5

その日の夜、執務室で山のように積まれた書類に目を通していた僕は、ふと手を止めた。
計画も無事に終わりようやく落ち着いた筈なのに、今夜は全然集中できそうにない。
椅子から立ち上がり窓辺まで歩み寄ると、その気配に気付いた相馬が書類をまとめながら小さく笑った。


「お疲れさまです。今夜はこのくらいになさって、少し休みませんか?」


そう言って戸棚を開けると、磨き上げられたクリスタルのデキャンタに琥珀色のウイスキーを静かに注ぎ、棚から取り出した重厚なロックグラスにゆっくりと満たしていく。
淡い琥珀色は室内のランプに照らされ、熟成された芳醇な香りが静かな執務室に広がった。


「そうだね。そうしようかな」


グラスを受け取りながら、僕は再び窓の外に視線を向ける。
ぼんやり眺めていると、隣に並んだ相馬がグラスを差し出しながら話しかけてきた。


「無事、計画通りに事が運んで良かったですね。それにセラ様も昨日よりずいぶん顔色が良くなりました」

「そう?」

「はい。昨晩、ぬいぐるみを馬車までお届けした時は泣いていらっしゃいましたから。かなり思い詰めたご様子でしたので、俺も心配していたんです」


やっぱり泣いていたんだ。
まあ……当たり前だよね。
突然家族や故郷から引き離され、敵国に人質として連れて来られたんだ。
きっと今も不安で心細い夜を過ごしているんだろう。


「ですが、今日は笑っていらっしゃるお顔も拝見できましたから良かったですよ」


相馬が嬉しそうにそう言うものだから、昼間の光景が自然と思い浮かぶ。
僕は思わず目を細め、面白くない気持ちで相馬を睨んだ。


「セラ嬢と、ずいぶん仲良くなったみたいだね」

「いえ、そんなことはありませんよ。まだ、それほど言葉も交わしておりませんし」

「ふうん?」


僕はグラスを軽く揺らしながら、不機嫌な声で言った。


「君にはずいぶん嬉しそうに笑ってたじゃない。僕にはあんな顔、全然見せてくれないのにね」

「そうなんですか?」

「そうだよ。少し笑ってくれたとしても、無理をしてるのが分かるし。礼儀として微笑んでくれてるだけで、本心で笑ってくれてるわけじゃないって感じ」


テディベアを見つめていた時は嬉しそうに見えたけど、それだけだ。
僕を目の前にすると、その瞳は不安そうに揺らいでいることが多い。


「僕はもう、あの子の自然な笑顔を見ることはできないのかな」


自嘲するように呟くと、相馬はウイスキーを口に運ぶ手を止め、何も言わず僕を見つめていた。

出会った頃のセラ嬢は、本当によく笑う子だった。
庭園を歩くだけでも嬉しそうに微笑み、僕が少し冗談を言えば鈴の鳴るような笑い声を響かせてくれた。
その笑顔を見るたびに胸が温かくなって、守りたいと思った。
彼女がこれからも何不自由なく笑って暮らせるように、その笑顔だけは曇らせたくないと、本気で願っていた。

……それなのに。
時が流れ、僕は自分の願いばかりを優先し、彼女を手放したくないという身勝手な想いの果てに、その笑顔を奪ってしまった。
怯えさせ、泣かせ、彼女の幸せを奪っておきながら、それでもなお昔のように笑ってほしいと願ってしまうんだから、本当に救いようがない。
ようやく手を伸ばせば届く距離に彼女を迎えることはできたのに、僕の心だけは満たされるどころか、以前にも増して苦しさを募らせていた。
しかも今日の食事では、夫人や側室達の不用意な言葉まで重なり、セラ嬢はきっと僕という人間にさらに悪い印象を抱いただろう。
近づけば近づくほど、彼女の心は遠ざかっていく現実を思い知らされるたび、胸の奥で燻り続ける想いは行き場を失っていくようだった。


「そんなことはありませんよ」


やがて相馬は、穏やかに微笑んでグラスを置いた。


「笑顔は無理に取り戻すものではありません。信頼が戻れば、自然と戻ってくるものです。隊長は焦る必要なんてありません」


僕は黙って相馬の横顔を見つめる。


「今のセラ様は、突然すべてを失ったばかりです。不安から隊長を警戒してしまうのも当然でしょう。でも、それでも隊長は今日一日、セラ様が少しでも安心して過ごせるよう気遣っておられました。その積み重ねは、決して無駄にはなりません。一歩ずつ歩み寄ればいいんです。昨日より今日、今日より明日。その小さな積み重ねが、いつかきっとセラ様の心に届きますよ」


相馬とこうして言葉を交わしていると、不思議と心が静まっていく。
控えめで出しゃばることはないのに、いつだって前向きで、僕自身ですら上手く言葉にできない感情を自然と拾い上げ、そっと背中を押してくれる。
昔は僕が支える側だったはずなのに、気付けば最近は、慰められているのはいつも僕の方だ。
そんな自分を情けなく思うけど、その心地よさについ甘えてしまう自分がいて、僕は苦笑を浮かべながら相馬に視線を向けた。


「ありがとう。じゃあ相馬は僕を応援する立場なんだから、あんまりセラ嬢と仲良くなり過ぎたら駄目だよ」


冗談めかして言うと、相馬は困ったように笑った。


「もちろんですよ。今日の昼間は、本当に怖かったです」

「怖かった?」

「はい。隊長、笑っていらっしゃいましたけど……あれは笑顔じゃありませんでした。完全に怒っている人の顔でしたよ」


思わず笑いながらも、僕は肩を竦める。


「だってさ。セラ嬢、僕のことはあんなに怯えた目で見上げるのに、相馬とは楽しそうに話してるんだよ。あれを見せつけられて、面白くないと思わない方が無理でしょ」


拗ねたように言えば、相馬は呆れたように息をついた。


「だからといって、あそこまで顔に出してしまっては駄目です。隊長はセラ様に怖がられたくないんでしょう?」

「それは……そうなんだけどさ。もう手遅れっていうか……昨日の夜、アストリアでは結構暴れちゃったからね。多分、相当怖がられてると思う」

「俺と伊吹が騎士団を制圧している間、隊長は何をされていたんですか?」


僕はグラスを見つめながら、静かに口を開いた。
庭園から逃げようとしていたセラ嬢を追い掛けたこと。
彼女を逃がさないため、護衛たちを容赦なく斬り伏せたこと。
そして講和条約を受け入れさせるため、彼らの命を盾に取り、近藤閣下とセラ嬢を追い詰めたこと。
淡々と語り終えると、相馬はしばらく何も言えず、ただ目を見開いたまま固まっていた。 


「それは……また、随分えげつないやり方をしましたね」

「そうするしかなかったんだよ。近藤閣下が自分の意思でセラ嬢を手放すはずがないことくらい、最初から分かってたし。時間をかけて援軍が到着して、すべてが失敗に終わることだけは絶対に避けなければならなかったならね」


あの場で迷う余裕なんて、一瞬たりともなかった。
僕には最初から優先順位があった。
何よりも優先すべきだったのは、どんな手段を使ってでもセラ嬢をアルディオンに連れて来ること。
彼女さえここまで連れて来られれば、あとは側室として迎える日を待つだけになる。
そうなれば、もう誰にも引き離されない。
もう、何年も胸の奥で燻り続けてきたこの焦燥とも決別できる。
彼女に手を伸ばすことも、この手で触れることも、ようやく許される。
そんな未来だけを見据えて、僕はあの日、剣を振るった。


「確かに、作戦を失敗させるわけにはいきませんでしたからね。ですが、そのことはセラ様に、きちんと謝られたんですか?」

「謝ってないけど」


即答すると、相馬は意外そうに目を瞬かせた。


「え……そうなんですか?」

「謝りたい気持ちはあるよ。でもさ、全部こうなるって分かっていて、自分で選んだことなんだ。後になってごめんなんて言うのは、何か違う気がしてね」


グラスの中で揺れる琥珀色を見つめながら、静かに言葉を紡ぐ。


「それって結局、自分が少しでも楽になりたいから謝るだけじゃない?許してもらえたら救われるかもしれないって、そんな期待を押し付けるだけの謝罪だと思うんだ」


本当に彼女を想うなら。
本当に彼女の幸せだけを願うなら。
そもそも、あんなことはしない。
護衛を傷つけることも、家族から引き離すことも、泣かせることだって全部、自分の欲望を優先した結果だ。
その事実だけは、どれだけ綺麗な言葉を並べても覆せない。
だからこそ、僕は謝ることが出来なかった。
それにきっとセラ嬢だって、そんな謝罪は望んでいない。
僕自身、以前の事件のことをセラ嬢や近藤閣下から今さら謝られたとしても、素直に受け入れられたとは思えない。
謝罪の言葉一つで消える傷なんてないからだ。
失った時間も、流した涙も、元には戻らない。
だから僕は、この件だけは軽々しくごめんと口にするつもりはなかった。
許されなくても背負い続けることこそが、僕にできる唯一の償いなのだと思っていた。


「でも、そのかわりセラ嬢を無事側室に迎えることができたら、その時はできる限り幸せにしたいとは思ってるよ」


そう口にしながらも、その願いが彼女にとってどれほど残酷なものなのかは、僕自身が誰よりもよくわかっていた。
僕の側室になるという時点で、セラ嬢は決してそれを幸福とは思わないだろう。
愛する家族や祖国を離れ、望まない形で迎えられるのだから、それは当然のことだ。

それでも、せめて彼女が少しでも穏やかに暮らせる場所だけは用意したかった。
いま建設を進めている別邸には、幼い頃の彼女が目を輝かせながら語ってくれた彼女の好きなものを、一つひとつ思い返して詰め込んでいる。

本に囲まれて一日を過ごせるよう、天井まで書架が並ぶ大きな図書館。
四季折々の花々を一年中育てられる、彼女専用の温室。
庭園の散歩が好きだった彼女のために、小川や東屋を配した広い庭園も造らせていた。
音楽室には、磨き上げられたグランドピアノと上質なヴァイオリンを用意し、楽譜庫には国内外から集めた譜面を並べる予定だ。
絵を描くことも好きだったから、自然光がたっぷり差し込むアトリエも設けることにしたし、お茶を楽しめる小さなサロンや、刺繍や読書を静かに楽しめる談話室まで考えている。

そして、一番こだわったのは最上階に続く大きなバルコニーだった。
街の灯りが視界に入りすぎないよう建物の向きを調整し、手すりには細い装飾を採用して空を遮らない造りにしている。
周囲より少し高い位置にせり出した構造にすることで、夜になれば頭上いっぱいに星空が広がり、幼い頃に二人で見上げたあの日のように、誰にも邪魔されず夜空を眺められる場所になるはずだった。

昔約束したように、僕は彼女だけの旦那にはなれない。
まして、正妻として迎えることなど叶わない。
それでも、僕が心から想う相手は、今も昔もセラ嬢ただ一人だった。
だから彼女を迎えに行く計画が決まったあの日から、僕は他の女性と遊ぶこともなく、政略結婚で迎えた三人の妻とも夫婦としての関係を持つことは一度もなかった。
世間では「白い結婚」と呼ばれる形なのだろう。
その意向は結婚前から三人へ正直に伝え、了承を得た上でのことだった。


「早く、その日が来るといいですね」

「そうだね」


そう答えながら窓の外へ視線を向けていると、相馬が不思議そうに僕の横顔を覗き込んだ。


「先程から、何をご覧になっているのですか?」

「ん?セラ嬢の寝室」

「え?」

「ほら、あそこ」


僕が指差すと、相馬は窓際に歩み寄り、視線の先を追う。
執務室は本城西の四階にあり、セラ嬢の客室は東の三階へ配置されている。
中庭を挟んで向かい合っているものの、高さが一階分違うおかげで、こちらからは彼女の寝室を斜め上から見下ろすような角度になる。
そのため室内の様子を確認できる一方、向こうからこちらを見上げても、屋根の張り出しと窓枠が視界を遮るため、この執務室の中までは見えない造りになっていた。


「この部屋の方が高い位置にあるからね。セラ嬢が窓際に立っても、この部屋を見つけることはまずできないよ」

「まさか……そのために、あの部屋を?」

「うん。あの子は今、家族も祖国も離れて不安しかない状況だからね。思い詰めてられて変な気を起こしてしまわないか、それだけが心配なんだ。何か異変があればすぐ駆け付けられるようにしておきたかっただけだよ」


相馬は僕の顔を見つめると、ようやく納得したように小さく息を吐いた。


「……そういうことでしたか」

「それにカーテンも少し工夫してあるんだ」

「工夫……ですか?」

「もともとは厚手の遮光カーテンとレースカーテンの二重だったけど、両方とも外したんだよね。それで昼間でも外から中が見えやすくて、室内から外は見えにくい特殊なレースカーテンに替えてあるんだ」

「では、セラ嬢からは……」

「レースを開けない限り、外の様子はほとんど見えない。だからこちらから見守っていても、あの子が僕の視線に気付くことはないよ」


それは監視ではなく、あくまでも万が一に備えるためだった。
彼女が泣いていても、眠れずに夜を明かしていても、それは見守るしかない。
けれど、本当に危険なことだけは絶対に止めたい。
今僕にできることは、それくらいしか残されていないから。


「ですが……隊長。これは立派な覗き見ですよね」

「まあ、そうだね。でもいいじゃない。別に浴室を覗いてるわけじゃないし、見られるのもベッドの周辺だけだしね。ちゃんと眠れてるか見届けたいだけだよ」

「隊長のセラ様への想いがどれほど深いかはよくわかりました。若干やり過ぎな気もしますが」

「大丈夫だよ。この執務室以外からは見えないから」

「そういう問題でもない気がします」


僕の返事に、相馬は深いため息を一つついたあと、小さく笑った。


「そんなに気になるのでしたら、今から会いに行かれてみたらどうですか?」


その一言に思わず目を見開いたものの、すぐに苦く笑って首を横に振る。


「無理だよ。こんな夜更けに部屋を訪ねたりしたら、余計に警戒されるだけでしょ」

「もちろん部屋に入れとは言いません。廊下で少し言葉を交わすだけで十分です。必要なものはありませんか、とか、何かお困りではありませんか、とか……そういう他愛ない話でいいんですよ」

「そんなことをしたって、皇帝陛下に任されたから気にかけてるんだ、くらいにしか思わないよ。あの子、そういうところ本当に鈍感だから」

「それでもです。何年も、会いたくても会えなかったんですよね。姿を見ることすら叶わなかったのに今は同じ屋敷にいて、隊長が一歩踏み出せば会える距離にいるんです。その奇跡みたいな時間を、怖いからという理由だけで何もしないまま終わらせてしまうんですか?」


穏やかな口調だったのに、その言葉だけは妙に胸に響いた。


「隊長はこれまで、どんな修羅場でも退かなかったじゃないですか。命を懸ける覚悟なら誰よりも持っている人です。それなのに今怖がっているのは、嫌われることですよね」


相馬の言う通りだったからこそ、返す言葉が見つからなかった。
セラ嬢をもう諦めるしかないと、自暴自棄になっていた頃の僕なら、こんなことで迷いはしなかっただろう。
たとえ拒まれると分かっていても、それでも一目会いたいという気持ちだけで、迷わず彼女の部屋へ向かっていたはずだ。

でも、今は違う。
会いたいという想いと同じくらい、いや、それ以上に、彼女に怯えた目で見られることが怖かった。
部屋を訪ね、扉が開き、僕の姿を見た瞬間に表情を曇らせたり、一歩後ずさったりされたら。
その光景を想像するだけで、剣を握る時には感じたことのない弱さが胸を締めつける。
そんな僕の迷いを見透かしたように、相馬は窓の向こうに視線を向けた。


「ほら、セラ様も、もうお休みになりますよ」


さっきまで机に向かい、アストリアから持ってきた小箱を一つひとつ丁寧に整理していたセラ嬢は、それを大切そうに棚に戻し、静かに椅子から立ち上がっていた。
ベッドに腰掛けると、真っ白なテディベアとうさぎのぬいぐるみを両腕に抱き寄せ、小さな子どものように優しく頭を撫でている。
その様子を見ているだけで、胸が温かくなると同時に、苦しくもなる。

確かに、今なら行ける。
でも……


「……今夜は、いいや」


そう呟くと、相馬は呆れたように肩を落とした。


「隊長は……本当にセラ様のことになると急にヘタレになりますね」

「はい?今、ヘタレって言った?」

「言いましたよ」


きっぱりと言い切られ、思わず眉をひそめる。
相馬は苦笑しながらも、その瞳だけは真剣だった。


「俺の知っている隊長は、どんな相手にも臆せず、迷わず前に進める方です。剣を振るう勇気だけじゃありません。傷つく覚悟を決める強さも、隊長の強さだったはずです。セラ様が隊長を許してくださるかどうかは、誰にも分かりません。でも何もしなければ、その距離は今日のままです。隊長はこの先もずっと、あの時会いに行けばよかったと後悔しながら過ごされるんですか?」


その問いに、僕は息を呑んだ。
後悔という言葉ほど、僕の心を抉るものはなかった。
あの事件があった日、もっと上手く立ち回れなかったのだろうかという後悔。
何年も想いを伝えられなかった後悔。
そして今、この距離まで来ておきながら、自分の弱さのせいで何もできずに終わる後悔。
そんなものだけは、もう二度と抱えたくない。
僕は静かに息を吐き、窓の外に見えるセラ嬢の部屋をもう一度見つめた。


「……そうだね」


怖くないわけじゃない。
より嫌われるかもしれないし、怯えられるかもしれない。
それでも、それは彼女が傷ついてきた証なのだから、受け止めるのは僕の役目だ。
逃げていい理由にはならない。


「相馬」

「はい」

「少しだけ、行ってくる」


その一言を口にした時、不思議なくらい胸のつかえが消えていた。
相馬は嬉しそうに微笑み、大きく頷く。


「行ってらっしゃいませ。きっとセラ様にも、隊長のそのお気持ちは伝わりますよ」


僕は苦笑しながら羽織を整え、静かに部屋を出る。
深夜の廊下は驚くほど静まり返っていたけど、不思議と足取りだけは迷わなかった。


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