6
アルディオンで迎える最初の夜。
昨夜からあまりにも多くのことが起こりすぎて、心だけがその流れに取り残されたまま、私はまだ自分が本当にこの国へ来てしまったのだという実感を持てずにいた。
寝支度を終えると、私はそっとアストリアから大切に持ってきた箱を机の上に置き蓋を開ける。
そこには、私がこれまで歩んできた日々が大切に閉じ込められていた。
十七歳のお誕生日に薫様からいただいたポストカード。
千鶴様が皆に声をかけて作ってくださった寄せ書き。
お父様とお母様からいただいたたくさんのお手紙に、お母様が「いつかあなたのお庭に咲かせてね」と微笑みながら託してくださった、代々受け継がれてきた花の種。
そして、はじめが渡してくれた護身術の手引書も、大切な思い出と一緒に丁寧にしまわれている。
もちろん総司様からいただいたお手紙や贈り物も、一つ残らず大事に収められていた。
『懐かしいな……』
小さく呟きながら、一つひとつを指先で撫でていく。
最近は新しい思い出をこの箱にしまうことはあっても、こうして中身をゆっくり眺めることはほとんどなかった。
箱の奥には、私の日記帳もそのまま残っている。
お母様が亡くなられてからは、開くことさえ少なくなり、学院に通い始めてからは毎日に追われて、いつしか書く習慣も途切れてしまっていた。
最後に綴ったのは、総司様に送ったお手紙の返事がもうこないと悟った日。
その頁を開けば、そこには「十七歳の約束の日まで、私は総司様を待っています」と、幼さの残る私の文字が真っ直ぐに並んでいた。
その文字を見つめていると、胸の奥にしまい込んでいた遠い日の想いが蘇ってくる。
総司様だけを見つめ、ただお会いできる日を信じ続けていた頃の、曇りひとつない恋心。
今の私が抱いている想いとはまるで違う、何も疑わず、何も知らなかった頃の純粋な憧れだった。
できることなら、この想いはあの頃のまま、美しい思い出として胸にしまっておけたらよかったのに。
そんな願いが浮かんでは消えていき、私は静かに日記を閉じた。
『……もう、寝ようかな』
箱の中を見ていると、大切な人達の優しい笑顔ばかりが思い浮かび、泣き出しそうになってしまう。
薫様との婚約の約束も守れないまま、この国に来てしまったことを思うと、申し訳なさが込み上げて、胸が締めつけられるように苦しかった。
これから私はどうなるのだろう。
私にできることは、本当にあるのかな。
そんな答えの見えないことばかりを考えながら、抱き締めたぬいぐるみの頭を優しく撫でていると、不意に部屋の扉が控えめに叩かれた。
『はい』
こんな時間に、誰だろう。
思い浮かぶのは総司様くらいしかいなくて、私は小さく深呼吸をしてから扉に向かう。
けれど、そっと開いた先に立っていたのは、寝間着の上から柔らかなカーディガンを羽織った千様だった。
「夜分遅くにごめんなさい。お部屋から明かりが見えたものだから、まだ起きていらっしゃるのかなと思って」
『千様、こんばんは。まだ起きていたので、お気になさらないでください』
「ありがとう。あなたと少しお話ししたいなと思っていたの。長くは引き止めないから、少しだけお時間をいただいてもいいかしら」
『はい、もちろんです』
「中に入ってもいい?」
『どうぞ』
まさか千様がお越しくださるとは思ってもいなかった私は、緊張を覚えながらも笑顔で扉を開き、お部屋にお迎えする。
彼女はソファーへ腰を下ろすと、部屋の中を見渡していた。
『今、紅茶をお淹れしますね』
「あら、それなら侍女を呼ぶわ」
『いえ、大丈夫です。実は学院で、おもてなしの作法を学ぶ授業があったんです。その時間がとても好きで、紅茶を淹れたりお茶菓子を用意したりすることが、すっかり楽しみになってしまって』
「そうなの?貴族の学院では珍しい授業ね」
『はい。他にも、星学や幾何学などいろいろな授業がありましたよ』
「面白そうだわ。北部では、まだ学院に通う人はそれほど多くなくて、どちらかというと家庭教師を招いて学ぶ家のほうが多いの。生まれ変わったら、私も学院生活を送ってみたいわ」
『きっと楽しいと思います。お友達と一緒に勉強したり、お昼をご一緒したり……毎日が本当に賑やかで忙しくはあったんですけどね』
もう二度と通えないだろう学院生活を懐かしみながら、私は温かいカモミールティーを千様の前にそっと置く。
向かいのソファーに腰を下ろすと、千様は「おいしいわ」と優しく微笑んで紅茶を口に含み、再びゆっくりと部屋の中へ視線を巡らせた。
「このお屋敷に、こんなに女の子らしいお部屋があったかしら」
『言われてみれば、本当にそうですね。私も入った時、とても落ち着く素敵なお部屋だなと思いました』
調度品はもちろん、ベッドカバーやクッション、カーテンに至るまで、どれも淡く優しい色合いで統一されていて、どこかアストリアのお城のお部屋を思わせる温もりがある。
だから初めて訪れた場所なのに、不思議と心が安らいだのかもしれない。
「それに、この子」
そう言って千様は立ち上がると、ベッドのそばに歩み寄り、白いテディベアをそっと抱き上げる。
お尻についている小さなタグに目を向けて、私の方に再び視線を戻した。
「やっぱり。このテディベア、帝国内で今とても人気なのよ。一体ずつプロの職人さんが手作りしていて、年間でもほんの数体しか作られないから、幻のテディベアなんて呼ばれているくらいなの」
『そうだったのですね。どうりで、とても可愛らしいと思いました。白いテディベアを見るのは初めてだったので、最初に見た時は感動してしまって』
抱き締めると、さらさらとした毛並みはまるで上質な絹のようになめらかで、澄んだ青い瞳は宝石のように美しく輝いている。
見れば見るほど愛らしくて、幻と呼ばれる理由が少しだけ分かったような気がした。
「ここのテディベアね、前にニコラが総司にしつこく強請ってたことがあったの。でも総司ったら全然興味を示さなくて、欲しいなら自分で買えばいいでしょ、なんて言っていたのよ。こんなところにあるくらいなら、ニコラにあげればいいのにね」
『そうだったのですね』
「総司は良くも悪くも、人に全く興味がないから、きっとそのことも忘れているのでしょうけど。この子も、どなたかからいただいたものなのかしら」
呆れたように小さくため息をついた千様は、テディベアをベッドに戻した。
私は立ち上がってその子を抱き上げると、千様の前へそっと差し出した。
『この子でしたら、どうぞニコラ様へお渡しになってください』
総司様は、この部屋を出る時には持って行っていいと仰ってくださった。
そのお気持ちは本当に嬉しかった。
でも、これほど貴重なもので、しかもニコラ様が以前から欲しいと仰っていたものを、私がいただいてしまうわけにはいかない。
総司様には、明日きちんと事情をお話しすれば分かっていただけるはず。
そう思っていると、千様は眉尻を下げて首を横に振った。
「いいえ。そのままここに置いておいて構わないわ。ニコラは物欲が人一倍強い子なの。今頃はきっと、テディベアより欲しいものがいくつも増えているはずだから」
少し困ったようにため息をついた千様は、再びソファーに腰を下ろす。
私も向かいに座り直し、湯気の立つカモミールティーをそっと一口含むと、優しい香りが胸の奥までゆっくりと広がっていった。
「今日のお食事の席では、あの二人があなたにいろいろ言ってしまったでしょう?後になってから、もう少しあなたを庇ってあげるべきだったんじゃないかって、ずっと気になっていたの」
『いいえ、千様は謝らないでください。皆様がご心配なさるお気持ちは、私にもよく分かりますから』
「でも、あなたは好きでここへ来たわけではないじゃない。それに……さっき思い出したんだけど、この前の舞踏会で、ルヴァン王国の王太子殿下が来月にはセラ嬢とご婚約なさるご予定だったって私達に教えてくださったの」
あの舞踏会の日。
薫様だけが最後までその場に残り、総司様と千様に何かをお話しされていた姿を思い出す。
あの時、そのことをお二人に伝えていたのかもしれない。
『ご存じだったのですね』
「ええ。あと数日でも婚約が早ければ、こんなことにはならなかったのかもしれないわよね」
その言葉は、私自身が何度も胸の内で繰り返してきた想いでもあった。
もし薫様と正式に婚約を結んでいたら、帝国が私を人質として連れ去ることは、ルヴァン王国だけではなく東部諸国すべてを敵に回すことと変わらない。
そうなれば、講和どころか新たな戦火を招いてしまう可能性さえあっただろう。
だから、もしあと数日でも早く私が薫様の婚約者になっていたなら、ここに来ることもなかったのかもしれない。
そう思うと、運命というものは些細な選択で大きく変わるのだと思わざるを得なかった。
けれど、十七歳のデビュタントを迎えるまでは、自分の将来を決めたくないと願ったのは、ほかでもない私自身だった。
だから今さらあの時こうしていればと過去を悔やんでも、何も変えることはできない。
それなら私は、これから先だけは後悔しないように、一日一日を大切に生きていきたい。
そう思った。
『そうですね。ですが、こうなってしまった以上は、帝国で少しずつでも自分の居場所を見つけていきたいと思っています。その間は、ご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします』
そう言って頭を下げながら、私は自分の置かれた立場を改めて思う。
私が人質として帝国にいる限り、お父様が北部との講和を破ったり、帝国に攻め込んだりすることはきっとない。
いずれ皇帝陛下が私の処遇をお決めになり、その時が来れば私はこの城を離れることになるのだろう。
その日が一か月後なのか、半年後なのか、それとももっと先なのかは分からない。
それでも、それまではここで精一杯生きていこう。
そんな想いを込めて頭を下げると、千様は眉を寄せ、小さく首を振った。
「セラ嬢が頭を下げる必要なんてないわ。あなたも陛下のご命令に従っているだけなのだもの。でもね……一つ、どうしても不思議に思うことがあるの」
『不思議……ですか?』
「こんなことを言っていいのか分からないけれど、あなたのお母様のことは私も知っているから。だから、陛下はどうしてわざわざあなたをアルディオンに預けられたのかしらって、ずっと考えていたの」
その問いに、私も思わず考え込んでしまう。
確かに、その疑問は私も一度ならず抱いたことがあった。
『確かに、それは私も考えました。でも……総司様が一番適任だったのではないでしょうか。先ほどのお食事の席でも、リーシェ様がそのように仰っていましたし』
皇帝陛下は、私と総司様の過去をご存じだったとしても、それを深く気になさらなかっただけなのかもしれない。
それよりも重視されたのは、任務をためらうことなく遂行できる人物かどうか。
今回の件に関わる方々の中で、その条件に最も当てはまると判断されたからこそ、総司様が選ばれたのだろう。
私はそう思っていた。
「本当に、それだけが理由なのかしら」
千様はカップを静かにテーブルに戻すと、紅茶の湯気を眺めながら、どこか考え込むように呟いた。
「そもそも東部からお預かりしたご令嬢を簡単に手をかけることなんてできないと思うの。あなたを連れて来たのは、あくまで講和条約を長く存続させるためでしょう?」
『そうですね。余程のことがない限りは、大丈夫だと信じたいのですけれど……』
そう答えながらも、胸の奥にある不安までは消えてくれなかった。
これから先、私はどうなるのだろう。
何一つ分からない未来を想うたび、心はどうしても揺れてしまう。
しかも、この計画は一年半近くも前から密かに進められていたという。
それほど以前から準備されていたのなら、私の将来についても、すでに皇帝陛下の中では決まっていることがあるのではないだろうか。
そんな考えが浮かぶたび、不安は大きくなっていく。
「セラ嬢は、それでいいの?」
突然の問いに顔を上げると、千様はまっすぐ私を見つめていた。
「恐らくあなたには、陛下から帝国の誰かと結婚するよう勅命が下るわ」
『……やっぱり、そうなのでしょうか』
「きっとね。それが一番自然に、あなたを帝国に繋ぎ留めておける理由になるもの。今日、そのお話は出なかったの?」
『はい。まったくありませんでした。ただ……帝国内での立場を与える、とだけ仰っていて。だから私は、もうアストリアへ戻ることはできないのだと思います』
口にしてしまうと、その事実が改めて胸に重くのしかかる。
もう帰れないという現実が、私の気持ちを暗くさせていた。
「それって、あんまりよね。王太子殿下だって、突然こんなことになって納得できるはずがないわ。婚約のお話を聞かせてもらった時、とても嬉しそうなお顔をしていらしたもの」
その一言で、胸の奥に必死に閉じ込めていた記憶が堰を切ったように溢れ出してしまった。
薫様と笑い合った日々。
落ち込んでいる私を、いつも優しく励ましてくださったこと。
そして緊張した面持ちで真っすぐ私を見つめながら想いを伝えてくださったあの日のこと。
思い出すたびに苦しくなるから、心の一番奥にしまい込んでいたけど、一度溢れてしまった想いは止められず、じわりと滲んだ涙に気付かれないよう、私はそっと千様から視線を逸らした。
『もしかしたらもう二度と会えないかもしれないのに……、最後、誰一人にお別れの挨拶をすることが出来なかったんです。それが一番心残りですが、殿下はちょうど東部を離れていらっしゃいましたから……もしかすると、まだ何もご存じないのかもしれません』
皆に会えないことは悲しい。
これから先の未来も、不安でいっぱいだった。
それでも、一番胸が痛むのは、私のせいで大切な方々が悲しんでしまうこと。
そのことだけは、どうしても耐えられそうになかった。
「それは……辛いわね」
千様の静かな声に、私が小さく頷くことしかできないでいた時。
控えめに、コンコン、と再び部屋の扉が叩かれる。
私と千様は同時に顔を見合わせ、小さく目を瞬かせた。
「こんな時間に、どなたかしら」
『私、出てまいりますね』
私は立ち上がると足早に扉に向かい、静かにドアを開ける。
するとそこに立っていたのは、夕食以来の総司様だった。
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