8
次の日、総司様は仰っていた通り、私に帝都の街を案内してくれた。
相馬卿も一緒に、これから帝国で暮らしていく私が困らないよう、中央市場や帝国図書館、行政を担う官庁街、帝都の人々で賑わう大広場、そして多くの商船が行き交う港など、この国を代表する場所を一つひとつ丁寧に見て回ってくれる。
どこも東部とは街並みも文化も違っていて、初めて目にする景色ばかりだった。
その光景を見つめているうちに、帝国やアルディオンの国を少しずつ知っていきたいという気持ちが、自然と胸の中に芽生えていくようだった。
そうして気づけば午前中はあっという間に過ぎ、私たちは昼食をいただくため、一軒のお店に入った。
ここはアルディオン公爵家が営んでいる店らしく、店主は総司様の姿を見るなり深々と頭を下げた。
「公爵様、お待ちしておりました。本日はご来店いただき、誠にありがとうございます」
恭しく挨拶を終えた店主は、ふと私に視線を向けると、驚いたように目を見開いた。
「……失礼ながら、もしやこちらのお嬢様が、定期報で拝見いたしました東部アストリア公爵家のご令嬢でいらっしゃいますか?公爵様が東部との講和条約を締結され、帝国がお預かりすることになったお方だと報じられておりましたので……」
まさか、私のことがもう帝国中に知られているなんて思ってもみなかった。
そういえば街を歩いている間も、何度となく視線を感じていた。
私はてっきり、アルディオン公爵である総司様が隣を歩いていらっしゃるから注目を集めているのだと思っていたけど、その中には私を興味深そうに見つめたり、どこか警戒するような眼差しを向けたりする方もいた。
その理由は私が東部の人間であり、講和条約の担保として帝国へ預けられた存在だと、周囲が気付いていたからかもしれない。
アルディオン公爵家の皆様のお話や様子からも何となく感じてはいたけど、帝国では東部に対して良い印象を持っていない方も少なくないのだろう。
近年は東部が小麦の価格を引き上げたことに加え、港湾の利用や交易を巡る交渉でも対立が続き、その影響は帝国で暮らす商人や領民の方々にも及んでいたと聞いている。
そうした積み重ねが、東部への不信感を生んでいるのかもしれないと複雑な心境になった。
「そうだよ。今日は彼女に帝都を案内していたんだ。折角だから、ここのパンケーキを食べさせてあげようと思ってね」
少し年配の店主は深々と頭を下げると、どこか戸惑いを滲ませながら、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「このたびは、数ある店の中から我が店をお選びいただき、誠にありがとうございます。ただ……お嬢様は講和条約の担保として帝国が身柄を確保したと報じられておりましたので、私どもはもっと厳重なお立場で日々をお過ごしになるものとばかり思っておりました。ご自由な身ではないものとばかり考えておりましたので、このように公爵様が直々に街をご案内され、私どもの店へお連れくださることに少々驚きを隠せず……」
その言葉を耳にして、私は思わず唇をきつく結んだ。
でも帝国の方々がそのように受け止めていても、不思議ではないのだと思う。
だって、私自身がそうだったから。
講和条約の担保として帝国に向かうと決まったあの日、どんな場所に連れて行かれ、どんな毎日を送ることになるのか、怖くて仕方がなかった。
冷たい牢に閉じ込められるのかもしれないとさえ考えていたし、あんなに素敵な部屋を与えていただけることも、総司様とご一緒とはいえ自由に帝都を歩けることも、想像すらしていなかった。
きっと店主の方も、私の待遇があまりにも予想と違っていたからこそ、戸惑いを隠せずにいるのだろう。
そんな私の考えをよそに、総司様は店主の言葉を最後まで静かに聞き届けると、笑みを浮かべたまま、ふっと瞳だけを冷たく細めた。
「……それってさ。君はこの子がここで食事をするべきじゃないって、そう言いたいのかな」
その静かな一言だけで店内の空気がぴんと張り詰め、思わず息を呑んでしまうほどの威圧感が広がっていく。
店主の方も、総司様の変化を敏感に感じ取ったのか、みるみる顔を青くすると、慌てて何度も首を横に振った。
「と、とんでもございません……!もちろん、公爵様のお客様でいらっしゃいますから、精一杯おもてなしさせていただきます」
「そう?でも、さっきの話を聞いてると、あまり歓迎してるようには聞こえなかったけど」
責め立てるような口調ではなかったけど、逃げ道を与えない静かな問いかけに、店主は申し訳なさそうに肩を落とした。
「私どものような商いをする者は、このところの小麦価格の高騰で大変苦しい思いをしてまいりました。講和によって状況が良くなることを願っておりますが、まだ心のどこかで複雑な思いを抱えているのも事実でございます。お嬢様には何の非もないのに、そのような思いから失礼なことを口にしてしまい、大変失礼いたしました。今後は二度とこのような不用意なことは申しません」
丁重に頭を下げる店主を見つめながら、総司様は小さく息をついた。
「君たちが苦労してきたことは、もちろん僕もよく分かってるよ。だからこそ今回、東部との講和を結んだんだからね。小麦の価格についても、これから東部としっかり話し合いを重ねて改善していくつもりだよ」
そう言って店主へ穏やかな笑みを向けると、総司様は私の方に視線を移した。
「この子は東部と帝国を結ぶための、大切な懸け橋なんだ。これから両国が穏やかな関係を築いていけるように、この子もきっと力を貸してくれる。だからこれからは、人質なんて見方じゃなくて、帝国と一緒に未来を歩んでいく大切な客人として迎えてあげてほしいかな」
東部と帝国を結ぶために、私にも果たせる役目があると言って頂けたように感じる。
総司様の言葉を聞いて、胸の奥に積もっていた寂しさや不安が、少しだけ溶けていくような気がした。
「もちろんでございます、公爵様。お嬢様にも心からおくつろぎいただけるよう、おもてなしさせていただきます。どうぞこちらのお席へ」
私たちは店主に案内され、窓際の明るい席へと腰を下ろした。
すると相馬卿は席に座らずに、いつもの穏やかな笑みを浮かべながら私達に軽く一礼する。
「この近くの商会の方がぜひ一度隊長にご相談したいことがあると仰っていましたので、俺が先に伺って内容を聞いてまいります。昼食はどうぞお二人でごゆっくり召し上がってください」
「うん、分かった。よろしくね」
「はい、お任せください」
そう返事をした相馬卿は、なぜかとても嬉しそうに頬を緩め、足取りまで軽やかに店を後にしていった。
その背中を見送ったあと、私はふと店内を見回す。
けれど広い店には、私たち以外のお客様の姿が一人も見当たらなかった。
『他のお客様はいらっしゃらないのですね?』
「うん。今日は一日、この店を貸し切りにしてあるからね」
その言葉に、私は思わず目を丸くした。
『え……、貸し切りにしてくださったんですか?』
「だって、僕と君がこうしてのんびりパンケーキを食べてたら、周りはいろいろ詮索するかもしれないでしょ。余計な噂を立てられたり、心ないことを言われたりする中で食べても、せっかくの食事がおいしくなくなるし。今日はそういうことを気にせず、君にはゆっくり楽しんでほしかったんだ」
『それは……どうもありがとうございます』
どうして総司様は、ここまで私を気遣ってくださるんだろう。
一昨日のアストリアでは、あんなにも冷たく、恐かった。
昨日の列車の中でも、どこか距離を感じることが多かったのに、今日は朝からずっと穏やかで、昔と変わらない優しい総司様のままでいてくれる。
まるで私が大好きだった総司様が、そのまま戻ってきてしまったようで、その優しさに触れるたびに戸惑いばかりが募っていった。
「セラ嬢は、甘くてふわふわしたものが好きだったでしょ。この店のパンケーキは帝都でも評判だから、きっと気に入ると思うよ」
甘いものが好きだったことまで、覚えていてくださったんだ。
そのことが少し嬉しくて、それなのに素直に喜んではいけない気もして、私は複雑な気持ちのまま総司様を見つめる。
そして、ふと一つの考えが頭をよぎった。
もしかしたら総司様は、私を懐柔しようとしているのだろうか。
優しく接して信用させ、その上で帝国に有利な条件を受け入れるよう私が東部に働きかけることを期待しているのかもしれない。
きっと、そうするように陛下にご命令されているのだと思った。
帝国と東部が争わず、穏やかな関係を築けることは私も心から願っている。
けれど、そのために東部だけが一方的に不利益を被るようなことだけは、決してあってほしくない。
だから私は、総司様の優しい言葉に心を許してはいけない。
そう自分に言い聞かせ、気持ちを引き締めていると、ちょうど店員の方が私たちの前にお皿を運んできた。
「お待たせ致しました。こちら、ご注文頂いた季節のフルーツとパンケーキです」
焼きたてのパンケーキは二枚重ねでふんわりと膨らみ、その上には真っ白なホイップバタークリームが雪のようにたっぷりと絞られている。
黄金色に艶めく蜂蜜がとろりと流れ落ち、その隣には真っ赤な苺のジャムと、小さく切り分けられた季節の果物が彩りよく添えられていた。
仕上げにちょこんと飾られた鮮やかな緑のミントの葉が可愛らしく、甘く香ばしい香りがふわりと漂ってくる。
その愛らしい見た目に、思わず頬が緩んでしまった。
だって、見た目からして可愛すぎる。
これはもう反則だと思う。
『わあ……すごいですね。こんなに分厚いパンケーキ、どのように作っているんでしょう?』
「メレンゲを生地に混ぜ込んで焼いているらしいよ。ほら、食べてみて」
『ありがとうございます。では、いただきます』
ナイフをそっと入れると、信じられないほど柔らかくて、生地は刃に触れただけでふるふると震えた。
まるで雲を切り分けているような軽さに驚きながら一口大に切り、クリームと蜂蜜をたっぷり絡めて口に運ぶ。
するとふわりとほどけるように溶けた生地の甘い香りが口いっぱいに広がり、濃厚なクリームと優しい甘さの蜂蜜、爽やかな果実の酸味が重なって、思わず目を見開いてしまった。
『んん、おいしい……!』
「口に合ったなら良かったよ」
『え、どうしましょう。本当においしすぎます。メレンゲを入れるだけで、こんなにふわふわになるんですか?どうしてこんなにおいしいの……』
甘いのにまったく重たくなくて、口の中ですっと消えていくから、もう一口、あと一口と自然に手が伸びてしまう。
夢中になって頬張っていると、不意に総司様が肩を揺らして、くすくすと笑われた。
その笑い声に我に返り、私は慌ててフォークを止める。
『……あ、すみません。少し夢中になり過ぎてしまいました』
そう言うと、総司様は困ったように眉を下げながら、優しく微笑んだ。
「そんなに気に入ってもらえたなら、連れてきた甲斐があったよ。もっと食べたいなら、僕の分も食べていいから」
『駄目ですよ。総司様も召し上がってください。それに、私もそんなには食べられません』
「そう?セラ嬢は昔、お菓子をあげると、僕の分まで嬉しそうに食べていたじゃない」
『あれは……総司様が、お腹いっぱいだからって仰っていたからです』
そう答えながら、不意に幼い頃の思い出が頭に浮かんだ。
そういえば、総司様はいつも私の大好きな銘柄のお菓子を必ず残して、「僕はもうお腹いっぱいだから、セラ嬢が食べなよ」と笑って譲ってくださっていた。
あの頃の私は、お気に入りのお菓子を少し多く食べられることがただ嬉しくて、何の疑いもなく受け取っていたけど、今になって思えば、本当にお腹がいっぱいだったのかな。
もしかしたら、甘いものが好きな私に少しでもたくさん食べさせようとしてくださっていただけなのかもしれない。
だって総司様は本当に私に優しくしてくださっていたから。
「じゃあ、もっと食べられそうだったら、おかわりすればいいよ」
総司様はそう言って微笑むと、ようやくナイフとフォークを手に取り、ゆっくりとパンケーキを口に運んだ。
その何気ない仕草を眺めながら、改めて総司様はとても素敵な方だと思った。
陽の光を受けるたび、透き通るような翠の瞳はエメラルドのように輝き、柔らかく流れる栗色の髪は品よく整えられている。
すらりと伸びた長身に、仕立ての良い濃紺の上着と銀糸の刺繍が施された貴族らしい装いはとてもよく似合っていて、優雅にナイフとフォークを扱う所作に至るまで、一つひとつが洗練されていて思わず目を奪われてしまう。
初めて総司様とお会いした時、まだ幼かった私は、絵本からそのまま抜け出してきた王子様みたいな男の子だと思っていた。
けれど五年という歳月は、その面影を残したまま、さらに大人の魅力を纏わせていた。
背は以前よりずっと高くなり、細身だった肩には頼もしさが宿り、剣を振るう鍛えられた身体つきでありながら、気品も失わない。
優しく微笑むだけで周囲の空気まで和らぐような、不思議な人。
ニコラ様が「帝国中の女性が総司様を好きになる」と仰っていたけど、本当にその通りだろう。
こんな方なら、誰だって惹かれてしまうと思った。
だからもし、お母様の事件がなかったとしても、総司様は最後に私を選ぶことはなかったのかもしれない。
私が総司様程の人を繋ぎ止めていられるとは思えなかった。
それでも幼い頃は、私だけを見てくださっているような気がしていた。
総司様とは永遠にずっとお互いだけを想い合っていけると信じていた。
でも実際には、私と会っていた頃から千様とも親しく逢瀬を重ねていらしたと聞いているし、多くの女性と関係を持たれているという噂も、東部にいた頃から何度となく耳にしてきた。
噂というものは尾ひれが付くものだと思いたかった。
けれど昨夜の夕食の席で、千様と総司様がそのことを当然のことのように話されていた以上、きっと事実なんだろう。
そう思うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
私はそっと、総司様の手に視線を落とす。
ナイフを持つその手は大きく、長年剣を握り続けてきたのだと分かる硬いまめや、小さな傷跡がいくつも残っていた。
その手は剣を握ると誰よりも強いけど、私に触れる時だけは、壊れ物に触れるように優しくて、昔から私は総司様の手が好きだった。
……でも。
彼の手はもう、私だけに触れてきた手ではない。
きっと、たくさんの女性にも同じように触れてきたんだろう。
私に触れるより多く、今の奥様方は総司様に愛されてきたんだろう。
そんなことを考えてしまったら、胸がきゅっと締めつけられる。
駄目。
何を考えているの、私。
そんなことを気にする余裕なんて、今の私にはないんだから。
私は講和条約の担保として帝国へ来た身なのだから、今は自分の立場をきちんと受け止め、この先どうすれば両国のためになるのかを考えなくてはいけない。
そう心の中で自分に言い聞かせ、浮かんでしまった想いをそっと胸の奥に押し込めるようにして、もう一度パンケーキに視線を落とした。
「急に悲しそうな顔して、どうしたの?」
不意に優しい声が耳に届く。
その一言にはっとして、私は慌てて顔を上げた。
『悲しそうな顔……ですか?』
「うん。何か思い詰めてるように見えたけど」
思い詰めている……。
そんな顔をしてしまっていたんだ。
私はもう、とっくに前を向けていると思っていた。
総司様に対する気持ちも、一昨日の出来事で変わったはずだと思っていた。
昔のように憧れだけを抱いていられる方ではなく、帝国を背負う立場として、時には冷徹な決断も下す方なのだと知った。
だから、昔とは違う目で総司様を見られるようになったはずだったのに。
それでも、ふとした優しさに触れるたび、胸が締めつけられてしまう自分がいる。
そのことを悟られたくなくて、私はそっと微笑んだ。
『……総司様も、大変ですね』
「え?何が?」
『皇帝陛下から、私のことを気にかけるよう仰せつかっていらっしゃるのでしょう?でも、私はここまでお気遣いいただかなくても大丈夫です。今後、私に何かお役目が与えられるのでしたら、その時は私なりに精一杯務めるつもりでおりますので……どうか、あまり気になさらないでください』
そう言って微笑んだものの、その笑顔はどこかぎこちなかったのかもしれない。
総司様はわずかに眉を寄せると、ふいと視線を逸らしてしまった。
……何か、失礼な言い方をしてしまっただろうか。
落ち着かない気持ちで見つめていると、総司様は小さく息をつき、それからふっと笑みを浮かべる。
「そっか。それを聞いて安心したよ」
『え……?』
「君には、この先ちゃんと果たしてもらいたい重要な役割がある。その時が来たら、嫌がらずに受け入れてもらうことになるからね」
その穏やかな口調とは裏腹に、有無を言わせない響きがそこにはあった。
『重要な役割……ですか?』
「うん」
『もう、お決まりになっているのですか?それは、どのようなお役目なんですか?』
「そのうち分かるよ。まだ正式に陛下から勅命が下ったわけじゃないから、今は話せないけどね」
私は思わず言葉を失う。
その時が来たら、嫌がらずに受け入れてもらう。
総司様は確かにそうおっしゃった。
もちろん、帝国の命令である以上、私に拒む権利なんてないんだろう。
それでも、わざわざ嫌がらずにという言葉を添えられたことが引っ掛かった。
私が嫌だと思うようなお役目なの……?
そんなことを考えてしまうと、余計に落ち着かなくなる。
『そんなことを仰られてしまうと……余計に気になってしまいます』
困ったようにそう言うと、総司様は私を見つめ、少しだけ苦笑した。
「でも、さっき君が言ったんじゃない。何か役割が与えられたらきちんと務めるつもりだって。だから必要以上に君に構わないで欲しいって、僕に言いたかったんでしょ?」
その言葉に、私は慌てて首を振った。
『違います、そういう意味ではなくて……私はただ、ご迷惑をお掛けしたくなくて……』
言い終える前に、総司様は静かに微笑んだ。
その笑顔は優しいのに、どこか少しだけ寂しそうにも見えた。
「ごめんね。今日も半ば無理に付き合わせちゃって。でも帝都のことは知っておいてもらわないと困るし、君の衣服や生活に必要な物も、これから揃えなきゃいけない。だから今日は、もう少しだけ付き合って」
そう言うと総司様は、それ以上この話を続けるつもりはないというように視線を落とし、残っていたパンケーキを静かに食べ進めてしまった。
私はその顔を見つめながら、自分がどこかで総司様との間に線を引こうとしたことを、気づかれてしまったのかもしれないと、言いようのない胸騒ぎを覚えていた。
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