5

その日の夜。
ニコラ様はドレスを汚した代償だと言って、ヴェルモンのドレスを一着持ち帰っていかれた。
彼女が迷うことなく選んだのは、あの日私が総司様の前で袖を通したドレスだった。

柔らかなアイボリーの絹地には、淡いエメラルドグリーンのレースが幾重にも重ねられ、胸元から裾へかけて繊細な草花の刺繍が流れるように施されている。
光を受けるたび、銀糸が静かに煌めき、翡翠色の装飾が春の若葉のように優しく揺らめく、本当に美しい一着だった。

あの日、総司様は柔らかく微笑んで言ってくださった。
私の優しい雰囲気に良く似合ってるって。
その言葉が、本当に嬉しかった。
それにドレスを彩る淡いエメラルドグリーンは、総司様の瞳の色によく似ていた。
だから余計にこの一着は私にとって大切な宝物になっていたのかもしれない。

でも、そのドレスはもう私の手元にはない。
ニコラ様の腕に抱えられ遠ざかっていく姿を見つめながら、胸が痛んだ。
断ることも考えたけど、衣食住のすべてを支えていただいている立場で、奥様の言葉に逆らうことなんて私には出来ない。
もしここで騒ぎになれば、私を預かってくださっている総司様の立場まで悪くしてしまう。
それだけは絶対に避けたかったから、胸の痛みごと飲み込むことしかできなかった。


そして迎えた翌朝。
食堂に続く長い廊下を歩きながら、気付けば身体がかすかに震えてしまうのを感じていた。
今日もまた同じことがあったらどうしよう。
もっと酷いことをされたら、どう立ち向かおう。
そんな不安ばかりが心を覆い尽くし、今にも足が止まりそうになった。
でも、ここで逃げてしまったら一生逃げ続けることになる。
怖いからと部屋へ閉じこもって、誰とも顔を合わせられなくなってしまう。
そんな弱い自分にはなりたくなかった。
だから大丈夫、と心の中で何度も自分に語りかける。
震える自分を励ますように歩きながら、私は食堂に向かった。


『おはようございます』


食堂に足を踏み入れると、席についていたのは今朝も奥様方三名だけだった。
朝の挨拶だけが静かに交わされ、広い食堂には食器の触れ合う微かな音だけが響いている。
私は胸のざわめきを押し隠すように椅子に腰を下ろし、目の前に並べられた朝食に視線を落とした。
卵料理と焼き立てのパン、それにサラダとコーンスープ。
見た限りでは、何もおかしなものは入っていない。
でも、昨日もそうだった。
あの時だって、一目見ただけでは何も分からなかった。

怖くて、どうしても手が伸びない。
思わず黙ったまま料理を見つめていると、向かいに座るニコラ様が私を見て、くすりと笑った。
その隣では、リーシェ様がじろりと私を睨みつける。


「何をしているんですの?さっさと食べてくださらないと、使用人の方々が片付けられなくて迷惑しますわ」

『はい、申し訳ありません』

「今日は昨日みたいな粗相をしないでくださいね?あと、折角用意して頂いたご飯を残すのもマナー違反ですからね」


ニコラ様は小首を傾げてそう言うと、ご自分のスープを召し上がり、「美味しい」と嬉しそうに微笑んでいらっしゃる。
私はひとまずパンを小さくちぎって口に運んだ。

……普通の味。
それだけで少しだけ胸を撫で下ろす。
けれど、一番怖いのはスープだった。
器の中を確かめるように何度かスプーンで静かに掬っていると、再びリーシェ様の視線が鋭く私に向けられる。


「何をなさっているんですか?お食事を探るような真似は、お世辞にも上品とは申せませんわ」

『……申し訳ありません……』

「東部では、そのようなお振る舞いも貴族の作法として教わりますの?随分とお下品ですのね」


胸の奥がちくりと痛む。
昨夜の出来事の方が、よほど品位を問われる行いではないですか、そう言い返したい気持ちはあった。
けれど、それはきっと相手の思う壺なのだろう。
私が感情的になれば、人質が問題を起こしたと言われ、この屋敷から追い出す口実を与えてしまうかもしれない。
それだけは避けなければならないから、私は心を決めると静かにスプーンを持ち上げ、意を決してコーンスープを口へ運んだ。


『……っ』


優しい甘みが口いっぱいに広がる。
恐る恐る器の中に視線を落としても、不自然なものは見当たらない。

……良かった。
これも普通のコーンスープだった。
サラダも葉を崩さないよう、さりげなくフォークでめくりながら確かめてみたけど、こちらも何事もなさそうで、ようやく少しだけ肩の力が抜ける。
その時、ニコラ様が思い出したように笑顔を浮かべた。


「それにしても、昨晩セラ嬢のお部屋に伺ったら、ドレスの数が物凄かったんですよ。それだけじゃなくて、アクセサリーも靴も帽子もいーっぱい。公爵家では何年もかけて揃えるようなお品を一度に抱え込んじゃうなんて、随分と欲張りさんなんですね」

「……まあ。東部の方は卑しい方が多いのかしら。向こうの方はいつも流行も遅れてますし、帝都のものが物珍しくてがっついてしまう気持ちはわかりますけれど」

「でも身の丈ってものがあるでしょう?そもそも北部と東部では美の認識そのものが違うもの。セラ嬢はそれをご存知なの?」


嫌味に紛れるように投げ掛けられた問いに、一度言葉が詰まる。
それでも黙っているわけにはいかず、私はゆっくりと顔を上げた。


『いえ、そのようなお話はこれまで伺ったことがございませんので存じ上げません。もし違いがあるのでしたら、ぜひ教えていただけますと勉強になります』


リーシェ様は口元へナプキンを添え、優雅な仕草で微笑む。
その笑みは美しいのに、どこか人を見下すような冷たさを帯びていた。


「北部では、美しい淑女の条件として、まず重んじられるのは背の高さですの」

『身長……ですか?』

「ええ。男性も旦那様のように背が高く、均整の取れた方ほど堂々として美しく見えるでしょう?それは女性も同じこと。ですから北部の名家では、幼い頃から栄養にも気を配り、健やかに背丈が伸びるよう教育の一つとして食事まで管理されますの。小柄であることを愛らしいと考える方は、あまり多くはありませんわ」


そう言われて改めて見渡せば、奥様方は三人とも私よりずっと背が高く、すらりとした立ち姿が本当に美しい。
東部では、身長についてそのようなお話を耳にしたことはなかった。
けれど考えてみれば、私は東部でも決して背の高い方ではない。


『そうだったのですね。皆様がお美しい理由が、分かったような気がいたします。奥様方は高身長でとても素敵ですから』


私が素直にそう告げると、ニコラ様は眉を下げてくすりと笑った。


「セラ嬢は身長が低いですよね。最初にお見かけした時、小さ過ぎて子どもが紛れ込んだのかと思っちゃいました」


悪気があるようにも、ないようにも聞こえる無邪気な声。
その一言は胸に小さく突き刺さったけど、ニコラ様は言葉を続けた。


「ご存知?総司様って、背が高くて大人っぽい女性がお好きなんですよ。セラ嬢とはまるで真逆ですね」


その言葉に続くように、リーシェ様も静かに微笑んだ。


「それに総司様は、落ち着きがあって洗練された女性を好むの。社交界でも堂々と振る舞い、流行や教養にも通じ、殿方を立てることのできる淑女を美しいとお考えなのよ。可愛らしさよりも気品、愛らしさよりも成熟した魅力を重んじる方ですもの」


総司様の好みなんて、私は知らない。
……別に、知る必要もない。
私と総司様のご縁は、とっくに途切れてしまっているのだから。

それなのに幼い頃の記憶が不意に蘇ってきた。
会うたび少しずつ背が高くなっていく総司様を見ては、私ももっと大きくなりたいと思って、毎日苦手なミルクを一生懸命飲んでいたこと。
そして頂いた手紙に、身長は気にしない、僕は優しい女の子が好きですと書かれてあって、嬉しかったこと。
その文字を何度も何度も読み返しては、胸を弾ませていた幼い日の私の記憶が顔を覗かせる。
思い出したくなかったはずなのに、その時の感情だけは今も鮮やかで、お二人の言葉を聞くたび胸の奥が静かに痛んだ。


『それでしたら奥様方は皆さま総司様のお好みにぴったりでいらっしゃるのですね。本当にお綺麗ですし、とても素敵だと思います』


微笑んでそう告げたけど、ふっと鼻で笑ったのは千様だった。


「それは本心なのかしら?」


ニコラ様やリーシェ様がどれほど私に棘のある言葉を投げかけても、千様だけは何も口になさらなかった。
その方が、初めて私に向けた言葉だった。
このお城へ来たばかりの頃、右も左もわからない私に穏やかな笑みを向けてくださった方だからこそ、その眼差しに宿る冷たさが、鋭い刃のように胸に突き刺さる。


『はい。本心です』

「そうだとしたら、あなたはよほどのお人好しなのね。この二人はあなたに嫌味を言っているのよ。それなのに、ずっと笑って受け流して……それが美徳だとでも思っているの?」


美徳だからではない。
もし私が奥様方と対等な立場にいる人間なら、きっと私も自分の思うことを素直に口にしていたと思う。
けれど、今の私は違う。
東部は講和条約を誠実に守る意思があるのかを見定められていて、その証として帝国に預けられた私自身もまた、人質として価値があるかどうかを量られている身だった。
ここで私が感情のまま振る舞えば、その責任は私一人では済まされない。
アストリアにも、ルヴァン王国にも、これ以上の不利益を与えてしまうかもしれない。
だからこそ私は、自分の言葉一つ、仕草一つさえ慎重でいなければならなかった。
それなのに総司様には失礼を働いてしまったから、今度こそ失敗は許されない。
私はここでは感情を殺してでも、模範的に振る舞わなければならない立場だと自分を戒めていた。


『嫌味だったのかどうかは、私にはわかりません。ですが北部で理想とされる美しさに、私が及ばないことは本当のことです』


そう言って小さく微笑み、三人の奥様方に視線を向ける。


『皆様はお綺麗で背も高くて、憧れてしまいます。実は私、子どもの頃から背が高くなりたくて、毎日たくさんミルクを飲んでいたんです。これだけ飲めばきっと伸びますよと乳母に励まされて、その言葉を信じて頑張っていたのですけれど……結局、あまり変わらなくて』


思い返せば可笑しくなり、少しだけ照れたように笑ってしまう。


『だから皆様のようにすらりとしたお姿を見ると、やっぱり素敵だなって思います。羨ましい気持ちはあっても、妬ましいと思ったことは一度もありません』


千様は私の言葉に何も返さず、静かに顔を逸らした。
その横顔だけで、私の答え方がお気に召さなかったことは十分に伝わってくる。
それでも、私にはこう答える以外の術がなかった。


「セラ嬢が私達をどう思おうとどうでもいいけど。でも昨日頂いたドレス、少し丈が短かったの。低身長に合わせて調節されていたから、そのままではニコラには着られなくて。結局、仕立て直しに出さないといけないから本当に面倒くさいわ。余計な手間ばかり増えちゃった」


ニコラ様は肩を竦め、大げさにため息をついてみせる。


「それにしても、ヴェルモンが東部のご令嬢なんかに衣装を仕立てるなんて驚きですわ。あのお店は紹介だけで入れるような場所ではありませんし、一見のお客様にドレスを売ることなど滅多にありませんもの」

「総司がうまく話をつけたんでしょ。昨日、店の者が彼女と総司が一緒に店に買いに来たって言ってたじゃない」

「……ああ、確かにそうですねえ。総司様のお顔があれば、ヴェルモンも断れないですもん。ほんと、どこまでも図々しい方なんですね」


その言葉を聞きながら、私は数日前の出来事を思い返していた。
ヴェルモンを訪れた時、総司様は私と相馬卿を店の外で待たせ、ご自分だけ店の中に入って行かれた。
随分長く戻ってこられなかったのは、あの時、私にも衣装を仕立ててもらえるよう店主に掛け合ってくださっていたからかもしれない。

本来なら、私が足を踏み入れることすら許されない店だった。
そこまで心を砕いてくださっていたというのに、私は総司様にあんな酷い言葉をぶつけてしまった。
胸の奥がきりきりと痛む。
あんなこと、決して言ってはいけなかったのに。


「まだ召し上がっているんですの?本当に相変わらずのんびりしていますわね」


リーシェ様の声に我に返り、私は慌てて残りの朝食に手を伸ばした。
できるだけ早く食べ終え、この場を離れたい。
そんな一心で卵料理を口に運び、半分ほど食べ進めた時だった。


『……や……っ』


歯先に、ぐにりと何か柔らかいものが触れた。
違和感に思わず口の中のものをお皿に戻すと、黄色い卵の中から姿を現したのは、艶のある黒い殻を持つ大きな甲虫だった。
丸い胴は熱で白く変色し、薄い羽は卵に貼り付き、折れ曲がった六本の脚は不自然に縮れている。
長い触角は半ばから千切れ、卵の表面へべったりと張りついていて、その異様な姿に全身の血の気が引いていく。

息が止まり、指先から力が抜けた。
ニコラ様だけが、その様子を見て満足そうに唇を吊り上げる。


「まあ、今度は虫が入っていたの?害虫同士、お似合いだわ」


震える声で、ようやく言葉を絞り出した。


『どうして、このようなことをなさるのですか……?』

「私は何も知らないわ。ねえ、皆様はご存じ?」


ニコラ様は愛らしく首を傾げながら周囲に問いかける。
奥様方も、使用人たちも、誰一人として口を開かない。
ただ何人かの侍女は口元を押さえ、愉快そうに笑いを堪えていた。


「でも、卵料理って卵液をよくかき混ぜて作るでしょう?その虫も一緒に、ぐるぐるぐるぐる沢山混ぜ込まれて焼かれたのでしょうね。お味はいかがでした?」


その一言に、背筋を氷でなぞられたような悪寒が走る。
恐る恐るお皿に目を落とすと、虫が入っていなかったはずの部分にも、小さく砕けた黒い脚や、硬い殻の欠片らしきものが黄色い卵に点々と混ざっていた。
半分以上食べてしまったということは、その欠片も私はもう口にしてしまったのだ。
そう理解した瞬間、胃の奥が激しく波打ち、喉の奥まで熱いものが一気にせり上がってくる。
思わず口元を両手で覆い、必死に息を殺した。

吐いてしまいそうだった。
けれどここで吐けば、また笑われる。
そう思うだけで必死に込み上げる吐き気を飲み込み、震える喉を何度も小さく上下させながら、私は涙の滲む視界でただお皿を見つめ続けることしかできなかった。


「ご馳走様。私は先に失礼するわ」


千様は小さく息をつくようにそう告げると、最後まで私を見ることなく静かに席を立ち、そのまま食堂を後にされた。
その背中を追うようにリーシェ様も優雅に立ち上がり、椅子を引く音だけが広い食堂に静かに響く。
そして最後に、ニコラ様がいつもの愛らしい笑みを浮かべたまま私の傍に歩み寄って来られた。

すぐ真横で足を止められて、私の身体は反射的にびくりと震える。
また無理やり食べさせられるのではないか。
そう思うだけで胃の奥がぎゅっと縮み、必死に込み上げる吐き気を押し殺した。
けれどニコラ様は何事もなかったかのように、柔らかな声で問いかけてくる。


「セラ嬢は、本当に背を伸ばしたかったの?」

『……は、はい』

「今でも、背が高くなれたら嬉しい?」

『はい……嬉しい、です……』


その返事を聞くと、ニコラ様は肩を震わせるようにくすりと笑った。


「そうなんだ」


細い指先が、食卓の中央に置かれていた白磁の大きなミルクピッチャーに伸びる。
朝食のために用意されていた、たっぷりの牛乳が入った銀の蓋付きのそれを軽々と持ち上げると、私は反射的に自分のグラスに目を向けた。

注いでくださるのだと思った。
けれど、その手は私のグラスを通り越し、ゆっくりと私の頭上に持ち上げられる。
そしてその意味を理解するより早く、白い奔流が一気に私に降り注いだ。


『……っ!』


凍りつくほど冷たい牛乳が頭頂から容赦なく浴びせられ、髪を一瞬で濡らし尽くす。
額を伝い、睫毛を濡らし、頬を流れ落ち、首筋へ、肩へ、胸元へと冷たい雫が次々と滑り落ちていく。
薄いドレスは瞬く間に牛乳を吸い込み、重たく肌に張り付き、背中を流れた冷たさに息が止まった。
あまりの衝撃に悲鳴さえ上げられず、喉の奥から漏れたのは小さく震える息だけだった。


『……ぁ……』


何が起きたのか理解できないまま、私はただ呆然と椅子に座ったまま動けない。
濡れた髪の先からは絶え間なく雫が滴り落ち、膝の上にぽたりぽたりと白い染みを広げていく。
ニコラ様は空になったピッチャーを卓上に戻し、満足そうに微笑んだ。


「はい。これでお望みどおり、ミルクをたくさんいただけましたね?」

『……ニコラ……さま……』

「あら、困ったわ。また私のドレスまで跳ね返りで汚れちゃった」


袖口に視線を落としながら、わざとらしく肩を落とす。


「ということですから、またセラ嬢のドレスを頂きに伺いますね」


悪戯が成功した子どものように笑うと、ニコラ様はくるりと踵を返す。
裾を優雅に揺らしながら去っていくその背中を、私は震えながら見つめることしかできなかった。
冷え切った身体は小刻みに震え、濡れた髪が頬に張り付き続ける。
視線を落とせば、食べかけの朝食は牛乳を浴びて無残に崩れ、白い液体がお皿から溢れそうなほど溜まっていた。
その真ん中には、先ほど卵料理から現れたあの黒く大きな甲虫が浮かんでいる。
白濁した牛乳の中で黒い殻だけが異様なほど鮮明に浮かび上がり、折れ曲がった脚が静かに揺れていた。
胸の奥がひどく締めつけられ、また吐き気が込み上げる。
それでも私は口元を押さえ、必死に耐える。
冷え切った指先をぎゅっと握り締めながら、誰もいなくなった食堂で、ただ静かに俯くことしかできなかった。


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