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あの後、薫様とはじめはアストリアを去り、そのまま南部へと向かわれた。
その日の夕刻には、帝国からの外交使節団がアストリア領へ到着したという知らせが入る。
城内では使用人達が慌ただしく行き交い、普段はのんびりとした雰囲気に包まれている公爵邸も、どこか張り詰めた緊張感に覆われていた。
そして夜になると、公爵邸の正門前に次々と松明の灯りが現れ始めた。
二階の窓からその様子を眺めていた私は、思わず息を呑む。
馬に乗った使節団の方々が、長い列を成してこちらに向かって来ていたから。
外交使節団と聞いていたから、もっと少人数の訪問を想像していた。
けれど実際に現れた一団は想像より遥かに多く、その光景にはどこか圧迫感にも似たものがあった。
揺れる松明の灯りの中を進む人々は整然としていて、誰一人として無駄な動きを見せない。
馬を降りる所作一つ取っても妙に洗練されていて、まるで長年訓練を積んだ人達を見ているような印象を受けた。
もちろん私は帝国のことを詳しく知っているわけじゃない。
だからこれが帝国では普通のことなのだろうと考えたけど、それでも胸の奥に残る違和感だけは拭えなかった。
彼らから漂う空気は、交渉のために訪れた使者というより、何か別の目的を胸に秘めている人達のようにも見えてしまう。
そんなことを考えた自分を不思議に思いながらも、私はしばらくその行列を眺め続けていた。
出迎えに現れた山南さんは、いつも通り穏やかな笑みを浮かべながら使節団の方々を迎え入れている。
普通の来賓室では到底収まりきらない人数だったため、彼らは公爵邸西棟にある大迎賓広間に案内されていった。
晩餐会や大規模な会議などに使用される広い部屋で、普段は滅多に使われていない場所。
その後も使用人達が次々と飲み物や荷物を運び込み、屋敷の中は遅い時間になっても慌ただしさが続いていた。
そんな中、夕食を終えた私は伊庭君と平助君を誘い、小さな応接室で紅茶を飲んでいる。
一人でいるのが何となく心細く感じられたから、こうして付き合ってもらっていた。
「それにしても、使節団の方々は随分遅くにいらっしゃいましたよね」
伊庭君の言葉を聞いて、私はティーカップを片手に頷いた。
『そうだね。しかも人数が多かったから驚いちゃった』
「使節団も多かったけどさ、結構な数の護衛まで引き連れて来たんだぜ。今は多分正門玄関のところで待機してるけど、そんなに警戒する必要があるかって話」
「アストリアは騎士団を所有してますから警戒されているのかもしれません。とは言え、使節団相手に騎士が無闇に剣を抜くわけもないですし、不思議ですね。帝国側の文化は東部とはまた違うのでしょうか」
『東部だとこういうことはないよね。それに……』
言葉を濁しながら、私は窓の方に視線を向けた。
先程から気になっていることがあったから、そっと立ち上がり、カーテンの陰から庭園を覗く。
夜風に揺れる木々の向こうには、知らない一人の人影が残っていた。
ローブを深く被り、庭園の真ん中に佇んだまま殆ど動こうとしない。
なんとなく、その光景が少し怖かった。
あの人はあそこでずっと何をしているんだろう。
公爵邸の中で何かあった時、すぐに駆け付けられるよう待機しているということなのかな。
そう考えながらその一人の男性を眺めていると、その人が不意に顔を上げた。
まるで私の視線に気付いたかのようだった。
『っ……』
慌ててカーテンを閉じたけど、心臓がどきりと大きく跳ねた。
外は暗くて向こうの顔なんて見えなかったものの、こちらの部屋は明るい。
どうしよう。
私が見ていたこと、気付かれちゃったかな。
「セラ、どうかしたか?」
『ううん。ただ庭園にも使節団の連れの方がいらっしゃるから気になって……』
平助君にそう答えながら席に戻る。
けれど胸の奥のざわめきは消えないままだった。
『早くお話し、終わらないかな』
薫様のお話によれば、今回帝国側はかなり強引な要求を東部に突き付けているらしい。
国土の広さも軍事力も東部を大きく上回るタルタリア帝国を相手にしていると思うと、不安にならないわけではなかった。
それでも、お父様と山南さんがいらっしゃる。
お二人ならきっと大丈夫。
そう信じようとしていた、その時だった。
突然、廊下から慌ただしい足音が近付いてくると、扉が勢いよく開かれた。
驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは山崎さんだった。
けれど、その表情は私が知るいつもの山崎さんとは違う。
冷静沈着なはずの人が、今まで見たこともないほど焦りを滲ませていた。
「大変です……!お嬢様!」
『え?』
「伊庭さんと藤堂さんも一緒に来てください!お嬢様を連れて逃げなくてはなりません……!」
突然の言葉に頭が真っ白になる。
けれど山崎さんの様子を見れば、今は事情を聞いている時間すらないことだけは理解できた。
伊庭君と平助君もすぐに立ち上がり、表情を引き締めている。
気付けば私は山崎さんに手を引かれ、城内の廊下を走っていた。
『山崎さん……お父様達は?ご無事なんですよね?』
「はい。ただ話がとても良くない方向に進んでおります。本当はお嬢様を連れて使節団の方々のところに戻る約束をさせられたのですが、それはあまりにも危険なので」
「なぜセラが呼ばれたんです?」
伊庭君の問いに、山崎さんは険しい表情のまま答える。
「使節団の方がかなり強引に話を振ってきている状況です。今、近藤さんや山南さんが懸命に話をしてくださっていますが、これは一度国王陛下にご一報入れた方がいいかもしれません。取り敢えず、まずは騎士団エリアまで行きましょう。その後俺は、外部に連絡を取れるよう動きます」
夕方から感じていた言いようのない不安は、気のせいではなかったのかもしれない。
長い廊下を駆け抜けながら、お父様と山南さんの無事を祈ることしかできなかった。
「正面には使節団の連れの方が待機されているはずなので、庭園を抜けて行きましょう」
『ですが、庭園にもローブを着た方がいらっしゃいましたよ』
「え?それは何名ですか?」
『見た限り一名ですが、暗かったので正解にはわかりません。ただその方は、庭園を見張るように立っていらっしゃいました』
そう答えながら、胸の奥に広がる不安を押さえ込もうとする。
どうしてあの場所に立っていたのだろうと気になっていたけど、公爵邸の本城には正面玄関とは別に、庭園に続く出入口がある。
もし最初からそのことを知っていて、あの場所で待機していたのだとしたら。
もし誰一人、ここから逃がさないためだったとしたら。
そんな物騒なことがあるはずもないのに、頭の片隅では嫌な想像ばかりが膨らんでしまう。
「人数が読めないから何とも言えませんね。伊庭さん、藤堂さん、突破出来ると思いますか?」
「いくしかないだろ!しかも敵陣でいきなり剣を抜いてくるなんて、普通はしてこないんじゃねーの?」
「そうですよ。使節団の方はあくまでも交渉しに訪問されるのであって、斬り合いになるなんて聞いたことがありません」
「そうだといいのですが……」
山崎さんの呟きだけが、妙に重く耳に残った。
城を出て石階段を降りると、夜の庭園が広がっていた。
植え込みの脇には等間隔に鉄製の燭台が置かれ、その上で揺れる火が淡い光を落としている。
壁際には風除けの覆いが付いたランタンも吊るされていたけど、それだけでは広い庭園全体を照らすには足りず、木々の間には濃い闇が幾重にも横たわっていた。
夜露を含んだ草花の香りが漂う中、私達は足早に庭園を横切っていく。
すると突然、前方の闇の中から一人の人影が現れた。
深くローブを被ったあの男性だった。
まるで最初からそこに立っていたかのように、音もなく私達の前に姿を現したその人は、通路の中央を塞ぐように立ち尽くしている。
「そこを退いてください」
山崎さんが丁重に声を掛けたけど、返事はない。
夜の闇の中に立つその人は、まるで石像のように微動だにせず、ただ私達の進路を塞ぐようにそこに立っている。
深く被ったローブのせいで顔も見えないし、表情も分からない。
それなのにその沈黙だけは妙な圧迫感を伴って私達を包み込み、私は思わず山崎さんの手を握る指先に力を込めていた。
「……行きましょう」
山崎さんは短くそう告げると、再び私の手を引いた。
このまま迂回して抜けようとしているのだと気付き、私も頷く。
伊庭君と平助君もすぐ後ろに続き、私達は男がいる方向に向かって駆け出した。
夜露を含んだ風が頬を掠め、石畳を打つ足音が静かな庭園に響く。
お願いだから、このまま何事もなく通してほしい。
そんな願いが胸を過った、その時だった。
正面から鋭い金属音が響き渡る。
私の目に映ったのは、ローブの男が抜き放った剣だった。
月明かりを受けた刃が冷たく光り、その切っ先は迷いなくこちらへ向けられている。
その動きには一切の躊躇がなく、まるで最初からここを通すつもりなんてなかったかのように感じられた。
「やはり……そういうことですか」
「山崎君!ここは俺と伊庭君に任せて先行ってくれ!」
「すぐに追いかけますので」
「わかりました、お願いします」
私にはまだ状況が理解できていなかった。
どうして外交使節団の方が剣を向けてくるのか。
今、何が起こっているのか。
けれど今は立ち止まることもできず、私は山崎さんに手を引かれたまま再び走り出す。
その横を駆け抜けるように、伊庭君と平助君が剣を抜いて前に出た。
二人は強い。
幼い頃からアストリア騎士団で厳しい訓練を積み重ねてきた優秀な騎士であり、私もその実力を何度も見てきた。
だからきっと大丈夫。
この人を食い止めて追い付いて来てくれる。
そう信じて疑わなかった。
「……くっ……が!」
走り寄って直ぐ、平助君の苦鳴が響き、私は息を呑む。
ローブの男は信じられない速度で間合いを詰めると、そのまま大きく足を振り上げていた。
放たれた蹴りは一直線に平助君の顎を捉え、鈍い衝撃音と共に彼の身体が大きく仰け反る。
まともに受けた衝撃で視線が揺らぎ、一瞬身体が浮き上がったように見えた。
けれどその男の攻撃はそこで終わらない。
平助君に蹴りを放った直後には既に身体を反転させていて、次の標的である伊庭君に剣を振り下ろしていた。
伊庭君は咄嗟に受けようとするけど、その動きは想像以上に速かった。
「っ……!」
鋭い音と共に伊庭君の腕が切り裂かれ、夜闇の中へ鮮血が散った。
それでも伊庭君は怯まず踏み込もうとしたけど、男はさらに距離を詰め、そのまま伊庭君の腹部に強烈な蹴りを叩き込んだ。
「ぐっ……!」
息を吐き出す苦鳴と共に、伊庭君の身体が吹き飛ばされた。
『そんな……』
ほんの数秒前まで二人は無傷だった。
それなのに今はもう傷を負い、あまりにも一方的に押し込まれている。
でも平助君は地面へ膝をつきながらも、すぐに立ち上がった。
「うああああっ!」
叫びと共に剣を振り上げ、渾身の力で斬り掛かる。
でも男はほんの僅かに身体を傾けただけだった。
まるで攻撃の軌道が見えているかのように、最小限の動きで剣を躱す。
そして流れるように身を翻した直後、銀色の刃が平助君の、腕や肩を一方的に斬りつけ、最後にそれは脇腹を掠めるように滑った。
「……ぅっ……」
短い声が漏れ、服が裂けたその下からは赤い血が滲み出していた。
平助君の膝が崩れ、その身体が地面へ倒れ込むのを見た時、頭の中が真っ白になった。
『平助君っ……』
「お嬢様は下がっていてください」
山崎さんは足を止めると同時に私の前へと身を滑り込ませるように立ち塞がり、鋭い音と共に剣を抜き放つ。
「そこを退け……!」
低く張り詰めた山崎さんの声が夜気を震わせ、そのままローブの男へ斬りかかった。
幾度も剣がぶつかり合う金属音が響き渡り、火花が散る。
私は我に返ったように駆け出し、倒れた二人の元へ駆け寄った。
『平助君、今止血を……伊庭君、大丈夫?』
震える手でハンカチを取り出し傷口へ押し当てると、平助君は苦しそうに顔を歪めながらも私を見上げる。
「セラは早く……逃げろっ……俺は平気だから……」
『いや、やだよ……』
涙が滲んで視界が揺れる。
平助君の腹部の傷は思っていたより深く、滴る血が私の手を濡らしていった。
『お願いだから喋らないで……、血を止めないと……』
必死に圧迫しながらそう言うと、平助君は何か言い返そうとしたものの、激しい咳と共に言葉を飲み込んだ。
そのすぐ傍では伊庭君が傷ついた腕を押さえながら立ち上がっている。
「……僕は平気です。まだ終わっていません」
荒い呼吸を繰り返しながら剣を握り直し、再びローブの男に向かっていく。
山崎さんと伊庭君は二人同時にローブの男に斬りかかっていた。
互いに死角を補い合うように動き、少しでも隙を作ろうとしているのが分かる。
それなのに、その男はまるで風に舞う木の葉でも相手にしているかのように、二人の剣を軽々とかわしていた。
剣が届きそうになるたびに僅かに身体を傾け、時には一歩退くだけで避けてしまう。
その様子は、まるで最初から勝負になどなっていないと言わんばかりに余裕が見て取れた。
どうしてあんなに強いの?
伊庭君も山崎さんも、平助君だって決して弱くなんてない。
むしろ三人ともアストリアで指折りの騎士なのに。
そんな思いが頭を過った時だった。
鋭い斬撃が夜気を裂き、伊庭君の身体が大きく揺れて、背中から鮮やかな血が散る。
『伊庭君っ……!』
伊庭君が地面に崩れ落ちた姿を目の前に、胸の奥がひどく冷たくなるのを感じた。
それは恐怖だったのか、それとも絶望だったのか、自分でも分からない。
ただ、目の前で起きていることがあまりにも現実離れしていて、まるで悪夢の中に放り込まれてしまったような感覚だけが私を支配していた。
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