう思わないか?」
そう言いながら薫様はにやりと口元を歪める。
先程まで大勢の貴族達の前で見せていた、非の打ち所のない王太子の微笑みではない。
私だけが知っている、少し意地悪で、どこか挑発するような笑い方だった。
『えっと、それは……』
上手く言葉が見つからなくなってしまい、私は思わず視線を逸らした。
だけど逸らしたところで、頬が少し熱くなっていることくらい自分でも分かる。
薫様は私の反応を楽しむように見つめながら、ふっと肩を揺らした。
「何だよ、その顔」
『何でもありませんよ?』
「何でもないようには見えないな」
『本当に何でもありませんってば』
慌てて否定すると、薫様はますます面白そうに目を細める。
私が照れていることなんて、とっくに見抜かれているのかもしれない。
そのことが余計に恥ずかしくて、私は俯き気味に視線を落とした。
すると薫様は少し身を屈め、私の顔を覗き込むようにしながら口を開く。
「顔が赤いね」
『赤くありませんよ』
「赤いよ。可愛い」
『っ……』
あまりにも自然に告げられたその一言に、私は思わず息を呑んだ。
まさか薫様に、そんなことを言われる日が来るなんて思っていなかった。
胸の奥が急に落ち着かなくなり、鼓動ばかりが騒がしくなる。
『もう、薫様……』
ようやくそれだけ呟くと、薫様は堪えきれないというように小さく笑った。
「セラって本当に分かりやすいよね」
そう言いながら伸びてきた手が、私の髪にそっと触れる。
夜会に参加するため丁寧に結い上げられた髪を崩さないように、まるで大切なものに触れるみたいに優しく撫でてくれる。
その手の温もりを感じるだけで、胸の奥が温かくなった。
でも、同時に思い出してしまう人がいる。
総司様が優しく髪を撫でてくださったことが脳裏に過ぎり、私は慌てて自分の想いに蓋をした。
「早く正式にしたいな」
『え?』
「婚約だよ」
薫様は私を見つめながら、どこか不満そうに眉を寄せた。
「さっきから次々にセラに寄って来る連中を見てると、余計にそう思うね」
『皆様、ただご挨拶をしてくださっただけですよ』
「それでも嫌なんだ。他の男がセラに話しかけてるのを見ると、無性に苛々する。セラは俺のなんだって、一日も早く公言したい」
低く落とされたその声には冗談めいた響きは一切なく、真剣な想いだけが滲んでいた。
嬉しいはずなのに、恥ずかしさの方が勝ってしまうけど、薫様の想いにはきちんと応えたかった。
『私も同じ気持ちです』
「本当にそう思ってくれてる?」
『はい。私はもう薫様のものですから』
敢えて薫様の言葉を使ってそう言ってみると、薫様は目を瞬いた後、すぐに嬉しそうに笑ってくださった。
「知ってる」
『ふふ』
私の髪をもう一度だけ優しく撫でる彼の手を心地良く思っていると、その穏やかな空気を破るように回廊の向こうから足音が聞こえてきた。
振り返ると近衛騎士がこちらに歩いて来て、薫様の前で一礼した。
「殿下。サルモザ侯爵閣下がお呼びです」
「今か?」
「はい。西部代表団との顔合わせが予定より早まったとのことです」
夜会に来ているのは遊ぶためだけではないらしい。
王太子である以上、こうした場でも各地方の有力者との会談や挨拶があるんだろう。
薫様は僅かに眉を寄せて小さく息を吐くと、こちらに視線を向けた。
「セラ、ごめん。少し席を外す。すぐ戻るから、ここで待っててくれる?」
『はい、分かりました』
「変な男についていくなよ?」
『ふふ、大丈夫ですよ。バルコニーで涼んでいます』
「わかった。終わったら迎えに来るから」
その言葉を残し、薫様は騎士と共に去っていった。
その背中を見送りながら、私はそっと息を吐く。
回廊にいても賑やかな夜会の音が相変わらず聞こえてくるから、夜会の華やかな喧騒から少し離れたくなって、私はバルコニーに足を運んだ。
扉を閉めた途端、それまで耳を満たしていた音楽や談笑の声がなくなり、まるで別の世界へ来たみたいに静かになる。
夜風は涼しくて心地よく、見上げた空には満月が淡い光を湛えて浮かんでいた。
『綺麗……』
思わず小さく呟きながら夜空を見上げると、不意に胸の奥が痛む。
それは以前、公爵邸のバルコニーで総司様と並んで星空を眺めた夜のことを思い出してしまったからだった。
穏やかな声も、優しく細められた瞳も、隣に立つだけで不思議と安心できたあの時間も、少しも忘れられていない。
会いたいと……そう想う気持ちは変わらずいつも心の中にあり続けていた。
けれど私は小さく首を横に振った。
来月には、私は薫様と婚約をする。
それが公爵令嬢としての務めであり、私自身が選んだ道だ。
大切に想ってくださる薫様にこれからは私も想いを返したいし、彼は私にとって大切な人。
だから総司様への想いは胸の奥にしまって、これ以上膨らませてはいけないと言い聞かせていた。
だって、そうでなければまたきっと前に進めなくなってしまう。
いつまでも叶わない恋に溺れたままの自分ではいたくなかったし、薫様には誠実に向き合っていきたかった。
そんなことばかり考えていた時、突然強く吹いた風に驚き、私は反射的に目の前の手すりをぎゅっと掴んだ。
その直後、ぱたぱたと何かが風に打たれる音が聞こえてくる。
不思議に思って視線を向けると、少し離れた場所の手すりに一枚の紙が貼られていた。
けれど風に煽られて揺れているせいで、文字がよく読めない。
何が書かれているんだろう。
そう思いながら私は手すりに身体を預けるようにして少し身を乗り出し、紙に視線を凝らした。
『危険。老朽化のため、この手すりには寄り掛からないでください……?』
……え?
嫌な予感が背筋を駆け抜けたのとほぼ同時だった。
みしり、と音が響き、手すりが私の体重を支えきれずに崩れ落ちた。
『きゃ……』
声にならない悲鳴が喉で途切れる。
身体が前に投げ出され、視界がぐるりと反転した。
足元にあったはずの床が消え、代わりに月明かりに照らされた庭園が頭の下へ広がっている。
落ちている、頭から真っ逆さまに。
それが理解できた時、ドレスの裾が激しく風をはらみ、全身から血の気が引いた。
どうしよう、ここは三階なのに。
そんな焦りが頭の中を巡るのに、身体は何もできないまま夜の空気の中に放り出されていた。
そしてその時だった。
城の正面入口から出てきた一人の男性が、ふと何かに気付いたように顔を上げる。
月明かりの下で視線がぶつかった、鮮やかなエメラルドの瞳。
信じられないものを見たかのように大きく見開かれるその瞳が、あまりにも綺麗だったから、一瞬だけ時間が止まったような気がした。
『……っ』
身体中に強い衝撃が走ったはずなのに、不思議なことにどこも痛くなかった。
恐る恐る閉じていた目を開けると、どうやら私は無事に地面へ辿り着いたらしい。
でも頬に触れるのは冷たい石畳ではなく、温かなぬくもりだった。
けれどすぐにその温もりが地面などではないことに気付く。
私は誰かの上に落ちてしまったんだ。
「……いっ……た」
苦しそうな声がすぐ下から聞こえてきて、私は弾かれたように顔を上げた。
『あっ……ごめんなさい……!』
慌てて謝りながら上体を起こす。
けれど焦りのあまり、すぐに離れることも出来ないまま相手を見下ろした時、月明かりがその人の顔を照らし出した。
整った輪郭も、少し乱れた茶色髪も、忘れられなかった面影も、何もかもが鮮明に視界に飛び込んでくる。
そして何より、その瞳。
夜の中でも宝石みたいに美しく輝くエメラルドの瞳が、真っ直ぐ私を映している。
胸の奥で何かが弾けるみたいに強く、どくんと心臓が大きく跳ねた。
息をすることさえ忘れてしまう。
夢なのではないかと思うのに、目を逸らせない。
瞳の色も、長い睫毛も、少し困ったように細められた目元も、見間違えようがなかった。
私は、この人を知っている。
それは、ずっとずっと会いたくてたまらなかった、あの日以来の総司様だった。
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