7

用意された馬車の中で、私は一人静かに窓の外を見つめていた。
月明かりに照らされた公爵邸の大広場は、昼間とは違う静けさに包まれ、噴水から立ち上る水音だけが夜の空気へと優しく溶け込んでいる。
幼い頃から季節が巡るたびに歩いた色とりどりの花壇も、春になると花びらが舞い散る並木道も、毎日のように足を運んだ庭園も、私にとってはかけがえのない思い出ばかりが詰まった大好きな場所だった。
今夜ここを出たら、もう二度とこの景色を見ることはできない。
そう思った途端、胸の奥で必死に押さえ込んでいた淋しさが一気に溢れ出し、不安と悲しみが絡み合うように込み上げてきて、私の視界はあっという間に涙で滲んでしまった。

頭に浮かぶのは、愛おしくてたまらない人達の笑顔ばかりだった。
どんな時も私を大切に育て、誰より深く愛してくださったお父様。
傷だらけになりながらも、ただ私を守るためだけに剣を振るい続けてくれた伊庭君や平助君。
時には厳しく叱られることもあったけど、その眼差しにはいつも優しさが宿っていた山南さんや山崎さん。

本当は伝えたい言葉がたくさんあった。
今まで育ててくださってありがとうございます、と。
私のために何度も命を懸けてくださってありがとうございます、と。
そんな当たり前の感謝さえ、一つも伝えられないまま別れが来てしまったことが、どうしようもなく苦しかった。

それに、私との婚約の日を指折り数えながら心待ちにしてくださっていた薫様。
どんな小さな悩みにも真剣に耳を傾けてくださった千鶴様。
そして、私の近衛兵になれることを心から喜んでくれていたはじめ。
きっと皆は、まだ何も知らない。
私がこれから帝国に向かうことも、この国に戻れる日がもう訪れないかもしれないことも。

今朝までは、いつもと何一つ変わらない朝だった。
皆と他愛もない話をしながら笑い合い、この幸せな毎日が明日も、明後日も、ずっと続いていくのだと何の疑いもなく信じていた。
でもたった一夜で私の未来は大きく姿を変え、大切だった日常は手を伸ばしても届かない遠い場所へ行ってしまった。
そう思うと、この現実が恐ろしくて胸が押し潰されそうになった。


「失礼いたします」


不意に聞こえた声に顔を上げると、馬車の扉が静かに開かれる。
帝国の騎士の方だろうか。
そう思って目を見開いた私だったけど、相手もまた涙で頬を濡らした私の姿を見て、驚いたように目を大きく見開いていた。


『……っ』


慌てて目元を拭ったものの、もう隠せるような状態ではなかった。
彼は少し気まずそうに視線を泳がせ、それでも何か力になりたいと思ってくださったのか、遠慮がちにハンカチを差し出してくれた。


「良かったら使ってください」

『いえ、大丈夫です。持っていますので』


私は小さく首を振り、自分のハンカチを取り出して涙を拭った。
受け取られなかったハンカチを持つ彼は、困ったように眉を下げていた。
この方が悪いわけではない。
むしろ、気遣ってくださったことはありがたかった。
それでも今は、この国から私を連れて行く帝国の人達の優しさに甘えることだけは、どうしてもできなかった。


『もう大丈夫です。どうかなさいましたか?』


そう尋ねると、彼は小さく姿勢を正し、大切そうに何かを差し出した。


「こちらを隊長からお預かりしましたので」


それは先ほど総司様に預かっていただいた、うさぎのぬいぐるみだった。
幼い頃、お母様が買ってくださった、世界でたった一つの大切な宝物。
私は壊れ物に触れるようにそっと受け取り、胸に抱き寄せる。
柔らかな感触が腕の中に戻ってきた途端、お母様の温もりまで蘇ってくるような気がして、必死に堪えていた涙がまた溢れそうになった。


『……ありがとうございます』


涙声を聞かれたくなくて、失礼だとわかっていながら俯いたまま小さくお礼を伝える。
これで扉を閉めてくださるものだと思っていたのに、その人はなぜかその場を離れようとはせず、何か言いたげな様子で戸惑うように立ち尽くしていた。


『あの、まだ何か?』


そう問い掛けると、彼は困ったように視線を彷徨わせながら、小さく口を開いた。


「いえ……その……」


ただぼんやりとその方の顔を見つめていると、なんとなく見覚えがあるような気がしてしまう。
困ったように眉を下げる表情も、どこか遠慮がちに言葉を選ぶ様子も、記憶のどこかにある気がして、気が付けば私は素直に尋ねていた。


『以前、どこかでお会いしたことがありますか?』


その言葉に、彼は驚いたように目を大きく見開いた。
まるで予想もしていなかったことを言われたかのように、そのまま数秒間だけ動きを止め、それから慌てるように小さく首を横へ振る。


「いえ、ありません」

『そうですか?どこかでお話ししたような気がしたのですが』


私が首を傾げながらそう言うと、彼は少しだけ視線を泳がせ、すぐに苦笑を浮かべた。


「おそらく中部で開かれた舞踏会に、俺も護衛として同行していましたので、その時にお見かけしたからではないかと」

『そうなんですね』


そう言われて思い返せば、あの日の舞踏会には総司様や千様だけではなく、多くの護衛の方々もご一緒だった。
あの華やかな会場では、護衛の方々とゆっくりお話しする機会こそなかったけど、きっとその中のお一人だったのだろうと一人で納得していると、彼は改めて姿勢を正し、丁寧に一礼した。


「改めまして、俺は相馬主計と申します。今後とも、よろしくお願いいたします」


その誠実な挨拶に、私も膝の上に手を揃え、小さく頭を下げる。


『ご丁寧にありがとうございます。アストリア家のセラと申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします』


こんなふうに、馬車の中と外に分かれたまま自己紹介を交わすことは初めてだった。
ほんの短い言葉のやり取りだったけど、相馬卿は真面目で、誠実な方なのだろうということだけは伝わってくる。
けれど、誰かと話をして気持ちが紛れるどころか、胸の奥に押し込めていた悲しみがまた込み上げてきてしまう。
もうこれ以上涙を見せたくなくて、私は一人になりたいと思った。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、相馬卿は少しだけ表情を和らげると、穏やかな声で続けた。


「色々とご不安なお気持ちでいらっしゃると思います。突然このようなことになり、俺なんかが何を申し上げても慰めにはならないかもしれませんが……どうか、それほどご心配なさらないでください」


一度言葉を区切ると、彼はまっすぐ私を見つめ、静かに続ける。


「隊長は決してセラ様を粗末に扱うようなお方ではありません。ですから、帝国に着かれてからも、お一人で全てを抱え込まないでいただければと思います」


その声音には、上官を信頼しているからこその確信が滲んでいて、慰めのためだけに口にした言葉ではないのだと伝わってきた。
でも、相馬卿は先ほどまであの部屋にはいらっしゃらなかった。
だから、ご存じないのかもしれない。
総司様が講和条約を締結させるために、皆の命を交渉の駒として弄び、私にとって何より大切な人達の想いまでも容赦なく利用したことを。
あの時、胸が張り裂けそうになるほど苦しくて、目の前が真っ暗になるほど悲しかったことを、誰がどんな言葉で否定しても、私は一生忘れることなんて出来ない。
この記憶は心に深く刻まれた傷のように、きっとこの先も消えることはないのだろう。
何も答えられずに俯いていると、相馬卿は私の沈黙から何かを感じ取ったのか、その瞳を僅かに揺らし、申し訳なさそうに口を開いた。


「申し訳ありません。出過ぎたことを申しました」

『……いいえ』


私は小さく首を振り、静かに顔を上げる。


『相馬卿は、総司様をとても信頼されているのですね』

「ええ。俺は隊長に命を救っていただいた身です。あの方がいなければ、今の俺はありません。ですから、この先もずっと隊長についていくつもりです」

『そんなふうに心から信じられる方がいらっしゃることは、とても素敵なことだと思います』


その言葉を口にしながらも、胸の奥は少しずつ痛みを増していく。


『……ですが、私は違います』


帝国の騎士である相馬卿に、このような話をするべきではないことくらい私にも分かっている。
それでも、胸の中で渦巻く感情は理性では押さえきれず、静かに唇から零れ落ちてしまった。


『私はもう、総司様を信じることができません。これから先、どれほど優しい言葉を掛けて頂いたとしても、あの方を頼ろうとは思えないのです。相馬卿には申し訳ありませんが、できることならお互いに必要以上に関わることなく過ごせたらと、今はそう願っています』


相馬卿はその一言を受け止めたまま、大きく目を見開き、しばらく何も言えずに立ち尽くしていた。
もしかしたら、このことは総司様の耳にも入るのかもしれない。
けれど、それでももう構わなかった。
総司様にとって私は取るに足らない存在なのだということを、今夜だけで嫌というほど思い知らされたのだから。
そんな私が何を思い、何を口にしたところで、あの方の心が揺らぐことなどきっとない。
何より、本当に人を想う心があるのなら、お父様や皆があれほど苦しむ姿を前にして、あそこまで冷酷に笑いながら振る舞えるはずがない。
命懸けで戦ってくださった皆の姿と、私を守れなかったことを責めるように涙を流してくださったお父様の姿が胸に浮かぶたび、やるせなさで胸が締め付けられ、視界がまた涙で滲んでいった。


「……あの、何かありましたか?」

『何もなければ、私はここにはいないと思いますけど』


その返事に相馬卿は息を呑み、言葉を失ったように口を閉ざした。


「……それも、そうですね」


苦しそうにそう呟くと、彼はしばらく考え込むように俯き、それから意を決したように顔を上げる。


「差し支えなければ、お聞かせいただけませんか?もちろん、お話ししたくなければ無理にとは申しません」

『ごめんなさい。それは言えません。何より、思い出したくもないんです』

「そうですよね……。申し訳ありません」

『いいえ。私の方こそごめんなさい。総司様をお慕いしている相馬卿に話すべき内容ではありませんでしたね』


彼にきつく当たってしまったことを後悔した。
尊敬している上司のことを悪く言われて、彼も気分を害してしまっただろう。
情けない自分に余計に心苦しさを感じていると、相馬卿は静かな声で話し始めた。


「俺は隊長の部下です。あの方を信じ、お支えするのが務めですし、その気持ちは今も変わりません」


そこで一度言葉を切ると、彼は真っ直ぐ私を見つめた。


「ですが、目の前で涙を流しておられるセラ様のお気持ちまで見なかったことにするのは違うと思っています。俺は何があったのかは知りません。だから、どちらが正しいなどと言える立場ではありませんが……少なくとも、セラ様が今ここまで傷ついておられるという事実だけは、否定するつもりはありません」


その言葉に、私は少しだけ驚いて目を瞬かせた。
帝国の騎士なのだから、総司様を庇われるものだと思っていた。
けれど相馬卿は、ただ目の前にいる私の悲しみを受け止めようとしてくださっていた。


「それに、人はそれぞれ見えているものが違います。俺が知っている隊長と、今日セラ様がご覧になった隊長は、同じお方であっても、きっと違う姿として映っているのでしょう。ですから、セラ様がご自分を責める必要はありません。謝ることなんて、何一つないですよ」


相馬卿は、決して私の気持ちを否定することなく、それでいて総司様への信頼も曲げることなく、静かな口調でそう言ってくださった。
その言葉は、私の胸にゆっくりと染み込んでいきながら、凝り固まっていた心を少しずつ解きほぐしていくようだった。

人は誰もが、自分の見たものや感じたものを通して相手を知ろうとする。
だからこそ、同じ人を見つめていたとしても、その姿は人の数だけ違って見えるのかもしれない。
私はこれまで、総司様が周囲の人から誤解され、否定されるたびに胸を締めつけられるような苦しさを覚えてきた。
それは私自身が、総司様の優しさや温もりを知っていたからだった。

けれど今の私は、その本当のお姿さえ見失いかけている。
だからといって、相馬卿が心から信じ、大切に想っている総司様まで、私が否定してしまってはいけないのだと、その穏やかな言葉に教えられた気がした。


『……相馬卿は、本当にお優しい方なのですね』


そう呟くと、相馬卿は少し困ったように目を細め、小さく首を横に振る。


「いえ、そんな立派な人間ではありません。俺は何も知らないまま、自分勝手なことを申し上げているだけですから」

『そんなことありません。私の気持ちを決めつけることも、否定することもなさらず、最後まで聞いてくださいました。それだけで、私はとても救われました』


私が微笑みながらそう伝えると、相馬卿はようやく肩の力を抜いたように静かに息をつき、どこか安心したような柔らかな笑みを浮かべた。


「今はまだ、お二人とも心を落ち着けて向き合うことは難しいでしょう。でも、いつか遠い未来で構いません。隊長とセラ様が、もう一度穏やかな気持ちで言葉を交わせる日が来ることを、俺は心から願っています」


その真っ直ぐで誠実な願いは、冷え切っていた私の胸をそっと温めてくれた。
それでも同時に、本当にそんな未来が訪れるのだろうかという思いが、どうしても心から離れてくれない。

たとえいつか総司様と穏やかに言葉を交わす日が訪れたとしても、何も疑うことなく、ただお慕いする気持ちだけを胸に総司様を見つめていられたあの頃の私には、もう戻れない気がした。
そしてきっと、それは総司様も同じなのだろう。
失われてしまったものは、どれほど願っても、元の形のまま戻ることはない。
言葉に出来ない淋しさを抱えながら、私は腕の中のうさぎのぬいぐるみを強く抱き締めた。

そんな私を見つめていた相馬卿は、少しだけ言葉を選ぶように間を置いてから、穏やかな声で続ける。


「帝国にお着きになってからも、どうかお一人ですべてを抱え込まないでください。隊長を頼ることが難しいのであれば、俺でも構いません。大した力にはなれないかもしれませんが、お話をお聞きすることくらいなら、いつでもできますから」

『相馬卿……』

「俺は隊長に余計なことは申しませんし、セラ様から伺ったことは必ず胸の内にしまっておきます。ですから、苦しい時や寂しい時は、どうかお一人で耐えようとなさらないでください。そんな時くらいは、遠慮なく俺を頼っていただけたら嬉しいです」


思いも寄らなかったその申し出に、私は思わず相馬卿の顔を見つめ返した。
敵国の騎士であるはずなのに、その真っ直ぐな瞳には打算も同情も見当たらない。
そこにあったのは、ただ目の前で涙を堪えている一人の人間を、少しでも支えたいと願う誠実な優しさだけだった。
張り詰めていた胸の奥に、温かい風が流れたような気がして、私は小さく微笑む。


『ありがとうございます。そう言っていただけて、とても心強いです。……もし、本当に苦しくなってしまった時は、相馬卿にご相談させていただいてもよろしいですか?』


相馬卿は迷うことなく力強く頷いた。


「もちろんです。その時は、俺にできる限りのことをさせていただきます」


その返事を聞いて、不思議と胸の奥にあった冷たい痛みがほんの少しだけ和らいだ。
もちろん、公爵邸に残りたいという願いが消えたわけではない。
お父様や皆と離れたくない気持ちも、総司様への複雑な想いも、何一つ変わってはいない。
それでも、帝国に向かう道の先に、自分の話に静かに耳を傾けてくださる方が一人でもいてくださるのだと思えたことは、暗闇の中で小さな灯火を見つけたような心強さを私に与えてくれた。


『よろしくお願いいたします』


そう言って小さく頭を下げると、相馬卿も穏やかな笑みを浮かべながら深く一礼する。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


それ以上、お互いに言葉は続かなかった。
相馬卿は静かに馬車の扉を閉めると、最後に一度だけ安心させるような眼差しを私に向け、そのまま持ち場へと戻っていく。
閉ざされた扉の向こうからは、護衛の方々が馬を進める気配と、夜風に揺れる木々の葉音だけが微かに聞こえていた。

私は腕の中のうさぎのぬいぐるみをそっと抱き寄せ、小さく息をつく。
失うものばかりだと思っていたこの夜に、思いがけず一つの温かい出会いがあった。
その小さな優しさを胸の奥へ大切にしまい込みながら、私は静かに窓の外に視線を向けた。

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