9
店を出ると、街路の傍で相馬が馬車の脇に控えていた。
僕たちの姿を見つけた途端、その表情はぱっと明るくなったものの、その笑みはすぐに戸惑いへと変わる。
きっと店に入る前とはまるで違う僕とセラ嬢の空気を感じ取ったんだろう。
相馬は僅かに目を瞬かせると、様子を窺うように口を開いた。
「パンケーキ、美味しかったですか?」
「うん」
「セラ様も、お口に合いましたか?」
『はい。とてもおいしくて、感動してしまいました』
柔らかく微笑んでいたけど、その笑顔にはさっきまでのような弾む明るさがなかった。
昼食の前までは、見るものすべてが珍しいとでもいうように帝都の街並みに目を輝かせ、小さなことにも嬉しそうに笑っていたのに、今はどこか無理に取り繕っているように見えてしまう。
相馬はセラ嬢を馬車に案内すると、「隊長に仕事のご報告があります」とだけ告げて扉を閉め、周囲に聞こえないような小さな声で僕に話しかけてきた。
「何かあったんですか?」
「別に。何も」
「別に何も、というお顔ではありませんよ。パンケーキがお口に合わなかったとか……」
「パンケーキは喜んでたよ。パンケーキは、ね」
思わず吐き捨てるような言い方になってしまい、自分でも嫌になる。
相馬はそんな僕を見つめ、困ったように眉を寄せた。
「……隊長。何があったのかは分かりませんが、苛々した様子でセラ様に接したら良くありませんよ」
「僕は何もしてないよ。あの子には優しくしてたしね」
そう、本当に何もしていない。
昔と同じように笑ってもらいたくて、少しでも帝都での時間が楽しいものになるよう気を配った。
彼女が好きそうな店を選び、何気ない話をして、安心して過ごせるように努めてきたつもりだ。
それなのに、あの子は静かに一歩引いた。
僕を責めるでもなく、拒絶するでもなく、ただ僕との間に越えてはいけない線を引いたように感じた。
あの微笑みの奥からは、これ以上は近付いて欲しくないというような、彼女の想いが伝わってくるようだった。
「ですが、先程までは本当に楽しそうでしたよね」
「パンケーキも嬉しそうに食べてたよ」
あの子が一口食べるたびに幸せそうな顔をする姿は、僕が昔に何度も見て、そのたびに心を奪われてきたセラ嬢そのものだった。
再会してから一度も見ることのできなかった、あの頃と変わらない無邪気な笑顔。
あんなふうに笑ってくれたことが嬉しくて、僕にも以前と同じように話しかけてくれて、このまま今日みたいな日々を少しずつ積み重ねていけば、いつかまた昔みたいに何も気負わず笑い合える日が来るんじゃないか……なんていう都合のいい期待まで抱いてしまった。
だけど、その希望は長くは続かなかった。
あの子は明らかに僕と距離を取り、僕に踏み込まれることを拒絶した。
「でしたら、何故お二人ともあんな表情で店を出ていらしたんですか?」
「知らないよ。でも、セラ嬢が僕とは距離を置きたいと思ってることだけは、よく分かったよ。だから今日みたいに一緒に出かけることも、もうないかもしれないね」
相馬は目を見開き、言葉を失う。
僕はそれ以上話す気にもなれず、小さく息を吐いた。
「さ、必要なものだけ買い揃えたら、さっさと屋敷に戻るよ」
そう言って馬車に乗り込むと、相馬も複雑そうな表情のまま後に続いた。
車輪が動き出しても、重苦しい沈黙だけが僕たちと共に次の目的地に運ばれていった
それからしばらくして、馬車がゆっくりと停車した先に建っていたのは、帝都でも限られた者しか足を踏み入れることを許されていない名門服飾店、メゾン・ド・ヴァルモン。
代々皇室御用達として名を馳せるその店は、一流の仕立て師と宝飾職人だけを抱え、皇族や大公家、公爵家をはじめとする最高位貴族以外には一切商品を卸さないことで知られている。
ドレスの仕立ては勿論、職人が作った一点物や高級既製服を販売しており、帝国内の社交界では、ヴァルモンのドレスを纏うことそのものが家格と品位を証明する証とされ、店側にも誰に仕立てるかを選ぶ権利が与えられていた。
僕は先に馬車を降りると、後ろを振り返って相馬に視線を向けた。
「相馬、セラ嬢のエスコートをよろしくね。あと、僕が呼ぶまでは店の外で待機してて」
「え?俺がですか?」
思わずそう漏らして、相馬は目を丸くしていた。
それでも何かを察したように口を閉ざした彼を見て、小さく苦笑する。
仕方ないよね。
僕の手に触れることすら、あの子は嫌だと思っているだろうし、そのことくらい僕だって分かってる。
嫌われていると知りながら、何事もなかったような顔で手を差し伸べられるほど、神経が図太くはないらしい。
相馬が何か言いかけた気配だけを背中で受け流し、僕は一足先に店内に足を踏み入れた。
扉を開いた先には磨き上げられた大理石の床が陽光を柔らかく映し、天井から吊るされた壮麗なシャンデリアが店内を優雅な光で包み込む。
壁際には季節ごとに仕立てられた一点物のドレスが芸術品のように並び、絹やサテン、繊細なレースを贅沢に重ねた夜会服が視線を奪っていく。
その奥には普段使いのドレスや外出着、夜着までもが一切妥協なく仕立てられ、美しい刺繍を施した手袋や帽子、宝石職人が丹精込めて作り上げた首飾りや耳飾りが、それぞれ専用のガラスケースに整然と飾られていた。
色彩も実に豊かで、淡い象牙色から深い藍色、可憐な薔薇色まで、どれも気品を失うことなく揃えられている。
ここなら、セラ嬢が気に入りそうなものもきっと見つかる。
そう思っていると、奥から一人の女性店員が優雅に歩み寄り、丁寧に一礼した。
「ようこそお越しくださいました、アルディオン公爵閣下。本日はご来店賜り、誠にありがとうございます。久方ぶりにお目にかかることができ、スタッフ一同、大変光栄に存じます」
相変わらずの徹底した接客に、僕は軽く頷きながら本題を切り出した。
「僕が今、東部のご令嬢を預かっている話は聞いてるよね。その子の衣装を一式揃えたいんだ。普段着から夜会用まで見繕ってもらえる?」
そう告げると、先ほどまで笑みを浮かべていた店員たちが静かに顔を見合わせる。
やがて責任者らしき女性が一歩前へ出ると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「誠に恐れ入りますが、東部のご令嬢に当店の品をお譲りすることは、すぐにはお引き受けいたしかねます」
「……へえ。それは残念だな」
僕は笑みを浮かべたまま、小さく首を傾げる。
するとその店員は、僅かに緊張した面持ちで僕を見つめた。
「僕は陛下の命を受けて、その子を保護している立場なんだ。その僕が連れてきた子に店の商品を売ることすらできないなんて、君たちは随分と偉くなったんだね。まさか門前払いされるなんて思ってもみなかったよ」
穏やかな口調で告げると、店内の空気が一気に張り詰める。
女性は青ざめながら深く頭を下げた。
「そのような意味では決してございません。ただ当店は皇室より名を預かる工房でございますゆえ、ヴァルモンの品格に見合うお客様をお選びする責務がございまして……」
「責務って?」
「ヴァルモンの名を冠した装いは、皇族方や高位貴族の皆様のご愛顧によって価値を築いてまいりました。当店の衣装をお召しになること自体が、一つの名誉であり、社交界における証でもございます。ゆえに誠に恐縮ではございますが、東部のご令嬢にお譲りすることは、当店の理念に反するかと存じます」
「そうなんだ。君達の責務とやらは分かったけど、その責務が帝国の剣である僕の判断より重いとは知らなかったよ。アルディオン公爵家は勿論、ヴェルメル大公家も代々この店を贔屓にしてきたし、衣装も宝飾品も、夜会のたびにここに任せてきたつもりだけど、その信頼もどうやら僕の思い違いだったみたいだね」
その言葉を聞いて、責任者の女性の肩がぴくりと震える。
「閣下、お待ちください。当店は決して公爵家を軽んじているわけではなく、お譲りする方が東部のご令嬢ということが問題だと申しているだけなのです」
「それなら君たちは家柄だけを見て、その人自身を見る前から着る価値がないって決めるの?」
「そのようなことではありませんが……」
「違うって言うなら簡単だよ。ヴァルモンが守りたいのは、ブランドの価値や品格なんでしょ?だったら、その価値を高める相手かどうかを見極めればいい。東部の令嬢だからという理由だけで資格がないって決めつけるのは、名門の矜持というより、ただの先入観じゃないかな」
責任者の女性は返す言葉を失ったように黙り込んだから、僕は畳みかけるように続けた。
「そのご令嬢には外で待ってもらっているから、一度彼女を見て判断してくれる?君たちが何より大切にしているヴァルモンの品格に相応しいかどうか、その目で確かめればいいじゃない。そのうえで相応しくないと言うなら、その時は諦めるよ」
店内は水を打ったように静まり返った。
責任者の女性はしばらく俯いたまま考え込んでいたが、やがて意を決したようにゆっくりと顔を上げる。
「……承知いたしました。まずは、そのご令嬢にお会いさせていただけますでしょうか」
「勿論。今呼んでくるから、少し待ってて」
ここまで話をつけてしまえば、もう問題はない。
店の外へ出ると、馬車の傍らで待っていた二人へ穏やかに声を掛けた。
「お待たせ。もういいよ、中に入って」
セラ嬢は僕を見上げて頷くと、相馬にエスコートされながら店内に足を踏み入れた。
煌びやかな店内を見渡し、その美しさに少し驚いたように瞳を瞬かせる彼女とは対照的に、ヴァルモンの店員たちは一斉に息を呑み、その場で動きを止めてしまう。
さっきまで神妙な表情を浮かべていた責任者の女性でさえ、目を見開いたままセラ嬢を見つめていた。
結果なんて分かりきっていた。
セラ嬢がこの店のドレスに不釣り合いなわけがない。
むしろセラ嬢が纏うことで初めて、本当の美しさを完成させる。
だからこそ彼女を一目見れば、この店の者たちもきっと自分たちの判断が早計だったと気づくはずだと、僕は疑っていなかった。
「それで、どう?この子に似合うドレスや宝飾品は、この店にありそうかな」
敢えて問いかけてみると、責任者の女性は先ほどとはまるで別人のように顔を輝かせ、一歩前へ進み出た。
「もちろんでございます。ぜひ当店にお任せくださいませ。お嬢様にお召しいただくに相応しい装いを、誠心誠意お見立ていたします。お嬢様の美しさをさらに引き立てる一着をご用意できますことは、ヴァルモンにとりましても大変な名誉でございます」
さっきまであれほど渋っていたとは思えないほどの変わりように、僕はくすりと笑う。
セラ嬢は少し困ったように僕を見上げ、遠慮がちに口を開いた。
『あの……このような素敵なお店でご用意していただいて、本当に宜しいのでしょうか。私は、今お部屋に用意していただいているドレスで十分だと思うのですが』
「何言ってるのさ。あれは君の好みもサイズも何も分からないまま、とりあえず必要最低限のものを揃えただけだよ。これから公爵家で暮らす以上、その場に相応しい装いは必要になるよ。それに東部の象徴として来てるのに、毎日同じものばかり着るわけにはいかないでしょ?」
そう言ってから店員たちに向き直る。
「というわけだから、この子に似合うものは遠慮なく全部見繕って。普段着も夜会服も外出着も、必要なものは一式お願いするよ。サイズ調整もお願いね」
「かしこまりました」
店員たちは弾んだ声で返事をすると、待ちかねていたかのようにセラ嬢の元に集まり、「こちらへどうぞ、お嬢様」「ぜひお身体の寸法を拝見させてくださいませ」と口々に微笑みかけながら、期待を隠しきれない様子でドレスサロンの奥に案内していく。
セラ嬢は少し戸惑ったように僕を振り返り、小さく助けを求めるような視線を向けてきたけど、僕が笑って頷くと、安心したように控えめに微笑み、そのまま店員たちと一緒に部屋の奥に消えていった。
その様子を見送っていると、隣に立っていた相馬が感心したように店内を見回す。
「この店は、とても高価そうなお店ですね」
「うん。帝国一の名店だからね。皇室や公爵家をはじめとする限られた家しか出入りできない、本物の一流品ばかりが揃ってるんだ。東部ではまず目にすることもない品ばかりだよ」
「それでしたらセラ嬢も、きっとお喜びになりますよ」
相馬は素直に微笑んでいた。
でも、あの子はそんなことで心から喜ぶような子じゃない。
高価な宝石を贈れば笑うような子でもなければ、美しいドレスを纏えば満たされるような子でもないことくらい分かっていた。
それでも僕は、セラ嬢には少しでも良いものを与えたかった。
帝国に連れて来られ、家族とも故郷とも引き離され、不安ばかりを胸に抱えているあの子に、せめて身に纏うものだけは何一つ我慢させたくなかったし、公爵家で肩身の狭い思いをさせるつもりもなかった。
それに何より、僕と過ごす間は心を張り詰めずにいてほしい。
今すぐには無理だもしても、少しでも穏やかな気持ちで笑ってくれるなら、それだけで十分だった。
それから一時間ほどが過ぎた頃、試着室の扉が静かに開き、数人の店員に付き添われながらセラ嬢が姿を現した。
店員達に「ぜひ最後にこちらもお召しになってくださいませ。閣下にもご覧いただきたいのです」と熱心に勧められながら、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
その様子に、店の支配人らしき女性が誇らしげに一礼した。
「閣下、こちらをご覧くださいませ。当店が長らく温めてまいりました新作にございます。最高級の絹と職人の技術を惜しみなく注ぎ込みながらも、この一着を託したいと思えるご令嬢に巡り会えず、これまでどなたにもお勧めすることはございませんでした。しかし本日、お嬢様に様々なお召し物をご試着いただき、スタッフ一同、この一着はこのお方のためにあったのだと確信いたしました」
その言葉とともに顔を上げたセラ嬢の姿を目にした瞬間、僕は思わず息を呑んだ。
淡いアイボリーを基調にしたドレスは柔らかな輝きを纏い、その上から幾重にも重ねられた薄緑色の透き通るようなレースが、春風に揺れる若葉を思わせる優しい彩りを添えている。
胸元には小さな白い花々を象った繊細な刺繍が施され、広がる裾は歩くたびに静かな波紋のように揺れ、彼女の可憐さをいっそう引き立てていた。
飾り立てているというよりも、本来そこにある愛らしさが、その一着によって自然と咲き誇っているようだった。
やっぱりこの子には、こういう優しい色が本当によく似合う。
その上品な美しさはセラ嬢の清らかな雰囲気に調和して、まるで最初から彼女のためだけに仕立てられていたかのようだった。
僕は自然と口元を緩めながら、穏やかに微笑んだ。
「……うん。とても綺麗だよ。その色、セラ嬢の優しい雰囲気によく似合ってるね」
僕なんかに褒められることは望んでいないだろう。
そう思っていたのに、気づけば素直な感想が口をついて出ていた。
でも、セラ嬢は少しだけ頬を染め、小さく目を見開く。
そしてパンケーキを食べていた時とも違う、胸の奥から自然に溢れ出たような柔らかな笑みを浮かべて、僕を見上げた。
『ありがとう……ございます』
その一言は、不意打ちだった。
まさか僕の言葉を、そんな嬉しそうに受け取ってくれるなんて思ってもいなかった。
しかも、その笑顔は幼い頃に見ていた笑顔よりも更に愛らしくて、不覚にも鼓動がわずかに速くなった気がした。
その余韻を味わう間もなく、店員達は次々と試着を終えた品々を僕の前に並べて行く。
「閣下、本当にお嬢様によくお似合いでございます。本日お召しいただいたお品の中から、お嬢様に相応しいものを一式お見立ていたしました。普段着から夜会服、外出着に至るまで、どれも自信をもってお勧めできる品ばかりでございます」
店員たちは、何本もの衣装掛けに気品のあるドレスを次々と並べ、その横には帽子や手袋、靴、宝飾品の入ったケースまで整然と運び込んできた。
思わず笑みが零れてしまうほどの量だったけど、それも無理はない。
この子に似合わないものを探す方が、きっとずっと難しいから。
「ありがとう。それじゃあ、それ全部お願いするよ」
「まあ、ありがとうございます。心より御礼申し上げますわ。すぐにお包みするよう手配いたします」
店員たちが嬉しそうに頭を下げる一方で、そのやり取りを聞いていたセラ嬢は、大きな瞳をさらに丸くして僕を見つめていた。
『総司様、そんなに買っていただくわけにはいきません。たくさん買っていただくつもりで試着していたわけではないのです』
困ったように眉を下げるその姿まで可愛らしくて、僕はまた小さく笑ってしまう。
「どうして?たくさんあって困ることなんてないでしょ」
『ですが……こんなにたくさん買って頂いても着れません。それに私がいつまで公爵邸でお世話になるのかも、まだ分からないじゃないですか』
……そうか、この子はまだ知らないんだ。
僕が最初から、セラ嬢を側室として迎えるつもりでいることを。
だから、自分はいずれ公爵邸を出て、どこか別の場所で暮らすものだと思っている。
そう考えれば戸惑うのも当然だった。
それでも僕は何事もないように微笑んだまま答える。
「大丈夫だよ。もし別の場所へ移ることになっても、その時は今日買ったものを全部持って行けばいいよ。それなら無駄にはならないでしょ?」
そう言うとセラ嬢は僕を見上げ、小さく揺れる瞳の奥に、戸惑いと迷いを滲ませていた。
『お気持ちは本当に嬉しいです。でも……総司様には奥様方がいらっしゃいます。私のためにここまでしていただくのは、やっぱり申し訳ありません。総司様がお気になさらなくても、奥様方のお立場を思うと私は素直に甘えてしまってはいけない気がするのです』
その言葉を聞くまで、僕の頭の中にあの三人の存在は欠片ほども浮かんでいなかった。
もちろんセラ嬢は知らないことだけど、彼女達との婚姻は家を存続させ、アルディオン公爵家の勢力を盤石にするためだけの政略結婚だ。
僕は最初から、夫婦としての情や愛情を求めないことを互いの条件とし、その代わり社交界における確かな地位と、不自由のない暮らしを約束している。
だから本来、僕が自分の裁量で使う金銭に誰かが口を挟む理由はなかった。
けれど、セラ嬢は違う。
彼女が育ったアストリアでは、近藤閣下とユフィ夫人は誰よりも深く互いを慈しみ、生涯ただ一人の伴侶として支え合ってきた。
その姿を見て育った彼女にとって、夫婦とはそういうものなんだろう。
だからきっと、僕も妻達を大切に想っていると信じているか、あるいは妻以外の女性のために多額のお金を使うことは、誠実とは言えない振る舞いだと思っているのかもしれない。
僕はそんな彼女の真っ直ぐなところも好ましく思っていたけど、自分の今の立場を思えば複雑だ。
「それなら心配しなくても大丈夫だよ。陛下からは、君をお預かりするための費用として十分な下賜金を預かっているから」
もちろん、それは嘘だった。
セラ嬢を帝国に迎えたいと願ったのは、他でもない僕自身だ。
この計画が実行されたのも、父が彼女の存在を講和の切り札として利用できると判断したからであり、本来であれば人質として選ばれるのは彼女である必要もなかった。
それでもセラ嬢が選ばれた理由は、ただ一つ。
帝国最強の剣と呼ばれる僕が、喉から手が出るほど望んだ唯一の女性だったからだ。
僕が本気で帝国のために剣を振るうことは、一軍を得るよりも大きな価値を持ち、帝国の威光と武威をさらに高める。
そのことを誰より理解していた陛下と父は、僕の恋心さえも国益のための駒として利用し、この計画を推し進めた。
つまりこの結末は、僕自身の願いと帝国の思惑が重なった末に生まれたものだった。
『ですが……これだけたくさんですと、ご用意いただいたお金を超えてしまうのではありませんか?』
なおも遠慮がちに尋ねるセラ嬢に、今まで静かに控えていた相馬が柔らかな笑みを向けた。
「セラ様、ご安心ください。隊長はそのようなことでご無理をなさる方ではありません。ここは隊長のお言葉を信じて、お任せになるのが一番かと存じます」
その言葉にセラ嬢は少しだけ考え込むように俯き、それから小さく頷いて僕を見上げた。
『……では、お言葉に甘えさせていただいても、本当に宜しいのでしょうか?』
「うん。もちろん」
『ありがとうございます。こんなに素敵なドレスは初めてで……本当に幸せな気持ちになりました。これからずっと、大切にいたしますね』
その微笑みに、胸の奥が静かに熱を帯びる。
大袈裟にはしゃぐわけでもなく、それでいて嬉しい気持ちは隠しきれず、丁寧に感謝を伝えてくれる。
その素直さには少しの打算も見えなくて、綺麗なドレスを前に年頃の少女らしく目を輝かせる姿が、どうしようもなく愛おしく感じてしまった。
この子の笑顔を守れるなら、どれほど危険な任務だって引き受けられる。
この子が望むものなら、できる限りすべて与えてあげたい。
そんな柄にもない純粋な願いが、気づけば胸に広がっていた。
「閣下、お求めいただいたお品はかなりの数になりますので、本日はお召し替えに必要なお品だけお持ちいただき、残りは後日公爵邸にお届けいたしましょうか?」
「そうだね。その方が助かるよ」
「かしこまりました。心を込めてお届けいたします」
隣を見ると、セラ嬢は大切そうに淡い若葉色のドレスの裾にそっと触れ、小さく微笑んでいた。
その穏やかな笑顔を見られただけで、今日この店に連れて来た意味は十分すぎるほどあったと思える。
たとえ僕達の距離がこれ以上縮まることはなくても、こうして彼女のすぐそばで、その笑顔を見つめていられるのなら、それだけで僕の心は静かに満たされていった。
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