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あの後、セラ嬢は再び口を閉ざしてしまった。
まあ、当然だろう。
あんな話をした後で平然と言葉を交わせるほど、僕達の関係は良好じゃない。
僕自身も何を話せばいいのかわからなかったし、無理に言葉を探せば探すほど息苦しさばかりが募っていくようだった。
いっそ、全部打ち明けてしまえたらどれほど楽だろう。
胸の奥で抱え続けてきたこの想いも、君を誰にも渡したくなかったことも、自分の傍に連れて来るためならどんな罪だって背負う覚悟だったことも。
何もかも曝け出してしまえば、このどうしようもない苦しさから少しは解放されるのかもしれない。
けれど、それは決して許されないことだとも理解している。
今でさえ僕を恐れ、必要以上に近づこうとしないのに、僕の想いまで知られてしまえば、彼女は警戒するどころか、本気で拒絶するだろう。
それに今回の講和条約や人質という名目に、僕自身の身勝手な私欲が絡んでいることにもきっと気付かれてしまう。
だからこそ真実だけは、何があっても知られてはいけなかった。
沈黙を乗せたまま列車は走り続け、やがて帝国最大の玄関口であるグランツ中央駅へと到着する。
ホームには僕達の帰還を迎える部隊が既に整列していて、敬礼の中を抜けて馬車に乗り込むと、そのまま皇帝陛下の住まう宮殿に向かった。
宮殿に到着後、僕達は謁見の間に通され、今回の任務が滞りなく完了したことを皇帝陛下に報告する。
ひと通りの報告を終えたところで、陛下はセラ嬢に視線を移された。
「其方がアストリア公爵家の令嬢か」
皇帝陛下は父上の兄君にあたるお方だ。
父上ほど鋭く人を圧する雰囲気はないものの、その眼差しの奥には一国を統べる君主だけが持つ威厳が宿っている。
その視線を真正面から受け止めたセラ嬢は、緊張したように睫毛を震わせたものの、すぐに姿勢を正し、裾を乱すことなく優雅に一礼した。
『お初にお目にかかります。東部連邦アストリア公爵家が娘、セラと申します。このたびは温かくお迎えいただき、誠にありがとうございます。未熟な身ではございますが、どうぞよろしくお願い申し上げます』
「ほう……」
陛下は感心されたように、静かに頷かれた。
僕がセラ嬢をどれほど切望しているのか、その想いはとうに見抜かれている。
そして母の一件以来、僕がアストリア家との接触を一切禁じられてきたことも、陛下はよくご存知だった。
だから、この場では余計なことは何一つ口になさらない。
あくまで皇帝の勅命によって彼女を帝国に迎え入れ、その保護を僕に命じただけ。
誰にも僕の本心を悟らせないよう、細やかに取り計らってくださっていた。
「遠き東部より、よく参った。帝国は其方を歓迎しよう。此度の講和は、両国にとって新たな時代の礎となる。其方の存在もまた、東部と北部を結ぶ懸け橋となることを、私は大いに期待している。アストリアが真に帝国の信頼に応える国であると証明された暁には、其方にも帝国内で相応の地位を授けよう。それまでは帝国の賓客として、この地で穏やかに過ごすがよい」
『そのようなお言葉を賜り、大変光栄に存じます。皆様のご期待に添えますよう、微力ながら誠心誠意努めてまいります』
「そう固くならずともよい。異国の地ゆえ戸惑うこともあろう。困ったことがあれば遠慮なくアルディオン公爵を頼るがよい。彼は我が帝国でも指折りの忠臣であり、何より余の誇るべき甥だからな」
穏やかな笑みを浮かべられた陛下に、セラ嬢はもう一度ゆっくりと頭を下げた。
『もったいないお言葉をありがとうございます。ご厚情に甘えすぎないよう努めますが、もし至らないことがございましたら、その際はどうぞよろしくお願いいたします』
陛下が自然に場を整えてくれたおかげで、この場で僕とセラ嬢の間に特別な事情があると疑う者はいない。
それは本来なら、心から安堵すべきことなんだろう。
でも僕の視線の先にいる彼女の瞳には、かつて僕に向けられていた信頼も、無邪気な好意も、もうどこにも残ってはいなかった。
近い将来、陛下から正式に彼女を僕の第三側室として迎えるよう命じられたら、セラ嬢はどんな表情を浮かべるのだろう。
怯えたように身を強張らせるのか、それとも堪えきれず涙を零しながら拒もうとするのか。
どちらを思い描いても、その未来を与えてしまうのは他ならぬ僕だ。
セラ嬢を手に入れられるその日を待ち侘びると共に、鈍い痛みも心に走った。
宮殿を後にした僕達は、そのまま帝都東部にある僕の領地に向かった。
先ほどまでぼんやりとしていたセラ嬢は、領内に入った途端、何か興味を惹かれたものでもあったのか、小さく身を乗り出しながら窓の外に熱心に視線を向け始める。
初めて目にする街並みを、一つも見逃すまいとするような真剣な横顔が愛らしくて、僕は彼女ばかりを見つめていた。
そして辿り着いた場所は、久しぶりに帰るアルディオン公爵邸だった。
門前には僕の帰還を迎えるように使用人達が整然と並び、その後ろには正妻と二人の側室達の姿も見える。
その見慣れた光景に、僕は胸の内で小さく息をついた。
彼らが知らされているのは、僕が皇帝陛下の命で東部に赴いていたということだけだ。
和平交渉の詳細も、講和条約が結ばれたことも、そしてセラ嬢を連れて戻ることも、誰一人として知らない。
だからこの場で僕自身が説明しなければならなかった。
「さあ、行こうか」
できるだけ穏やかに声を掛けた。
でもセラ嬢は緊張した面持ちのまま僕を見上げ、その澄んだ瞳をふるりと揺らす。
この屋敷に迎え入れられる自分が、どんな立場になるのか分からないんだろう。
その不安が滲む表情は、少しだけ僕を頼ろうとしているようにも見えて、そんな顔をされると、このまま馬車を降りずにどこか遠くに連れて行ってしまいたくなるから困る。
「大丈夫だよ。ここの当主は僕なんだから。誰も僕の決定には逆らえないし、君は堂々としてればいい」
『……はい。これから、お世話になります』
遠慮がちに返ってきた小さな声に頷くと、僕は馬車の扉を開き、彼女に向かって静かに手を差し伸べた。
細く白い指先が一度躊躇うように宙で止まり、それから覚悟を決めたように、そっと僕の掌に重ねられる。
その小さな手を包み込むように優しく握り返し、不安にさせないように支えると、僕は足元に視線を落とした。
「ゆっくりでいいよ」
彼女は小さく頷き、裾を乱さないよう慎重に一歩を踏み出す。
その歩幅に合わせて僕も身体を寄せ、段差を越えるたびに支える手に自然と力を添えた。
彼女の体温が掌越しに伝わるたび、胸の奥が満たされていく。
本当ならこんな形ではなく、誰よりも幸せそうに笑う君をこの屋敷に迎えたかった。
夢に見ていた未来とはあまりにも違ってしまったけど、それでもこうして彼女が僕の築いた家に足を踏み入れてくれたこの瞬間だけは、何物にも代え難いほど尊く感じられた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
使用人達が一斉に頭を下げる。
でも僕の手を借りながらセラ嬢が馬車から姿を現した途端、一同の空気が一変した。
誰もが息を呑み、信じられないものを見るように彼女を見つめている。
静まり返った広場には、戸惑いだけがゆっくりと広がっていった。
「ただいま」
「……総司、なぜ彼女がいらっしゃるの?」
以前一度だけ顔を合わせている千は、すぐにセラ嬢だと気づいたらしい。
セラ嬢は居心地悪そうに小さく会釈をした。
余計な詮索が始まる前に、僕は皆に報告すべく口を開いた。
「東部との講和が、無事にまとまったんだ。条約の取り決めで、彼女はこれから帝国で暮らすことになる。今後の処遇については陛下がお決めになるけど、それまではこの子の身柄を僕が預かるよう仰せつかってね。しばらくはこの屋敷で過ごしてもらうことになるから、そのつもりで接してあげてほしい」
僕がそっとセラ嬢に視線を向けると、その意味を察したんだろう。
彼女は小さく息を整え、僕の手から静かに離れると、皆の方に向き直り一礼した。
『東部のアストリアから参りました、セラと申します。これからしばらくの間、お世話になります。どうぞよろしくお願いいたします』
鈴を転がすような澄んだ声が、静まり返ったに広場に響いていく。
その可憐な立ち居振る舞いに、一度、時が止まったようだった。
でも屋敷の者達の殆どが、彼女を歓迎してはいなかった。
千は表情こそ崩さなかったものの、感情の読めない瞳でセラ嬢を見つめたまま口を閉ざしている。
一方、第一側室のニコラはあからさまに不機嫌そうに眉を寄せ、第二側室であるリーシェも値踏みするような冷たい眼差しを向けている。
三人とも、セラ嬢がこの屋敷に迎え入れられたことを快く思っていないのは一目で分かる態度だった。
その冷えた空気とは対照的に、執事長は目を見開き、公爵領に留まっていた護衛騎士達も皆思わず息を呑んでいた。
思わず見惚れた様子の若い騎士の一人は頬を赤くし、その周りの騎士や従者達も吸い寄せられるように彼女を見つめてしまっている。
その様子に気づいたニコラが、苛立った様子で僕に話しかけてきた。
「ねえ、総司様。しばらくって……一体いつまでなんですか?」
「それはまだわからないよ。陛下はアストリアが信頼に値する同盟国であると証明されたら、彼女にも帝国内で相応の地位を与えると仰っていたけど、それがいつになるのかは今後の両国次第だからね」
「つまり、そちらの方は客人として迎えられたわけではなく、東部が帝国を裏切らないための人質ということですね。故郷の動向ひとつで彼女の立場は容易に覆りますし、最悪の場合は処分の対象になっても不思議ではありませんもの」
リーシェが瞳を細めながら納得したように呟くと、使用人達の間にも小さなどよめきが広がった。
東部が皇帝陛下から幾度となく示された講和の申し出を頑なに退け続けてきたことは、この帝国では誰もが知る事実だ。
そんな東部の一国が突如として講和を受け入れ、その交渉役を務めた僕が公爵令嬢を伴って帰国したとなれば、この場にいる者たちが事情を察するのは難しいことじゃない。
この講和が一人の令嬢を代償として成り立ったものであることくらいは、皆はもう理解していた。
「ふふ、あれほど強気に出ていた東部も、結局は大切なものを握られれば従うしかなかったということですね」
「東部も随分威勢が良かったようですが、最後は案外あっけないものですな」
「公爵閣下のお働き、お見事でございます。東部もさすがにご令嬢を人質に捕らえてしまえば強情を張ることはできなかったのでしょう」
交わされる言葉には東部を嘲る響きはあっても、セラ嬢を一人の少女として気遣う色はどこにもない。
その反応は、すべて予想どおりだった。
胸の奥では苛立ちが燻るけど、その感情を表に出すわけにはいかない。
ここで僕が少しでもセラ嬢を庇えば、僕の本心を勘繰る者も出てくるかもしれないからだ。
そうなれば嫉妬も敵意も、今以上に彼女に向けられてしまう。
だから僕は何も訂正せず、ただ静かにその場を見渡した。
今の僕にできることは、彼女を特別な存在として扱うことじゃない。
東部との講和を支える重要な身柄として預かっていると思わせておく方が、彼女をいずれ側室に迎える時のことを考えても、何かと都合が良かった。
「ですが、どうして総司様がその子をこちらにお連れにならなければならなかったんですか?他の方では駄目だったんですか?」
ニコラが、隠そうともせず不満を滲ませた高い声で問いかけてくる。
皇帝からの命だと告げても、こんな馬鹿げた質問をしてくるところは相変わらずだった。
「今回の任務責任者は僕だからね。そのまま引き続き、この子の身柄も僕が預かるよう陛下から仰せつかっただけだよ」
「でも、アルディオン公爵家じゃなくても、帝都の離宮や別の家でもいいじゃないですか」
「これは陛下がお決めになったことだよ。僕に陛下の命を断る権限はないし、君も帝国民として理解してね」
「理解はしていますよ。でも、総司様がお可哀想でニコラは見ていられません。なぜ成果をあげたのに、厄介ごとまで引き受けなければならないんですか?こんな子がいても、ただのお荷物にしかならないのに」
「ニコラ、もうやめなさい」
見兼ねた千がニコラに声を掛けると、ようやく言葉を止めたニコラは、子どものように頬を膨らませながら不満げに視線を逸らした。
そのあからさまな態度に内心うんざりしていると、今度はそれまで静かに成り行きを見守っていたリーシェが、ゆるやかに唇を綻ばせ冷淡な声音で口を開いた。
「陛下は、いざという時にためらいなく始末できるよう、わざわざ旦那様へお任せになったのよ。講和を結んだとはいえ、東部をそう簡単に信用することはできませんもの。この方だっていつ帝国に仇なす行動へ出るか分かりませんし、その時には情けを掛けることなく裁きを下さなければなりませんわ。その時になって情に流されるような者では困りますから、迷いなく首を刎ねられる旦那様こそ、見張り役としてこれ以上ないお方だと陛下がお考えになったのでしょう」
僕は帝国最強の剣として、その名を北部一帯へ轟かせてきた。
敵国の将を幾度となく討ち取り、皇帝陛下の命とあれば処刑人として剣を振るい、戦場では死を運ぶ存在として恐れられ、いつしか「帝国の死神」とまで囁かれるようになった。
僕の手によってその生涯を終えた者がどれほどいるのか、それは帝国の内外を問わず、誰もが知る紛れもない事実だった。
だからこそ、リーシェがそう考えるのも無理はない。
実際、その場にいた者達は誰一人として違和感を抱くことなく頷き、先ほどまで不満げだったニコラでさえ、「そういうことでしたのね」と納得したように口元を緩めていた。
「ですからセラ嬢も、妙なお考えはお持ちにならないことですわ。もし帝国に牙を剥けば、その瞬間に旦那様の剣が貴女に向けられることになりますもの」
穏やかな笑みを崩さないまま告げられたその言葉に、セラ嬢の肩がぴくりと震えた。
大きな瞳が揺れ、不安そうにリーシェを見つめ返す。
その表情は、まるで自分の置かれた立場を改めて思い知らされたかのように心細く見えた。
それでも彼女は取り乱すことなく、小さく息を整えると、胸の前で両手を重ね、ゆっくりと頭を下げる。
『はい。私は講和条約を結んでいただいたことに感謝しております。東部と北部が争わずに済むのであれば、それが私の望みでもありますから、そのお気持ちを裏切るようなことは決していたしません』
柔らかく紡がれたその声には、真っ直ぐな誠実さが宿っていた。
リーシェはその返答に満足そうに口元を綻ばせる。
「そのお言葉を伺えて安心いたしましたわ。どうかそのお気持ちを、これからも忘れずにいてくださいませ」
『はい』
セラ嬢はもう一度小さく頷き、控えめに微笑んだ。
その慎ましい姿に、その場にいた使用人達も満足気な眼差しを向ける一方で、僕の中には苛立ちが広がっていく。
彼女が不安を押し隠しながら礼を尽くし、従順であろうと振る舞う姿を目の当たりにすると、その誠実さにまで試すような言葉を重ねる必要があったのかと、胸の内で歯噛みするのは当たり前だった。
でもこれまでの僕は、誰か一人を守るために言葉を挟んだことなんて一度もない。
目の前にいる三人の奥方に対してさえ、必要以上に気遣いを見せることなく、常に一定の距離を保ち続けてきた僕が、この場で突然セラ嬢の味方をするような素振りを見せれば、余計な詮索を招くのは火を見るより明らかだった。
でも、その代償としてセラ嬢の胸に刻まれてしまったのは、僕という人間は、いざとなれば何の躊躇いもなく彼女の命さえ奪える男なんだという印象だろう。
もともと彼女にとって僕は、自分を脅し、この帝国に連れてきた張本人だ。
そんな僕の言葉や振る舞いに優しさを見いだせるはずもなく、帝国に仇なす者であれば情けを掛けることなく剣を振るう男だと、そう思われても仕方がない。
そして、その冷たい刃がいつか自分へ向けられる日が来るかもしれないという恐怖まで、彼女に抱かせてしまったのではないだろうか。
それでもその誤解を解くことも、安心させる言葉を掛けることも今の僕には許されず、込み上げる痛みを誰にも悟られないよう胸の奥に押し込めることしかできなかった。
すると、その重苦しい沈黙を和らげるように、執事長が静かに一歩前へ進み出た。
「旦那様、セラ様のお部屋はどちらにご案内いたしましょうか?」
「せっかく遠路はるばるお越しくださったんだもん。四階の角部屋なら、静かで人の出入りも少ないし、ゆっくりお過ごしいただけると思うわ。セラ嬢には、あのお部屋が一番お似合いなんじゃない?」
ニコラは、いかにも相手を気遣っているかのような笑みを浮かべながら、間髪入れずに執事長にそう告げた。
だけど四階の角部屋と聞くと、その場にいた使用人たちの何人かが口元を押さえ、小さくほくそ笑む。
その部屋が長らく物置同然に扱われ、日当たりも悪く、客人を迎え入れるには到底相応しいとは言えない、屋敷の中で最も粗末な一室であることを知っているからこその反応だった。
その陰湿な空気は、どこかヴェルメルにいた頃の光景を思い出させる。
表面では微笑みを浮かべながら、見えないところで一人を貶めようとする視線や囁き。
その醜さが、まるで思い出したくもない幼少期を見せられているようだった。
僕が領地や公務で屋敷を空けることが多かったせいだろう。
気づけばアルディオン公爵家にも、こんなくだらない優越感を楽しむ者たちが多数紛れ込んでいたらしい。
もっとも、今の僕にはそんな連中を一人ひとり咎めている時間も、それに割く心の余裕もない。
何より優先すべきなのは、隣に立つセラ嬢をこれ以上傷つけないことだった。
「かしこまりました。では、四階の角部屋へ」
「その必要はないよ」
執事長の言葉を静かに遮ると、広間にいた全員の視線が一斉に僕へ集まる。
「セラ嬢の部屋は僕が決める。迎え入れた客人をどこへ住まわせるかは、公爵である僕が判断することだ。君たちは余計な詮索をせず、それぞれの務めを果たせばいいよ」
短くそう告げると、執事長はすぐに頭を下げた。
ニコラや使用人達は不服そうな顔をしていたけど、僕は気にも留めずにセラ嬢に話しかけた。
「じゃあ行こうか。部屋まで案内するよ」
『よろしくお願いします』
本当なら、セラ嬢には本城ではなく、敷地の奥に建設を進めている別邸で暮らしてもらうつもりだった。
その計画を立てたのは、今から一年半ほど前。
彼女を必ず迎え入れると決めたあの日から、少しずつ準備を進めてきた。
もちろん、別邸を建てている本来の目的を知っている者は多くない。
今の時点でその用途を知っているのは、兄と相馬、武田、三木、龍之介というごく限られた者達だけだ。
それ以外の屋敷の住人や職人には、皇族や外国使節を迎えるための迎賓用の別邸を建設するとだけ説明してきた。
だから誰一人として、その館が最初からセラ嬢のために用意された住まいだとは思っていなかった。
でも、北部は雪に閉ざされる期間が長い。
冬の雪のせいで工事は幾度となく中断を余儀なくされ、完成は予定より遅れてしまっていた。
一年半もの歳月を費やしながら、あと少しというところで間に合わなかったことだけが悔やまれる。
敷地内とはいえ生活の場を分けた方が余計な軋轢も生まれにくいし、何より彼女も周囲の視線を気にせず穏やかに過ごせると思っていたからこそ、もどかしかった。
それでも工事を急がせようとは思わなかったのは、彼女が暮らす場所だけは妥協したくなかったからだ。
部屋に差し込む陽の向き、庭から見える景色、冬でも暖かく過ごせる暖炉の位置まで、僕自身が何度も図面を見直した。
家具も完成が近づくにつれて少しずつ運び入れているし、店先で彼女のイメージに合いそうなものを見つけるたび、彼女の笑顔を思い浮かべながら一つずつ選んできた。
そして出来上がりつつあるセラ嬢のための別邸は、完成まであと僅かというところまで仕上がってきていた。
だから完成するまでは、本城で最も格式高い迎賓客室を使ってもらうしかない。
王族や諸外国の賓客を迎えるためだけに設えられた、南向きの大きな窓から庭園を一望できる角部屋で、陽光と静寂に包まれたこの城でも指折りの一室だ。
僕は迷うことなく長い回廊を進み、重厚な彫刻が施された白樫の扉の前で足を止めると、静かに鍵を開けた。
「君には、今日からここで生活してもらうよ」
そう声を掛けながら中に促すと、後ろから続いたセラ嬢は部屋へ一歩足を踏み入れた途端、はっきりとわかるほど大きく瞳を見開いた。
東部に向かう前、少しでも彼女が落ち着いて暮らせる部屋にしたくて、この客室には僕自身の手で何度も手を加えた。
壁掛けや調度品の色合いを冷たさの感じない温かい雰囲気の物に替え、窓辺には彼女に似合いそうだと思った白百合と淡い青薔薇を飾らせた。
殺風景だったキャビネットやベッドの上には、小さな飾りを置いてみたりもした。
その中で僕が一番気に入っているのは、一体だけ飾られているテディベアだった。
本来なら別邸に置くはずだったものだけど、このぬいぐるみだけは一足先に彼女に見て貰いたくてこの部屋に置くことにした。
使用人達には「近いうちに客人を迎える」とだけ伝え、僕が留守の間も花を絶やさず、部屋の空気まで気を配るよう念を押しておいたおかげだろう。
数週間ぶりに訪れた室内は、僕が発つ前と何一つ変わらない美しさを保っていた。
セラ嬢は部屋をゆっくり見渡しながら歩みを進めると、不意に何かへ吸い寄せられるように足を進める。
その視線の先には、ベッドの上に腰掛けさせておいた一体のテディベアだった。
『わあ……』
思わず零れたような小さな声に、僕はそっと口元を緩める。
そのテディベアは北部でも限られた工房しか作ることのできない有名な工房店の逸品で、一年に数体しか世に出回らない幻の品と呼ばれるものだった。
最高級のシルクを幾重にも織り込んだ純白の毛並みは雪よりも柔らかく、通常は琥珀を用いる瞳には、職人に頼んで小さなサファイアを嵌めてもらっている。
澄み切った青は、初めて彼女を見たあの日、その瞳に映っていた色とよく似ていた。
茶色いテディベアの方が一般的で人気も高いのは知っている。
それでも僕はどうしても白が良かった。
彼女には、雪のように穢れのない白の方が似合うと思ったから。
セラ嬢は大切な宝物に触れるみたいに両手でそっと抱き上げると、その愛らしい顔にようやく柔らかな笑みを咲かせた。
その微笑みは決して僕へ向けられたものではないけど、それでも構わなかった。
彼女が少しでも安心してくれたのなら、この部屋を気に入ってくれたのなら、それだけで十分だった。
失われた信頼を一日で取り戻せるはずがないことくらい、僕が一番よく知っている。
だから今は、この小さな笑顔を壊さないよう静かに見守っていよう。
そう思いながら、僕は白いテディベアを抱きしめて嬉しそうに微笑むセラ嬢の姿を見つめ続けていた。
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