3
それでも戦いは終わらない。
山崎さんはなおも剣を構え、たった一人でローブの男の前に立ち続けていた。
肩で荒く息をしながらも、その背中だけは決して揺るがない。
平助君と伊庭君が倒れた今、自分だけでも私を守り抜こうとしていることが伝わってきて、胸が締め付けられるように苦しくなった。
けれどそんな山崎さんの覚悟すら、ローブの男にとっては何の脅威にもならなかったらしい。
山崎さんが渾身の力で剣を振るうたびに、その男は僅かに身体を傾けるだけで剣をかわし、ときには受け流すことすらせずに横に滑るように動いてみせる。
そしてその直後には、山崎さんの肩口から血が散った。
「っ……!」
それでもその男の剣は止まらなかった。
今度は腕を、脇腹を、さらに太腿を。
致命傷にはならない場所ばかりを選ぶように、その剣は正確に山崎さんの身体を刻んでいく。
まるで獲物をすぐには仕留めず、少しずつ追い詰めていく捕食者のようだった。
その度に山崎さんの動きは鈍くなり、息遣いは荒くなり、それでもなお私の前へ立ち続けようとする姿が痛々しくて、見ていることすら苦しかった。
『お願いです……もうやめてください……!』
必死に叫んでも、ローブの男は聞く耳を持たないまま、むしろ楽しんでいるようにさえ見えた。
山崎さんの動きが徐々に鈍くなり、息が荒くなり、それでも立ち向かってくる様子を観察しているようだった。
夜の庭園に響くのは剣戟の音と、山崎さんの押し殺した苦痛の声だけだった。
そしてついに、その身体が大きく揺らいで片膝が地面につく。
肩で息をしながら、それでも立ち上がろうと剣を支えに身体を起こそうとする山崎さんを見下ろし、男は静かに剣を振り上げた。
月光を反射した剣先を見て、私の頭の中は真っ白になった。
このままだと山崎さんが殺されてしまう。
その考えが頭を過った時には、もう身体が勝手に動いていた。
怖いとか、危ないとか、そんなことを考える余裕はなかった。
ただ目の前で私を守ろうとしている山崎さんを助けなければという思いだけが胸を埋め尽くし、気付けば私は彼を庇うようにその前へ飛び出していた。
『やめて……!』
でも、その必死の行動はあまりにも無力だった。
ローブの男はただ煩わしいものを払い除けるように私の腕を掴んだだけだったのに、その直後には身体が大きく弾き飛ばされ、私は為す術もなく地面に叩きつけられてしまう。
『……う、けほっ……』
息が詰まり、視界が揺れる。
肩と背中に走る痛みに顔を歪めながらも慌てて顔を上げると、男は既に私のことなんて意識の外へ追いやってしまったかのように再び山崎さんに視線を向けていた。
伸ばされた手が山崎さんの襟首を掴み上げる。
傷だらけの身体が無理やり持ち上げられ、その姿が月もない夜の闇の中に浮かび上がった。
そして男はもう片方の手に握った剣をゆっくりと振り上げる。
その切っ先が向いている先を見て、胸の奥が凍り付いた。
あれが振り下ろされたら終わってしまう。
山崎さんが本当に死んでしまう。
そう思った途端、私は再び立ち上がっていた。
足は震えていて、身体も思うように動かない。
それでも止まれなかった。
『だめ……!』
叫びながら男に飛びつき、その剣を握る腕に必死にしがみつく。
細い腕では到底敵うはずもなく、それでも少しでもその動きを止めたかった。
少しでも時間を稼ぎたかった。
だから夢中で力を込めながら、その男の腕に縋り付く。
『お願いです……これ以上傷付けないで……!』
涙で滲む視界の中、懇願することしかできない自分が情けなかった。
けれど今の私にはそれしかできなかった。
数秒の沈黙のあと、小さな舌打ちが聞こえる。
その音にびくりと身体が震えた次の瞬間には、私は再び乱暴に振り払われていた。
身体が軽々と投げ出され、地面を転がる。
肘を擦りむいた痛みも、膝を打った衝撃もよく分からなかった。
ただ悔しかった。
誰も守れない自分が悔しくてたまらなかった。
そんな私の耳へ飛び込んできたのは、苦しげに掠れた山崎さんの声だった。
「お嬢様……」
はっと顔を上げる。
すると山崎さんは傷だらけの身体を無理やり起こしながら、再び私の前に立とうとしていた。
身体の至るところから血が流れている。
立っていることすら辛いはずなのに、それでも私を守ろうとしている姿に胸が締め付けられた。
どうしてそこまでしてくれるんだろう。
そんな思いが込み上げる一方で、申し訳なさと苦しさで視界が歪む。
山崎さんは再び剣を握り締めると、そのまま男に向かって駆け出していく。
その背中には決死の覚悟が滲んでいた。
けれどローブの男は山崎さんが迫るのを待つように静かに立ち尽くしていたかと思うと、山崎さんの剣先を難なく避けると同時に、信じられないほど容易くその身体を掴み上げる。
まるで大人が子供を持ち上げるかのような一方的な力だった。
『山崎さんっ……!』
男はそのまま山崎さんの身体を大きく振り上げると、何の躊躇いもなく地面に叩きつけた。
重く鈍い音が庭園に響き渡る。
それは聞くだけで胸が苦しくなるような音だった。
「うっ……かはっ……」
地面に叩きつけられた山崎さんの身体が苦しそうに震え、口元から血が零れ落ちた。
『……山崎さ……』
ほんの短い時間だったはずなのに、私には永遠にも思えるほど長く感じられた。
つい先程まで穏やかな夜だったはずなのに、気付けば庭園は血の匂いに満たされ、平助君も、伊庭君も、山崎さんも、皆苦しそうに地面に倒れ込んでいる。
月明かりさえ届かない闇の中に横たわるその姿はあまりにも痛々しくて、耳に届く苦しげな呼吸がこれは夢ではなく現実なのだと私に突き付けてくるようだった。
息ができないほど怖かった。
今にも泣き出してしまいそうだった。
それでも、動かなければ駄目だと思った。
皆が傷付きながらも私を守ろうとしてくれたのだから、今度は私が何とかしなければならないと、震える心を必死に奮い立たせようとしたその時、不意に静かな足音が聞こえてきた。
砂利を踏み締める乾いた音はゆっくりと、確実にこちらに近付いてくる。
一歩、また一歩。
その音が近付くたびに心臓は強く脈打ち、全身を支配していた恐怖がさらに大きく膨れ上がっていく。
皆を連れて逃げなければならない。
頭ではそう分かっているのに、身体は言うことを聞いてくれなかった。
足に力が入らない。
立ち上がろうとしても震えるばかりで、私は尻もちをついたままその場に縫い付けられたように動けなかった。
そして恐る恐る顔を上げた時には、その男はもう目の前まで来ていた。
片手に剣を携えたまま、闇を纏うような黒いローブ姿で静かに私を見下ろしている。
その姿はまるで死神のようで、胸の奥が冷たく縮むのを感じた。
「……お、……嬢さまっ……」
遠くから山崎さんの掠れた声が聞こえる。
その声には焦りが滲んでいて、傷だらけになりながらもなお私を守ろうとしてくれていることが伝わってきた。
「……っ、セラに……手を出す……な」
平助君も苦しそうに声を絞り出している。
「セラっ……逃げ…」
伊庭君の声も聞こえた。
三人とも満身創痍のはずなのに、それでも最後まで私を案じてくれている。
その優しさが胸に痛いほど染みて、だからこそ余計に涙が溢れそうになる。
けれど私は何もできなかった。
身体は恐怖で強張り、指先さえ思うように動かない。
ただ震えながら目の前の男を見上げることしかできなかった。
その時、不意に夜風が木々の梢を揺らした。
流れていく雲の隙間から月が静かに姿を現したんだろう。
それまで闇に沈んでいた庭園に淡い銀色の光が降り注ぎ、血に濡れた石畳や倒れ伏した皆の姿を静かに照らし出していく。
まるで世界そのものが息を潜めているような静寂の中、その光はゆっくりと目の前の男にも届き、黒いローブに包まれていた輪郭を少しずつ浮かび上がらせていった。
男はただ静かに私を見下ろしながら、その手をゆっくりとフードに伸ばす。
それだけの仕草なのに、なぜか胸騒ぎがした。
知ってしまえば二度と後戻りできない何かが待っているような気がして、心臓は苦しいほど速く脈打ち続ける。
それでも視線を逸らすことはできなかった。
まるで運命に引き寄せられるように、その指先の動きを見つめ続けていた私の前で、男は静かにフードを下ろした。
『……え……?』
世界から音が消えたような気がした。
苦しげな呼吸も、夜風の音も、自分の鼓動さえも遠ざかっていく。
ただ月明かりの下に晒されたその顔だけが鮮明に映り込み、私は息をすることすら忘れたまま、その人を見つめていた。
信じられなかった。
あまりにも信じられなくて、目の前の光景を理解することを心が拒絶していた。
だって、忘れたことなんて一度もなかった。
会えない時間がどれだけ続いても、ふとした瞬間に思い出してしまうほど、鮮やかに心に刻まれている大切な人の顔だったから。
それなのに、どうして。
どうしてここにいるの。
どうしてこんなことをしているの。
そんな言葉が喉元まで込み上げるのに、震えた唇からは何一つ零れ落ちてくれない。
私がただ呆然と見つめる中、その人は僅かに微笑むような気配を見せながら静かに口を開いた。
「約束を果たしにきたよ、セラ嬢」
耳に届いたその声は、とても優しい音色に聞こえた。
血の匂いが漂うこの庭園にも、傷付いた皆が倒れているこの惨状にも似つかわしくないほど穏やかで懐かしい響きを持った声は、かつて何度も私の名前を呼んでくれたあの頃と少しも変わっていなくて、その一言だけで胸の奥に閉じ込めていた記憶が一気に溢れ出しそうになる。
だからこそ受け入れられなかった。
もし知らない誰かだったなら、ただ恐怖だけを感じていられたかもしれない。
けれど目の前にいるのは、大切な思い出の中で何度も微笑んでくれた人だった。
そんな人が、今は私の大切な人達を傷付け、その全てを壊した張本人として目の前に立っている。
その現実があまりにも残酷で、これはきっと恐ろしい夢なんだと自分に言い聞かせることしかできなかった。
そうでも思わなければ、目の前にいる人と私が知っている総司様とを同じ存在として結び付けることなどできなかった。
月明かりの下で静かに私を見下ろしているその人が、紛れもなく総司様だという事実だけが、ただ私の心に突き刺さっていた。
呆然としたまま総司様を見上げていると、彼は何事もなかったかのような落ち着いた仕草で剣を鞘に納め、そのまま私達を囲む夜の闇に視線を向けた。
「はい、みんな出てきていいよ」
その一言を合図に、それまで静まり返っていた庭園のあちこちで人の気配が動く。
木々の枝の上や、回廊の影、植え込みの奥からも次々と人影が現れ、その数はあっという間に十人近くにまで膨れ上がった。
今まで全く気付かなかったことに、私は思わず息を呑む。
こんなにも大勢の人が潜んでいたのに、誰一人として気配を感じさせなかったことが恐ろしくて、背筋に冷たいものが這い上がった。
身体が震える私の前に総司様が歩み寄る。
逃げようとする気力すら失っていた私の腕を掴むと、そのまま軽々と引き起こした。
けれどそれは助け起こすような優しさではなかった。
私の両腕を後ろに回すように捻り上げ、その上から自らの腕を絡めるようにして拘束し、逃げ出せないよう肩ごと身体を引き寄せる。
背中には総司様の胸が触れるほど近く、僅かに動くだけでも拘束が強まることが分かった。
まるで私が暴れることを前提に扱われているようで、その事実が胸を痛める。
「そこの三人も、連れてきて」
総司様は周りの人達に淡々とそう命じると、私を拘束したまま歩き始める。
慌てて振り返ると、平助君も、伊庭君も、山崎さんも、傷だらけの身体を無理やり引き起こされていた。
まともに立つこともできないはずなのに、帝国の騎士達はそんなことなど気にも留めず腕を掴み、乱暴に拘束していく。
これ以上無理をさせたら、傷口が余計に開いてしまう。
危険だと思った時には叫んでいた。
『その方達は怪我人です……! どうか乱暴に扱わないでください!』
必死に叫んでも、私の声なんて届いていないのか、誰もこちらを見ようともしない。
傷付いている三人を気遣う様子もなく無理やり歩かせている姿に胸が痛み、私は隣を歩く総司様を見上げた。
『総司様、あの方達を医務室で休ませてあげてください』
「なんで?」
『大怪我をしているんです。このまま無理に動かしたら傷口が開いてしまいますし、命に関わるかもしれません』
「だから何?」
その言葉に思わず息を呑む。
横目に向けられたエメラルドの瞳は鋭く冷たくて、私が知っている総司様のものとはまるで違って見えた。
「あの三人が死のうが、僕にとってはどうでもいいことなんだけど」
『ですが、これは私からのお願いです。どうかあの方達を……』
「駄目だよ。いいから黙ってついてきて」
その一言で終わらせようとする総司様を見つめながら、私は震える指先を握り締める。
冷たく言い捨てられてしまったけど、そのまま黙ることはできなかった。
『あの方達が傷を負われたのは、総司様が武力をもって制圧なさった結果ですよね。他国の領内において一方的に剣を交え、その上で負傷者への手当ても許されないというのは、あまりにも道理に反していると思います』
はっきりと言葉にしてしまうと、総司様の瞳に苛立ちが滲んだのが分かった。
「……は?僕が悪いって言いたいの?」
低く冷たい声だった。
その声もその視線も、私の知る総司様とは別人のようだったけど、それでも私は目を逸らさない。
すると総司様は小馬鹿にしたように口元を歪めた。
「むしろ悪いのは、あの三人だと思うけど」
『どうしてですか?あの方達は何もしていません。私を守ろうとしてくださっただけです』
「何もしなかったんじゃなくて、何も出来なかっただけでしょ。あの三人が僕より強ければ怪我をしたのは僕の方だった。今彼らが傷だらけなのは弱かったからだよ」
『そんな考え方……』
「結局、弱いあの三人が悪い。傷を負ったのも自己責任だ。だから、君のくだらない要望を聞く理由なんてないよ」
胸の奥から反論が込み上げる。
そんな理屈があるはずないし、誰かを傷付けていい理由にはならない。
そう言おうとして口を開きかけた私を見て、総司様は怪訝そうに視線を向けた。
「これ以上何か言ってくるなら、面倒だからこの場であの三人を殺すけど」
総司様の瞳の中に宿していたのは、人の命を奪うという行為に嫌悪や葛藤の欠片さえ存在しない、どこまでも冷え切った眼差しだった。
その目を見て、遠い昔の記憶が不意に胸の奥から浮かび上がってくる。
まだ幼かった頃、垣間見たことのある総司様の横顔。
普段は穏やかに笑い、人懐こい笑顔で周囲を和ませているのに、その内側には誰にも触れさせない刃のような危うさが潜んでいるのだと知った時のことを思い出した。
そして同時に、はじめが口にしていた言葉までもが鮮明によみがえる。
総司は危険だ、と。
あの時の私は、その言葉を受け入れたくなかった。
私の知る総司様は優しい人だったから。
いつも手を差し伸べてくれて、意地悪そうに笑いながらも必ず助けてくれて、どこか寂しそうな影を宿しながらも誰より温かい心を持っている人だと思っていたから。
けれど今、目の前にいる総司様を見ていると、あの日のはじめの言葉を否定することができなかった。
この人は本当にやる。
それは脅しでも虚勢でもなく、必要だと判断すれば何の躊躇いもなく実行するのだろうという確信にも似た恐怖が、じわじわと胸の内側を侵していく。
私を守るために命を懸けて戦ってくれた、三人の苦しげな呼吸が聞こえる。
私のために傷ついてしまった人達の命が今、総司様の気まぐれ一つで奪われるかもしれないのだと思うと、全身から血の気が引いていくようだった。
本当は言いたいことがたくさんあった。
傷付いた人を見捨てることが正しいはずがないって。
どれほど力があっても、どれほど強くても人の命を軽んじていい理由にはならないんだって、そう叫びたかった。
でも、もしここで反論して総司様の機嫌を損ねれば、その結果として平助君達が命を落とすことになるかもしれない。
そう考えたら、私にはもう何も言えなくなってしまった。
あまりにも悔しかった。
目の前で理不尽な言葉を投げ付けられているのに反論することもできず、大切な人達が傷付けられているのに守ることもできない自分が情けなくて仕方がなかった。
それでも今は感情のまま言葉をぶつけるわけにはいかない。
三人の命を危険へ晒すことだけはできないから、震えそうになる身体を必死に支えながら、胸の奥に溢れる悔しさも悲しさも飲み込んで、ただ静かに視線を伏せた。
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