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あの日以降、総司様は食事の席にも一切姿を見せなかった。
お顔を合わせずに済むことに安堵する気持ちはありながらも、二日、三日と日が過ぎるほど、気づけば落ち着かない想いばかりが膨らんでいる。
酷い言葉を総司様へ向けてしまった自覚があるからこそ、胸の奥では後悔が絶えず疼き、罪悪感だけが静かに広がり続けていた。

総司様が屋敷を空けることは、奥様方や使用人の方々にとっては珍しいことではないのだろう。
誰一人として気に掛ける様子はなく、いつも通り時間が流れていく。
そんな中、私だけが朝食の席でも夕食の席でも、今日こそお戻りになっているかもしれないと落ち着かない気持ちを抱えながら席に着いては、その願いが叶わないたび、小さく肩を落としていた。

そして今日の朝食にも総司様のお姿はなく、昼食にも当然のようにいらっしゃらなかった。
喉の奥に何かが引っ掛かったような苦しさを覚えながら、それでもどうにか食事を終えた頃、一人の使用人が食堂へとやって来て、丁寧に一礼した。


「奥様方宛にヴェルモンから服飾品が届きました」


その言葉を聞いて、先日総司様に帝都をご案内いただいた折、たくさんのドレスを選んでいただいた店の名がすぐに思い浮かぶ。
思わず目を瞬かせていると、真っ先に席を立ったのはニコラ様だった。


「きゃあ!ヴェルモン?」

「はい。沢山届いておりますよ。先日、旦那様が店舗にて直接購入されたそうです」

「まあ!旦那様からの贈り物かしら」


リーシェ様もたちまち嬉しそうに頬を綻ばせる一方で、千様だけは腑に落ちない様子で眉をひそめた。


「総司がそんなことをするなんて、珍しいわね」

「ほら、最近講和を結んだり大活躍じゃないですか。きっと陛下から沢山の報奨金を頂いたんですよ。それでニコラ達にもドレスを買ってくださったんだわ」

「それにこの方をお屋敷に置くことを、少なからず私達に申し訳ないと思ってくださっているのかもしれませんわ」


リーシェ様から冷ややかな視線を向けられ、私は申し訳なさから小さく頭を下げる。
ちょうどその時、ヴェルモンの紋章が刻まれた大きな木箱が、いくつも使用人の方々の手によって屋敷の中へ運び込まれてきた。

ヴェルモンと聞いた時、私は先日総司様に買っていただいた品が、約束通り届けられたのだと思った。
けれどすぐに、その考えを打ち消す。
たとえ陛下から私を保護するための費用が総司様に下賜されていたとしても、奥様方のいらっしゃるこの屋敷で、私だけにあれほど多くのドレスや装飾品を贈るようなことを、総司様がなさるはずがない。
きっと私に品を選んだ以上、奥様方にも同じように贈り物をご用意なさったのだ。
だから使用人の方がおっしゃった通り、届いた品は奥様方への贈り物なのだと、そう信じて疑わなかった。

私がこの場にいては、お喜びになる皆様のお邪魔になってしまうだけだろう。
そう思いながら食事を終えて静かに席を立つと、別の使用人が慌ただしく食堂に駆け込んで来ると、困惑した面持ちで深く一礼した。


「申し訳ありません。確認したところ、届いたものは全てセラ様宛のものでした」


言いにくそうに紡がれたその一言に、食堂は水を打ったような静けさに包まれる。
その重苦しい沈黙を破ったのは、ニコラ様だった。


「はあ?」


思わず肩が震えるほど、その声には先ほどまでの華やかさが欠片もなく、冷え切った怒気だけが滲んでいた。
そのあまりの変わりように目を見開くと、ニコラ様は大きな瞳をすっと細め、使用人の方に詰め寄る。


「今、なんて言ったの?」

「……はい。ヴェルモンの店の者に確認しましたところ、届いた品は全てセラ様宛のものだと仰っておりました。先日旦那様とセラ様が店にいらして、購入されたと……」


三人の奥様方の視線が一斉に私へ向けられたから、身体が強張り、頭の中が真っ白になる。
それでもこのまま黙っていては余計な誤解を招いてしまう気がして、私は震えそうになる声をどうにか押さえ込みながら口を開いた。


「申し訳ございません……。先日、公爵閣下がお屋敷で不自由なく暮らせるよう、身の回りに必要なものだけは揃えておくべきだと仰ってくださり、ご用意くださいました。陛下より私をお預かりするよう命じられておいでですから、そのお務めとしてお気遣いくださったのだと思います」


嘘は何一つ口にしていなかった。
それでも、三人の奥様方の眼差しから冷たさが消えることはなく、とりわけニコラ様は嫌悪を隠そうともせず、ゆっくりと私の前まで歩み寄ってくる。


「だからと言って、この量は多過ぎると思いませんか?見て、まだあんなに運ばれて来てる」


その声に、木箱を抱えていた使用人の方々がぴたりと足を止め、一斉にニコラ様に視線を向けた。


「みんな、その箱は一回ここに置いて。ここで開けてみてちょうだい」


命じられるまま、使用人の方々は次々と木箱を床に並べていく。
丁寧に打たれた留め金が外され、蓋が持ち上げられるたび、上質な布地に包まれたドレスや繊細な刺繍を施された装飾品が姿を現した。
淡い色彩の絹は窓から差し込む光を受けて、その一つひとつがまるで宝物のように輝いて見える。
その中から一着を取り上げたニコラ様は、嬉しそうに微笑んでみせた。


「わあ、素敵なドレス!これ、ニコラに似合いそう!ねえ、みんなもそう思わない?」


その言葉に、周囲の使用人達は顔を見合わせながらも、同調する声が次々と返ってくる。
やがてニコラ様は、そのドレスを抱えたまま私に向き直った。


「ねえ、セラ嬢。こんなにあっても着れないでしょう?いつまでここにいるかもわからないのに、こんなに沢山あっても宝の持ち腐れだと思わない?ニコラに分けてくださらない?」


総司様から頂いた品を、私の一存でお譲りすることはできるはずがない。
失礼にならず、それでいて誤解も招かない言葉を探していると、返事を待ちきれなくなったようにニコラ様が眉をひそめた。


「ねえ、返事は?」

『はい、承知致しました。確かに私が身につけるには多い品ですので、一度総司様にご相談をして、お許しを頂いてから……』

「は?総司様に泣きつくつもり?いいから黙って私に頂戴って言ってるの」

『ですが……こちらは総司様が買ってくださったものなので、私の独断で判断は出来かねます』

「……へえ。私達に迷惑かけてる人質の分際で、随分と欲張りさんなんだ?」


笑みは浮かべているのに、その瞳だけは少しも笑っていなかった。
胸の奥がひやりと冷え、思わず息を呑んだ、その時だった。


「ニコラ、やめなさい」


静かでありながら有無を言わせない声が響き、千様が私達の間に歩み出る。


「この場で譲ってもらったところで、総司が後で気付く可能性があるでしょう」

「えー?総司様はドレスとか興味ないじゃないですか。きっと気付きませんよ」

「そうかもしれないけど、彼女が総司にこのことを報告するかもしれないでしょう?その時、総司に指摘されるのはニコラよ」

「そうですか?別にドレスの数着くらい、総司様だって何も言わないと思いますけど」


千様は小さく息をつき、どこか苦々しげに目を伏せた。


「私、数日前に総司に言われたの。彼女のことは僕が陛下に任されてるから、君は何もするなって。必要以上に関わるな、勝手な動きをするなとも言われたわ。ただ彼女と話していただけなのに」


その言葉に、ニコラ様もリーシェ様も怪訝そうに顔を見合わせる。
胸がざわめくけど、私は何も口を挟めずただ成り行きを見守ることしかできなかった。


「だからドレスを取り上げるとか、明らかに証拠が残るようなことをしない方がいいと思うわ」

「ええ?でもぉ……」

「私はちゃんと注意したから。あとはニコラの責任で考えて判断しなさい。私はもう行くわ」


そう言い残すと、千様はためらうことなく踵を返し、静かにその場を後にした。
リーシェ様も私に冷ややかな視線をひとつだけ向けると、何も言わないまま千様の後を追って食堂を去っていく。
広間には木箱の並ぶ重苦しい空気だけが残され、使用人の方々も気まずそうに口を閉ざしていた。


「あーあ、すぐにでも着たかったのにな」


まるで本当に残念がっているだけのような、愛らしい声音だった。
その穏やかな様子に胸を撫で下ろしかけた私の前に、ニコラ様はゆっくりと歩み寄ってくる。
あと一歩という距離で足を止めると、花が綻ぶような笑みを浮かべたまま、優しく囁いた。


「セラ嬢って、大人しそうに見えて……人様の情けに縋りついて、それを当たり前のように抱え込める方だったのですね。随分と図々しいこと」


柔らかな口調とは裏腹に、その一言は鋭い棘となって胸に突き刺さる。
思わず目を見開くものの、突然のことに言葉は喉の奥で詰まり、何一つ返すことができなかった。
そんな私を一瞥すると、ニコラ様はつんと顎を上げ、そのまま優雅な足取りで食堂を後にしていく。
取り残された私は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
周囲を見渡せば、使用人の方々も何とも言えない面持ちで私を見ている。
気まずそうに目を逸らす方もいれば、あからさまに眉をひそめ、冷ややかな視線を向ける方もいた。
胸の奥がじわりと痛み、唇を噛み締めることしかできなかった。


そして、その日の夕食。
やっぱり今夜も総司様のお姿はなく、広い食堂には奥様方三人と私だけが席についていた。
昼間の出来事が頭から離れず、今度は失礼のないようにしようと気を張っていると、食事が始まって間もなく、ニコラ様がいつも通りの愛らしい笑みを浮かべて私に声を掛けてくださった。


「セラ嬢、今夜のスープは料理長自慢のスープなんですよ。私も大好きなんです」


その柔らかな笑顔に、張り詰めていた心が少しだけほどけた。
良かった……。
昼間のことは、事情をご理解くださって、もう気になさっていないのかもしれない。
そんな淡い安堵に胸を温めながら、私も微笑み返す。


『そうなんですね。今日はブイヤベースでしょうか?』

「正解です。セラ嬢も是非、飲んでみて?」

『はい、頂きます。私もブイヤベースは大好きなんです』


湯気の立つ白いスープにそっと銀のスプーンを沈め、一口含む。
魚介の旨みが舌の上に広がり、芳醇な香草の香りが鼻を抜ける。
けれど、その奥に何か別の風味が混じっていた。
鼻の奥へまとわりつくような、生臭く湿った匂い。
古く傷んだお肉にも似た、言いようのない違和感が舌先に残る。

……気のせい、かな。
料理長自慢のお料理なのだから、そんなはずはない。
そう自分に言い聞かせるようにもう一口飲み込み、再び違和感を感じながらも小さく微笑んだ。


『……とてもおいしいです』


そう言った直後、食卓を囲む空気がわずかに揺れる。
ニコラ様はもちろん、後ろに控えていた使用人の方々までもが、口元へ手を添えくすくすと笑みを漏らしていた。
その笑いは楽しげというより、人を見世物にするような含みを帯びていて、胸の奥がざわめく。


「まあ、おいしいの?お口に合ったのなら良かった。ほら、どんどん食べて?」


にこやかな笑顔のまま促されるその声に胸騒ぎを覚えながら、私は具材を少し口へ運ぼうと、中央に乗せられていた海老をそっと脇へ寄せた。
けれどその下に隠れていたものを目にした瞬間、喉の奥から小さな悲鳴が漏れる。


『……ゃっ……』


そこには、小さな鼠の死骸が沈んでいた。
濡れた灰色の毛並みは煮汁を吸って肌へ張りつき、小さな四肢は力なく折れ曲がっている。
閉じきらない濁った目は虚ろにこちらを見上げ、わずかに開いた口から覗く黄色い歯が、白い皿の上でひどく生々しく映った。
一瞬、頭の中が真っ白になる。
さっきまで口にしていたものと同じ器の中へ、それが沈んでいたのだと理解した途端、胃の奥が激しく波打った。


『うっ……』


込み上げる吐き気を堪えきれず、とっさに口元を両手で覆う。


「あれえ?どうしたの?おいしいんでしょう?温かいうちにどんどん食べないと」


ニコラ様は優雅に小首を傾げ、花が咲くような笑みを浮かべたまま私を見つめている。
私は涙で滲む瞳を彼女に向け、必死に吐き気を飲み込みながら、震える首を小さく横に振った。
けれど、その仕草が癇に障ったのか、ニコラ様の瞳から笑みだけが消える。
細められた双眸が、今度は鋭く私を射抜いた。
 

「まさか居候の分際で、せっかく出して頂いたご飯を好き嫌いして残すっていうの?」

『ですが……このスープは……』


震える声でようやくそれだけを絞り出すと、ニコラ様は肩をすくめて可笑しそうに笑った。


「あらあ?もしかして、鼠が入ってたの?全然気付かなかったわ。鼠って嫌ね。屋敷に勝手に入り込んでは、私達の食べ物を盗み食いするの。意地汚くて、本当に大嫌い」


そう言って肩を竦めたニコラ様は、一度言葉を切ると、まるで珍しいものでも眺めるように私を見つめ、ゆっくりと口元だけを吊り上げた。


「ああ、でも……あなたも同じようなものかしら?仲間なんだから、ちゃんと食べてあげないと」


胸の奥から込み上げる吐き気を必死に押し殺しながら、私は震える唇を開く。


『これは食べられません。どうかお許しください……っ』

「えー?」


甘えるような声とは裏腹に、その瞳には欠片ほどの情けも宿ってはいなかった。
周囲に助けを求めるように視線を巡らせる。
けれど誰もニコラ様を咎めようとはしない。
千様もリーシェ様も、まるで何も聞こえていないかのように静かに食事を続け、使用人の方々も視線を逸らすどころか、面白い見世物でも眺めるような笑みを浮かべている方がほとんどだった。

信じられない。
こんなことが許されるはずがない。
そう思うのに、あまりの出来事に頭は真っ白になり、声すら出せなかった。
その時、ニコラ様が私の後ろに控えていた使用人達に向かって、僅かに顎を動かした。
何の合図なのか理解するより早く、二人の侍女が私の肩と腕を後ろから強く押さえ込む。


『……っ、何をなさるのですか!?』

「セラ嬢がご自分で食べられないみたいだから、手伝って差し上げようと思って」


身体をよじって逃れようとしても、両肩を押さえられたままでは椅子から立ち上がることすらできない。
指先は震え、息は浅く乱れていく。
その様子を眺めながら、ニコラ様は私の隣に歩み寄り、食卓の上の皿と私の顔を見比べて、くすくすと笑った。


「これを飲んでおいしいなんて。セラ嬢って、ゲテモノでも平気なんですね。信じられない」

『ニコラ様、お許しください。ドレスのことでしたら、お詫び致しますから……』

「は?今更何?そもそも総司様にたかって、あんな高級なドレスを何着も買って貰うなんて、図々しいにも程があると思いません?」

『ごめ……なさ……』

「鼠は鼠らしく、共食いでもしていてくださいね?」


ニコラ様はそう優しく微笑むと、私のテーブルの前に置かれたナイフを手に取った。
そして、こともあろうにスープ皿の中の鼠に、それを深く突き刺した。
鼠の体が不気味に震え、暗い血がゆっくりと広がっていく。


『ひっ……』

「うわあ、気持ち悪い。血が出てきちゃったわ。スープが綺麗な色になったと思いません?」


彼女は笑顔のまま、鼠の足を器用に切り分け、スプーンの上にスープと一緒に乗せた。
それを目の高さまで持ち上げ、私に向かってにっこりと微笑む。


「はい、あーんして?」


その笑顔が恐ろしかった。
どうして、こんな残酷なことができるのだろう。
いくら私に腹を立てていたとしても、総司様の側室がこんなことをする方だなんて信じたくなかった。
恐怖と悲しみが胸を締めつけ、身体は小刻みに震え、逃げ出したくても足は床に根を張ったように動かない。
頑なに口を開けない私に、ニコラ様はとうとう痺れを切らしたように乱暴に私の頬を掴んだ。
指先が痛いほど食い込み、頰の内側が歯に当たる。


「ほら、口を開けなさいよ」

『いやっ……やめ……っ』

「早く!」


使用人たちにも押さえつけられ、わずかに開いた口の隙間に、乱暴にスプーンが押し込まれた。
ぬるりとしたスープの感触と共に、鼠の肉片が舌の上に落ちる。
鉄のような血の味と、腐ったような悪臭が一気に口内に広がり、吐き気が喉の奥からこみ上げてきた。
私は必死にそれを押し戻そうとしたけど、無理だった。

 
『……うっ』


胃が激しく収縮し、口に含んだものをそのまま吐き出してしまった。
テーブルの上に、汚れたスープと鼠の欠片が飛び散り、私のドレスにも飛び、胸元を濡らす。
吐瀉物の臭いが鼻を突き、涙が溢れて視界をぼやけさせた。


「まあ……なんて汚い。私のドレスまで汚れちゃったわ。ちゃんと責任を取ってくださいね?」


ニコラ様の声が遠くから聞こえる中、私はただ震えながら、床に崩れ落ちそうになる体を必死に支えていた。
心の中では総司様の優しい顔が浮かんだけど、ここはあまりにも冷たく、残酷な世界だった。

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