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総司様について歩いていくと、案内されたのは三階にあるお部屋だった。
先程、第一側室のニコラ様がお話しされていたお部屋とは違うみたいだけど、あの時の公爵家の皆様が浮かべていたどこか含みのある笑顔を思い出すと、胸の奥が少しだけ痛くなる。
歓迎されていないことくらい、最初からわかっていた。
他所様のお屋敷に身を寄せる立場なのだから、贅沢を言うつもりもないし、不満を抱く資格もない。
それでも、あまりにもはっきりと距離を置かれてしまうと、心が小さく縮こまってしまいそうだった。
だから何も期待しないようにしながら部屋に足を踏み入れたけど、目の前に広がった光景に思わず息を呑んでしまう。
大きな南向きの窓からは柔らかな陽射しが惜しみなく降り注ぎ、窓辺には百合や薔薇が美しく飾られていて、優しい花の香りが部屋いっぱいに漂っている。
白を基調とした調度品はどれも可愛らしく気品があり、広さもアストリアにあった私の部屋よりずっと広い。
このアルディオン公爵邸の中でも、とても大切なお客様を迎えるためのお部屋なのだろうということは、一目見ただけでわかった。
その中でも私の視線を真っ先に奪ったのは、大きなベッドの上にちょこんと座る一体のテディベアだった。
まるで雪から生まれてきたように真っ白な毛並みをしていて、アイスブルーの丸い瞳は澄みきったサファイアみたいにきらきらと輝いている。
昔からぬいぐるみを集めることが好きだったけど、こんなにも愛らしい子を見るのは初めてで、気付けば吸い寄せられるようにその子の前まで歩いていた。
『わあ……』
そっと抱き上げてみると、真っ白な毛並みは想像していた以上にふわふわで柔らかく、思わず頬を寄せたくなるほど心地良い。
くりっとした丸い目も、小さなお鼻も、少しだけ上がった口元も、本当に可愛らしくて、その優しい表情を見つめているだけで、この二日間に起きた悲しい出来事さえ、少しだけ忘れられるような気がした。
けれど夢中になり過ぎてしまっていたことに気付き、はっと我に返って左側を見る。
すると扉にもたれ掛かるように立っていた総司様が、何も言わずに私の様子を見つめていた。
『あ、ごめんなさい。つい……』
慌ててテディベアを元の場所に戻し、総司様のところへ向かおうとすると、それより先に総司様が私の方に歩いてきてくださった。
『とても素敵なお部屋、ありがとうございます。本当にこのお部屋をお借りしてしまっても宜しいのですか?』
「勿論いいよ。気に入ってくれた?」
『はい、とても。窓の外から綺麗な庭園も見られますし、それになんだかいい香りもします。窓辺の百合や薔薇の香りでしょうか』
窓に目を向けると、少しだけ開けられた隙間から風が優しく吹き込み、庭園いっぱいに咲く花々の甘い香りを運んできてくれる。
その穏やかな風に包まれていると、不安でいっぱいだった心まで少しずつ解けていくような気がした。
「セラ嬢は昔から花が好きだったでしょ。だからこの部屋が一番君向きかなって思ったんだよね」
その言葉に、思わず息を呑んだ。
だって総司様は、ただ良いお部屋を用意してくださったわけじゃなかった。
私がお花を好きだったことまで、ちゃんと覚えていてくださったんだ。
もうとっくに忘れられてしまっていると思っていたのに、昔の私を、好きだったものを、今でも変わらず心のどこかに残してくださっていた。
その事実がどうしようもなく嬉しく感じてしまったから、気付けば胸の奥が熱くなり、潤みそうになる瞳を見られたくなくて、私は総司様に背を向け近くの窓辺に歩み寄った。
窓から見下ろしたアルディオン公爵邸は、想像していた以上に壮麗だった。
白亜の館を囲む広大な庭園には季節ごとの花々が美しく咲き誇り、丁寧に刈り込まれた生け垣の向こうには噴水が陽の光を受けてきらきらと輝いている。
そのさらに先には広い中庭や訓練場が整然と並び、騎士の方々が規律正しく鍛錬に励む姿まで見渡すことができた。
館の外に視線を向ければ、緑豊かな街並みが広がり、人々が穏やかに暮らす様子がとても小さく見える。
こんなにも美しく、豊かで、多くの人達の笑顔が守られている場所を、今は総司様がお一人で治めている。
お母様やご家族を失うという耐え難い悲しみを乗り越え、それでも前を向いて、この広大な領地と領民を守り続けているのだと思うと、尊敬の気持ちが込み上げ、思わずまた涙が滲みそうになった。
そういえば列車でアルディオン領に入った時も、この景色がすべて総司様の守っている場所なんだと思った途端、私は時間も忘れて夢中で窓の外を眺め続けていた。
どこまでも続く街並みも、人々の暮らしも、そのすべてが総司様の歩んできた人生の証のように思えて、目を離すことができなかった。
もし私達が昔のまま、何も変わらず仲睦まじく過ごせていたなら。
あの日交わした約束どおり、総司様が私を迎えに来てくださって、この景色を隣で笑いながら見せてくださっていたなら、私はどれほど幸せだっただろう。
そんな叶うはずのない未来を思い描いてしまえば、苦しくなるだけだとわかっている。
私が大好きだった総司様と、目の前の総司様はもう違うのだから。
私は小さく息をついてその想いを胸の奥へしまい込み、後ろに立つ総司様の方を振り返った。
『ありがとうございます。とても私好みのお部屋です。景色はもちろん、調度品も、壁紙も、それから……あそこのテディベアも、とても可愛いです』
「それなら良かったよ」
『まさかこんな素敵なお部屋に通していただけるなんて考えてもいなかったので、とても驚いてしまいました』
「なんかその言い方だと、僕が君に粗末な部屋を与えるつもりだったみたいだね」
『違いますよ。総司様がではなくて……私は、今朝アルディオンでお世話になると伺うまでは、てっきり牢屋か収容所のような場所で暮らすことになると思っていましたから』
思ったままを素直に口にすると、再会してからほとんど表情を変えなかった総司様が、僅かに目を見開かれた。
「え?そんなことを考えてたの?」
『はい。だって私は人質ですし、もう自由はないのだと思っていました』
そう答えた途端、総司様は何もおっしゃらなくなってしまったから、私は慌てて言葉を重ねた。
『あの、でも……このお部屋でも規則はきちんと守ります。色々と決まり事があると思いますので、教えていただければ、その通りに致します。総司様やお屋敷の皆さまに、できるだけご迷惑をお掛けしないよう努めますので』
このお部屋があまりにも素敵で、私が自分の立場を忘れてしまったと思われるのだけは嫌だった。
帝国にいる私は講和条約の証であり、東部を背負ってここへ来た人質でもある。
私の振る舞い一つで東部への印象が少しでも良くなるのなら、大切な人達のためにも、精一杯努めていきたい。
そんな小さな決意を胸に、私は真っ直ぐ総司様を見上げた。
けれど総司様は、やっぱり何もおっしゃらない。
どこか眉を寄せて考え込んでいるようにも見えて、私がまた何かお気に障ることを言ってしまったのではないかと、不安で胸元の手をぎゅっと握り締める。
すると総司様は静かに部屋の中を歩くと、ベッドの上に置かれていたあの真っ白なテディベアをそっと抱き上げ、私の前まで戻ってくると、優しくその子を差し出してくれた。
「はい」
『あ……ありがとうございます』
首を傾げながらも、その子を受け取る。
総司様は私と腕の中のテディベアを見比べるように眺めると、ほんの少しだけ口元を和らげた。
「やっぱり、同じだね」
『同じ?』
「瞳の色だよ」
そう言われて改めて腕の中の子を見つめると、澄み切ったアイスブルーの瞳は、本当に私の瞳とよく似ていた。
胸の奥が温かくなって顔を上げると、総司様は相変わらず無表情のままだったけど、列車にいる時よりかは優しい眼差しで私を見つめてくださっていた。
「これ、気に入ったならあげるよ」
『え?でも……』
「この部屋を出ることになっても、一緒に連れて行けばいいよ」
その一言に、今日の謁見で皇帝陛下がお話しされた言葉が静かによみがえる。
講和条約をアストリアが誠実に守り、帝国から十分な信頼を得られた時、私の帝国での身の置き方が正式に定められる、と。
その意味を考えれば考えるほど、私はもう帝国の外から出ることはできないのだと改めて胸の奥に重く沈んでいく。
東部に戻る未来も、幼い頃から思い描いていた幸せも、きっともう私には訪れない。
皇帝陛下がお決めになる私の行く末は、一体どのようなものなのだろう。
帝国のどこかの貴族に嫁ぐことになるのか、それとも帝国に忠誠を誓う家に身を預けられ、講和の象徴として生涯を送ることになるのか。
どのような形であっても、それは私自身が選ぶ未来ではなく、帝国が東部との平和を守るために与える役目なのだろうと思う。
列車の中で、アルディオン公爵邸に身を寄せることになると聞いた時は、不安で胸がいっぱいだったし、今もこれから始まる毎日を思えば心配は尽きない。
それでも、こうして温かい部屋があって、昔のような関係には戻れなくても、総司様が近くにいてくださる。
もしここを離れ、誰一人知る人のいない場所に嫁ぐ日が来るのだと想像してしまえば、今はこの部屋を出るその日の方が怖く思えてしまった。
腕の中の真っ白なテディベアをそっと抱き締めながら、私は溢れそうになる様々な想いを胸にしまい込み、小さく微笑んだ。
『ありがとう……ございます』
総司様に冷たくされると、とても悲しい。
けれど、こうして優しくしていただけると、その悲しみはもっと深く胸に染み込んでしまう。
些細な優しさに触れるたび、忘れようとしても忘れられない幼い頃の記憶が、鮮やかなまま心の奥から溢れ出してしまうからだった。
見上げた先にある澄んだ瞳も、男の人にしては少し高くて穏やかな声も、あの頃の総司様と何一つ変わっていない。
それなのに、私達を取り巻く現実だけは、残酷なくらい変わってしまった。
もう私は、無邪気に総司様の隣で笑っていられた頃の私ではない。
今の私は東部からの人質で、総司様はそんな私を監視するこの領地の当主様。
その事実だけは、どうやっても変わらない現実だった。
「隊長、いらっしゃいますか?」
不意に扉が控えめに叩かれ、外から男の人の声が聞こえてくる。
総司様が扉を開けると、そこには昨日少しだけお話しした相馬卿が立っていた。
「相馬、どうしたの?」
「先程仰っていた荷物をお持ち致しました」
相馬卿が抱えていたのは、私がアストリアから持ってきた生形の箱と、うさぎのぬいぐるみだった。
両方とも大切なものだから自然と足が動き、私は相馬卿のもとに歩み寄った。
『相馬卿、運んで頂きありがとうございます』
「お気になさらないでください。長旅、お疲れ様でした」
穏やかに微笑んでくださるその表情に、私も自然と笑みがこぼれた。
『相馬卿こそ、ずっとお馬で移動されていらっしゃいましたよね。お疲れではありませんか?』
「俺は馬に乗るのが好きですから。むしろ長く走っているほうが落ち着くくらいですよ」
『ふふ、そうなのですね。私も乗馬のお稽古は受けておりましたけど、遠くまで馬で移動したことはなくて……まだ少し怖いと思ってしまうんです』
「最初は皆そうですよ。でも慣れてしまえば景色も風も気持ちよくて、自分まで風になったみたいな気分になれるんですよ」
『風になったような?』
その言葉を想像しただけで、確かにとても気持ち良さそう。
広い草原を気持ち良さそうに駆け抜ける馬に乗った自分を想像して、瞳を細めた。
『とても素敵ですね。私もいつかそんな景色を見てみたいです』
「でしたら、城の騎士団訓練場の隣に広い馬場がありますよ。機会があれば、俺がお教えしますよ」
『え?教えてくださるんですか?』
「もちろんです」
『わあ、嬉しいです。ありがとうございます』
柔らかな笑顔で頷いてくださる相馬卿は、不思議なくらい話しやすかった。
昨日初めてお会いしたばかりとは思えないほど自然に言葉を交わせて、気を張らずに笑うことができる。
でも彼との穏やかな時間に癒されていた、その時だった。
相馬卿の笑顔がぴたりと固まり、みるみるうちに顔色が青ざめていく。
どうなさったのだろうと思いながらその視線を追い、ゆっくり右を向くと。
腕を組んだ総司様が、静かな笑みを浮かべながら私達を見下ろしていた。
その笑顔は穏やかなはずなのに、瞳だけは少しも笑っていなくて、部屋の空気がぴんと張り詰めるような視線に思わず背中が冷たくなる。
「……話は終わった?」
「は、はい!終わりました!」
「そう。じゃあ、荷物貸して」
「はい!」
相馬卿は慌てて私の荷物を総司様に手渡し、深く一礼すると足早に部屋を後にした。
扉が閉まる音がやけに大きく響き、部屋には私と総司様だけが残される。
先ほどまでの穏やかな空気は跡形もなく消え去り、私は恐る恐る総司様を見上げた。
『あの……申し訳ありません』
「え?」
『先ほどは嬉しくて、つい乗馬のお話までしてしまいましたけど……私の立場で、そのようなことをお願いできるはずがないことは、ちゃんとわかっています』
ずっと不思議だった。
どうして皇帝陛下は、かつて互いの母親が関わった事件によって婚約破棄にまで至った私達を、あえて同じ屋敷で暮らすよう命じられたのだろうって。
けれど先ほど、第二側室のリーシェ様のお話を聞いてしまえば、その疑問も自然と腑に落ちてしまう。
いざという時、ためらうことなく始末できるように。
だからこそ、私のことを総司様に託されたのだと。
そんな考えはあまりにも怖くて、本当は信じたくない。
それでも今回の出来事を目の当たりにした今では、否定することができなかった。
総司様は、必要であれば迷うことなく人を斬れる方だ。
以前は友人として笑い合い、一緒に剣を交えていた伊庭君や平助君にも容赦なく刃を向け、そのうえ伊庭君の命までも講和条約を結ぶための材料として利用した。
もちろん、素敵なお部屋を用意してくださったことには感謝している。
けれど、それだけで安心してはいけない。
窓から見える綺麗な景色も調度品も、この行き届いたもてなしさえ、すべて何か意味があって与えられているものなのではないかと思うと、胸の奥には小さな警戒心が静かに芽生えていった。
「いや、乗馬はしたければしてもいいよ。でも怪我でもしたら大変でしょ。君のことは僕が陛下から任されているんだし、乗るなら僕が付き添うよ」
『え?総司様が、ご一緒してくださるのですか?』
「うん」
まるで当然のことのように頷かれて、私は思わず目を見開いた。
てっきり私が乗馬なんて浮かれたことを考えていたから腹を立てていたのかと思っていたけど、それは私の想い過ごしだったのかな。
でも公爵邸に身を寄せているだけの私が、奥様方のいらっしゃる旦那様に乗馬を教えていただくなんて、そんなお願いができるはずもない。
ただでさえ快く思われていないのに、そのようなことをお願いしてしまえば、余計なお気持ちを抱かせてしまうだけだろう。
そう思うと申し訳なさが込み上げ、私は静かに首を横へ振った。
『いいえ、お気持ちだけで十分です。今はまず、この屋敷での暮らしに慣れることが先だと思っています。それから少しずつ、帝国のことを学んでいきたいです』
「それならいいけど、いつか乗ってみたくなったら遠慮なく言って」
『はい。ありがとうございます』
それきり会話は途切れ、部屋には静かな沈黙が流れた。
気まずいというより、お互いに何を話せばいいのかわからない、そんな空気だった。
でもそれも無理はない。
私達の間には、簡単には埋められないほど多くの出来事が積み重なってしまっているのだから。
しばらくして総司様は表情を少し改めると、ここで暮らすうえで守ってほしい決まりごとを一つずつ説明してくださった。
この部屋では自由に過ごして構わないこと。
けれど部屋の外に出る時は、必ず廊下で待機している侍女に声を掛け、一人で屋敷の中を歩き回らないこと。
食事は毎回一階の食堂で取ることになっていて、その時間になると侍女が迎えに来るということ。
部屋へ食事を運ぶことも不可能ではないそうだけど、帝国は私を東部から迎えた客人として遇している以上、終日部屋へ閉じこもらせているように見えてしまえば、公爵家の評判だけでなく東部との関係にも余計な憶測を招きかねないため、そのような形は避けたいのだと説明を受けた。
さらに当面の間は、私個人で手紙をやり取りすることも許されないらしい。
帝国やアルディオン公爵家の情報が外に漏れる可能性を防ぐための措置であり、それもまた当然のことなのだろう。
私は静かに頷き、総司様を見上げた。
『承知いたしました。皆様にご迷惑をおかけしないよう、お約束は必ず守ります』
「うん、よろしく。僕は仕事で屋敷を空けることが多いと思うけど、なるべく夜には戻るようにするから、何か困ったことがあればすぐ知らせて」
『はい。ありがとうございます』
そう答えて小さく頭を下げると、総司様は僅かに微笑みを返してくださった。
その笑顔は少しぎこちなくて、私も以前までのような気持ちで見つめ返すことはできない。
胸の奥に生まれてしまった小さな警戒心を抱きながら、アルディオン公爵家での日々が始まっていった。
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