10

服飾店を後にした僕達が次に足を運んだのは、帝都でも随一の蔵書を誇る大書庫を兼ねた書店だった。
高い天井まで届く重厚な本棚には、革張りの書物が隙間なく並んでいる。
学者や貴族達も足繁く通うその場所は、本を愛する者なら誰もが胸を躍らせる場所だった。

自由に外を歩けない今のセラ嬢は、きっと部屋で一人過ごす時間も少なくないだろう。
そんな時、少しでも退屈を紛らわせられるものがあればと思った。
昔から本が好きだった彼女なら、きっと喜んでくれる。
そう思って、この店だけは最初から連れて来ようと決めていた。


『わあ……とても大きな書店なのですね』


天井近くまで続く本棚を見上げるその瞳は、子どものようにきらきらと輝いていた。
さっきまでどこか遠慮がちだった表情にも少しずつ明るさが戻り、その変化に気づいた相馬も嬉しそうな視線を僕に向けてくる。
彼女の笑顔を見られただけで、ここに来た甲斐があった。


「気になる本があったら、好きなだけ選んでおいで。部屋で過ごす時間も長くなるだろうし、本はいくらあっても困らないから」

『ありがとうございます。でも、本まで買っていただくわけには……』

「言っておくけど、遠慮なんてしなくていいからね。本くらいで懐は痛まないし、君が気にする必要なんて全然ないよ。金貨は有り余る程、沢山あるから」


冗談交じりに言うと、セラ嬢は少し目を丸くする。


『有り余る程?』

「そうですよ。そのくらいで隊長のお財布が困ることはありませんよ。隊長は帝国最強の騎士であり、アルディオン公爵家の当主でもいらっしゃいます。帝国中を見渡しても、隊長ほど財力と名誉を兼ね備えたお方はそういませんから、どうか安心してお選びください」


なぜか自分のことのように胸を張って言い切る相馬に、僕は思わず苦笑する。


「相馬、それは少し言い過ぎじゃない?」

「いえ、事実です」


相馬が即答すると、セラ嬢は堪えきれなくなったようにくすくす笑い出した。


『総司様は、本当にすごい方なのですね』

「笑いながら言われると、褒められてるのか少し怪しくなってくるんだけど」

『ふふ、ごめんなさい』


鈴を転がすような笑い声が、静かな書店の空気に優しく溶けていく。

……笑った、しかも僕に向かって。
ただそれだけのことなのに、胸の内を覆っていた重苦しいものが軽くなり、気がつけば僕まで自然と口元を緩めていた。
隣では相馬も同じように目を細め、安堵したような笑みを浮かべている。


『では……三冊選ばせていただいてもいいですか?』

「それじゃ少なすぎるよ。三十冊くらい選んで」

『ええ?三十冊は多すぎます』

「君は昔から本が好きだったじゃない。一度読み始めると夢中になって、一冊読み終えたらすぐ次を開いてたでしょ。三十冊くらいなら、一ヵ月もあれば読み切っちゃうんじゃないの?」


僕がそう言うと、セラ嬢はぱちりと目を瞬かせ、困ったように微笑みながら、胸の前で白く細い指先をそっともじもじと絡ませ始めた。
その癖は昔、アストリアで何度も見てきた仕草だった。
困った時、照れた時、どう答えようか迷っている時、決まってその細い指先が僅かに動き始める。
そんな何気ない癖まで、あの頃と少しも変わっていない。
五年という歳月は決して短くはなかったはずなのに、彼女の中には今も僕の知っている面影がちゃんと残っていて、それをこうして目の前で見られたことがどうしようもなく嬉しかった。

それと同時に、心の奥深くで長い年月をかけて燻り続けてきた想いが、静かな熱を帯びながらゆっくりと息を吹き返していく。
その髪にそっと指を滑らせ、昔みたいに名前を呼びながら、好きだよと伝えたい。
唇も、その柔らかそうな肌も、何もかも僕だけのものにしたい。
そんな身勝手な願いが、抑えようとすればするほど胸の内で静かに膨らんでいく。
でも、今はまだそれは許されない。
彼女を正式に側室として迎えるその日までは、この胸の奥から溢れ出そうになる欲望を、誰にも悟られないよう押さえ込んでおかなければならなかった。

その時までに少しでも僕達の距離を縮められていたら、それが一番いい。
もっとも最悪そうならなかったとしても、僕はもう遠慮なんてできないだろう。
最初からこの子のすべてを奪うつもりで、僕は今回の計画を実行したんだから。


『それなら、五冊にします』

「二十冊」

『えっと、七冊では駄目ですか?』

「最低でも十五冊かな」


僕が譲る気のない顔をすると、セラ嬢は小さく頬を膨らませ、視線だけをそっと逸らしながら真剣に考え始めた。
その拗ねたような表情まで、昔のままだ。
思わず笑みが零れそうになるのを堪えながら、その愛らしい横顔を静かに見つめる。 


『十冊、選ばせていただいてもいいですか?それでも私には、とても多いと思います』


その控えめな願いに、僕は苦笑いを溢した。
本当なら彼女が読みたいと思う本を、この書庫館ごと抱えて帰ってもいいくらいだった。
でも焦る必要なんてない。
これから先、彼女が少しずつでも僕を受け入れてくれるのなら、一緒に街を歩く日も、本を選びに来る日も、きっと何度だって訪れる。
そう思いたかったからこそ、僕は素直に頷いた。


「いいよ。じゃあ好きなのを十冊、ゆっくり選んできなよ」

『はい。ありがとうございます』


そう言って嬉しそうに微笑む彼女の背中を見送りながら、これから先の日々を考える。
彼女は、僕の側室になることをどんな気持ちで受け止めるんだろう。
以前のように心を開いてくれる日が来るのか、それとも最後まで僕を許してはくれないのか。
そんな答えの出ない問いばかりが胸を巡る。


「先程の元気が戻ってきたみたいで良かったですね」

「そうだね。……まあ、多分、色々と考えてはいるんだろうけど」


そう答えながらも、僕の視線は彼女から逸れることはなかった。
セラ嬢は昔から素直な子だ。
嬉しい時は嬉しいと顔に出るし、悲しい時にはどれほど取り繕おうとしても瞳が曇る。
だから、さっき見せてくれた笑顔が偽りではなかったことくらい、僕にはすぐ分かる。
でもその一方で、僕に対して抱えている複雑な想いもまた、本物なのだろう。
笑ってくれたかと思えば、次の瞬間には一歩距離を取り、決して心の内側に踏み込ませてはくれない。
あの慎重な距離感は彼女なりの抵抗なんだろうけど、その距離がどうしようもなくもどかしかった。

だけど、そんなことをしたって無駄なのに。
どれほど君が距離を置こうとしても、僕はもう君を手放すつもりなんてないんだから。


『選びました』


弾んだ声に顔を上げると、セラ嬢が何冊もの本を抱えてこちらに歩いてくる。
選んできたのは物語ばかりではなかった。
帝国の歴史書、この国の薬学について記された専門書、それに文化や風習を学ぶための本まであり、気づけば半分以上が勉強のための書物だった。
慣れない帝国に少しでも馴染もうとしているんだろう。
こんな状況でも前を向こうと努力する彼女らしさに、思わず頬が緩む。
それでも腕の中の本を大切そうに抱え、どこか満足げに微笑む姿は愛らしかった。


「そろそろ戻ろうか。もう日も傾いてきたしね」


本を購入して窓の外に目を向ければ、西日に染まった街並みが黄金色の光を纏い始めている。
セラ嬢は素直に頷き、相馬も僕達の後に続いた。
けれど店を出ると、道行く人々の視線がまるで吸い寄せられるようにセラ嬢に集まっていく。


「あの方が東部のご令嬢だろ?」

「どうして普通に出歩いてるの?」


囁き声があちらこちらから聞こえ、その中には好奇心だけではない、露骨な嫌悪を滲ませた鋭い眼差しも混じっていた。
相馬もそれに気付いたのか、僅かに眉をひそめ、辺りを警戒するように周囲に視線を巡らせている。
セラ嬢もまた居心地の悪さを感じたのだろう。
抱えた本を胸に寄せ、少し俯き加減のまま馬車に向かって歩いていった。


「セラ様は先に馬車のそばで待っていてください。本は俺達が積みますから」


相馬がそう声を掛けると、彼女は「ありがとうございます」と小さく頭を下げる。
彼女を馬車のすぐ脇まで案内し、周囲に気を配りながら、僕と相馬は手分けして彼女が選んだ本を荷台に積み始めた。
ほんの数歩しか離れていないし、すぐに終わる作業だった。
でも、その時。


「帝国から出ていけ……!」


夕暮れの街に、憎悪を滲ませた怒鳴り声が鋭く響き渡る。
その声に反射的に顔を上げた時には、人混みの中から黒い影が勢いよく何かを振りかぶる姿が目に映った。
石が一直線に宙を裂き、西日の光を掠めながらセラ嬢に向かって飛ぶ。
その石は鈍い音と共に彼女の額にまともにぶつかり、その細い身体がよろめいた。


『……っ』
 

小さく息を呑むような声を漏らし、セラ嬢は咄嗟に額を押さえた。
その白い指の隙間から、鮮やかな赤い血がじわりと滲み、やがて頬を伝って静かに流れ落ちていく。


「大丈夫ですか……!?」


僕と相馬はほとんど同時に駆け寄り、彼女の身体を支える。


『はい……大丈夫です』


何が起こったのか理解できないというように瞳を揺らしながらも、セラ嬢は僕達を安心させようとするように、無理に微笑みを浮かべた。


「額、切れてしまっていますよ。目に当たらなくて良かったですが……」


傷口を見つめる相馬の声には、隠しきれない動揺が滲んでいる。
けれどその傷を目にした時、僕の心の奥では何かが音を立てて切れた。
握り締めた拳には力が入り、視線だけが冷たく周囲を這う。

あの石が飛んできた方向。
人々がざわめきながら道を譲る、その向こう。
先程、何かを振りかぶった人影がいた辺りに、一人の男が人混みに紛れるように足早に立ち去っていく姿が見えた。


「相馬、セラ嬢を連れて屋敷に戻ってて」

「え?ですが、隊長は……」

「僕は用があるから。頼んだよ」


それだけ告げると、引き留める相馬の声には振り返ることなく、人波を縫うようにして男の後を追った。
男は何度も背後を窺いながら街路を抜け、やがて石造りの建物に挟まれた細い路地に姿を消す。
夕陽も届かないその場所には古い樽や木箱が無造作に積まれ、表通りの喧騒だけが遠く微かに聞こえていた。
人目につかない場所を選んだつもりなんだろう。
男はようやく足を止め、荒く息を吐きながら口元を歪める。


「ははっ、ざまあみろって話だ」

「……なにが?」


すぐ背後から落ちた声に、男の肩が大きく震えた。
弾かれたように振り返ったその顔には、驚愕が張り付いている。
男の身なりはくたびれ、擦り切れた外套に泥のついた靴。
日に焼けた頬は痩せこけ、生活に余裕など微塵も感じられなかった。
東部との関係悪化で物価が上がり、苦しい暮らしを強いられてきた者なのかもしれない。
積もり積もった不満の矛先をあの子に向けることでしか、自分を保てなかったのだろう。


「……っ、あんたは……」

「今、東部のご令嬢に石を投げたのは君?」

「だから……なんだ!東部のせいで、こっちは毎日苦しい思いをしてるんだよ!」

「君の事情なんて知ったことじゃないけど、だからってあの子を傷つけていい理由にはならないよね」


男は一歩後ずさりながら、それでも強がるように声を張り上げた。


「俺がやったっていう証拠もないだろ!それに俺は帝国の人間を傷つけたわけじゃねぇ!罪になんか問われねぇよ!」


その言葉を聞いて、僕はふっと笑みを浮かべた。


「あの子は帝国の人間だよ。東部はもう、捨てさせるからね」


その言葉の意味を測りかねたんだろう、男は怪訝そうに眉をひそめ僕を見返す。
でも僕が腰の剣へ静かに手を添えると、その顔から血の気がすっと引いていった。


「……な、なんで……」


掠れた声が、石造りの路地に小さく響いた。
僕は穏やかな笑みを浮かべたまま、煉瓦の壁に囲まれた細い路地をゆっくりと見渡した。
広場の喧騒は遠く、ここには風の音しか届かない。


「ここ、いい場所だね」


男はじりじりと後ずさる。


「た、助け……」

「人目がなくて助かるよ」


一歩だけ踏み込むと、剣は余計な軌跡を描くことなく、一瞬だけ夕闇を裂いた。
血が飛び散り、辺りには再び静寂だけが戻る。
僕は剣をゆっくりと鞘に納め、何事もなかったかのように踵を返した。


「さ、戻ろっと」


あの男は勘違いしたんだ。
東部の令嬢であるセラ嬢は、この帝国では歓迎される存在ではなく、疎まれ、憎まれ、その悪意くらい黙って受け入れるしかない立場なのだと思っていたんだろう。
でも、それは大きな間違いだ。
あの子には僕がいる。
セラ嬢の人生は、もう僕の人生と切り離せないところまで来てしまったわけだから、護るのは当然だ。

もちろん、この先も僕は彼女を沢山泣かせるのだろう。
僕の選択で苦しめ、僕の我儘で悲しませ、そのたびに恨まれることだってあるはずだ。
でも、それはもう構わない。
その涙も苦しみもその先に待つ幸せも、すべてを抱えて生きていく覚悟で、僕はあの日、彼女をこの国へ連れてきたんだから。

だからこそ、誰にも触れさせはしない。
憎しみも、悪意も、石ひとつでさえ、あの子に向けられるものは何一つとして許さない。
あの子を笑顔にするのも、涙を流させるのも、その心を満たすのも、壊すのも、その人生に深く関わるすべては僕だけでいい。
そんな願いが愛ではなく執着なのだと嗤われても、もう構わなかった。
セラ嬢を手に入れたいと願ったあの日から、僕の想いはとっくに引き返せないところまで歪みきってしまっていたんだから。

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