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アストリアを出た日の夜更け、馬車は中部のエーデル地方へと到着し、私達は駅の近くに用意された宿舎で一夜を明かすことになった。
一人部屋を与えられたことには少しだけ安堵したものの、扉の外へ出れば見張り役の騎士の方が立ち、窓から外を覗けば、そこにも警備の騎士の姿がある。
逃がさないためなのだとわかり、胸の奥がより苦しくなった。
皆の顔を思い浮かべるたびに涙が溢れ、声を殺して泣き続ける夜はあまりにも長く心細かった。
それでも時間だけは止まることなく過ぎていき、ほとんど眠れないまま迎えた次の日の朝。
私は総司様に連れられて、帝都行きの列車に乗り込むことになった。
初めて目にする大きな列車も、本来なら胸を弾ませるような景色だったのかもしれない。
でも今の私には、そんな余裕は少しもない。
窓の外を流れていく見知らぬ街並みや広大な景色を眺めれば眺めるほど、自分が故郷から遠く離れていくことだけがはっきりと実感できてしまう。
この先に待つ運命への不安だけが、静かに心を覆っていくようだった。
列車の個室には私と総司様しかいない。
怖くて、できるだけ関わりたくなくて、昨日から必要最低限の会話しかしていない中。
胸の中で膨らみ続ける不安に一人で耐えていると、総司様の方から声をかけてこられた。
「帝都に着いてからのことだけど」
その声は、やっぱり冷たい。
昔の総司とはまるで別人のような素っ気ない響きに、小さく息を飲んでから頷いてみせる。
「まずは皇帝陛下に拝謁して、帰還の報告をするよ。今回の任務が完了したことと、講和条約に基づき、人質を滞りなく帝都まで護送したことを直接お伝えしなければならないからね」
その言葉を聞いて、改めて自分が帝国の人質になったのだという現実を突き付けられる。
そして、その現実がどうしようもなく怖く感じた。
クラウス様はお父様達の前で、私の安全は保証すると仰ってくださっていた。
それでも、それが本当に守られるのかは誰にも分からない。
人質に自由はあるのだろうか。
どこかへ売られてしまうのではないか、牢に閉じ込められるのではないか、それとも身分も意思も関係なく、見知らぬ誰かのもとへ突然嫁がされてしまうのではないかと、不安ばかりが次々に胸に押し寄せてくる。
昨夜は気が動転していて、皆と引き離される悲しみだけで精一杯だったから、自分の行く末について考える余裕はまるでなかった。
けれど朝を迎え、少しだけ冷静さを取り戻した今だからこそ、自分がどれほど危うい立場に置かれているのかを嫌というほど思い知らされる。
膝の上で重ねた両手の指先は、知らないうちに小さく震えていた。
「寒いの?」
不意に掛けられた言葉に、私は思わず目を瞬かせた。
先のことばかり考えてしまっていたせいで、総司様が何を仰ったのかすぐには理解できなかった。
だけど首を横に振ろうとした時、総司様はご自身が羽織っていた薄手のジャケットを脱ぐと、そっと私の肩へ掛けてくれた。
「帝都はアストリアより気温が低いからね。夏の終わりとはいえ、向こうに着けば少し肌寒く感じると思う。それ、羽織ってて」
『ありがとうございます……』
寒かったわけではない。
でもせっかく掛けてくださったご厚意を無下にすることはできず、私は小さく頭を下げた。
昨夜も馬車の中で、眠ってしまった私に毛布を掛けてくださったけど、どうして総司様は気遣ってくださるのだろう。
私の心を容赦なく傷付けることをしたかと思えば、こうして何事もなかったように紳士らしい振る舞いを見せる。
そのどちらが本当の総司様なのか、今の私にはもう分からなかった。
でもきっと、ヴェルメルの大公家で厳しく教育を受けてこられた方だから、女性への気遣いが自然と身に付いているだけなのかもしれない。
そう思いながらちらりと総司様を見上げると、彼は足を組み、そのまま真っ直ぐ私を見つめていた。
「何か気になることや聞きたいことがあるなら、答えられる範囲で答えるけど」
聞きたいことなら沢山ある。
でも自分のこれからのことを総司様の口から語られるのは辛くも感じ、一度開いた口を閉じた。
「何もないの?それともただ単に、僕と話したくないっていうこと?」
予想していなかった言葉を投げつけられて、私は首を横に振る。
その視線はどこか鋭く感じられてしまうから、思わず窓の外に視線逸らしながら口を開いた。
『昨日、クラウス様が私の処遇はこれから決定されると仰っていましたが……本日、皇帝陛下から直々に命が降るのでしょうか?』
私の問いに総司様はすぐには答えず、少しの間、視線を落とす。
まるで頭の中で言葉を選んでいるような沈黙のあと、総司様は説明を始めた。
「最終的な裁可は陛下が下されることになる。ただ、こういう案件は、その場で思いつきのように決められるものじゃない。帝国にも帝国の手続きがあるし、身柄をどう扱うかについても、事前にある程度は方針が定められているはずだよ」
総司様はそこで一度言葉を切ると、私の表情を見つめたまま続けた。
「だからといって、君が今日この場でどこかに引き渡されたり、急に別の場所に連れて行かれたりするようなことは考えなくていいよ。少なくとも、陛下の正式な裁可が下りるまでは、君の身柄は今回の任務責任者である僕が預かることになってるしね」
穏やかな口調で告げられたその言葉は、必要なことだけを簡潔に伝えながらも、それ以上のことは決して踏み込ませないような、見えない壁を感じさせるものだった。
でも、その最後の一言だけが、私の胸に深く引っ掛かる。
『……総司様が、私の身柄を預かってくださるんですか?』
「取り敢えずはね」
『……では、暫くはアルディオン公爵邸でお世話になるということですか?』
「そうだけど」
あまりにもあっさりと返された言葉に、私は目を瞬かせた。
てっきり私は、そのままどこかの収容施設や牢に連れて行かれるものだと思っていた。
だからこそ、その答えは予想とはまるで違っていて、どう受け止めればいいのかわからず黙り込んでしまった。
牢に入れられるよりは、ずっといい。
けれど総司様と同じ屋敷で過ごす日々を思い浮かべるたび、胸は苦しく締め付けられるようだった。
だって、誰よりも大好きだった人が、まるで知らない誰かになってしまったように私の故郷に兵を進め、大切な人達を傷つけ、私を人質としてここまで連れて来た。
その残酷な現実を、私はまだ受け止めきれていない。
悲しみも苦しさも、悔しさも怒りもある。
色々な感情がごちゃ混ぜになっている中で、総司様と一緒にいることは辛かった。
それでも総司様は、少しも表情を和らげることなく、冷え切った眼差しで静かに私を見下ろしている。
その視線を受け止める勇気はなく、私はただ俯くことしかできなかった。
「そんなに分かりやすく困った顔しないでくれる?悪かったね、預かるのが僕で」
はっとして顔を上げた先。
総司様は私をじっと見つめたあと、眉を寄せて、面白くなさそうにそう言った。
『私は、嫌だとは思っていません……』
「気を遣わなくていいよ。君は昔から嘘をつくのが下手だから」
『嘘ではありません』
はっきりとそう告げると、その視線が一瞬だけ重なる。
けれど総司様はすぐに目を逸らしてしまった。
「だったら、その顔は何?」
『総司様だって、昨日からずっと怖い顔をされていますよ』
「僕が?」
『私を預かるのが嫌なのでしょう?総司様こそ、そんなに嫌そうなお顔をされるなら陛下に嫌だとはっきり仰ればいいではないですか』
言い終えてから、自分でもはっと息を呑む。
こんな言い方をするつもりではなかった。
けれど、一度溢れてしまった想いはもう胸の中へ押し戻すことができず、堰を切ったように心の奥から流れ出してしまった。
だって、ここに来たのは私の望みではない。
誰かを困らせたくて来たわけでも、総司様の負担になりたくて来たわけでもない。
その痛みを堪えきれずに見つめ返す私を、総司様はしばらく何も言わず静かに見つめ続け、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「僕が君を預かるのを嫌がってるように見える?」
私が頷くと、総司様は一瞬だけ目を伏せ、困ったように笑った。
けれどその笑みはすぐに消え、また何事もなかったような静かな顔に戻る。
「嫌だからじゃないよ」
その一言に、胸が少しだけ揺れる。
けれど次に続いた言葉は、私の期待を簡単に打ち砕いた。
「君が僕を嫌がってるのがわかるから、それが面倒なだけ」
面倒という言葉も、少し傷付く。
まるで私が総司様を困らせる厄介な存在であるかのような口ぶりで言われてしまうと、どうしてもこの胸は苦しくなった。
「まあ、昨日あれだけのことをしておいて歓迎されるなんて思ってないよ。君が僕と同じ空間にいることすら苦痛なのは当然だろうしね」
『そんなこと……』
「違う?」
静かに問い返されて、私は言葉を失う。
苦痛ではない、と言えば嘘になる。
昨日のことを思い出すだけで胸は締め付けられるし、怖くもある。
だからすぐに否定は出来なかったけど、その沈黙だけで十分だったんだろう。
総司様は冷たく言った。
「ほらね」
そのたった三文字が、どうしてこんなにも寂しく聞こえるんだろう。
私は別に総司様を嫌がっているわけでも嫌っているわけでもない。
そんな単純な想いだけだったら、こんなに苦しい気持ちにはならないのに。
『私といて苦痛なのは、むしろ総司様の方でしょう?』
「なんでそうなるのさ」
『私を見るたびに嫌そうなお顔をされて、責めるようなことばかり仰るからです』
総司様は少しだけ目を閉じると、疲れたように息を吐いた。
「別に、責めてるつもりはないんだけど」
総司様は黙ったまま私を見つめ、それからゆっくりと視線を逸らした。
どうして……こんな悲しい言い合いをしなければならないのだろう。
昔、大好きだった人。
ううん、昔なんかじゃない。
ついこの前まで、私は総司様が大好きだった。
忘れようとしても忘れられず、どれほど時が流れても心の奥から消えてくれない、私にとって誰よりも大切な人。
私の中で総司様は、どんな時だって特別な存在だった。
だけど、私が大好きだった総司様は、もうここにはいない。
目の前にいる総司様は、あまりにも変わってしまわれていて、その穏やかな面影を探そうとすればするほど、胸の奥が静かに痛んでいく。
それでも……昨日のことは決して許せることではないけど、最初に総司様の心を深く傷付けてしまったのは私だということも、ちゃんとわかっていた。
あの舞踏会で、本当は伝えたかったこと。
もしもう一度お会いできたなら、必ず話そうと決めていたこと。
その想いを今こそきちんと伝えなければと思い、私は膝の上でぎゅっと拳を握り締めた。
『総司様は、あの時のことを怒っていらっしゃるんですよね……』
その言葉を聞いて、総司様の瞳が見開かれる。
エメラルドの瞳は僅かに揺れて、その眼差しを目の前に胸が苦しくなるのを感じた。
『あの日……総司様が話を聞いて欲しいとあれだけ私に訴えてくださっていたのに……私は総司様に背を向けてしまいました』
あの日を思い返すたび、胸が苦しくなる。
どうして私は、すぐに総司様のもとに駆け寄れなかったのだろう。
あと少しだけでも早く向かうことができていたなら、今とは違う未来があったのではないかと、何度も何度も考えて後悔を繰り返した。
でも時間は決して巻き戻ることはなく、気付いた時には総司様の心は、もう私の手の届かないほど遠くへ離れてしまっていた。
今では、自分が総司様に抱いている気持ちさえ、うまく言葉にできなくなってしまったけど、あの日の後悔だけは今も胸の奥深くに残り続け、消えることはなかった。
『今になって謝っても遅いとわかっています。ですが、ずっと後悔していました。ずっと謝りたいと思っていました。総司様を傷付けしまって、本当に申し訳ありません』
溢れそうになる涙を必死に堪えながら、私は深く頭を下げてその言葉を口にした。
胸の奥に押し込めようとした涙は私の思いどおりにはなってくれないまま、一筋、また一筋と頬を伝ってしまい、慌てて袖で拭う。
それでも震えは止まらず、ゆっくりと顔を上げると、総司様は私を見つめたまま、眉を深く寄せていた。
怒っているようにも見えた。
けれどそれだけではなく、胸の奥に押し殺してきた苦しみを無理に堪えているような痛々しい険しさがその表情には滲んでいて、私は息を呑む。
「近藤閣下にも聞かれたけどさ、君も僕があの時のことに腹を立てて、復讐をしにきたって思ってるの?」
『そういうわけでは……』
「僕が腹いせに君に何かするかもしれないから、謝っておかないとまずいって思ってるんじゃないの?」
『違います、そういう意味で言ったわけではありません……っ』
「言っておくけど、そんなこと考えてないから。そういう風に思われるのが一番不愉快だし、本気で復讐する気なら昨日の時点で君のことも閣下のことも殺してるよ」
あまりにも淡々と告げられたその言葉に、身体がぞくりと震えた。
その瞳には静かな怒りと拭いきれない失望が宿っているように見えて、私はようやく、自分の言葉が総司様の心を深く傷つけてしまったのだと気づく。
『総司様を怒らせるつもりはありませんでした……。ただ私は、あの時の誤解を解きたかったんです』
「誤解ってなに?誤解じゃないよね。君も閣下も、僕の話を聞かずに切り捨てたのは事実でしょ」
その一言に、私は何も返せなかった。
あの日のあと、総司様のお母様はヴェルメル大公家でご家族とご自身に毒を盛り、そのまま命を絶たれた。
だから私はすぐに手紙を書いた。
せめて謝りたくて、少しでも総司様の力になりたくて、自分にできることはそれしか思いつかなかったから。
でも、先日の舞踏会でその手紙のことを口にした時、総司様ははっきりと嫌悪を滲ませていた。
あの手紙に綴った謝罪も、幼い頃から抱き続けてきた総司様を大切に思う気持ちも、きっとあの頃にはもう、総司様にとっては迷惑でしかなかったんだ。
今さら何を伝えても、もう遅かったのだと知った今、心が余計に苦しくなった。
『申し訳ありません……』
「いや……謝らないでいいよ。この話はもう終わったことだから。今さら蒸し返したところで、何も変わらないでしょ」
『ですが……』
思わず言葉を重ねようとした私を、総司様は静かに制するように首を横に振る。
そして一度だけ目を伏せると、少し間を置いて続けた。
「それに僕も昨日は嫌われる覚悟で君を連れてきたんだ。だから無理に気を遣わなくていいし、僕を避けたいなら好きにすればいいよ。ただ僕が保護している間は君を守る。それが僕の役目だからね」
まるで私との間に一本の線を引き、それ以上踏み込まないと決めてしまったようだった。
総司様はもう、過去を振り返るつもりはないのかもしれない。
あの日のことも、幼い頃の思い出も、私が伝えたかった想いも、すべて胸の奥深くへ閉じ込めてしまわれたのだと、私にはそう思えた。
だからこそ、私を見つめるその眼差しさえ、もう二度と届かない場所から向けられているように感じられ、その穏やかな声が、かえってどうしようもなく悲しかった。
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