3
その日、セラ嬢は一度も部屋から姿を現さなかった。
相馬が医師を伴って訪ねた時だけは扉を開けたらしいけど、それ以外は誰とも会おうとせず、晩餐の席にも顔を出さなかった。
執務室の窓から何度となく彼女の部屋に目を向けても、灯りひとつ漏れていない部屋は真っ暗で何も見えない。
胸の奥に小さな棘が刺さったような居心地の悪さが残り、思わずため息が零れる。
姿が見えないだけで、落ち着かない心情になってしまう自分が少し癪だった。
「隊長は、一体何をされてるんですか?せっかく良い感じに仲良くなれてきたと思った矢先に泣かせるなんて」
執務机の前に立った相馬は、呆れたように眉を寄せていた。
どうやら医師を連れて部屋へ入った時、泣き腫らした彼女を見て察したらしい。
「いや……僕だって散々なこと言われてるからね。好きで泣かせたわけじゃないし」
「セラ様には今、隊長しか頼れる方がいないんですよ。そのくらいは考えて差し上げてくださいよ」
「なにそれ。相馬は僕の味方じゃないの?」
「俺まで隊長の肩ばかり持っていたら、彼女があまりにも気の毒じゃないですか。隊長はセラ様のことになると、不器用を通り越して拗らせ過ぎなんですよ」
そこまで言われると、さすがに苦笑するしかない。
不器用、ね。
そうなのかな。
とは言え、今日のやり取りを何度思い返してみても、僕にはセラ嬢があそこまで泣く理由がよく分からなかった。
「目も真っ赤でしたよ。一体何を言ったんです?」
「大したことは言ってないよ。なんか責められたから、思ったことを言い返してただけ」
「セラ様は理由もなく人を責める方には見えませんけどね」
「ああ、そう言えば護身用に短剣が欲しいって言うから断ったんだ。もし自害でもされたら困るし、僕を刺されても困るでしょ」
「……まさか、それをそのまま仰ったんですか?」
「言ったよ。可能性の話だし。最悪を想定して動くのは騎士として当然でしょ」
「隊長には当然でも、言われた方は傷付きます。もっと他に優しい言い方はあったでしょう」
「そういうの苦手なんだよ。綺麗な言葉で飾ったところで、どうせいつか本音は零れるでしょ。だったら最初から嘘なんて吐かない方がいいじゃない」
甘い言葉で安心させることくらい、僕にだってできる。
優しい笑みを浮かべ、耳障りのいい言葉を並べ、彼女の機嫌を取るだけなら難しくもない。
もしセラ嬢がただの預かり人に過ぎないなら、きっと僕もそうしていただろう。
でも、僕はあの子を手放すつもりなんて欠片もない。
いずれ側室として迎え、生涯この城に留め置く。
僕の目の届く場所で生き、僕以外の誰にも奪われることなく歳を重ねていく、その未来しか僕はもう考えていなかった。
だからこそ、本音を隠してまで好かれようとは思わない。
綺麗事だけで築いた関係なんて、いずれ崩れるってわかっているからだ。
それなら嫌われても構わないから、本当の僕を知ってもらうほうがいい。
……もっとも、その結果があの涙だったんだとしたら、少しくらい言い方を考えるべきだったのかもしれないけど。
「とにかく、早く謝ったほうがいいですよ」
「なんで僕が謝るのさ。嫌だよ」
「では、このままでいいんですか?」
「しばらく放っておくしかないでしょ。今は何を言っても聞いてくれそうにないし」
そう答えながらも、視線はまた窓の向こうへ向いてしまう。
本当は、謝ろうと思った。
あそこまで泣かれたら腹なんて立たないし、抱き寄せて慰めてあげたいとも思った。
だけど僕が近づいた途端、セラ嬢は僕を拒んで、震える手で部屋の外に押し返した。
僕も僕でその泣き顔に見惚れてしまって、気付けば抵抗らしい抵抗もせず廊下に押し出されていたんだから笑ってしまう。
でも、昔からあの子の涙には弱い。
優しくしてあげたいと思うくせに、あの瞳から零れる涙は目を逸らせないほど綺麗で、もっと僕だけを見て泣けばいいのに、なんて考えてしまう自分がいる。
困ったものだよね。
あれだけ拒まれても、今も気になって仕方がないんだから。
「そんなやり方では、お二人の溝は深まる一方ですよ」
「構わないよ。いずれ彼女を側室として迎えれば、嫌でも毎日顔を合わせることになる。あの子に逃げ場なんて、その時にはもうどこにもないんだから」
「隊長は、それで満足なんですか?そんな形で繋ぎ止めても、セラ様のお心は二度と手に入らなくなってしまいますよ」
その問い掛けは、まるで僕の胸の奥に隠していた傷口に刃を差し込むようだった。
だけど僕は、苦く笑うことしかできない。
「そんなもの、最初から望むだけ無駄だよ」
人の心ほど思い通りにならないものはない。
多くの人を動かせる立場にいる僕でも、たった一人の心だけは、どう足掻いても手の中には落ちてこなかった。
期待を抱くから傷つく。
欲しいと思うから、手の中にない現実を思い知らされる。
だったら最初から、心なんて求めなければいい。
この手の届く場所にいてくれさえすれば、それだけで十分。
最初から諦めてしまった方が楽なんだと、そう思っていた。
相馬は迷うように口を閉ざしていたけど、やがて決心したように僕を見据えた。
「今日、帝都から戻ってすぐにセラ様と少しだけお話ししたんです。隊長のことを嫌っているわけではない、と仰っていましたよ。優しく接していただけるのは嬉しいけど、そのお気持ちを素直に受け入れてしまっていいのか分からない、と。セラ様も、ご自分なりに色々と悩んでいらっしゃるんですよ」
「嫌いじゃない、ね。そんなことを聞かされても、別に嬉しくはないかな」
「俺は、それだけでも十分だと思いますよ。隊長はあれほど強引なやり方でセラ様を帝国にお連れしたんです。嫌われていないというだけで、本来なら奇跡みたいなものじゃないですか」
「その言い方もどうかと思うけどね」
肩を竦めて笑ってみせたものの、その笑みは長く続かなかった。
「……それに、今はもう違うよ。ついさっき、顔も見たくないって言われたばかりだからね」
あそこまで真正面から拒絶されると、さすがの僕でも少しは堪える。
それなのに……どうしてだろう。
胸を締めつける痛みとは別に、熱を帯びた感情が消えてくれない。
あの時のセラ嬢の姿ばかりが、何度も思い浮かんでしまう。
真っ赤に潤んだ瞳も、震える肩も、僕を睨みながら懸命に言葉を絞り出していた声も、涙で濡れた頬さえも。
あんなふうに僕に向かって感情を剥き出しにした彼女を見たことはなかった。
あれほど必死になって僕だけを見つめ、怒りも悲しみも全部ぶつけてきた。
その姿がどうしようもなく愛おしくて、頭から離れない。
「……隊長?」
相馬の怪訝そうな声に顔を上げる。
「なんで笑ってるんですか?」
「ああ……」
自分でも気づかないうちに口元が緩んでいたらしい。
「いや、あまりにも可愛かったからさ」
「はい?何がです?」
「一生懸命泣いてるところ」
正直に答えた途端、相馬の表情が見事なくらい引き攣った。
「その発言は、さすがに聞き捨てなりません」
「でも、本当にそう思ったんだよ。昔から考えてたんだよね。一度はあんなふうに取り乱すくらい思い切り泣かせてみたいって。いつも僕の前では大人しかったからさ」
アストリアから連れ去る夜も取り乱して泣いていたけど、あれは伊庭君の身を案じての涙だった。
あの時、伊庭君がちょっと羨ましかったことを思い出す。
「あれだけ感情をぶつけてくれたのは初めてだったんだ。だから少し嬉しかったのかもね」
憎まれてでも、怒られてでも、彼女の感情が全部僕に向くのなら、それだけで満たされる自分がいる。
ずっと穏やかに微笑みかけられたり、無関心でいられるより、涙を流して名前を呼ばれる方が嬉しい。
そんな歪んだ自分を、僕自身が一番よく知っていた。
相馬は心底呆れ返ったように長いため息を漏らした。
「隊長は以前から少々加虐趣味なところがあるとは思っていましたが、ここまでとは……。セラ様が気の毒でなりません」
「誤解しないでよ。僕は別に泣かせようとして泣かせたわけじゃないからね」
「本当でしょうか」
「本当だってば。僕だって驚いたんだから。話していたら、急に泣き出したからさ」
相馬は腕を組み、呆れ半分、諦め半分といった顔で首を振る。
「人は理由もなく涙を流しません。心当たりはないんですか?」
その問いに、僕は少しだけ考え込んだ。
彼女の涙を思い返しても、自分の言葉を思い返しても、どこで決定的に傷つけたのかは分からない。
分からないからこそ、余計に厄介だった。
「それが、本当に分からないんだよね」
口論の最中から、あの子の瞳には涙が溜まり続けていた。
きっと強い言葉を浴びせられることには慣れていないのだろうし、何より誇りにしている東部騎士団を侮られたことが、あの子には耐え難かったに違いない。
「まあ……明日からはまた任務が立て込むし、しばらくは顔を合わせないでおくよ。少し落ち着いた頃に、また話せればそれで十分だから」
相馬はどこか気掛かりそうに眉を寄せる。
「それまで放っておいて、本当に大丈夫なんですか?」
「焦って距離を縮めれば、余計に警戒されるだけでしょ。セラ嬢もこの城での暮らしに少しずつ慣れていくはずだから、その時を待つよ。今は僕が近づけば、また怯えさせるだけだろうしね」
そう言いながらも、僕だって傷つかなかったわけじゃない。
あの子に向けられた拒絶の言葉は、一つ残らず胸に突き刺さっていた。
なぜなら、僕がここまで強くなった本当の理由は、誰かを力で従わせるためでも、権力を誇示するためでもない。
幼い日の約束を胸にセラ嬢の隣に立ち、その一生を護れる騎士になりたかったからだ。
けれどあの日を境に、僕は弁明する機会すら与えられないまま、一方的にあの子との縁を断たれた。
どれだけ手を伸ばしても届かない。
どれだけ想い続けても振り返ってもらえない。
もう正当な方法では彼女に近付けないと悟った僕に残されていたのは、この国の権力を利用し、講和条約という名目であの子を自分の手の届く場所に迎えるという、あまりにも乱暴で身勝手な手段だけだった。
別に自分を正当化するつもりもないし、横暴だと罵られても仕方ないと思ってる。
それでも、諦めることだけはどうしても出来なかった。
世界中の誰に軽蔑されても、あの子だけは手放したくなかった。
そんな醜い本心を口にすれば、きっと今以上に嫌われるだけだ。
だから何も言えず、不器用な言葉ばかりを選び、そのたびに誤解は積み重なっていく。
今日の口論だって、結局はあの子の涙だけを残して終わってしまった。
それでも僕は、何を言われようと、どれほど拒絶されようと、あの子を愛している。
もし彼女が一度でも僕に「謝って」と望むなら、僕はいくらでも頭を下げるだろうし、「傍にいて」と願ってくれるなら、その瞬間にはもう腕の中に抱き寄せてしまうだろう。
でも、そんな日が訪れる保証はどこにもない。
むしろ永遠に来ないのかもしれない。
それでも、僕がセラ嬢を想う気持ちだけは、誰にも否定できない唯一の真実だった。
けれど、それはあくまで僕の都合に過ぎない。
彼女から見れば、思い出したくもないと口にした男によって家族と離され、講和条約という名の鎖に繋がれたまま帝国に連れて来られ、その張本人の屋敷で暮らすことを強いられているわけだから、息をするだけでも苦痛なのだろう。
相馬には嫌いではないと漏らしていたらしいけど、今日、僕に向けられたあの子の言葉は僕が心のどこかで抱いていた淡い期待を容赦なく打ち砕いた。
嫌悪しながら、それでも立場上、完全に拒み切れないだけだったんだと、嫌というほど思い知らされたから。
だから胸の奥が焼けつくように痛くて、その痛みを隠すように僕まで刺々しい言葉を返してしまった。
「セラ様を側室にお迎えするのは、いつ頃になるんですか?」
相馬の問いに、僕は静かに首を横に振った。
「さあ。そこは陛下のご裁断次第だね」
羽根ペンを静かに置き、窓の外に視線を流す。
「セラ嬢は、講和条約締結の証として東部から帝国へ預けられた大切な預かり人だ。彼女の身柄そのものが両国の均衡を保つ意味を持っている以上、到着して間もない時期に僕の側室に迎えれば、東部は初めから彼女を奪うのが目的だったと受け取りかねないし、他の貴族達も条約を私情のために利用したと騒ぎ立てるかもしれないからね」
帝国が求めたのは、東部が二度と帝国に歯向かわないという保証であり、その象徴としてセラ嬢がここにいる。
だからこそ彼女の立場を変えるまでには、陛下や帝国民が講和は確かなものになったと認めるだけの時間が必要だった。
「もどかしいですね。セラ様はそのうちここを出て行くと思っているでしょうから」
「でもそう思ってた方がいいんじゃない?もうここから出られないって今のあの子に知らせたら、それこそ危ないよ」
「そうでしょうか?俺は逆だと思います。ここまで来たら全てを打ち明けて、腹を割って話すのも一つの手だと思いますよ。誠実に向き合うことで、見えてくることもありますから」
真っ直ぐすぎるその言葉に、小さく笑みが零れる。
「確かに、相馬だったらそれが出来そうだね。でも……僕には無理だよ」
もし全てを話して、その果てに拒まれたら僕はもう成す術がない。
あの子の瞳に宿る恐怖も、憎しみも、全部この手で受け止められる自信が今はまだなかった。
それにたとえ受け止めることが出来たとしても、その先で手放せなくなる自分がいることを知っている。
それこそ、もっとセラ嬢を傷付けてしまうかもしれない。
だから本当は、セラ嬢のためでも、政治的な理由とも関係なく、僕自身に時間が必要だったのかもしれない。
こうしてすぐ近くまで連れて来ても、この想いは胸の奥で燻り続けるばかりで、どうすれば彼女壊さずに傍にいられるのか、その抜け道だけを探し続けている気がした。
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