4
その日の夜、夕食の時間を知らせる声を受けて食堂へ向かうと、広々とした食卓にはすでに千様、ニコラ様、リーシェ様、そして総司様がお揃いになっていた。
『お待たせしてしまい、申し訳ありません』
小さく頭を下げて急ぎ足で席に向かい、静かに椅子に腰を下ろす。
膝の上にナプキンを広げた時、周囲で控えている使用人の方々の気配が自然と意識に入り、少しだけ落ち着かない気持ちになった。
アストリアのお屋敷では、食事は家族水入らずの時間として大切にされていた。
もちろん呼び鈴を鳴らせばすぐに使用人の方が来てくださるけど、食卓のそばで控え続けることは滅多になく、誰にも気兼ねせず笑い合いながら過ごすのが我が家では当たり前だった。
貴族としては、少しくだけた習慣だったのかもしれない。
それでも私は、あの温かい食卓が大好きだった。
だからこそアルディオン公爵家のお屋敷で過ごす時間は、どこか肩に力が入ってしまう。
しかもご夫人方と総司様というご家族の輪の中に、私だけが人質という立場で加わっているのだと思うと、目の前に並ぶ美しい料理でさえ、なかなか喉を通ってはくれなかった。
「でも総司が皆と夕食を摂るなんて、本当に久しぶりよね」
千様がそう仰ると、真っ先に反応したのはニコラ様だった。
「本当!四ヶ月ぶりくらいですよね、総司様」
「そこまで正確には覚えてないけど。まあ、久しぶりなのは確かかな」
「お仕事がお忙しいのは存じていますけれど、それでもお顔が見られない日が続くとやっぱり寂しいものですわ」
そのやり取りを邪魔しないよう、私は静かに食事を進める。
目立たないように、音を立てないように。
そう思いながらラディッシュにフォークを伸ばした時だった。
「聞いてくださいよ、総司様。リーシェ様ったら、また愛人を増やされたんですよ」
思わず、手が止まった。
私の聞き間違えかもしれないとも思った。
でも誰一人驚いた様子はなく、当たり前のように会話は続いていく。
「へえ、そうなんだ」
「増えてなんていないですよ。一人とはお別れしただけです。今は新しく知り合った画家の方をお招きしているだけですわ」
「リーシェは男性をお屋敷に招きすぎよ。周りから見たら、私たちまで同じように思われちゃうわ」
「そうですよ。ニコラなんて一途に、総司様だけをお待ちしているんですよ。いつ来て頂いても大丈夫なように、常にお肌はスベスベなんですから!」
「私もお慕いしているのは総司様だけですわ。でも女性は、美しさを保つ努力も必要でしょう?殿方に褒めていただけるからこそ磨かれるものもありますもの。総司様に満足していただけるよう、私も常に女を磨いているんです」
「何でもいいけど」
総司様はスープに視線を落としたまま、小さく息をついた。
「僕も暇じゃないからね。久しぶりだからって執務室や自室にまで押しかけてくるのだけは勘弁して」
ご夫婦の間の会話を聞いて、私はただ、言葉を失っていた。
少なくとも、お父様とお母様がこんなお話をされている姿なんて、一度も見たことがない。
もし、お母様に愛人ができたなんてことになれば、お父様はきっと泣いてしまうだろう。
けれど北部では、側室や愛人を持つことは珍しくないと耳にしたことがある。
総司様のお父様にも奥様が三人いらっしゃったし、この土地ではごく自然なことなのかもしれない。
文化が違えば夫婦の形も違うのは当たり前だ。
「でも、セラ嬢はお寂しいでしょうね」
不意に話が振られて、私は顔を上げる。
ニコラ様はにこやかな笑みを浮かべたまま私を見つめていた。
「人質としてこちらへいらして、明日からはお屋敷に閉じ込められる毎日なんでしょう?いくら男の人が恋しくなったとしても、総司様だけには手を出さないでくださいね」
可愛らしく小首を傾げて言われた言葉に、食卓が一度だけ静まり返る。
私は驚きに目を丸くしたものの、そんなことを言われるとは夢にも思わなかった。
それに少なからず、以前の私は総司様に想いを寄せていた。
もちろん今は違うけど、その名前を恋心と結び付けられただけで、胸の奥がかすかに脈打ってしまう自分が情けなかった。
それでも表情だけは崩さないよう努め、小さく微笑む。
『もちろん、そのようなことは決してございません。私は人質としてお預かりいただいている身ですから、その立場を忘れるようなことはいたしません』
「あら、本当にそうかしら?」
今度はリーシェ様が頬杖をつくように指先を口元へ添え、どこか私を試すような笑みを浮かべた。
「頻繁に総司様のお顔を見ていたら、情が移ってしまうことだってあるでしょう?」
「それに総司様はお優しいですし、お顔も良いですし」
ニコラ様も甘えるような可愛いらしい声で続ける。
「傍にいたら好きになってしまう女の子なんてたくさんいると思いますよ?帝国中に総司様のことが好きな女の子が溢れてるって言うのに、セラ嬢だけは違うって本当に言い切れるんですか?」
お二人とも笑っているけど、その笑みには明らかな牽制が滲んでいた。
先ほどまで総司様の一言一言に頬を染め、嬉しそうに笑い、少しでも気を引こうと競い合うように話していた姿を見れば分かる。
この方々にとって総司様は特別で、誰にも譲りたくない大切な存在なんだ。
だからこそ突然現れた私という異物を警戒し、少しでもその可能性を摘んでおきたいのかもしれない。
彼女達の気持ちもわかるからこそ、その視線を受けるたび、胸の奥が苦しくなるようだった。
『私は本当に、そのようなお気持ちは抱きません』
静かに答えると、千様がナプキンで口元を拭いながら、あっさりと言った。
「とは言っても、人の気持ちはどうしようもないわよね。自分でもどうにもできないものだもの。今彼女にあれこれ言ったところで、意味がないんじゃないかしら?」
その口調には責める響きも、庇う響きもない。
ただ事実を口にしただけという、淡々とした物言いのように聞こえた。
「でもでも、総司様を好きになったりしたらニコラは怒りますからね!」
「それに人は我慢ばかりでは生きていけないものですわ。こちらには若い騎士も大勢いるもの。セラ嬢も、そのうち誰かに慰めてもらいたくなる日が来るかもしれないですわね」
突然そんなことを言われ、私は思わず目を瞬かせた。
するとリーシェ様は、まるで名案でも思いついたように口元を緩める。
「もし寂しくなったら、私が男性を紹介して差し上げましょうか?画家でも商人でも騎士でも、このお屋敷には出入りしている殿方がたくさんいるもの。どのような方がお好み?」
『そのようなお気遣いはどうか、お気になさらないでください』
「まあ、どうして?」
『私には、そのようなことを考える余裕はございません。これから帝国のことも色々学んでいかなければならないですし』
「随分と真面目ですこと」
「それとも、純粋なふりをなさっているの?そういうことには興味がないように見せかけているだけだったりして」
精一杯穏やかにお返事をしても、すぐ次の言葉が飛んできてしまう。
逃げ場を探すように視線を伏せていると、ニコラ様がさらに身を乗り出した。
「ねえねえ。セラ嬢は、男性とはどのくらいご経験がおありなんですか?」
経験、と言われても。
お付き合いしたと言える方は、今まで総司様だけだった。
薫様とは幼い頃から親しくしていただいたけど、それは恋人というより、大切なお友達の延長のような関係。
婚約の約束をした後だって、手を繋いだことはあってもそれ以上のことは当たり前だけど何もなかった。
総司様とだって、まだお互い幼かったあの頃、そっと唇が触れ合ったことがあるだけだった。
淡く胸に残る思い出が不意に蘇り、思わず総司様へ視線を向けてしまう。
けれど、ちょうどこちらを見ていた総司様と目が合った瞬間、慌てて逸らしたものの頬がみるみる熱くなっていった。
「あら?セラ嬢ったら、お顔が真っ赤ですよ?」
ニコラ様は吹き出すように笑うと、リーシェ様もくすくす笑った。
「何を思い出したんですか?そんなに赤くなるなんて、よほど人には言えないことでも考えてしまいました?もしかして……」
その言葉が終わるより先に、静かな食堂に、硬質な音が小さく響く。
総司様が手にしていたグラスを静かに卓へ置き、そのまま二人へ冷ややかな視線を向けた。
「あのさ。その辺でやめてくれる?その子にそんな話を聞く必要ないでしょ」
「ですがニコラは心配なんです。総司様に妙な気を起こされたら困りますもん」
「そうですわ。突然この方が公爵邸へ来ることになったなんて、私達は今日まで何一つ聞かされていなかったんですもの」
総司様は肩を竦めるように小さく息を吐いた。
「だからって、人質相手に寄ってたかって詮索していい理由にはならないよ」
「総司の言う通りよ。あまり度が過ぎれば、アルディオン公爵家そのものの品位を疑われるわ」
穏やかな声なのに、二人の言葉には有無を言わせない重みがあった。
ニコラ様もリーシェ様も、それ以上は何も返さず、それぞれ黙って食事へ視線を落とす。
しばらく流れた静寂のあと、千様がさらりと言った。
「それに、彼女は皇帝陛下のご命令でここへ迎えられた大切なお客様よ。講和条約を支える役割を担っているのだか
ら、いくら手の早い総司でも軽率な真似はできないわ。女遊びなら、わざわざ屋敷内じゃなく外でしてくるでしょうし」
その言葉を聞いて、総司様は眉を寄せながら呆れたように笑った。
「……昔の話をいつまで引っ張るつもり?僕は結婚してから女遊びなんてしてないよ」
「本当かしら」
「そもそも、そんな暇もないよ」
総司様は淡々と続ける。
「騎士団の仕事に、公爵家当主として処理しなきゃいけない案件が毎日山積みで、そのうえ皇帝陛下直属の極秘任務まで抱えてる。地方視察も軍の演習も報告書も全部僕のところへ回ってくるんだ。屋敷で眠る時間さえ惜しいくらいなのに、外で遊ぶ余裕がどこにあるのさ。君だって、そのくらい知ってるでしょ」
「忙しいことは知ってるわ。でも、あなたが公爵邸ひほとんど戻らないのも事実でしょう?外で何をしてるかなんて、実際のところはわからないもの」
そのやり取りは夫婦の会話というより、互いを探るような静かな応酬だった。
ニコラ様もリーシェ様も口を挟まず、ただ黙って食事を続けている。
広い食堂には食器の触れ合う音だけが響き、同じ食卓を囲んでいるはずなのに、そこには温かな家族の団欒とは程遠い空気が流れていた。
そして私は、その会話とは別のことで胸がざわついていた。
総司様は女性関係が派手だという噂を、以前友人たちから耳にしたことがある。
初めて聞いた時は悲しくて泣いてしまったけど、今はよう驚くことも悲しむこともないはずだった。
それでも、こうして本人たちの会話を聞いてしまうと、胸の奥が小さく曇るような、言葉にならないもやもやが静かに広がっていく。
「これからは、できるだけ屋敷へ戻るようにするよ。この一年半は今回の任務の準備がずっと続いていて、本当に余裕がなかったからさ。でも計画は無事に終わったし、ようやく少しは落ち着けると思うよ」
総司様は疲れたように小さく息を吐きながらそう仰った。
今回の講和条約は綿密に準備されていたのだろうとは思っていたけど、一年半も前から進められていた計画だったなんて。
それなら総司様は、私が人質として帝国へ連れて来られることも、その頃にはもう知っていらしたのだろうか。
その長い時間の中で、一度でも私のことを思い出してくださったことはあったのだろうか。
少しでも胸を痛めてくださっていたのだろうか。
そんなことばかり考えてしまい、私はそっと唇を噛み締める。
「とは言っても、昼間は相変わらず城を空けることが多いと思うけどね」
総司様の声をぼんやり聞きながら昨日までの出来事や、変わってしまった総司様のことを考え続けていると、不意に誰かの視線を感じた。
顔を上げると、総司様がこちらを見つめている。
「僕がいない時に何か困ったことがあったら、千に相談して」
その声は事務的で、特別な感情など何一つ感じられない。
思わず千様へ視線を向けると、彼女は落ち着いた笑みを浮かべた。
「この屋敷のことは私が預かっているわ。何か困ったことがあれば遠慮せず私に言ってね」
『ありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします』
そう頭を下げながらも、総司様のあまりにもよそよそしい態度が胸に残り、小さな痛みだけが静かに広がっていくようだった。
ページ:
トップページへ