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総司様に連れて行かれた先は、お父様達が外国使節団の方々と会談を行っているはずの、公爵邸西棟にある大迎賓広間だった。
重厚な扉がゆっくりと開かれた時、目の前に広がった光景に私は思わず息を呑み、その場で立ち尽くしてしまう。
そこにいたのは、私達と同じように拘束され、鋭い剣先を向けられているお父様と山南さん、そして原田さんや永倉さんをはじめとするアストリア屈指の騎士達だった。
本来ならばこの国を守るはずの方々が自由を奪われている姿はあまりにも異様で、心臓が嫌な音を立てる。
そんな中、総司様は何事もないように進み出ると、僅かに口元に弧を描いた。


「計画通りです。無事、セラ嬢を捕獲してまいりましたよ」


その言葉を聞いた途端、お父様が勢いよく顔を上げる。


「セラ……!怪我はないか?」


その声に滲む安堵と焦りに胸が締め付けられながらも、私は慌てて頷いた。


『はい、私は大丈夫です。お父様や皆様は大丈夫ですか?』

「……ならば良かった。ここにいる者達は皆無事だとも」


お父様の言葉に少しだけ肩の力が抜けたけど、その直後、私の視界に入った三人の姿に再び心臓が締めつけられる。


『ですが……山崎さんと伊庭君、それに平助君が……』


私の後ろから拘束されたまま連れて来られた三人を見つめながら、私は思わず言葉を失った。
暗い庭園の中ではよく見えなかったけど、明るい室内で改めて目にした彼らの姿は、想像していたより遥かに痛々しいものだった。
服は血で赤く染まり、あちこちが裂け、破れた布の隙間からは生々しい傷口が覗いている。
まだ血が滲み続けている箇所もあり、その姿を見ているだけで胸が苦しくなった。
山崎さんは顔色こそ変えずに立っていたけど、その額には薄く汗が浮かび、伊庭君も平助君も必死に意識を保っているように見える。


「よし。これで全員揃いましたね。では、改めて始めるとしましょう」


広間の中央。
まるでこの場の全てを支配しているかのように堂々と腰掛けていた一人の男性が、優雅な笑みを浮かべながらそう告げる。
その姿を見て、私は僅かな違和感を覚えた。
初めて会うはずなのに、どこか見覚えがある。
記憶の奥底をそっと撫でられるような不思議な感覚に導かれ、私は思わずその方を見つめてしまった。
すると彼は私の視線に気付いたらしく、くすりと小さく笑みを零した。


「お久しぶりでございます、セラ嬢。以前お目にかかった折は、まだ幼くあらせられましたが……こうして拝見すると、見違えるほど美しく成長なされましたね」


穏やかで洗練された口調だった。
その話し方には敵意も嘲りも感じられないのに、なぜだか背筋がぞくりとする。
私はその顔を見つめ続けながら、必死に記憶を辿った。
どこかでお会いしたことがある、そう確信した頃、彼は再び口を開く。


「申し遅れました。僕はヴェルメル大公、クラウスと申します。総司の兄と申し上げれば、思い出していただけるでしょうか」


その言葉を聞いて、記憶の扉が開かれた。

思い出した。
以前、一度だけヴェルメルを訪問した際にお会いしたことのある方だ。
あの時、お父様は仕事の都合で到着が遅れ、逆にクラウス様は遠方へ向かわなければならない日だったため、お二人は結局顔を合わせることがなかった。
だからこそ、お父様は彼がヴェルメルの人間だったとは気付かなかったのだろう。


「……ヴェルメル大公殿下……だったのですか」


山南さんの低い声が響く。
視線を向ければ、お父様も山南さんも今初めて真実を知ったらしく、その表情には隠し切れない衝撃が浮かんでいた。
するとクラウス様はゆったりと足を組み直し、どこか楽しそうな笑みを浮かべる。


「先程は帝国の使節として名乗らせていただきましたが、それも嘘ではありません。僕はヴェルメル大公であると同時に、皇帝陛下の女婿として帝国枢密院議長も務めておりますので」


穏やかな声音で告げられたその言葉に、広間の空気が一変した。
帝国枢密院議長、それは皇帝の最側近のみが就くことを許される、帝国中枢を担う重職。
そして皇帝陛下の娘君の夫でもあるクラウス様は、単なる一大公ではなく、帝国そのものを動かす存在の一人だったらしい。
その事実を理解した時、胸の奥が冷たく沈み込み、私は指先を強く握りしめていた。

クラウス様は優雅な仕草で肘掛けに指先を添えながら、広間に集う全員をゆっくりと見渡した。
その微笑みは終始穏やかで、まるで友好的な会談でも進めているかのようだったけど、その場を支配している空気はどこまでも重く、息苦しいほどの圧力を伴っている。


「さて、それでは本題に移らせていただきましょう。本日、我々がアストリアへ参りましたのは、両国の平和と安定のため、新たな講和条約を締結するためです。本来であれば、このような形を取るつもりはございませんでしたが、近藤閣下にはこれまで幾度となくご提案申し上げてもご承諾いただけなかったため、やむを得ずセラ嬢にもこちらへお越しいただくこととなりました」


クラウス様はそこで一度言葉を切ると、柔らかい音色で言葉を続けた。


「ご存じの通り、近年の北部諸国と東部諸国の関係は決して良好とは言えません。表面上は平穏を保っているものの、小競り合いや外交問題は後を絶たず、ほんの些細なきっかけ一つで大規模な戦火へ発展しても不思議ではない状況です。そのような中、北部最大の軍事力を有する帝国と、東部防衛の要であるアストリア公国が協定を結ぶことは、両地域の均衡を保つ上で極めて有意義な意味を持ちます。互いに協力関係を築いて無用な衝突を防ぐことができれば、北部と東部の双方に安定をもたらすことができるでしょう。我々が望んでいるのは秩序ある均衡と、長期的な安定です。そのために必要な内容を、本日ここで正式にご提案させていただきます」


まるで世界の平和を願う善良な外交官のような口振りだった。
けれどそれは全て大義名分だということはわかっている。
こうして私達を力で支配し、無理矢理条約を結ばせようとしている時点で、その内容が理不尽なものなのだろうということは予測できた。


「第一に、国境防衛体制の安定化を目的として、東部国境地帯に存在する四つの要塞のうち二つを帝国へ譲渡していただきます。その見返りとして、帝国は今後アストリア公国に対して武力を行使しないことをここに約束いたしましょう。さらに、両国は軍事同盟を締結し、第三国との戦争または武力衝突が発生した際には相互に兵力を派遣し、互いの安全保障を最優先事項として協力するものとします」


東部要塞は、長きにわたりアストリアを外敵から守り続けてきた防衛の要だった。
幾度となく侵攻を退けてきた堅牢な砦を二つ失うということは、単に領土の一部を明け渡すという話ではない。
国を護る盾の半分を自ら手放し、これから先の命運を帝国との約定に委ねることと同義だった。


「第二に、本条約締結に伴う協力金として、アストリア公国には五億ディナールを拠出していただきます。支払い期限は十年間とし、年ごとの分割納付も認めましょう。帝国との安定した関係を築くために必要な負担だとご理解いただきたい」


その金額が告げられた瞬間、広間の空気がさらに重く沈んだ。
五億ディナール……それはアストリアにとって決して容易に捻出できる額ではなく、十年という猶予が与えられていたとしても、国庫に大きな負担を与えることは避けられない。
けれど、それでも国そのものを失うことに比べれば安いと考える者もいるかもしれない。
そんな考えが頭を過った途端、まるで金額によって国の尊厳まで値踏みされているような気がして、胸の奥がひどく苦しくなった。


「第三に、北部と東部の安定した関係を維持し、本条約の履行を保証するため、人質を差し出していただきます。近年、北部と東部の関係は決して良好とは言えず、両地域には未だ互いへの不信感が残っております。だからこそ、東部防衛の要であるアストリアには、条約を遵守する意思を目に見える形で示していただきたいのです。人質と申しましても、東部との関係を維持するための政治的象徴ですから、帝都にて厚遇いたしますのでご安心ください。本条約が誠実に履行される限り、その身の安全は帝国が保証いたします」


それはつまり、東部が帝国に逆らえないよう縛り付けるための存在ということだった。
厚遇されようと安全を保証されようと、結局は帝国に命を握られている。
それが脅迫であることは誰にでも分かった。
広間の空気が張り詰める中、全てを説明し終えたクラウス様は、再び柔らかな笑みを浮かべた。


「話がまとまらなかったため、こうして武力を用いる形となってしまいましたが、アストリア公国の存続を認める代わりにこの講和条約を締結する。そう考えていただければ、決して不当な条件ではないと思うのですが。いかがでしょうか?」


穏やかにも聞こえるその言葉に込められた威圧はあまりにも明白だった。
講和条約を受け入れなければアストリアを滅ぼす、そう言われているのと何も変わらない。
そんな重苦しい沈黙の中、山南さんが静かに口を開いた。


「失礼ながら申し上げます、クラウス閣下。我がアストリアは騎士団を擁する軍事国家です。たとえ一時的に公爵邸を制圧されたとしても、各地の部隊には既に異変が伝わっているはず。間もなく増援が到着するでしょう。その段階で、貴殿方が優位を維持できるとは思えませんが」


感情を抑えた冷静な言葉を聞き、私はその可能性に賭けるように唇をきつく結ぶ。
けれどクラウス様はまるでその反論を待っていたかのように、楽しそうに微笑んだ。


「その点についてはご心配には及びませんよ。アストリア騎士団の方々でしたら、既に我々の手で制圧済みです。また国境付近および主要街道はヴェルメル騎士団によって完全に封鎖されておりますので、他国からの増援も来ないでしょう」


その言葉に、お父様と山南さんの表情が青く変わる。
それでもクラウス様はさらに続けた。


「加えて、本日未明より帝国軍が国境を越えております。現在はアストリア内の主要都市および補給拠点の制圧を進めている頃でしょう。各地の守備隊は自領の防衛に追われ、この公爵邸へ援軍を送る余裕などありません。また通信網につきましても既に遮断済みです。主要伝令路は全て押さえておりますし、各地の駐屯地へは帝国側から偽命令も流しております。現時点で、この公爵邸に向かっている増援部隊は一つとして存在しませんよ」


お父様の顔色が目に見えて変わった。
山南さんもまた、信じ難いものを見るような目でクラウス様を見つめている。
それはつまり、この作戦が突然始まったものではなく、ずっと以前から周到に準備されていたということだった。
そんな私達の反応を眺めながら、クラウス様はゆっくりと椅子の背もたれに身を預ける。


「僕達としても、できることなら手荒な真似は避けたいんです。既に勝敗が決している戦いで多くの血を流すよりも、互いに譲歩できる形で終わらせる方が賢明だとは思われませんか?」


クラウス様は決して声を荒げることもなく、終始穏やかだった。
でも、その微笑みの奥にある絶対的な自信が、今の状況の深刻さを何より雄弁に物語っていた。


「クラウス閣下。先程も申し上げましたが、一つ目と二つ目の条件については受け入れましょう。ですが三つ目だけは、どうか今一度お考え直しいただきたい」


お父様は首元に剣を突き付けられ、幾人もの騎士達に拘束されているというのに、その威厳は少しも失われていなかった。
帝国の使節団を前にしてなお、公爵としての誇りを背負ったまま真っ直ぐにクラウス様を見据えるその姿は、幼い頃から見慣れてきた父の背中そのもので、頼もしく見えた。


「……またそのお話ですか。講和条約の内容変更は認められないと、何度も申し上げているでしょう」


クラウス様は冷淡に言い放ったけど、お父様は一歩も引かなかった。


「無論、私の申し出が講和条約への異議であることは承知しておりますぞ。それでもなお、お頼み申したい。どうか人質は私にしていただけないだろうか。公爵たる私が自ら帝国に赴くのであれば、人質として不足はありますまい」  


お父様のその言葉を聞いて、嫌な予感が身体中を走った。
講和条約の第三項目、帝国に人質を差し出すという要求だった。
先程までの話では、特定の誰かが指名されている様子はなかった。
それなのに、お父様は迷いなく自ら名乗り出ている。
まるで他の誰かを庇うかのように感じられたからこそ、私は口を開いた。


『人質の選抜は……もう済んでいるのですか?』


震えそうになる声を必死に抑えながら尋ねると、会談が始まってから口を開いていなかった総司様が、ふっと私に視線を向けた。
その穏やかな微笑みは昔と変わらなくて、一瞬だけ胸が安堵に緩みそうになる。
けれど次の言葉は、容赦なく私の心を打ち砕くものだった。


「人質は君だよ」


どくん、と大きく心臓が脈打った。
耳の奥で血の流れる音が響き、視界が僅かに揺れる。
何を言われたのか理解しているはずなのに、頭がそれを受け入れることを拒んでいるようで、うまく息が吸えなかった。
そんな私を庇うように、お父様が再び声を張り上げる。


「娘を人質に差し出せと言われて、素直に差し出す親がどこにおりますか!たとえ剣を突き付けられようと、脅迫されようと、それだけは決して受け入れられませんぞ!」


怒りと悲痛が滲むその叫びに、目の奥が熱くなる。
けれどクラウス様は少しも表情を変えなかった。


「そうですか。国も民も捨てて、娘一人を守ると?」


その声が静かに落ちた直後、お父様の首元へ向けられていた騎士の剣先がさらに深く食い込む。
白い肌に赤い線が滲んだのを見た瞬間、私は思わず声を上げた。


『お父様っ……』

「総司、どうしようか」


クラウス様は面白がるように口元を緩める。


「俺はお前の判断に任せるよ。この場でアストリアを滅ぼしてもいいし、公爵を帝都に連行して娘を差し出す気になるまで見せしめにしてもいい。あるいは領内に軍を進めてアストリアの街を火の海に沈めるのも悪くない。講和条件を変えるつもりはないが、すぐに従えないというのであれば仕方のないことだ」


残酷な言葉が次々と並べられ、胸の奥が冷たく凍り付いていく。
私は震える指先を握り締めながら、自分を拘束している総司様を見上げた。


『総司様……どうか……どうか他のご提案を……』


縋るようにそう願うと、総司様の視線が私に落ちてくる。
昔と変わらない優しい瞳だった。
そして彼は小さく目を細め、くすりと笑う。
その微笑みを見て、私は胸の奥に僅かな希望を見出してしまった。

だって私達は、あの日々を確かに共に過ごしたのだから。
たくさん言葉を交わし、同じ時間を重ね、互いを大切に想いながら愛情を育んできた。
私にとって総司様がかけがえのない存在だったように、総司様にとっても私は特別な存在だったはずだと、今でも信じている。
きっと総司様は帝国の剣として命令に従っているだけだ。
本当は私達を傷つけたいわけではない。
そう信じたくて、そうであってほしくて、私はただ祈るような気持ちで総司様を見つめ続けていた。


「そうですね。僕としては兄上の今の提案は、少々やり過ぎな気がしますね。それだと手間もかかりますし」

「そうか。ではどうする?」


そのやり取りを聞いて、張り詰めていた胸の奥が僅かに和らいだ。
大丈夫、総司様はきっと止めてくださる。
クラウス様の過激な提案を退けて、もう少し穏やかな道を示してくださるはずだ。
そう信じるような気持ちで彼を見つめていると、総司様は柔らかな笑みを浮かべたまま口を開いた。


「僕は時間をかけない方法がいいと思いますよ。だって効率的でしょ?」

「確かにな。それで、何かいい案はあるのか?」

「ここにいるアストリア家の人間を一人ずつ順番に殺していきましょう」


その言葉が耳に届いても、何を言われたのか理解できずに呆然と総司様を見つめる。
まるで今日の天気でも話すかのような気軽さで告げられたその内容が、あまりにも恐ろしくて、私の思考は一瞬真っ白になった。


『……総司……様……?』


震える声で名を呼ぶことしかできない。
けれど総司様は私を見ることもなく、淡々と言葉を続けた。


「十数えて、近藤閣下が講和条約を結ぶと仰らなければ、まず一人目の首を斬る。ここには十人程公爵家の人がいますから、この方法なら五分以内に解決しますよ。まあ全員の首を落とすことになってしまったら、講和条約も結べなくなってしまうんですけどね」


くすりと笑いながら告げられたその言葉は、先程のクラウス様の提案よりも遥かに残酷だった。
しかも総司様が気にしているのは、人の命ではなく効率の良さ。
あまりにも冷たく、あまりにも非情で、目の前にいる人が本当に私の知る総司様なのかわからなくなる。
かつて私に優しく微笑みかけてくださった人と、今ここにいる人が同じ人間だとは、とても思えなかった。


「わかった。ではその方法で行こう」

「じゃあまずは、誰にしようかな」


楽しそうですらある総司様の声に、公爵家の皆が息を呑む。
誰も口を開けなかった。
恐怖で言葉が出ないのか、それとも本当にこんなことをするはずがないと信じたいのか、そのどちらなのか私にもわからない。
広間を支配する重苦しい沈黙の中、総司様の視線がゆっくりと動き、そして一人の前で止まった。


「決めた。最初は伊庭君にしよう」


私の心臓が大きく跳ねる。
背中に深い傷を負った伊庭君は、辛うじて立っているような状態だった。
血の気の失せた顔は青白く、焦点の定まらない瞳からも消耗の激しさが伝わってくる。
そんな彼を指差した総司様の言葉に、伊庭君の表情が強張るのがわかった。

その姿を目の当たりにして、胸の奥で何かが音を立てて崩れ落ちる。
このままでは本当に殺されてしまう。
そんな恐怖が全身を駆け巡り、私は堪えきれず叫んでいた。


『……お父様!講和条約を結んでください!』


掠れた声だった。
けれどそれは、今の私が心の底から絞り出した願いだった。


「しかしっ……セラを人質として帝国に送ることなどできるわけがないだろう!」


お父様の悲鳴にも似た声が広間に響き渡り、その言葉に込められた切実な想いが胸に突き刺さる。


『私は帝国に行っても命が奪われるわけではありません。私は人質で構いません、ですから講和条約をっ……』


必死に訴えたけど、お父様は苦しげに首を振った。


「それは……絶対にならん……!」

『そんなっ……』

「すまない……俺にはセラを差し出すことだけはできん……!」


お母様が亡くなられてからというもの、お父様は以前とは比べものにならないほど私の身を案じるようになった。
それは時に過保護と呼べるほどで、まるで私の周囲に見えない壁を幾重にも築いているかのようだった。

きっと、お父様はもう二度と大切な家族を失いたくないのだ。
あるいは、お母様の眠る天上に向かって誓われたのかもしれない。
残された娘だけは必ず守り抜くと。
そう思うと胸が苦しくなった。

今のお父様もまた、決して冷静ではいられないのだろう。
震える瞳には涙が滲み、その表情には隠しきれない苦悩が刻まれていた。

お父様は本来とても優しい方だ。
伊庭君のことだって本当の息子のように可愛がっていたし、だからこそ今の言葉も苦渋の末に絞り出したものなのだとわかる。
けれど総司様は、甘くはない。
躊躇いなく実行できてしまう方だからこそ恐ろしかった。

このままでは本当に伊庭君の命が奪われてしまう。
そんな未来だけは絶対にあってはならないとわかっているのに、お父様の気持ちも理解できてしまう自分がいて、どうすればいいのかわからなくなる。
再び声を上げようと唇を開きかけた、その時だった。


「セラ、僕は大丈夫ですよ」


こんな状況下だというのに、不思議なくらい穏やかな声が聞こえた。


『伊庭君……?』


伊庭君は青白い顔のまま、それでも穏やかに微笑んでいた。
大丈夫って、何が……?
傷だらけの身体で立っていることさえ辛いはずなのに。
理不尽に命を奪われようとしているのに。
本当に大丈夫な人なんているはずがない。
それなのに、伊庭君は私とお父様のために自分が犠牲になることを受け入れようとしてくれている。
そう思ったら、堪えていた涙がぽろりと零れ落ちた。
すると総司様が、まるで雑談の続きをするような気軽さで口を開く。


「三木、始めて」

「わかった」


その一言を合図に、伊庭君を拘束していた騎士の一人が首筋に剣を押し当てたまま、淡々と数字を数え始めた。
その声を聞き、胸の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出した。
焦りも、恐怖も、悲しみも、どうしようもない無力感も、すべてが激流のように心を飲み込み、息をすることさえ苦しくなる。
まるで胸の内側で嵐が荒れ狂い、その激しさに心も身体も引き裂かれてしまいそうだった。
頭では考えなければならないとわかっているのに何もまとまらず、ただ伊庭君を失うかもしれないという恐怖だけが膨れ上がり、その重さに押し潰されそうになる。

お願いだからやめてほしい。
誰も傷ついてほしくない。
お父様も、伊庭君も、他の皆も誰一人。
そんな叶うはずのない願いばかりが胸の中で渦を巻き、溢れ続ける涙とともに行き場を失って、私自身を内側から壊してしまいそうだった。

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