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再び城の外に出た僕は、出立する旨を周囲の騎士たちへ告げると、そのまま馬車の前まで歩みを進めた。
馬車を見張るように立っていた相馬は、僕を見ると静かに一礼する。


「隊長、お疲れ様です」

「お疲れ。やっと全部終わったよ。セラ嬢は?」

「変わりありません。中にいらっしゃいますよ」


ここからはクラウス兄上とも別々に行動をする。
あまり大人数で移動すればそれだけで人目を引いてしまうし、講和に反発した東部の者たちが、万が一にもセラ嬢の奪還を試みるようなことがあれば、厳重な護衛はかえって彼女の居場所を教えることになりかねない。
だから兄上が別の一団を率いることで周りの目を分散させる一方、僕とセラ嬢は最低限の護衛だけを伴って静かに国境を目指すことになっていた。


「僕も予定通り馬車に乗るから、相馬達は周辺の護衛をお願いね」

「承知致しました。異変がありましたら直ぐにご報告致しますので、隊長も馬車の中ではゆっくり休まれてください」


相馬はそう言って微笑んでくれるけど、ゆっくり休めるような心情ではない。
この中にセラ嬢がいると思うと、妙に落ち着かない気分になった。

本来なら今は、セラ嬢を一人にしてあげた方がいいのかもしれない。
家族と引き離され、人質としてたった一人で異国に渡る彼女の胸中を思えば、僕の存在はその悲しみを和らげるどころか、苦しみを増やすだけだからだ。
でも、ここまで来た以上、最後まで気を緩めるつもりはなかった。
道中に何が起こるか分からないし、彼女を無事に帝国に連れ帰れなければすべて意味を失ってしまう。
だからこそ余計な迷いは捨てて馬車の扉を開けると、先に乗り込んでいたセラ嬢が静かに顔を上げた。

僕と目が合うと、彼女は何も言わず、ほんの僅かに頭を下げる。
その所作は昔と変わらず上品で、どれほど心を乱されていても礼節だけは失わない。
僕も静かに乗り込み、彼女の向かいに腰を下ろした。


やがて御者の合図とともに馬車がゆっくりと動き始めると、月明かりに照らされた公爵邸は少しずつ遠ざかり、夜の闇へ溶けるように見えなくなっていく。
その様子を、セラ嬢は最後まで食い入るように窓から見つめていた。
その瞳は幼い頃から見慣れた景色を一つたりとも見落とすまいとしているかのようで、今この瞬間にも故郷を胸に刻み込もうと必死になっているのが痛いほど伝わってくる。
その横顔から目を離せずにいた僕は、何度も声を掛けようとして、そのたびに言葉を飲み込んだ。

馬車の中には何も語られない時間だけが静かに積み重なっていった。
車輪が石畳を転がる音と、外を並走する護衛騎士たちの馬の蹄だけが、夜の静寂へ規則正しく響いている。
つい数日前に再会した時には、僕の名前を呼び、昔と変わらない笑顔で話しかけてくれた彼女が、今は一度たりとも僕に視線を向けようとはしない。
ただ膝の上に静かに手を重ね、窓の外だけを見つめ続けている。
重苦しい沈黙に耐えきれなくなったのは、僕の方だった。


「今夜はもう列車が動いていないから、このまま中部のエーデル中央駅まで馬車で向かうよ。駅の近くで一泊して、明日の朝一番の列車で帝国に発つ予定だから」


その言葉に、セラ嬢はようやく僕の方を向いてくれた。
けれど、その瞳に宿っていたのは、幼い頃から幾度となく見てきた柔らかな笑顔ではない。


『はい。わかりました』


それだけ答えると、彼女は再び窓の外へ視線を戻してしまう。
僕はゆっくりと目を伏せ、幼い頃の彼女を思い出し、あの日々を恋しく思っていた。

昔のセラ嬢は、僕が隣にいるだけでいつも嬉しそうに笑っていた。
庭園を歩けば、花を見つけたと楽しそうに駆け寄ってきて、訓練帰りに会えば「今日は何をしていたのですか?」と瞳を輝かせながら、途切れることなく話しかけてくれた。
僕が考え事をしていれば、「総司様?」と不思議そうに顔を覗き込み、その大きな瞳をすぐ目の前まで近づけてくるものだから、その愛らしさに胸がいっぱいになり、何を考えていたのかさえ忘れてしまうことも一度や二度ではなかった。
僕が一言返すだけで、まるで春の日差しを浴びた花が綻ぶように嬉しそうに微笑んでくれる。
その笑顔を見るだけで満たされて、何でもない時間さえ、かけがえのない宝物だった。

そんなことばかり思い出してしまうからだろう。
覚悟していたはずなのに、今、目の前にある距離が心を抉る。
頭の中で何度も思い描いてきた拒絶と、現実に突き付けられる拒絶とでは、これほどまでに胸に突き刺さる痛みが違うのかと、我ながら呆れるほどだった。

……いや。
セラ嬢は決して僕に冷たい態度を取っているわけではない。
睨みつけることもなければ、声を荒らげることも、責め立てることもない。
礼を失することなく、必要な返事だけはきちんと返してくれる。
だからこそ、その距離はあまりにも残酷だった。

いっそあんなことをするなんて最低だと罵ってくれた方がよかった。
泣きながら責めてくれたなら、僕は謝ることも弁明することもできたはずだ。
どんな形であれ、何かしらの言葉を交わせた筈なのに、今の彼女は違う。
まるで僕という存在そのものに境界線を引き、これ以上踏み込むことを許さないように、自ら心を閉ざしてしまっている。
だから返ってくるのは必要最低限の言葉だけ。
これから帝国でどんな暮らしをするのか、本来なら不安で仕方がないはずなのに、尋ねることさえしてこない。
それはきっと、僕には尋ねたくないからだとわかった。

その事実を理解すれば、胸の奥で何かが音もなく軋み、息をするたびに苦しくなる。
それでも僕は、彼女から目を逸らすことができなかった。
たとえその視線が二度と僕へ向けられないのだとしても、こうして同じ馬車の中で彼女を見つめられる時間だけは、誰にも奪われたくなかった。


馬車が夜の街道を静かに進み続ける中、いつしかセラ嬢は窓に寄せていた視線を閉じ、長い睫毛を伏せていた。
公爵邸を出てから一度も気を緩めることなく張り詰めていたからだろう。
小さな身体は揺れに合わせて僅かに傾き、その腕にはうさぎのぬいぐるみが大切そうに抱き締められている。
その無垢な姿を見つめていると、こんな状況下でも頬が緩んだ。

あのぬいぐるみは、雷鳴に怯えた幼いセラ嬢が、胸に抱えながら僕の部屋を訪ねてきた夜に見たものと同じだ。
あの日から、もう十年近い歳月が流れている。
それなのに彼女がこうしてぬいぐるみを抱いたまま眠る姿には少しの違和感もなく、むしろ幼い頃の面影をそのまま残している。
眠っている時だけは、少しは悲しみも忘れられるだろうか。
そうであってほしいと願いながら、僕はその穏やかな寝顔を、飽きることなく見つめ続けていた。


暫くすると馬車の窓から吹き込む夜風は少しずつ冷たさを増し、眠る彼女の髪を優しく揺らしている。
寒いかもしれないと思った時には、座席の脇に置かれていた毛布に手を伸ばしていた。
起こさないよう、できる限り静かに身を乗り出し、肩にそっと毛布を掛ける。
でも、小さく吐息が零れたとほぼ同時に、セラ嬢の瞼がゆっくりと持ち上がった。


『……ん……』


眠気の残る、とろんとした瞳がぼんやりと僕を映した。
毛布を掛けるために身を乗り出したままの僕の顔が、彼女のすぐ目の前にある。
視線がぶつかるとほんの一拍遅れて、彼女の瞳がはっと見開かれた。
細い肩がびくりと震え、反射的に身を守ろうとするように身体が強張る。
その仕草も、僕を見つめる怯えたような眼差しも、鋭い刃物よりずっと深く胸に突き刺さった。


「ごめん。起こすつもりじゃなかったんだけど」


それだけ告げて、僕は直ぐに身体を離す。
セラ嬢は毛布に一度だけ目を落とすと、小さく唇を結び、抱き締めていたうさぎのぬいぐるみをさらに強く胸へ抱え込んだ。


『あ……いいえ。毛布、ありがとうございます』


その高い声は相変わらず穏やかで、何の棘もなかった。
だからこそ、苦しくなる。
彼女が見せた怯えは、本心から溢れたものだったんだとわかったから。

傷付けたのは、僕だ。
だから怯えられるのも当然だし、その距離を嘆く資格なんてどこにもない。
それでも少しくらいは期待してしまっていたのかもしれない。
優しくすれば、少しだけでも昔のように笑ってくれるかもしれない、そんな都合のいい願いを心のどこかで抱いていた。

でも、よくよく考えれば母の事件の時もそうだった。
僕の話を聞こうともせず、僕を切り捨てた彼女は、その時から僕との過去を終わらせようとしていたのかもしれない。
忘れたい、他人になりたい……そんなふうに願っていた相手に何かを期待すること自体、馬鹿げているのに。

あの時、どうしてそこまで僕は拒まれなければならなかったんだろう。
こんなにも君だけを想っているのに、その想いは少しも届かない。
届かないからこそ焦りは苛立ちへと姿を変え、それでも結局、彼女を前にすると憎むことさえできず、ただどうしようもなく愛しいと思ってしまう自分がひどく情けなかった。

毛布に包まれたセラ嬢は再び瞼を閉じたけど、胸に抱いたうさぎだけを唯一の拠り所にするように、小さく身体を丸めていた。
その姿を見つめながら、僕は窓の外へ視線を向ける。
夜の闇はどこまでも深く、馬車は街道を静かに走り続けていた。

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