6
セラ嬢を伴って向かったのは、彼女の私室がある三階だった。
すでに城内は帝国軍によって制圧されていて、長い廊下には誰一人として歩く者はいない。
静まり返った城の中、耳に届くのは僕達の足音だけだった。
思えば僕達の婚約が決まったあの日、セラ嬢と手を繋いで、この場所を夢中で駆け抜けた。
嬉しそうに笑う彼女に手を引かれ、僕まで子供みたいになってしまって、二人で廊下を思い切り走った。
途中で山崎卿から「廊下を走ってはいけません」と呆れたように叱られたけど、それでも僕達は足を止めることもなく、そのまま廊下の突き当たりにあるバルコニーまで駆け抜けたんだよね。
あの時は、未来はずっとこの幸せの延長線上にあるんだと本気で信じていた。
まさかその数年後、同じ廊下を彼女の未来を理不尽に奪うために歩くことになるなんて、あの頃の僕は想像すらしていない。
もし、あの日の僕が今の僕を見たなら、何と言うだろう。
大切な人を泣かせるなと怒るだろうか。
それとも、そんな未来しか選べなかった僕を軽蔑するのだろうか。
答えの出るはずもない問いが、胸の奥を静かに掠めていった。
『こちらです』
セラ嬢が足を止め、一つの扉に視線を向ける。
拘束されたままでは扉を開けられない彼女の代わりに、僕は静かに取っ手に手を掛けた。
扉をゆっくりと開いた先に広がっていたのは、まるでセラ嬢そのもののような、穏やかで温かい空間だった。
淡い色合いの調度品が整然と並び、窓辺には季節の花が飾られている。
レースのカーテンが風に揺れるたび、花を思わせる優しい香りがふわりと漂い、部屋全体を柔らかな空気で包み込んでいた。
豪華さを誇る部屋ではないけど、どこを見ても丁寧に手入れされ、大切に暮らしてきたことが自然と伝わってくる。
きっと彼女は、この城で家族や大切な人達に囲まれ、笑い、泣き、穏やかな毎日を積み重ねてきたんだろう。
静かに室内を見渡すその横顔には、もう二度と戻れない場所を目に焼き付けようとするような淋しさが滲んでいた。
「じゃあ、必要なものを持ってきて」
『はい』
拘束を解くと、セラ嬢は迷うことなくドレッサーの隣に置かれた白木のキャビネットに歩み寄る。
一番下の引き出しをそっと開け、その奥から大切そうに抱え上げたのは、一つの収納箱だった。
上品な生成り色の布張りで仕立てられた箱は、縁に細い金糸の装飾が巡らされ、蓋には淡い桜色や乳白色の小花が刺繍されている。
派手さはないものの、優しく可憐な意匠はどこかセラ嬢に似ていて、大きさも彼女が両腕でようやく抱えられるほどのものだった。
その箱を胸に大切そうに抱き締めると、彼女はすぐに僕の前まで戻ってくる。
『お待たせいたしました』
「もういいの?せっかくここまで来たんだし、他にもあるなら持って行ってもいいよ」
僕がそう言うと、セラ嬢は意外そうに目を丸くし、僕を見上げながら瞳を小さく揺らした。
でも、別に深い意味があって言ったわけじゃない。
女の子は男と違って何かと必要なものが多いと聞く。
使い慣れた化粧品や、お気に入りの装飾品、あるいは大切にしている小物など、急に異国に移るとなれば持って行きたいものはいくらでもあるはずだ。
だから何気なくそう声を掛けたけど、セラ嬢は部屋をゆっくり見渡したあと、ベッドに歩み寄り、一匹のうさぎのぬいぐるみをそっと抱き上げた。
「え?それ?」
『はい』
「それを持って行くの?」
『はい。小さい頃から、一緒に眠っているので』
そう答える彼女は迷いなくそのうさぎを大切そうに眺めている。
けれど、両腕には大きな箱を抱え、その上にぬいぐるみまで乗せてしまえば前が見えなくなりそうだった。
「それ、貸して。僕が持つよ」
『でも……』
「ほら、行くから早くして」
少し強引に促すと、セラ嬢は困ったように小さく頷く。
『ありがとうございます。それでは……ぬいぐるみの方をお願いいたします』
僕は白いうさぎのぬいぐるみを受け取り、その柔らかい毛並みを片手で抱えながら部屋を後にした。
もう彼女を拘束する必要はない気がしていた。
何か別の思惑があれば、この部屋に入った時点でいくらでもおかしな動きをしていたはずだ。
それでも彼女は約束通り必要なものだけを持ち、何一つ隠そうともせず、まっすぐ僕の元に戻ってきた。
その誠実さだけは、少なくとも今は信じてもいいと思えた。
城の正面玄関を抜け、しばらく歩いた先には、予定通り一台の馬車が待機していた。
その周囲には帝国から派遣された騎士達が幾重にも隊列を組み、周辺を厳重に警戒している。
誰もが剣に手を添え、いつ何が起きても即座に対応できるよう緊張を保っていた。
その光景を目にしたセラ嬢は、一瞬だけ表情を強張らせる。
これから自分が本当に帝国へ連れて行かれるのだと、改めて実感したんだろう。
けれど彼女はすぐに俯き、何かを堪えるように唇をきゅっと結び直した。
その姿を見届けると、僕は馬車の扉を開き、彼女に手を差し伸べる。
「どうぞ」
『ありがとうございます』
彼女は胸に抱えた箱を大切そうに支えながら僕の手を借り、静かに馬車に乗り込んだ。
席へ腰を下ろしたのを確認すると、僕は穏やかな声で告げた。
「僕は一度、さっきの部屋に戻るから、ここで待ってて」
『はい。わかりました』
素直に頷き、こちらを見上げるその瞳には、不安こそ滲んでいるものの、抵抗しようという色は見えなかった。
そんな彼女を一人残すことに、僅かな引っ掛かりを覚えながらも、僕は静かに馬車の扉を閉める。
不意に横を向くと、そこには相馬が立っていた。
「隊長、お疲れ様です。無事計画を遂行できたようで何よりでした」
「そうだね。今のところ何か問題は?」
「ありません。城内の制圧はすべて完了しておりますし、公爵家の関係者も予定通り監視下に置いています。馬車の周辺警備も配置を終えていますので、いつでも出発できますよ」
「そう。わかった。じゃあ僕は一度戻るから」
踵を返そうとしたところで、相馬が何とも言えない表情を浮かべた。
「……ですが隊長。そのうさぎは?」
視線の先には、僕が片手に抱えたままになっていた白いうさぎのぬいぐるみがある。
「あ、忘れてた。これ、セラ嬢に返しておいて」
「え……、俺がですか?」
「うん。それと、念のためセラ嬢から目を離さないで。ないとは思うけど、馬車を勝手に降りたりしないよう、しっかり見張っておいてね」
「承知しました」
相馬にぬいぐるみを預けると、僕は足早に先ほど会談を行っていた応接室に引き返す。
残されているのは、そのまま安全に公爵邸を離脱することだけだった。
だからこそ、公爵家の人達を拘束したまま、セラ嬢だけを先に馬車に移送し、護衛部隊を段階的に配置して出発準備を進めるという手順も、すべて事前に打ち合わせていた通りだった。
セラ嬢が帝国の監視下にある以上、公爵家の者達は軽率な行動に出ることはできない。
その心理まで見越したうえで組み立てられた今回の計画は、今のところ一つの狂いもなく進んでいる。
僕が応接室に戻ると、兄も安堵したのか僕に向かって僅かに口角を緩めた。
「セラ嬢を馬車までお連れしました」
「随分と時間がかかったな」
「私物を持っていくために、一度彼女の部屋に寄っていたんですよ」
「そうか」
兄は静かに頷くと、部屋に控えていた騎士達に視線を向ける。
「これで本件は完了だ。近藤閣下ならびに公爵家の方々の拘束を解きなさい。解除後は予定通り全部隊、速やかに撤収準備に移れ」
「はっ」
騎士達は一斉に返答し、近藤閣下達を拘束していた縄を解いていく。
ようやく自由の身となったにもかかわらず、その場に安堵の空気は微塵も流れなかった。
国を守るためとはいえ、最も大切な存在を帝国に差し出すと決めたばかりなのだから当然だろう。
誰もが苦悩に顔を曇らせ、その視線には悲しみだけではなく、娘を奪った帝国への憎悪と、僕への激しい敵意が宿っている。
それでも誰一人として剣に手を伸ばさなかった。
ここで感情に任せて動けば、最も危険に晒されるのは、すでに帝国の保護下に置かれたセラ嬢だと理解しているからだ。
「では近藤閣下、本日はご協力いただき感謝いたします。セラ嬢の今後の処遇につきましては、正式に決定次第、帝国より改めて書簡をお送りいたします。それまではどうかご安心のうえ、お待ちください」
兄はにこやかにそう告げると、一礼して扉に向かい、そのまま静かに部屋を後にした。
そして僕もその後に続こうとした時。
「総司殿」
不意に呼び止められ、足を止める。
振り返ると、近藤閣下の苦しげな瞳が真っ直ぐ僕を見つめていた。
「はい?」
「これは……君の復讐なのか?」
復讐か……。
もし本当に、その一言で言い表せるものだったなら、どれほど楽だっただろう。
復讐だけを望み、それだけを胸に今日という日を迎えていたのなら、僕の心は今ごろ満ち足りた達成感に包まれ、長年胸に積もっていた澱もすべて消え去っていたに違いない。
けれど現実は、そのどちらとも正反対だった。
胸の奥は少しも軽くならず、勝利の余韻すら感じられないまま鈍い痛みだけが静かに広がっていて、その理由も僕はとっくに理解していた。
久しぶりにこの屋敷に足を踏み入れたことで、封印していた筈の幼い頃の記憶が、あまりにも鮮やかによみがえってしまったからだ。
仲間たちとひたすら汗を流し、ただ強くなることだけを信じて剣を振るい続けたアストリアの訓練所。
何度もセラ嬢と言葉を交わし、穏やかな時間を過ごした公爵邸の庭園。
無邪気に笑い合いながら駆け抜けた長い廊下も、肩を並べて星空を見上げたあのバルコニーも、今ではどれも二度と戻らない遠い日々になってしまった。
そして、さっきまで僕が抱えていた白いうさぎのぬいぐるみも、雷鳴に怯えたセラ嬢が、それを胸に抱き締めながら泣きそうな顔で僕の部屋を訪ねてきた夜の思い出と重なっていた。
僕はこの計画で、望み通りセラ嬢を手に入れた。
でも彼女という存在を僕のもとに迎え入れることはできても、彼女の心だけはこの先永遠に僕に向くことはない。
そんなことは最初から分かっていたはずなのに、現実として突き付けられた今、その喪失は想像していたよりも遥かに重く、胸を締め付けて離さなかった。
「違いますよ。今回の件と母のことは、何の関係もありません。今回の任務に僕が携わったのは、ただ帝国の剣として命令に従った、それだけです」
それは偽りではなかった。
母を失った日の恨みを晴らすために、この作戦に加わったわけじゃない。
その出来事は、とうの昔に僕の中で決着がついている。
けれど近藤閣下は、遠からず帝国から届けられる正式な書簡によって、セラ嬢が僕の第三側室として迎えられることを知る。
その時になって初めて、自分がどれほど取り返しのつかない選択をしたのかを思い知るのだろう。
かつて自ら婚約を破棄し、ろくに弁明の機会すら与えず公爵邸から追い出した男が、今度は最愛の娘の夫となる。
なんとも皮肉な結末だった。
「あの時のことは悪かったと思っているよ。だが、あの子は……セラは無関係なのだ」
「ですから、その件は関係ありませんって」
「そうは言っても、話を聞いてくれんか?」
「近藤閣下」
静かに呼びかけたはずなのに、その声は硬く冷え切っていた。
その一言だけで十分だったんだろう。
閣下は言葉を飲み込み、苦しげに唇を結んだ。
「あの件は、もう終わった話なんですよ。今さら話したところで、何かが変わるんですか?第一、あの時、僕の話を最後まで聞こうともせず、一方的に終わらせたのは閣下でしょう。僕は何度も話を聞いて欲しいと願い出ましたし、何通も手紙を書きました。それでも耳を貸してくださらなかったのは閣下です。それなのに今になって、話を聞いて欲しいなんて都合が良過ぎるとは思いませんか」
責め立てるつもりはなかった。
ただ事実を口にしただけなのに、閣下は何も返せず、ただ苦しげに目を伏せることしかできなかった。
きっと閣下は、僕が母を失ったことを今も恨み続け、その怒りの矛先をセラ嬢にまで向けているのだと思っているのだろう。
今日の僕の行いを見れば、この場にいる誰もがそう考えて当然だ。
けれど、それは違う。
僕がセラ嬢に抱いている想いは、恨みだとか、復讐だとか、そんなありふれた言葉で片付けられるほど浅いものじゃない。
幼い日に芽吹いた恋慕は、彼女を失ったあの日からもずっと消えることなく胸の奥に沈み続け、再び巡り会えた時には、もう純粋な恋と呼べる形では存在していなかった。
あの子を愛している。
誰よりも、何よりも。
だからこそ誰にも渡したくないし、たとえ彼女に憎まれようと、怯えられようと、それでも僕の傍に繋ぎ止めておきたいと思ってしまう。
笑顔を向けられなくても構わない。
心を手に入れられなくても、それでも彼女という存在だけは失いたくない。
そんな身勝手で醜い執着が、長い年月をかけて僕の愛を歪ませ、気づけばその感情は僕自身でさえ制御できないほど深く根を張っていた。
だから僕は、自分がセラ嬢を愛しているのか、それともこの執着に囚われているだけなのか、その境界さえ分からなくなっている。
ただ一つだけ確かなのは、彼女を手放す未来だけは、もうどうしても受け入れられないということだった。
これ以上話すことはない、そう思って僕がドアの取っ手に手をかけた時。
「では、なぜ……セラお嬢様でなければならなかったのでしょうか」
静まり返った部屋に落ちた山南殿の問い掛けは、まるで逃げ道を塞ぐように僕の背中に届いた。
扉に向けていた足が、自然と止まる。
一度目を閉じ、小さく息を吐いてから肩越しに振り返れば、近藤閣下の隣に立つ山南殿は、静かな眼差しで真っ直ぐ僕を見つめていた。
その瞳には責める色も怒りもなく、ただ真実だけを知ろうとする意志が宿っている。
だからこそ、その問いは近藤閣下の言葉よりも深く胸に刺さった。
僕は二人を見つめ返し、ゆっくりと口元だけを緩める。
「さあ、なぜでしょうね」
その答えだけは誰にも明かすつもりはなかった。
幼い日に初めて恋を知ったことも、婚約を結んだあの日、本気で彼女と未来を歩めると信じていたことも、一方的にその未来を奪われた絶望も、歳月を経てもなお、忘れるどころか募り続けた想いも。
そして、ようやく再び手の届く場所に引き寄せた今でさえ、彼女の幸せより自分の傍に繋ぎ止めることを望んでしまう、この救いようのない渇望も。
そんなものを語ったところで、誰にも理解されはしない。
理解される必要もなかった。
それは僕だけが抱え、僕だけが背負っていけばいいものだから。
短く一礼すると、僕はもう一度扉に向き直る。
今度はもう、誰も呼び止めなかった。
重々しい沈黙だけが部屋に残り、その静けさが閉まりゆく扉によってゆっくりと遮られていく。
廊下に出ると、先を歩いていた兄上が僕を待っていた。
「終わったか」
「ええ」
それだけ答えると、兄上は何も尋ねなかった。
二人で並んで歩き始めると、公爵邸の長い廊下には月明かりが細く差し込み、磨き上げられた床に淡い光を落としている。
この屋敷に足を踏み入れることも、おそらく今日が最後になる。
セラ嬢は僕の側室になると知った時、どんな顔で僕を見つめるのだろう。
泣くだろうか。
怯えるだろうか。
それとも、もう何も感じないほど心を閉ざしてしまうのだろうか。
どれほど拒まれても、僕の出す答えはもう変わらない。
彼女を僕だけのものにする。
たとえこれから先、彼女から向けられるものが愛ではなく永遠の憎しみなのだとしても、それでも僕は、もう二度とセラ嬢を手放すことだけはできなかった。
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