6

天使が舞い降りてきたのかと思った。

それは本当に一瞬のことで、空気を切り裂くように落ちてきた小さな影が視界を埋めた時、僕は自分でも信じられないほど反応が遅れていた。
予想外だったという言い訳はできるけど、本来なら避けることもできたはずだし、敵襲だと判断したなら無意識に剣に手が伸びていてもおかしくない。
それなのに何一つできないまま地面に押し倒され、情けなく下敷きになってしまったのは、唐突に現れたその姿が、あまりにも現実離れして見えたからだった。


「……いっ……た」


全身に鈍い痛みが走り、思わず顔をしかめると、すぐ耳元で慌てた声が響いた。


『あっ……ごめんなさい……!』


頭も背中も痛かったし、状況も理解できていなかったけど、その声だけは聞き間違えるはずがない。
ゆっくりと瞳を開けば、視界いっぱいに映り込んだのは、僕が長い年月をかけて想い続けてきたセラ嬢だった。
そして同時に、今の僕をこれ以上ないほど苛立たせている元凶でもあった。


本来なら今頃、僕は中部で開かれている社交夜会の広間に姿を見せているはずだった。
でも出発直前になって領地側から急ぎの報告が届き、どうしても僕自身が判断を下さなければならない案件が発生した。
各方面との連絡や指示に想像以上の時間を取られ、そのせいで予定は大きく狂わされる羽目に。
千や相馬たちには先に夜会に向かわせたものの、この場において最も重要なのは僕自身の出席だった。

今進めている計画を滞りなく実行するためには、この地域一帯に僕が現在この地に滞在しているという印象を周囲に植え付けておく必要がある。
夜会への参加は単なる社交ではなく、そのための重要な布石の一つだった。

だから遅れを取り戻そうと急いで三階まで上がり、広間に足を踏み入れようとした時。
回廊の向こうから、不意に聞き覚えのある声が耳に届いた。
反射的に視線を向けた先にいたのは、ルヴァン王国の王太子とセラ嬢だった。
王太子は親しげな仕草で彼女の髪を撫で、その手を受け入れるようにセラ嬢は頬を染めながら微笑んでいた。

柔らかな視線、幸せそうな表情。
そして彼女は、かつて僕に向けていたのと同じような瞳でその男を見つめながら言った。


『私はもう薫様のものですから』


その言葉は刃よりも鋭く僕の胸を裂いた。
あの甘く優しい眼差しが、どれほど愛おしいものだったか僕は嫌と言うほど知っている。
だからこそ耐え難かった。
彼女は今、僕ではない男に愛情を向けている。
僕のものになったことなんて一度もないくせに、それでもずっと僕の中だけでは特別だった相手が、別の誰かと将来を共にすることを望んでいる。
怒りなのか、嫉妬なのか、悲しみなのか。
自分でも判別できない感情がぐちゃぐちゃに絡み合い、気付けば広間に向かうはずだった足は勝手に方向を変えていた。

そのまま会場の外に出た僕の胸中には、吐き気すら覚えるほど重苦しい苛立ちが渦巻いていた。
けれどそんな最悪な気分の中で、まるで運命が悪趣味な悪戯でも仕掛けたかのように、セラ嬢は僕の目の前に降ってきた。
そしてそのたったの一瞬で、僕は遠い昔の記憶を思い出してしまう。
まだ幼かった頃、初めて彼女に出会ったあの日のことを。

それはまるで陽だまりの中に迷い込んだような感覚だった。
別に劇的な出会いだったわけでもない。
それなのに、気付けば僕の視線はいつも彼女を追いかけていた。
目を離した途端に見失ってしまいそうで、もう一度笑ってほしくて、声を聞きたくて、ただそこにいてほしいと願っていた。
まるで心ごと全てを攫われてしまったみたいに。
抗うことも忘れて、その存在に魅入られてしまったみたいに。

幼い僕はまだ恋なんて知らなかったけど、今なら分かる。
あの日から僕は、確かに彼女に囚われたんだ。
そしてそれは何年経った今でも解けることのない呪いのように、僕の心を支配し続けていた。


『総司様……?』


名前を呼ばれるのは何年ぶりだろう。
懐かしい響きが耳に届き、胸の奥で何かが強く軋んだ。
ようやく状況を理解したらしいセラ嬢は、僕を見下ろしたまま大きな碧眼を揺らし、その瞳には薄く涙の膜すら浮かんでいるように見える。
口元に添えられた両手もわずかに震えていて、彼女自身、この再会に動揺していることは明らかだった。
けれど、その愛らしい姿を見ても今の僕の心は少しも救われない。
むしろ苦しくなるばかりだった。


「まずは退いて頂けますか?」

『あ、ごめんなさい……』


我に返ったように慌てて立ち上がる彼女を見ながら、僕もゆっくりと身を起こす。
こうして改めて向かい合うと、記憶の中の彼女よりずっと小柄に見えた。
幼い頃から僕の心を占め続けてきた存在だったからだろうか。
特別な存在として心の中に刻まれていた彼女が、今は手を伸ばせば届いてしまいそうな距離に立っている。
その事実だけで胸の奥がひどく揺さぶられてしまう自分が嫌だった。


『総司様、お久しぶりです。私のこと覚えていらっしゃいますか?アストリアのセラです』


そう言って丁寧に会釈をした彼女は、再び真っ直ぐ僕を見上げてきた。
その眼差しは昔と何一つ変わっていない。
澄み切った湖面のように綺麗で、真っ直ぐで、だからこそ腹立たしかった。
あんな手紙を送りつけて僕を突き放したのは君の方だったはずなのに、どうしてそんな目で僕を見ることができるんだろう。
どうして何事もなかったような顔で、声を掛けることができるんだろう。
胸の内で渦巻く感情を押し殺しながら、僕は形だけの笑みを口元に浮かべた。


「セラ嬢、お久しぶりです。お元気そうで何よりですよ」


彼女の碧眼が小さく揺れる。
けれどすぐに柔らかな微笑みを浮かべると、少し小首を傾げるように僕を見上げてきた。


『総司様もお元気そうで良かったです。久しぶりにお会い出来たのに、先程は本当に申し訳ありません。お怪我はありませんか?』

「大丈夫ですよ。でも空から降ってきた時はさすがに驚きましたけどね」

『あ……実は上のバルコニーにいたんです。手すりが老朽化していたみたいで、寄りかかったら折れてしまって……』

「それは危ないですね。セラ嬢こそお怪我はありませんか?」

『はい。総司様のお陰で大丈夫でした。ありがとうございます』


感謝されても困る。
別に守ろうとしたわけじゃはない。
ただ避けられなかっただけだ。
そう言いたかったけど、口にはしなかった。

それ以上に気まずかったのは、この場に流れている空気だった。
久しぶりに言葉を交わしているはずなのに、少しも嬉しくない。
昔ならどれほど短い会話でも心が躍ったはずなのに、今は胸の奥に苦い感情ばかりが積もっていく。


「それでしたら良かったです。では、僕はこれで」


これ以上ここにいるべきではない、そう思って背を向けた時だった。


『あの、総司様』


再び呼び止められた声に、思わず足が止まる。
正直なところ、君は僕と話したくないんだと思っていた。
だからこそ早々に立ち去ろうとしたのに、今さら何を言うつもりなんだろう。


「はい?」

『帝国の剣に叙任されたと伺いました。ずっと努力を重ねてこられたことも存じていますし、そのお話を聞いた時は自分のことのように嬉しかったんです。本当におめでとうございます』


セラ嬢はきっと心からそう言ってくれたのだと思う。
柔らかく綻ぶ表情も、少し弾んだ声も、どれを取っても嘘をついているようには見えなかった。

昔からそうだった。
自分のことよりも他人の幸せを喜べる人だったから。
でもその心理は、僕には到底理解出来るものではなかった。

会っても話しかけないでほしい。
他人として接してほしい。
そう告げたのは君だからだ。


「お心遣いありがとうございます」


感情を悟られないよう淡々と返すと、セラ嬢は少し安心したように微笑み、それから再び口を開いた。


『あと、ご結婚もされたとうかがいました』

「ああ……」

『おめでとうございます。総司様が素敵なご縁に恵まれて、穏やかな毎日を過ごされていると知って安心いたしました。総司様には誰よりも幸せになっていただきたいと、ずっと思っておりましたから』


もうやめてくれ。
喉元まで込み上げた言葉を、どうにか飲み込む。
彼女に悪気がないことくらい分かっている。
むしろ善意なんだろうし、心から祝福してくれているんだろう。
でも、だからこそ余計にタチが悪い。
今の僕にとって、彼女の口から吐かれる言葉や優しさは心をずたずたに切り裂く鋭利な刃物でしかなかった。

幸せになってほしかった?
穏やかな毎日を過ごしていると思った?
意味がわからない。
僕はあの日から、一度だって幸せを感じたことなんてなかったのに。
帝国の剣と呼ばれようが、公爵位を継ごうが、周囲から羨望を集めようが、そんなものに何の意味もない。
僕の幸せはいつだって君と共にあった。
君が笑うだけで嬉しくて、君の未来を想像するだけで胸が満たされていた。
だからこそ、あの手紙は僕から全てを奪ったんだ。

それなのに君は今、別の男の隣で幸せそうに笑っている。
王太子を見上げていたあの眼差しを思い出すだけで胸の奥が焼けるように痛んだ。
僕の結婚だって、本当はどうでもいいんだろう。
興味がないからこそ、こうやって穏やかに祝福できる。

そう考えてしまえば、懸命に貼り付けていた笑顔が崩れそうになった。
それでもどうにか口元だけは保っていると、セラ嬢は何かを感じ取ったのか、不安そうにその瞳を揺らがせる。


『総司様、一つお伺いしたいことがあるのですが……』


まだ何かあるらしい。
胸の内で苦い感情が静かに広がっていく。
けれど表面だけは崩さないまま、僕は穏やかに問い返した。


「はい、なんですか?」


すると彼女は躊躇うように唇を引き結び、それから静かに尋ねた。


『私の手紙……読んでくださいましたか?』


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で燻り続けていた感情が大きく揺れた。
あの手紙を読んだか、だって?
それを聞いて何になるというんだろう。
理解できないまま苛立ちは募り、それがついに態度となって現れてしまった。
気付けば僕は小さく鼻で笑っていた。
嫌悪感が滲み出たその態度を目の前に、セラ嬢の表情が強張る。


「ええ、読みましたけど。それが何か?」


彼女が息を呑んだのが分かった。
視線がわずかに落ちて、それでも懸命に何かを言おうとしているのが分かる。
眉を下げて言葉を探しているその表情は、昔から何一つ変わっていなかった。
けれど今の僕には、その先を促してあげる余裕なんて残っていなかった。
ただ黙って見下ろしていると、不意に後ろから聞き慣れた声が響く。


「総司、遅いと思ったら中に入らないで何してるのよ」


振り返ると、そこには千が立っていた。
少し呆れたような表情でこちらに歩いてきた彼女は、ふとセラ嬢に視線を向けると目を見開く。


「あら、ごめんなさい。お話し中だったのね」


セラ嬢も驚いたように瞳を大きく見開いたけど、すぐに優雅な所作でカーテシーを作った。


『はじめまして。アストリア公爵家のセラと申します。総司様には今、私の不注意でご迷惑をおかけしてしまい、そのお詫びをさせていただいておりました』


すると千も落ち着いた微笑みを浮かべ、優雅に一礼する。


「はじめまして。アルディオン公爵夫人の千でございます。主人がいつもお世話になっております」


丁寧な挨拶が交わされた後、辺りは静寂に包まれた。
長い時間ではなかったはずなのに、その沈黙は妙に重く感じられる。
そんな空気を和らげるように、先に口を開いたのはセラ嬢だった。


『実はあちらのバルコニーの手すりが壊れてしまいまして、上から落ちてしまったところを総司様に助けていただいたのです』

「え?手すりが?それは大変でしたね。お怪我はありませんか?」

『はい、おかげさまで。ですが総司様のお召し物を汚してしまったかもしれませんし、ご迷惑をおかけしてしまいました。もし修繕など必要なことがございましたら、どうぞ遠慮なくアストリア公爵家までお申し付けください。責任を持って対応させていただきますので』


申し訳なさそうにそう告げる彼女に、千は柔らかく微笑んだ。


「お気遣いには及びませんよ。主人も怪我なく済んだみたいですし、何よりセラ嬢がご無事で本当に良かったですもの。ねえ、総司?」

「ええ。その通りですよ」


話を振られ、僕が短く頷くと、セラ嬢はほっとしたように微笑み、その視線を僕と千の間に向けて会釈をした。


『お優しいお言葉をありがとうございます。お二人のお時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした。ですが総司様と奥様にお会いできて、とても嬉しかったです。それでは失礼いたします』


千も優雅に会釈を返し、セラ嬢は最後に柔らかな笑みを残すと会場の中へと戻っていく。
淡い色のドレスを揺らしながら遠ざかっていく後ろ姿を、僕はしばらく無言で見つめていた。
やがて人混みの中へ溶け込むように見えなくなった頃、不意に隣から千の声が聞こえる。


「凄く綺麗な子ね。驚いちゃった。まるで童話の中から出てきたお姫様みたい」

「そう?」

「そうって……相変わらず総司は誰にも興味がないのね」


苦笑混じりの言葉に、僕は曖昧な笑みを浮かべることすらしなかった。
なぜなら興味がないと思われていた方が都合が良い。
これからの計画は勿論、その先のことも考えれば尚更だ。
だから何も答えないでいると、千は少しだけ声の調子を落とした。


「こんなこと聞いていいのか分からないけど……アストリア公爵家って、確か昔の事件の……総司のお母様が関わっていたお家よね?」


北部であの事件を知らない人間などほとんどいない。
ましてや情報通のローゼンガルド家の令嬢だった千なら尚更だろう。 
今さら隠す必要もないと思い、僕は小さく息を吐き出した。


「そうだよ。僕の母は彼女の母親を殺害した容疑で罪に問われたんだ」

「もしかして、実際は違う可能性もあったっていうこと?」

「僕は違うと思ってるよ。色々と不自然なことが多かったし、何より母にはそんなことをする理由も利益もなかったからね」


あの事件について話すたびに胸の奥が重くなる。
けれど千は余計なことを聞こうとはせず、しばらく考え込むように黙っていた後、やがて小さな声で言った。


「もし本当に無関係だったのだとしたら……やりきれない話ね」


その言葉に僕は何も答えなかった。
代わりに千は少し表情を和らげると、先程までセラ嬢がいた方向に視線を向けた。


「それにしても驚いたわ。あなた達、普通に話せる仲なのね」

「話せる仲って言っても、かなり久しぶりに会ったんだよ。あの事件以来、全く関わってなかったし」

「そうかもしれないけど、それなら余計に話すこと自体が気まずくならない?でも彼女、とても穏やかに笑っていたでしょう?だから最初は私の勘違いだったのかと思ったくらい」


その言葉を聞いて、胸の奥に燻っていた苛立ちが再び顔を出す。
脳裏には王太子と微笑み合う彼女の姿が浮かび上がり、自然と声が冷たくなった。


「それは僕も思ったよ。どういう神経で、あんなふうに笑いながら話しかけてこられるんだろうってね。見てるだけで気分が悪いし、正直理解できないな」


自分でもわかるほど感情が滲んでいた。
吐き捨てるようにそう言うと、千は目を丸くして僕を見上げる。


「なに?」

「……ううん。ただ、総司が今みたいに怒っているところを初めて見たから少し驚いただけ」

「別に怒ってるわけじゃないけど。それに、人間誰しも怒るでしょ」

「確かに少し苛立っているのかなって感じることは今までもあったわ。でもあなたって基本的に感情を表に出さないでしょう?だから今は本当に珍しいの。だって顔がものすごく怖いもの」


そんなことを言われても、今は笑う気にもなれない。
無理に作り笑いを浮かべることすら億劫だった。
視線を逸らしたまま黙っていると、隣から小さなため息が聞こえる。


「とにかく。あなたが遅れてきたせいで、私達はこれから挨拶回りをしなくちゃいけないんだから、ちゃんと笑顔でいてよね」


その言葉でようやく現実に引き戻された。
そうだった、僕にはまだ仕事が残っている。
今夜は感情に浸っている場合ではない。
それなのに胸の奥は少しも晴れないままだった。

むしろ会ってしまったせいで、余計に掻き乱されている。
こんな感情をセラ嬢に抱いたのは初めてかもしれない。
愛おしいでもなく、切ないでもなく、ただ苦しくて腹立たしい。
それは自分でも持て余すほどだった。


「ほら、行きましょう? ちゃんとエスコートしてよね」


そう言うと千は自然な仕草で僕の腕に手を添え、そのまま細い腕を絡めてくる。
社交界では当たり前の夫婦の振る舞い。
誰が見ても仲睦まじい公爵夫妻に見えるだろう。
僕は小さく息を吐きながら、無理矢理笑顔を作った。


「わかったよ」


満足そうに微笑む千と並んで、僕は会場に向かった。
広間の向こうには、きっとセラ嬢がいる。
もしかしたら王太子の隣で微笑んでいるかもしれない。
そう考えただけで胸の奥が重く沈み、足取りまで鈍くなりそうだった。
それでも今夜の僕はいくら気分が悪くても、それを表に出すことは許されない。
僕はいつもの仮面を被り直し、眩い灯りが溢れる会場の中に足を踏み入れた。

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