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驚いて見上げた先の総司様は、廊下の暖色系の灯りのせいか、柔らかい表情を浮かべているように見えた。


『総司様……?』

「夜遅くにごめんね。今、少し話せる?」

『はい、私は大丈夫です。ですが……』


そう言いかけて、私は言葉を止める。
今はお部屋に千様がいらっしゃる。
どうお伝えすればいいのか迷いながら総司様を見上げると、総司様は少しだけ首を傾げ僅かに微笑まれた。
その穏やかな表情は、この国へ来てから一度も見たことがないほど優しく見えてしまう。
まるで昔、アストリアのお庭を二人で歩いていた頃の総司様が、そのまま目の前に戻ってきたようだった。
懐かしさに胸が締めつけられ、気付けば心臓が小さく高鳴ってしまった時。


「総司、どうしたの?彼女に何か用事?」


いつの間にか千様が私の隣まで来ていて、総司様に声を掛ける。
総司様は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたものの、すぐにいつもの感情を読み取らせない笑みを浮かべた。


「……ああ、千か。君こそ、どうしてこの部屋にいるの?」

「セラ嬢と少しお話ししたかったの。今来たばかりよ」

「そう。それなら邪魔したら悪いし、僕はもう仕事に戻るよ」

「何か用事があったんじゃないの?」

「大したことじゃないよ。部屋で不便なことはないか、一応聞いておこうと思っただけ。何か足りない物があれば、明日街へ出るついでに買ってこられるからね」


私を気遣ってここまで来てくれたのかな。
そうだとしたらありがたいけど、その優しさを真っ直ぐ受け取れないまま微笑みを作る。


『お忙しい中、お気遣いくださってありがとうございます。不自由なことは何もありません。それどころか、とても居心地の良いお部屋をご用意していただいて、本当に感謝しています』


人質である私が居心地が良いなんて言ってしまってよかったのか迷いはしたけど、素直な気持ちを言葉にする。
するとそのやり取りを静かに見守っていた千様が、ふと総司様に視線を向けて話しかけた。


「ねえ、総司。セラ嬢のこと、何とかならないのかしら?」

「え?」


総司様は一瞬だけ目を丸くし、本当に何のことか分からないというように千様を見返した。


「今ね、セラ嬢のこれからのことを話していたの。せっかく王太子殿下とのご婚約を控えていらしたのに、このまま好きでもない人に嫁ぐことになったら、あまりにも気の毒でしょう?」


突然自分の話題になり、私は慌てて首を横に振る。


『千様、私は大丈夫ですから……』

「でも、このままなんてあまりにも酷いじゃない。何か方法があればいいんだけど」


その言葉を聞いて、先ほどまで穏やかだった総司様の瞳が、ほんのわずかに細められる。
静かなため息が一つ漏れ、視線を外した総司様は淡々とした口調で答えた。


「方法なんてないよ。これは以前から陛下がお決めになっていたことだからね。そこには政治的な理由もあるし、感情だけでどうにかできる話じゃないよ」


あっさりと言われた言葉に胸が痛んだけど、その言葉は間違っていなかった。
貴族同士の結婚は、家と家を結ぶもの。
政治や国益を第一に考えて相手が決まり、そのあとで互いに情が芽生えれば幸運。
そうでなければ、それもまた貴族として受け入れるしかない。
そんな話を、私は幼い頃から何度も耳にしてきた。
だから総司様が仰っていることは、きっと現実なのだ。


「そんなに冷たい言い方をしなくてもいいじゃない」


少し責めるように千様が言うと、総司様はより苛立たしげに彼女を見据えた。


「別に冷たくしているつもりはないよ。それより君は、セラ嬢にそんな話をするためにここに来たの?」

「違うわ。今日の夕食の席でのことを謝りたかったの。あの子たちの言い方が失礼だったから」

「別に千が気にする必要はないよ。確かにこの子には、僕がいない時は千に相談するよう言ったけど、君のほうから必要以上に関わろうとしなくていいから」


少し鋭くも聞こえる言葉を聞いて、千様は少し眉をひそめた。


「そんなことを言われても、私はこの家の女主人としてこの子を気にかけなければならない立場でしょう?」

「だから、その必要はないって言ってるんだよ。陛下からセラ嬢の世話を任されたのは僕なんだから、君は余計なことはしないでいつも通り過ごしてて。僕の知らないところで勝手な動きをされても困るんだよ」


二人の間に流れる空気が、少しずつ張り詰めていく。
私の立場では何も言えず、ただ不安そうにお二人の顔を見比べることしかできなかった。
千様は苛立たしげに唇を尖らせると、小さく息をついて私たちを見た。


「……あっそう。私は総司の助けになればと思って彼女のフォローをしようと思ってたけど、迷惑だっていうならやめるわ」

「別に迷惑だとは言ってないでしょ。わざわざ面倒事に関わる必要はないってことなんだけど」

「別にいいわよ、総司はいつもなんでも一人で勝手に決めちゃうものね。今回の件だって、私達に何の相談もなく決めて、手伝おうとすれば睨まれて。面倒事に関わる必要はないって言うけど、彼女をこの屋敷に住まわせることにした時点で、もう既に面倒事に巻き込まれてるわ」


その言葉に、私は拳をきつく握る。
総司様も千様の言葉に眉を顰めて、苛立ちを露にした。


「……は?」

「セラ嬢、申し訳ないけどそういうことだから、私はもう行くわね。おやすみなさい」


少しだけつんとした足取りで廊下を歩いていく千様の背中に、私は慌てて声をかける。


『お気遣いくださって、ありがとうございました。おやすみなさい』


その姿が角を曲がって見えなくなると、静まり返った廊下には私と総司様だけが残され、総司様は困り果てたように長いため息を吐き出した。


「ほんと……すぐ怒るから困るよ」


……それは多分、総司様の言い方が少しだけきつく聞こえてしまったからですよね。
千様はああは言っていたけど、先程はきっと本心から私を気にかけてくれていたように感じた。
そう思っても、人質の私がそんなことを口にする資格なんてない気がして、胸の奥にしまい込む。

昔の総司様は、誰に対しても穏やかで、優しく微笑んでくれる方だった。
少しくらい困ったことがあっても笑って受け流してしまうような人だったのに、今は帝国の剣として、そしてアルディオン家の当主として、背負わなければならないものがあまりにも多い。
陛下のお言葉に逆らえないお立場であることも、誰より帝国を支えなければならない責任があることもわかっているから、きっと毎日、いろいろな思いを胸に抱えたまま過ごしていらっしゃるんだろう。
だからこそ、せめてこのお屋敷の中だけは心穏やかに過ごして欲しいと願ってしまう。

でも私が人質としてここにいるから、余計に彼の心労になっているのかもしれない。
そんな考えが胸をよぎると、少しだけ寂しくなってしまった。
それでもこのまま何も言わずにいるよりはと、私は恐る恐る口を開く。


『……総司様』

「ん?」


私は総司様の顔をそっと見上げる。
その表情はまだ少しだけ鋭く見えたから、小さい声で呟くように言った。


『今日は、お疲れなのではありませんか?』

「……え?」

『なんだか、少し思い詰めているように見えてしまって』


総司様への警戒心は相変わらずある。
でも総司様の横顔を見ていると、胸の奥が少しだけ苦しくなって、その気持ちが自然と言葉になって口から出た。


『もし私のことまで気にかけてくださっているのでしたら、どうかあまりご無理はなさらないでくださいね。私はこの通り、大丈夫ですから』


そう言ってそっと微笑みかけると、総司様は少しだけ目を見開き、意外そうな顔で私を見つめ返した。


『昔、総司様と一緒に過ごしていた頃、私は総司様が笑っていてくださるだけでとても安心できました。だからきっと、千様やニコラ様、それにリーシェ様も同じお気持ちなのではないかと思うんです。ですから……ご家族のためにも、今日は少しでもゆっくりお休みになってください』


総司様はさっきまでの苛立ちが少しだけ薄らいだように、険しかった表情から穏やかさを取り戻していく。
やがて困ったように眉を下げると、口元だけで小さく笑って私を見下ろした。


「お人よしなところは変わってないね。僕のことより、自分の心配をした方がいいんじゃない?」


少しだけ意地悪な言い方だった。
それでも、その言葉にはさっきまでの棘がなくて、私は思わず胸を撫で下ろす。
冷たく距離を置かれるよりも、睨まれるよりも、こうして言葉を交わせる方がずっといい。
どんな形であっても、私たちはまた同じ時間を過ごしている。
その時間は決して悲しみだけでできているものではなく、私にとっては大切な意味を持つもののように思えた。


『心配に思う気持ちはもちろんありますよ。でも、あまり後ろ向きにばかり考えたくはないんです。それに、私はどんな出来事にもきっと意味があると思っています。私が帝国に来たことも、今はまだ分からなくても、いつか振り返った時に、このためだったんだなって、思える日が来るような気がするんです』


そう思えるようになったのは、幼い頃から教えていただいた聖書の言葉が、ずっと心の中に残っているからなのかもしれない。
「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」
その御言葉を初めて聞いた時は、幼い私には少し難しく感じられたけど、悲しいことも、苦しいことも、いつかは誰かの幸せや自分の成長へと繋がっていくのだと知り、その考え方はとても希望に満ちていると思った。

だから不安はあるけど、すべてを悲しい出来事として終わらせたくはない。
いつかこの日々にも意味があったと思える日が来ることを、私は信じていた。
一人でそんなことを思っていると、総司様は静かに私を見つめ続けていた。
その視線に気づいて首を傾げると、総司様ははっとしたように目を逸らし、小さく笑う。


「随分と楽観的なんだね」

『楽観的というわけではないですけど……』

「良かったよ。今頃、君がひどく落ち込んでいるんじゃないかって、少し心配していたから」


もちろん、落ち込んでいないわけではない。
家族とも、大切な友人達とも、薫様とも、きちんとお別れもできないままこの国へ連れて来られたのだから、悲しくないはずがなかった。

それでも、人前でその気持ちを見せたいとは思えない。
まして、それが総司様の前ならなおさらだった。
もしかすると、それは意地なのかもしれない。
それに私が弱気な姿ばかり見せていたら、東部の方達に申し訳が立たない気がした。

そして総司様は、私の様子を皇帝陛下に報告するお立場でもある。
だからこそ私は、この国でも前を向いて生きようとしていることだけは、きちんと伝えたかった。


『私なら、大丈夫ですよ』


自分に言い聞かせるように微笑むと、総司様は少しだけ目を細めた。


「……そう」


短くそう返したあと、穏やかな声が続く。


「でも、何か心配事とか困ったことがあれば一人で抱え込まなくていいよ。僕がいるから」


その一言に、私は思わず息を呑んだ。
総司様を見つめたまま、何を返せばいいのか分からなくなる。

だって……そんなことを言うなんて、少し狡い。
私をここまで連れて来たのは総司様なのに、そんな優しい眼差しでそんな言葉を掛けられたら、胸の中で懸命に保っていた気持ちが揺らいでしまう。

責めなければならないはずなのに、昔と変わらない優しい声を聞くだけで、心は簡単にあの頃に引き戻されそうになる。

でも、それだけは駄目。
今、目の前にいらっしゃる総司様は、私が恋をしていた頃の総司様とは違うんだから。
帝国の剣としてこの国を背負い、無慈悲なことを平気でできてしまう人なんだから。
大切な人達が傷付けられたことを、決して忘れてはいけない。
心の奥でそう何度も言い聞かせながら、私は小さく微笑んだ。


『……ありがとうございます』


その一言には、感謝も、戸惑いも、切なさも、どうにもできない想いも、きっとすべて混ざっていた。
総司様が今、どんなお気持ちで私に接してくださっているのかは分からない。
そして私自身も、総司様に向けるこの感情が何なのか、もう答えを見つけられなくなっていた。

それでも総司様と過ごした日々だけは、誰にも消すことのできない大切な宝物として、今も私の胸の中に生き続けている。
あの幸せな時間も、交わした約束も、いただいたお手紙も。
その思い出たちには、何一つ罪はない。
だから私は、それだけは憎まずにいたいと思った。

静かな沈黙が二人の間に流れる。
窓の外では、アルディオンの夜風が木々を優しく揺らし、聞き慣れない虫の声がかすかに響いていた。


「……もう遅いね。今日はゆっくり休んで。明日は帝都を案内するつもりだから」

『外出してもいいのですか?』

「うん。ずっと部屋の中にいても息が詰まるだろうし、この国のことも少しずつ知ってもらえたらと思って」


思いがけないお誘いに、私は少しだけ目を丸くする。
けれど、そのお気遣いを断る理由は見つからなかった。


『……はい。ありがとうございます』


そう答えると、総司様はどこかほっとしたように微笑み、「それじゃあ、おやすみ」と静かに背を向けられる。


『おやすみなさい、総司様』


遠ざかっていく後ろ姿を見送りながら、私はそっと扉を閉めた。
胸の中はまだ複雑な想いでいっぱいだった。
それでも、明日という一日がまた始まる。
私は静かに窓の外に目を向け、小さく息を吐くと、眠りにつく支度を始めた。


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