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帝都から城へ戻るころには、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。
相馬卿は私を部屋まで送り届けると、街で買った荷物を侍女たちに運ばせ、一つひとつ丁寧に確認してくれる。
けれど、その表情だけは帝都を出てからずっと晴れないままだった。
『今日は本当にありがとうございました』
そう頭を下げると、相馬卿は申し訳なさそうに眉を寄せ、小さく息をついた。
「……いえ。こちらこそ、申し訳ありませんでした。俺がついていながら、セラ様に怪我をさせてしまいました。本来なら、ああいうことになる前に防がなければならなかったのに……護衛失格です」
深々と頭を下げる相馬卿に、私は慌てて首を横に振った。
『そのようなこと、仰らないでください。相馬卿はずっと私を守ってくださいましたし、帝都をご一緒できてとても楽しかったです』
そう伝えると、相馬卿はようやく穏やかに目を細めた。
「そう仰っていただけるだけで救われます。セラ様が少しでも笑顔でお過ごしになれたのなら、それが何よりです」
本当に優しくて、真面目で、誠実な人。
一緒にいると自然と肩の力が抜けて、心まで穏やかになる。
けれど同時に、彼は誰よりも総司様に絶対の忠誠を捧げている騎士でもある。
だからこそ、胸の奥で何度も迷っていた言葉を静かに口にした。
『……総司様は、大丈夫でしょうか?』
「隊長ですか?」
相馬卿は少し首を傾げ、それから穏やかに笑う。
「心配はいりませんよ。隊長は強い方です。そう簡単にどうこうなるような人じゃありませんから」
総司様が強いことは、私だってよく知っている。
私が心配しているのは、石を投げた人が総司様の怒りに触れてしまうことだった。
傷ついた私を見た時、総司様の瞳からすっと温度が消えた。
あの静かな眼差しを、私は知っている。
まだ婚約者だった頃も、二度だけ同じ瞳を見たことがあった。
感情を荒げるわけでもなく、怒鳴るわけでもない。
ただ静かに怒りを閉じ込めたあの瞳は、誰よりも恐ろしかった。
相馬卿は、あの総司様の姿ををご存じないのだろうか。
そんな思いが胸の奥を落ち着かなくさせた。
「隊長が戻ったら、すぐ医者に診てもらいましょう」
『この程度の傷なら、本当に大丈夫です』
「だめですよ。小さな傷でも顔ですから、痕が残るようなことになったら大変です。軽く考えたらいけませんよ」
その優しさがありがたくて胸は温かくなるのに、心は少しも晴れなかった。
正直、私が怪我をしても今の総司様は気にも留めないと思っていた。
けれど今日のあの表情を見てしまってからは、そうは言い切れない。
総司様は陛下から私の保護を任されている立場だからこそ、この状況に腹を立てたのだろうと思った。
あの時、もっと早く避けられていればという後悔ばかりが胸を巡り、小さく唇を噛む。
しばらく静かな空気が流れたあと、相馬卿が遠慮がちに口を開いた。
「一つ、お聞きしてもいいですか?」
『はい?』
「アストリアを出る夜、セラ様はできるだけ隊長とは関わりたくないと仰っていましたよね」
少しだけ言葉を選ぶように間を置いてから、相馬卿は続けた。
「今も、そのお気持ちは変わりませんか?」
答えに詰まったのは、自分でも自分の心が分からなくなっていたからだった。
納得できないことは、今もたくさんある。
許せない気持ちも、きっと残っている。
それなのに、総司様が優しくしてくださる度に嬉しいと思ってしまう気持ちは、まだ私の中から消えてくれない。
そんな自分に呆れながらも、このまま距離を縮めるべきではないことだけは分かっていた。
『総司様と極力関わりたくないという気持ちは、今も変わりません』
そう告げると、相馬卿は寂しそうに目を伏せた。
その反応だけで、どれほど総司様を大切に思っているのかが伝わってきて、私はかすかに微笑む。
『でも、それは総司様が嫌いだからではないんです。今日もたくさん良くしていただいて、本当に感謝しています。ただ……優しくされるたびに嬉しいと思う自分と、それを素直に受け入れてはいけないと思う自分がいて、どうしていいのか分からなくなってしまうんです。今の私は、総司様に対してどんな気持ちを抱いているのか、自分でも分からなくなっているのだと思います』
私の話を最後まで黙って聞いていた相馬卿は、安堵した様子で息を吐いてから静かに頷いた。
「それでいいと思います。無理に答えを出す必要なんてありません。隊長との間にいろいろあったセラ様が、すぐに気持ちを整理できるはずないですから」
私を安心させるように、相馬卿は柔らかく笑う。
「嬉しいと思う気持ちも、苦しいと思う気持ちも、どちらも嘘ではないんでしょう?それなら、今はそのままでいいじゃないですか。無理にどちらかに決めようとすると、かえって苦しくなるだけですよ」
そして少し照れくさそうに視線を逸らしながらも、どこか相馬卿らしい実直な口調で続けた。
「それに……あの人は不器用ですけど、人の気持ちを力ずくで変えようとするような人じゃないです。だから焦らなくて大丈夫ですよ。セラ様がご自身の気持ちと向き合える日が来ることを願っています」
相馬卿と話して、私が感じる素直な気持ちを否定する必要はないのかもしれないと思った。
総司様に対する感情はいくつもあるけど、今は一つに絞らなくてもいいのかもしれない。
『ありがとうございます、相馬卿。相馬卿には、いつも励ましていただいてばかりですね』
「そんなことありませんよ。俺は、大したことなんて何もできてません。ただ……隊長もセラ様も、お二人とも一人で抱え込む方ですから。俺でよければ、その時くらいは力になりたいと思ってるだけです」
相馬卿がいてくださって、本当に良かった。
私と総司様だけでは、どうしても言葉が途切れてしまうことがある。
互いに何を話せばいいのか分からず、沈黙だけが流れてしまう時もある。
そんな空気を、相馬卿はいつも何気なく和らげてくれる。
その優しさに心が温かくなり、思わず二人で微笑み合っていると、部屋の扉が静かに叩かれた。
「隊長、お疲れ様です。もう戻られたんですね」
相馬卿の声に振り返ると、そこには総司様が立っていた。
「うん。思ったより早く済んだからね。それよりセラ嬢は平気?」
そう言って私に歩み寄ってくる総司様の瞳は、先ほどまでの鋭さが嘘だったかのように、いつも通りに戻っていた。
けれど、私の視線はある一点で止まる。
白を基調とした上着の右袖口、ちょうど手首の辺りに、指先で払っても落ちなかったような細かな血飛沫が、いくつか黒く乾き始めていた。
それは誰かのすぐ近くで剣を振るわなければ、決して付くことのない返り血。
思わず息を呑み、震える声が漏れる。
『総司様……お召し物に血が……』
私の視線を追った総司様は袖に一度視線を落とし、何事もないように小さく笑った。
「ああ、これ?気にしなくていいよ。それより君の怪我を見せて」
そう言って伸ばされた指先を見て、私は反射的に肩を強張らせてしまった。
すると総司様の手が、ぴたりと空中で止まる。
エメラルド色の瞳が僅かに揺れたけど、それでも何も言わず、今度は怯えさせないようにするかのようにゆっくりと近付いてくる。
そしてそのまま私の前髪を優しく払い、額を確かめると、僅かに顔を顰めた。
「……思ったより切れてるね。医者を呼ぼうか」
『このくらいでしたら、そのうち自然に治ると思います。わざわざお医者様を呼んでいただくほどでは……』
「駄目だよ。もし跡が残ったらどうするの?そんなことになったら困るでしょ」
隣では相馬卿も何度も頷いている。
「隊長の仰る通りです。このままにはできません」
二人とも同じ意見らしい。
けれど私の胸を占めているのは、自分の傷のことではなかった。
袖口に残っていた、あの血。
総司様は、この短い時間で何をしてきたんだろう。
そんなことばかりを考えている私の横で、総司様が相馬卿に視線を向けた。
「相馬。いつもの医師を呼んできてくれる?傷の具合もよく分かるはずだから」
「承知致しました。すぐ迎えを出します」
一礼すると、相馬卿は足早に部屋を後にする。
扉が閉まり、部屋には私と総司様だけが残された。
総司様はまだ私の額を見つめたまま、どこか納得のいかないように眉を寄せている。
その顔を見上げながら、胸に引っ掛かったままだったことを、私は思い切って尋ねてみることにした。
『総司様、あの後は何をなさっていたのですか?』
「どうして?」
『少し……気になってしまって』
すると総司様は、ふっと口元だけで笑った。
「あれ。そんなに僕のことが気になるんだ?」
少し意地悪で、それでいてどこか優しい笑み。
アストリアで何度も見つめていた、私の大好きだった笑顔。
あの頃は、その笑顔を見るたび胸が高鳴るだけだった。
けれど今は、どこか遠いもののように感じてしまう。
私は今の総司様を知らないし、その笑みの奥に何を隠しているのか分からない。
それどころか、あの頃の総司様のことさえ、本当は何一つ分かっていなかったのではないか。
そんな思いが、最近は何度も胸をよぎる。
『私が気になると言ったら、教えてくださいますか?』
真剣に尋ねると、総司様は少しだけ視線を逸らし、穏やかな笑みを崩さないまま静かに答えた。
「別に大したことじゃないよ。君に石を投げた男を、少し懲らしめてきただけ」
『懲らしめた……というのは、どういうことですか?』
「そのままの意味」
『血が付くほどですか?まさか剣を抜かれたのですか?』
問い掛けると、総司様は肩を竦めるように微笑んだ。
「さあ。どうだったかな」
東部にいた頃から、帝国の剣と称される総司様が、どのような任を背負っているのかくらいは耳にしていた。
帝国騎士として国を守るだけではない。
皇帝に牙を剥く反逆者や、帝国の秩序を乱す者へ裁きを下すこともまた、総司様に与えられた役目だった。
その名が「帝国の剣」である理由は、誰よりも強いからだけではない。
皇帝の意思を刃として形にし、帝国に仇なす者に容赦なく振り下ろされる絶対的な力、その象徴こそが総司様なのだ。
だから帝国内では、人々はその強さを敬いながらも、決して軽々しく近付こうとはしない。
その剣が自分に向くことはないと分かっていても、本能が畏れを覚えてしまうほど、総司様は孤高の存在だった。
実際、アストリアで剣を振るう総司様を目の当たりにした私は、その意味を嫌というほど思い知った。
人を斬ることを躊躇う様子はなく、けれど決して感情に任せてもいない。
迷いのない一太刀が次の一太刀を呼び、その剣筋はあまりにも美しく冷酷だった。
何より恐ろしかったのは、その戦う姿にご自身の命さえ惜しむ気配がなかったこと。
命を懸けて剣を振るうのではなく、まるで命そのものを剣に預けてしまった人のようで、私の目には死神のように見えてしまった。
「そもそも、あんな男がどうなろうとどうでもいいじゃない。君は自分に害を成した男のことまで心配するの?相変わらずお人好しなんだね」
『別に……そういうことではないです』
私はただ、総司様には人を簡単に斬り捨てるような方にはなってほしくなかった。
帝国の剣として命を受け、剣を振るわなければならない立場なのだとしても、人の命を尊ぶ当たり前の心まで失ってほしくはない。
ただ、それだけだった。
でも今の私は、その願いを口にできる立場ではない。
人質としてここにいる私が、総司様の生き方に口を挟む資格などないことくらい、自分でも分かっている。
だからその想いは、胸の奥にそっと押し込めるしかなかった。
「心配だな。東部ではどうだったか知らないけど、北部じゃ君みたいな子は格好の餌食になるよ。優しさにつけ込む連中なんていくらでもいるんだから、もう少し警戒しないとね」
『……はい。怪我をしてしまってごめんなさい。総司様の手を煩わせてしまって、申し訳なく思っています』
「いや……別に僕に謝る必要はないよ。謝らないといけないのは、君を護れなかった僕の方だしね」
そう言った総司様は、私に対して腹を立てている様子はなかった。
きっとあの怒りは、私自身に向けられたものではなく、護衛を任されたにもかかわらず傷を負わせてしまった自分への苛立ちでもあったんだろう。
でも陛下から私の保護を命じられている以上、もし私に何かあれば、その責任は総司様が負うことになってしまう。
だから私も、もっと気を付けなくてはならない。
『いいえ。これからは、自分の身は自分でも守れるよう、もっと努力します』
以前、はじめから貰った護身術の本は、何度も読み返して頭に入れた。
腕を掴まれたら体を捻って力を逃がすこと、相手の足の甲や脛を狙えば、女性の力でも隙を作れること、手首ではなく親指の方向に引けば拘束を外しやすいこと。
そんな知識は一通り覚えている。
けれど、本当に突然襲われた時、その通りに体が動くのかな。
今日だって、石が飛んできても、避けることさえできなかった私なのに。
そんなことを考えていると、不意に一つの考えが浮かんだ。
『あ、総司様』
思いついた勢いのまま総司様を見上げると、彼の瞳がぱちりと見開かれる。
『護身用の短剣など、お持ちではありませんか?使っていない物でも構いませんので、お譲りいただけたらと思って』
何かあった時、逃げる時間くらいは稼げるかもしれない。
そう思って口にしただけだった。
以前、お父様に同じお願いをした時は、「必要ない」の一言で却下され、それどころか護衛を増やされてしまった。
でも総司様なら、私の気持ちを分かってくださるかもしれない。
そう思ったのに、総司様は穏やかな笑みを消し、静かに首を横に振った。
「駄目だよ。君に短剣なんて渡せるわけないじゃない」
『え?どうしてですか?』
予想外の答えに今度は私が目を瞬かせる。
すると総司様は瞳を細めて、少し不機嫌そうに言った。
「何に使うかわからないからだよ」
『何に使うって……護身のためです。それ以外に何があるんですか?』
私が戸惑いながら問い返すと、総司様はどこか自嘲するように小さく笑った。
「いくらでも考えられるよ。例えば、この生活が嫌になって、自分を傷つけるために使うかもしれないでしょ」
『そんなこと、絶対にしません』
「どうだろうね。人は追い詰められると、自分でも思ってもみなかったことをすることがあるって言うし。それに、誰かを脅すために使う可能性もあるし」
そこで一度言葉を切ると、総司様は私を真っ直ぐ見つめた。
「僕を殺そうとするためかもしれないでしょ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
私が総司様を殺す?
そんなこと、一度だって考えたことなんてない。
苦しくて、悲しくて、許せないと思うことはあっても、あんなにも好きだった人を、自分の手で傷つけたいなんて思えるはずがない。
私がどれほど長い年月、この人を忘れられずにいたのか。
どれほど恋しく思い続けてきたのか。
帝都の出来事や騎士団の動向が記される帝都公報が届くたび、総司様のお名前が載っていないかと胸を高鳴らせながらページをめくっていたことも。
十七歳になったら迎えに来ると言ってくれた幼い日のその約束だけを信じて、何年も待ち続けていたことも。
総司様は何ひとつ知らないから、そんな残酷なことを平然と言えてしまうんだ。
お母様が亡くなったと知らされたあの日。
悲しみに呑まれ、総司様の言葉を受け止められず、そのまま背を向けてしまった私にも勿論非はある。
それは今でも後悔しているし、だからこそすぐに手紙を書いた。
謝りたくて、もう一度ちゃんと話したくて、精一杯の想いを綴った。
それなのに、待っても待っても返事は一通も届かなかったから、きっと総司様はもう私のことなんて忘れてしまったんだと思った。
帝都で新しい出会いを重ね、たくさんの方に囲まれ、私との約束なんて遠い昔の思い出になってしまったんだって。
……それでも、私はずっと。
本当にずっと、総司様のことを想っていた。
こうして傷つけられても、悲しい思いをしても、少しだけ優しくされれば胸が温かくなってしまうほど、この人は今でも私にとって誰にも代えられない特別な人。
それなのに、どうしてそんなふうに思われてしまうのだろうと、唇をきつく噛み締めていた。
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