8

中部で開かれた盛大な夜会も、いつしか終わりの時間が近づいていた。
煌びやかな音楽や人々の笑い声は少しずつ遠のき、広い会場から人影が減っていく様子を眺めながら、私達も帰路につくことになった。

アストリアの馬車は既に用意されていたけど、私は薫様に誘われ、王家の馬車にお邪魔することになった。
アストリアに立ち寄った後に王宮に戻られるそうで、千鶴様もそれを察してくださったのか、私の代わりに伊庭様や平助様と共にアストリアの馬車へ乗り込まれていた。

王族専用の豪華な馬車の中は静かで、外の喧騒がまるで別世界の出来事のように感じられる。
ふかふかの座席に身を預けながら窓の外を見上げれば、夜空には無数の星が瞬いていて、その美しさに胸が締め付けられそうになった。
泣いてはいけないと思うのに、胸の奥では何度も感情が溢れそうになる。
今日だけで、いったい何度それを繰り返したんだろう。


「何を考えてるの?」


不意に声を掛けられて視線を向けると、いつもは隣に腰掛ける薫様が、今夜に限って向かい側の席に座り、頬杖をつきながら真っ直ぐ私を見つめていた。


『星が綺麗だなって思っていました』

「ああ、星ね。夏は特に星が近く見えるもんね」

『はい。今日は沢山の方とご挨拶できて楽しかったですが、慣れない場所に少し疲れてしまったみたいです。だから星を眺めて、心を休ませていました』


そう答えながら、私は再び夜空に視線を戻した。

星はいつも変わらず空にある。
夏が終われば見えなくなる星座も、また来年の夏が来れば同じ場所に帰ってくる。
だから私は毎年、夏の終わりになると少しだけ寂しくなりながらも、来年また会えることを信じて空を見上げていた。

そしてそれは、幼い頃の私が総司様に抱いていた想いと少し似ている気がした。
冬になると総司様はアストリアへ来てくださる。
春になればヴェルメルへ帰ってしまうけど、また次の冬が来れば会える。
それはこの星空と同じように、ずっと続いていくものなのだと疑いもしなかった。

けれど、お母様のことがあってから全ては変わってしまった。
私と総司様自身は何も変わっていなかったはずなのに、その関係を取り巻く世界だけが容赦なく姿を変えていき、気付けば総司様と関わることさえ難しくなっていた。
想い続けることすら罪のように思えて、私はただ巡る季節の中を静かに生きていくしかなかった。
それでも、いつかまた会える日が来ると信じていた。
季節が巡るように。
星がまた戻ってくるように。

だけど今日再会した総司様は、確かに総司様なのに、私の知っている総司様とはまるで違っていた。
私に向けられる眼差しも、声の温かさも。
その隣に寄り添う方に向ける優しい微笑みも、何もかもが遠く感じられた。


「今日は驚いたね。まさかアルディオン公爵に会うことになるとは思いもよらなかったよ」

『そうですね。私も驚きました。でも、とても幸せそうでしたね』

「ああ、あのローゼンガルド家のご令嬢と?」

『はい。色々なことがありましたけど、やっぱり知っている方の幸せな姿が見られるのはいいですね。仲睦まじいご様子を見て、私まで幸せを分けていただいた気分です』


本当に幸せそうだった。
彼女に微笑む総司様の瞳は、柔らかく優しい色を宿して見えたから。


「セラは変わってるね」

『え?変わってる?』

「だって一応、元婚約者だろ。複雑に思ったりとかしないの?」

『しませんよ。だって総司様がご結婚されたことはだいぶ前から知っていましたから。それにあれから五年も経ったんです。この五年で私も変わりましたし、それは総司様も同じです。総司様の幸せそうな姿が見れたので、良かったです』


そう。
本当に良かったと思っている。
総司様が苦しんでいる姿を見るより、ずっといい。
それなのに目の奥がじわりと熱くなって、私は慌てて星空に視線を逃がした。


「俺達も幸せになろう」


不意に掛けられた優しい声に視線を向けると、薫様は静かに微笑んでいた。
けれど、その瞳の奥にはどこか切なさにも似た色が滲んでいるように見えた。


「俺がセラを幸せにするよ。だから……」


そこで言葉が途切れる。
私は小さく首を傾げながら続きを待った。
すると薫様は少しだけ視線を伏せ、静かに息を吐いた後、ゆっくりと顔を上げた。


「だから、無理に笑わなくていいよ」


その言葉に思わず息を呑む。
薫様は、もしかしたらずっと気付いていたのかもしれない。
そう思うと申し訳なさが込み上げて、先程までとは別の意味で胸が苦しくなった。


「ずっと見てたから分かる。セラは昔からそうだ。誰かの幸せを心から喜べるし、自分が辛くても平気な顔をしてしまう。でも、それは強いんじゃなくて優しすぎるだけだろ」

『私は……』

「別に無理に忘れなくていいんだよ」


優しい声だった。
責めることも否定することもなく、ただ静かに私の心へ寄り添ってくれるような声だった。


「大切だった人を簡単に忘れられるなら、それは最初から大切じゃなかったってことだろ。だから無理に前を向こうとしなくていいし、泣きたいなら泣いてもいい」


胸の奥で押し込めていた感情が、少しだけ揺れる。
私は唇をきゅっと結びながら俯いた。


『泣きたくなんてありません。だって総司様は幸せそうでした。だから、私はそれで十分なんです』

「そう思えるセラは本当に優しいな」


薫様はそう言って微笑み、それから少しだけ身を乗り出した。


「でもさ、人の幸せを願うだけじゃなくて、自分も幸せにならないと駄目だろ」

『私も……ですか?』

「そう。セラもだ」


夜空を映したような瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。
揺らぐことのないその眼差しには、気遣いや優しさだけではなく、長い時間をかけて私を想い続けてくださった気持ちまでもが宿っているように感じられた。


「これから先、どれだけ時間が掛かってもいい。俺はセラが笑っていられる未来を一緒に作りたいと思ってる」


その言葉は悲しみに沈んでいた心に少しずつ灯をともしていくようだった。
戻らない季節も、叶わなかった願いもある。
幼い頃に信じていた未来の形は、きっともうどこにも存在しない。
けれど空は今も変わらず続いていて、私達の歩く道もまた未来へと続いている。
そう思えたのは、きっと薫様が隣にいてくださったからだ。

総司様との思い出は今でも大切な記憶だし、消えることもない。
けれどそれとは別に、今の私には薫様がいてくださる。
私が迷った時には手を差し伸べてくれて、辛い時には何も聞かずに寄り添ってくれて、弱音を吐けない私の気持ちに誰よりも先に気付いてくれる。
その存在にどれほど救われてきたのか、きっと薫様はご存じない。 


『ありがとうございます。私、薫様がいてくれて良かったです』


自然と零れた言葉だった。
取り繕ったものでも、その場を繕うための言葉でもない。
胸の奥から溢れた、本当の気持ちだった。


『薫様にはいつも支えていただいてばかりです。私が困っている時も、悲しい時も、不安な時も、いつも傍にいてくださいました』


そう話しているうちに、改めてその年月の長さを思い出す。
婚約してからの時間だけではない。
もっと前から、薫様はずっと私を見守ってくださっていた。


『だから私にとって薫様は、本当に大切な方なんです。今こうして前を向こうと思えるのも、薫様がいてくださるからです。薫様が隣にいてくださると、不思議と安心できるんですよ』


自分でも少し恥ずかしくなるほど素直な言葉だった。
けれど今は誤魔化したくなかった。
今日一日、ずっと私を気遣い続けてくださった薫様に、ちゃんと伝えたかった。


『ですから、本当に感謝しているんです。それに私、薫様と結婚できることをとても幸せだなって思っています』


そこまで言ったところで、薫様がふいに目を伏せた。


『薫様?』


顔を上げた薫様は少し困ったように笑っていたけど、その瞳には隠しきれないほどの喜びが滲んで見えた。


「そういうこと、簡単に言わない方がいいんじゃない?俺だからまだいいけど」


そう言いながら照れた顔を隠すようにそっぽを向く姿がどこか可笑しくて、私は思わず笑ってしまった。
薫様もそんな私を見ながら、嬉しそうに目を細めた。


「……ありがとう」


その一言には、私が思っている以上に沢山の感情が込められているように感じられた。


「でも、俺の方こそ助けられてるんだけどね。セラは自分じゃ分かってないだろうけど、昔から誰かを安心させたり、元気にしたりするのが上手なんだよ」

『私はそんな大層なことは出来ていません』

「出来てるよ」


即座に否定されてしまい、私は少しだけ困ってしまう。
けれど薫様は冗談を言っている様子ではなかった。


「俺だって王太子だからさ。皆の前では平気な顔をしてるけど、嫌になることもあるし、投げ出したくなることもある。でもセラと話してると不思議と頑張ろうって思えるんだ」


私は何を言えばいいのか分からず、ただ薫様を見つめた。
すると薫様はふっと微笑みながら窓の外へ視線を向けた。


「だから、俺だけがセラを支えてるわけじゃない。セラが思ってる以上に、俺もセラに支えられてるよ」


私はずっと薫様に助けていただいてばかりだと思っていた。
王太子として忙しいはずなのに時間を作ってくれて、私が不安になれば気付いてくれて、こうして傷付いた心にまで寄り添ってくれる。
だからこそ、そう言っていただけることが嬉しかった。


『もし本当にそうでしたら……私も嬉しいです。薫様には沢山助けていただいてばかりですから。だから少しでもお力になれているのなら幸せです』

「その程度で幸せとか言うな。言っておくけど、俺はもっと欲張りなんだ」


少しだけ悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
先ほどまでの切なげな表情とは違う、どこか楽しそうな笑みだった。


「セラにはもっと幸せになってほしいし、俺の隣で沢山笑ってほしい。できればその笑顔を俺だけに向けてほしいしね」

『もう……』


思わず頬が熱くなる。
薫様は時々こうして、何気ない顔で恥ずかしいことを口にする。
視線を逸らす私を見て、薫様は小さく笑った。

けれど不思議だった。
先ほどまで見上げていた星空は同じはずなのに、今は少しだけ違って見える。
胸の奥に残る痛みが消えたわけではないけど、その隣に寄り添うように別の温もりが確かに存在していて、私は一人ではないのだと感じられた。


『私も、薫様には笑っていてほしいです。だって薫様はいつも皆様のために頑張っていらっしゃるでしょう?だから私くらいは、薫様が無理をしていないか気付ける人でいたいと思うんです』


そう告げると、ただ静かに私を見つめ、それからふっと優しく笑う。
その笑みはどこか嬉しそうで、少しだけ照れたようにも見えた。

大切な思い出も、失ったものも、きっとこれからも先ずっと私の中に残り続ける。
けれど同時に、今の私には大切にしたい人がいる。
私を想ってくれる人がいる。
そして私もまた、その人の幸せを願っている。
そんな当たり前のことが、今夜はとても愛おしく思えた。


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