5
全てが想定の範囲内だった。
彼らがセラ嬢を城外に逃がそうとすることも、アストリアの騎士達と戦闘になることも、そして近藤閣下が容易には講和条約の条件を飲まないことも、最初から予測していた展開に過ぎない。
そして円滑に進まなかった時のために、僕は事前に計画を練っていた。
セラ嬢と親しい騎士達には敢えて致命傷を避けて傷を負わせ、この場に連れて来ることに意味がある。
もし最初から殺してしまえば脅しとしての価値は薄れるし、何より僕が欲しかったのは近藤閣下の決断ではなく、セラ嬢自身の口から講和条約を結ぶよう訴えさせる状況だった。
あの子は優しい。
それはきっと、優しすぎるくらいに。
だから自分が傷付くことには耐えられても、大切な人間が傷付くことには耐えられない。
その性格を利用することに躊躇いはなかった。
こういうことは時間との勝負だ。
長引けば長引くほど周囲が異変に気付き、帝国側の立場は悪くなる。
援軍が来る可能性も高まり、余計な犠牲も増える。
だからこそ、最短で終わらせるべきだった。
そのために僕が考えたのが、この脅迫だった。
この計画に相応しいのは情に流されない人間だけだ。
相馬や龍之介は別の持ち場に回し、この場には三木と武田、それから僕自身が選び抜いた騎士達しか置いていない。
戦場で幾度も人を斬り、必要とあれば躊躇なく命を奪える者達。
十数え終えた時に僕が止めなければ、見せしめとして実際に首を斬る。
そんな約束を受け入れた者だけを集めていた。
一方でアストリア側の騎士達は完全に無力化されている。
武器は全て取り上げられ、数人ずつ帝国兵に囲まれた上で壁際に押し込められ、剣を抜くどころか一歩踏み出すことさえ難しい状態にされていた。
少しでも不審な動きを見せれば即座に首筋に剣が突き付けられる配置になっていて、彼ら自身もそれを理解しているからこそ動けない。
つまりこの殺戮を止める方法は、セラ嬢に条約締結を懇願された近藤閣下が講和条約を結ぶと宣言すること、それだけだった。
「三木、始めて」
「わかった」
低く響く返事の後、三木がゆっくりと数字を数え始める。
その声だけが静まり返った部屋に響き渡り、誰もが固唾を呑んで次の瞬間を待っていた。
僕の腕の中ではセラ嬢が小刻みに震え、頬を伝う涙は次から次へと溢れ続けていて、その姿は見ているだけで痛々しかった。
それでもやっぱり、その泣き顔が酷く愛らしい。
こんな状況でさえ、その感情だけは消えてくれなかった。
むしろ今のような弱々しい姿がこの子には不思議なほど似合っていて、泣きながら助けを求める顔をもっと見ていたいとすら思ってしまう自分がいる。
目を逸らせないまま見つめていると、三木が三つ目の数字を口にした時、腕の中のセラ嬢が突然激しく暴れ出した。
『お父様……!今すぐ条約を結んでください!』
身を捩って抵抗することも予想はしていた。
だけど想定していた反応を遥かに超えていたからこそ、僕は思わず目を見開いた。
『早く……!早く結んで!お願いですから……!』
それまで必死に耐えていた感情が、堰を切って溢れ出してしまったような声だった。
その細い身体が信じられないほどの力で暴れ、僕の腕の中から逃れようともがく。
肩を震わせ、涙を次々と零しながら必死に近藤閣下へ手を伸ばそうとする姿は、普段の彼女からは考えられないほど取り乱していた。
『いやあっ……!お願いだからやめて……!伊庭君を殺さないで……!』
叫びながら身を捩り、腕を振り、足をばたつかせる。
その必死さは尋常ではなく、まるで理性そのものが吹き飛んでしまったかのようだった。
僕は慌てて抱き留めたけど、あまり力を込めれば彼女を傷付けてしまう。
だからといって緩めれば本当に腕の中から飛び出してしまいそうで、その加減が難しい程だった。
『お願いです……!お願いだから……!』
涙でぐしゃぐしゃになった顔で泣き叫びながら、彼女は何度も近藤閣下に訴え続ける。
拘束された身体では届くはずもないのに、それでも少しでも近付こうと暴れ続け、そのたびに長い髪が乱れ、涙が飛び散った。
『いやあっ……やだ……っ!お願いですから……!お父様っ……!条約を結んでください!早く……!早く結んでくださいっ!』
僕が知っているセラ嬢は、どんな時でも人前で取り乱したりしない子だ。
悲しくても笑おうとして、苦しくても誰かを気遣って、自分の感情を押し込めてしまうような子だった。
そんな彼女が今、まるで幼い子供のように声を張り上げて泣いている。
その場にいるアストリアの人間誰もが一度唖然として、その後苦しそうに顔を歪ませていた。
『うわぁぁぁ……っ』
嗚咽で言葉にならない声を漏らしながら、彼女は必死に身を捩り、腕を押さえていても止まらない。
細い身体のどこにこんな力があるのかと思うほどだった。
「セラ嬢……!暴れないで!」
思わず呼びかけても、彼女の耳には届いていない。
ただひたすら伊庭君を助けたい一心で泣き叫んでいた。
きっと相手が誰であっても、この子は同じように泣いただろう。
誰かが傷付くことを、自分のことのように苦しんでしまう子だから。
その優しさがどうしようもなく愛おしくて、同時に憎らしくもあった。
「五」
『お父様っ……どうしてですかっ……!早く結ぶとおっしゃってくださいっ……!』
セラ嬢の叫びを聞いて、近藤閣下の瞳が大きく揺れた。
愛娘を守りたい父親としての想いと、公爵として背負う責務との狭間で、身動きが取れなくなっているのだろう。
何か言おうとしているけれど言葉にならない様子だった。
「六」
『お願い……お願いですから……!』
セラ嬢の声はもう掠れていたけど、それでも叫ぶことをやめない。
涙で濡れた瞳は必死に父親だけを見つめ続けていた。
「七」
事前に話していた約束通り、三木が伊庭君の髪を掴み、その顔を無理矢理上へ向かせた。
「うっ……」
苦しそうな彼の呻き声が漏れる。
膝をついた身体が小さく震え、その喉元へ三木の剣先が深々と押し当てられた。
少しでも力を込めれば、そのまま首筋を裂ける距離だった。
『いやああぁっ!!』
セラ嬢の表情が完全に崩れ、絶望に呑まれたような顔付きになる。
そして今まで近藤閣下へ向けていた視線が、今度は勢いよく僕へ向けられた。
『総司さまぁ……!』
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、彼女は僕に必死に縋りついてきたから、僕は一度息を呑んだ。
僕を見上げる瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
そして拘束されていることも忘れたように身を乗り出し、震える手で僕の上着を掴んだ。
『総司さまなら止められるでしょう……!……お願い……っ、お願いですから……伊庭君を殺さないで……私……っ、帝国に……行きますから……っ」
懸命に息を吸おうとしているのに上手くいかず、小さな胸が苦しそうに上下していた。
愛らしい顔は涙でぐしゃぐしゃになり、白い頬を伝う雫は途切れることなく零れ落ちている。
それでもセラ嬢は僕の服を離そうとはしなかった。
縋りつくように胸元を握り締め、震える唇を何度も動かしながら必死に言葉を紡いでいた。
「お願いです……っ、総司さま……っ、だから……伊庭君を……助けて……っ」
掠れた声は途中で何度も嗚咽に遮られている。
涙で滲んだ瞳は真っ赤になっていて、呼吸が追いつかないほど泣いているのに、それでも彼女は必死に僕を見上げ続けていた。
「総司さま……っ、お願い……っ。お願いです……止めて……っ。私、帝国へ行きますから……どこへでも行きます……だからお願いです……っ』
僕は思わず眉を寄せる。
細い身体はずっと震え続け、僕の服を掴む指先も力が入ったり抜けたりを繰り返している。
今の彼女は、ただ悲しんでいるのではない。
恐怖と絶望に押し潰されそうになりながら、それでも必死に耐えている様子だった。
そんな中でも三木の声は淡々と響き、残り二で伊庭君は終わる。
セラ嬢の身体がびくりと震えた。
「やだ……っ、お願い……、総司さまぁ……っ」
僕を見上げる涙に濡れた瞳に映るのは、もう恐怖だけだった。
大切な人を失う恐怖と、自分にはどうすることもできない現実への絶望に押し潰されそうになりながら、それでも僕だけがこの場を止められると信じて、震える指で必死に僕へ縋りついている。
その様子はいつもの彼女とは違い過ぎるからこそ、あまりにも危うく見えた。
まるで細い糸一本で辛うじて保たれているようで、このままその糸が切れてしまえば、本当に壊れてしまうのではないかと思えるほどに。
その姿を見つめながら、僕は静かに息を吐く。
このまま押し切ることは容易い。
三木は約束通り剣を振るうだろうし、この場の誰にも止められない。
けれど、その代償として壊れてしまうのがセラ嬢の心だというのなら、それは僕が望んだ結末ではなかった。
「じゅ…」
「三木、止めて」
短く告げると、三木は何も言わず剣を伊庭君の喉元から離し、髪を掴んでいた手も静かに放した。
すると彼は激しく咳き込みながらも、苦しそうに息を繰り返す。
その姿を見た途端、セラ嬢は再び堰を切って泣き出した。
その嗚咽が広間に響く中、僕は目の前の近藤閣下を見据える。
彼は泣き崩れる娘の姿を、愕然としたまま見つめていた。
「近藤閣下、もう一度お伺いいたします。講和条約を締結なさいますか?」
「……しかし……っ」
「これでも締結なさらないと仰るのであれば、その時点で彼の命はありません」
静かに告げると、セラ嬢がまた僕の腕の中で激しく身を震わせた。
『お願いです……!早くご承諾ください……!私なら大丈夫ですから!ですからお願いします……っ、お父様……どうか正しい判断をなさってください……!』
涙で声を震わせながら訴えるセラ嬢の姿を見つめる近藤閣下の瞳が、大きく揺れた。
彼女は伊庭君を助けてほしいと訴えている。
けれどその願いを叶えれば、今度は彼女自身が犠牲になる。
どちらを選んでも、愛する娘を傷つけることに変わりはない。
その現実が、父親としての心を容赦なく引き裂いているようだった。
やがて近藤閣下はゆっくりと目を閉じる。
固く握り締めた拳は白くなるほど力が入り、その肩は小さく震えていた。
「……アストリア公爵家当主、近藤勇の名において申し渡す。この条件を受諾し、帝国との講和条約を締結する」
その言葉を口にした直後、近藤閣下の唇は小さく震え、込み上げるものを必死に押し殺そうとするように固く噛み締めていた。
今にも嗚咽が零れそうになるのを耐えるように拳を強く握り締めるその姿には、公爵としての責務を果たした男ではなく、愛する娘を守り切れなかった一人の父親の痛みだけが滲んでいるように見えた。
僕の腕の中にいたセラ嬢は、ようやく張り詰めていた身体から力が抜け落ちた様子だった。
でと恐怖が消え去った代わりに、今度は堪え切れないほどの悲しみが一気に流れ込んできたのだろう。
『……ううっ……』
小さく漏れた嗚咽とともに、大粒の涙が静かに頬を伝っていった。
……こんなに泣いて。
五年という歳月が流れても、この子の本質は何ひとつ変わっていないんだなと考えてしまう自分がいる。
幼い頃の彼女は、嬉しいことがあれば涙を浮かべて喜び、誰かが傷つけば自分のことのように胸を痛め、僕の身を案じるだけでも瞳を潤ませるような子だった。
自分のために涙を流すよりも、誰かの痛みや優しさに心を揺さぶられ、その感情を何ひとつ飾ることなく真っ直ぐ表に溢れさせてしまう。
その純粋さは時に危ういほど無防備で、それでいて誰の心にも自然と寄り添い、傷ついた人間の心まで救ってしまう不思議な力を持っていた。
誰かを利用しようとも、見返りを求めようともせず、ただ相手に笑っていてほしいと願えるその優しさこそが、セラ嬢という人間の何よりの魅力なのだと、僕は昔から知っている。
だからこそ、彼女の周りには自然と人が集まり、その笑顔を守りたいと願う者が絶えなかった。
けれどその真っ直ぐで愚かしいくらいの優しさを、僕は今日利用した。
そのことに彼女が気付いているかはわからないけど、セラ嬢は涙を浮かべながらも近藤閣下に微笑みを向けた。
『お父様……苦しいご決断をさせてしまって、ごめんなさい。ですが……ありがとうございます』
その笑顔を見て、近藤閣下の頬には一筋の涙が伝い、俯いたまま唇を震わせ、嗚咽を押し殺すように息を詰まらせていた。
「……セラ……護ってやれず……すまない……」
『いいえ。お父様は今までずっと私を護ってくださっていました。これは私が自分で決めたことです。ですから、どうかご自分を責めないでください』
泣き腫らした目のまま、それでも彼女は笑っている。
その笑顔を目の当たりにした伊庭君が、苦しげに表情を歪めた。
「なぜですか……。僕のことなど見捨ててくだされば良かったんです。それなのに……」
『私は誰かを犠牲にしてまで、ここに残りたいとは思わないよ』
「ですが……僕のせいで……本当に申し訳ありません。今からでも、まだ間に合うのでしたら、僕は」
『伊庭君』
優しく名前を呼んで、セラ嬢は小さく首を横へ振った。
『そんなに悲観しないで。帝国に行っても身の安全は保証されるって、先ほどクラウス様も仰ってくださっていたでしょう?そうですよね、クラウス様』
先ほどまで呼吸も乱れるほど泣き叫んでいたとは思えないほど、その声音は穏やかだった。
瞳はまだ涙で赤く腫れ、頬にも涙の跡が残っている。
それでも、周りの人間を安心させようとしているのか、その笑顔だけは昔と変わらなかった。
「ええ、その通りです。セラ嬢のご身分に相応しい待遇と身の安全につきましては、帝国が責任をもってお約束いたしますよ」
クラウス兄上のその言葉を聞いてもなお、近藤閣下の表情から不安は消えなかった。
「クラウス閣下。娘は帝国で、どのような立場となり、どのような生活を送ることになるのかお聞かせ願いたい」
「その件につきましては、後ほど詳しくご説明いたします。ただ、まずは時間がありません。先に講和条約締結の手続きをお願いできますでしょうか」
そう言って兄上は、一枚の書面を近藤閣下の前へ差し出した。
講和条約締結のための正式な調印書だ。
近藤閣下は書面を一読したあと、もう一度だけセラ嬢に視線を向ける。
その瞳には、最後まで迷いが残っていた。
「セラ……本当に、いいのだな」
『はい。もちろんです』
迷いのない返事だった。
優しく微笑むセラ嬢を見つめたまま、近藤閣下はゆっくりと震える手でペンを取る。
その手は何度も止まりそうになり、そのたびに苦しげに息を詰まらせながらも、ついに講和条約の調印書へ公爵家当主として自らの名を書き記した。
クラウス兄上は静かに書面を受け取り、署名と印章を一つ一つ確認すると、小さく頷く。
「確認いたしました。これをもって、タルタリア帝国とアストリア公爵家との間における講和条約は、正式に締結されたものといたします」
これで講和は成立した。
僕たちの目的は果たされたと言っていい。
でも調印が済んだからといって安心できる状況ではない。
この場にセラ嬢を残せば、公爵家の者達が情に流されて考えを変える可能性もあるし、騎士達が彼女を奪い返そうと動くことも十分考えられる。
正式に条約が成立した今、彼女は帝国の庇護下に置かれる存在だ。
余計な混乱が起きる前に、僕達はこの場を離れる必要があった。
「それでは、我々はこれにて失礼いたします。総司、セラ嬢を速やかに馬車までお連れしなさい。帝国の保護下にお迎えするまでが今回の任務だ」
「承知いたしました」
僕が一礼すると同時に部屋の空気が凍りつき、近藤閣下をはじめ、公爵家の者たちが一斉に目を見開く。
「まさか、このままお嬢様を帝国にお連れになるおつもりですか?」
動揺を隠し切れない声を上げたのは山南殿だった。
おそらく彼らは、講和条約が締結されたあと数日、あるいは数週間ほどは猶予があり、その間に別れを済ませたり、帝国側から改めて正式な迎えが来るものと思っていたのだろう。
しかし、それは帝国として最も避けなければならない事態だった。
講和条約の最も重要な柱は、彼女の身柄を帝国が確実に保護することにある。
万一、公爵家の一部が感情に流されて彼女を匿ったり、あるいは反講和派が彼女の存在を利用して条約を覆そうとしたなら、せっかく成立した講和は再び崩れかねない。
だからこそ、条約発効と同時に身柄を帝国に移すことが、最初から取り決められていた。
「ええ、もちろんです。講和条約が締結された以上、セラ嬢は本日この時をもって帝国の保護下に入られました。いつまでもアストリアにお残しするわけにはまいりません」
「それはいくら何でもあまりにも性急ではありませんか」
近藤閣下がはっきりと告げた。
「これから娘が帝国でどのような立場となり、どのような生活を送り、誰が責任を持って守ってくださるのか、その詳細すら伺っておりませんぞ!それを何一つ知らされぬまま、今この場で娘を送り出せと仰るのか……!」
「ご心痛は理解しております。しかし、その件につきましては現段階で詳細を申し上げることはできません。帝国には国家機密として扱われる事項も含まれておりますので、正式な手続きを経るまでは開示できないのです」
兄は一拍置いてから、さらに落ち着いた声で続ける。
「ですが、先ほどもお約束した通り、セラ嬢には、その御身の尊厳と心身の健やかさを損なうことなく、地位と待遇に相応しい生活を保証いたします。帝国は決して条約の履行者を粗略には扱いません。その点だけは、大公家の名においてもお約束いたしましょう」
兄上があえてそれ以上を語らないのには理由があった。
セラ嬢が将来、僕の側室として迎えられる予定であることは、まだ帝国内でも正式に公表されていない極めて重要な機密事項だ。
この場には近藤閣下や公爵家の重臣達だけではなく、帝国の騎士達、公爵邸の使用人達も数多く居合わせている。
そんな場所でその事実を公にすれば、公爵家にさらなる動揺を与えるだけでは済まない。
帝国が講和条約の締結と同時にセラ嬢を迎え入れる真の狙いまで勘繰られ、今後の政治的な駆け引きにも少なからぬ影響を及ぼしかねなかった。
だからこそ今この場で伝えられるのは、彼女が帝国の保護下に入り、安全を保証されるという事実だけだった。
近藤閣下は兄上を真っ直ぐ見据え、苦しげな声で問いかける。
「……そのお言葉を、本当に信じてもよろしいのか?」
「ええ。もっとも、それはアストリア公爵家が本条約を誠実に履行し、今後も帝国との友好関係を築いてくださることが前提ですが」
静かに言葉を区切ると、兄上は穏やかな口調で続けた。
「帝国が貴公方を信頼に足る同盟相手であると判断した暁には、セラ嬢にも帝国内で何不自由なく、安心してお過ごしいただける立場をご用意いたします。ですからどうか賢明なご判断をなさってください。もし本当にセラ嬢のご無事をお望みになるのであれば、余計な動きは決してなさらぬことです」
遠回しな物言いではあったけど、その意味は誰の耳にも明らかだった。
もし講和を破り、帝国に敵対するような真似をすれば、その結果として最も危うい立場へ置かれるのはセラ嬢自身だと告げているに等しい。
近藤閣下は息を呑み、その目を大きく見開いた。
苦悩と怒り、そして娘を案じる父親としての恐怖が入り混じったその表情を見ても、兄上の表情は最後まで変わることはなかった。
けれど僕が構わず、拘束したままのセラ嬢を静かに促し、その場を後にしようと歩き出した時。
「セラ!」
「セラお嬢様!」
「お嬢様!」
幾つもの声が重なり合い、悲鳴にも似た響きとなって応接室いっぱいに広がる。
近藤閣下をはじめ、そこにいた誰もが一斉に彼女の名を呼び、涙を流す者もいた。
けれど誰一人としてこちらに駆け寄ることはできない。
皆いまだ帝国の騎士達に拘束されたままで、その身体をもどかしそうに震わせることしか許されていなかった。
その声を耳にしたセラ嬢も、泣きそうな声を漏らしながら、必死に後ろを振り返ろうとする。
『お父様っ……、みんな……!』
「ほら、前見て」
立ち止まることなく歩き続け、そのまま半ば強引に彼女を部屋の外へ連れ出すと、静かに扉を閉めた。
厚い扉が閉ざされてもなお、向こう側から聞こえてくる呼び声は完全には消えない。
その一つひとつが彼女の胸を締めつけているのだろう。
セラ嬢は潤んだ瞳で僕を見上げ、震える声で懸命に訴えた。
『総司様……お願いです。せめて少しだけでも、お父様や皆にお別れのご挨拶をさせてください……』
その声は震えていて、今にも涙が零れそうだった。
「駄目だよ。気が変わるかもしれないでしょ」
『変わりません。私はもう決めています。ですから、ほんの少しだけでも……』
縋るような眼差しだった。
本当に別れの言葉を交わしたいだけなのだと、その瞳を見れば嫌というほど伝わってくる。
それでも、許すわけにはいかなかった。
「余計な時間はかけられないんだよ。君だって、これ以上誰かが傷付くところは見たくないでしょ?」
もしここで少しでも揉め事が起これば、傷付くのは公爵家の人達だ。
僕が言おうとしている意味を彼女はすぐに理解したのだろう。
先程までの恐怖が今もまだ彼女を縛っているようだった。
大きく揺れた瞳は行き場を失い、唇をきゅっと噛み締めながら懸命に涙を堪えている。
その姿を見ていると胸の奥が鈍く痛んだけど、ここで情に流されることだけは許されなかった。
彼女はそれ以上は何も言わず、小さく俯いたまま僕の歩調に合わせて歩き始める。
長い廊下には、二人分の足音だけが静かに響いていた。
しばらく無言のまま歩いていると、不意に隣から遠慮がちな声が聞こえてくる。
『あの……総司様』
「なに?」
『馬車に向かう前に、一度だけ私の部屋に寄っていただくことはできますか?』
思わず眉を寄せた。
この状況で部屋に寄りたいと言われれば、警戒するのは当然だ。
逃げ道を探しているのか、何かよくないことを考えているのか、いくらでも疑いようはある。
そんな僕の表情から考えを察したのだろう。
セラ嬢は慌てたように首を横に振り、切羽詰まった様子で続ける。
『逃げようとしているわけではありません。ただ……どうしても一緒に持って行きたいものがあるんです』
「持っていきたいものって?帝国でも服や宝石なんかはいくらでも用意できるよ」
『そういうものではなくて……』
「じゃあ、何?」
自然と声音が鋭くなる。
するとセラ嬢は少し俯き、控えめな声で答えた。
『友人からいただいたお手紙や、幼い頃から書いてきた日記、それから……家族や皆との思い出をしまってある箱があるんです。ほかには何もいりませんから、その箱だけは一緒に連れて行かせていただけませんか……?』
最後の言葉は消え入りそうに細く、懸命に涙を堪えながら紡がれていた。
唇は震え、潤んだ瞳から涙を零すまいと必死に顔をしかめている。
そんな姿を目の前にしていると、警戒し続ける自分のほうが馬鹿らしく思えて、僕は小さく息を吐いた。
「わかったよ。その代わり、時間はかけられないけど」
その一言に、彼女はぱっと顔を上げる。
『はい。ありがとうございます』
「それと、部屋の中でも見張らせてもらうよ」
『はい。もちろんです』
ほっと胸を撫で下ろしたように小さく息を吐くと、セラ嬢は安心したように頷き、その潤んだ瞳でそっと僕を見上げた。
その柔らかな微笑みは、家族と引き離されたばかりとは思えないほど穏やかで、だからこそ僕の胸の奥に言いようのない痛みを静かに残していく気がした。
ページ:
トップページへ