6

それからというもの、私への嫌がらせが収まることは、一度としてなかった。
湯気を立てて運ばれてくる料理のほとんどには、虫や焼け焦げた鼠の死骸、食べ残しと思われる残飯が当たり前のように紛れ込むようになり、食事の時間は恐怖へと変わっていった。
かろうじて口にできていたのは朝食のパンだけだったけど、それさえ長くは続かず、最近では青緑色の黴が端から端まで広がり、鼻を近づけるまでもなく酸っぱい臭いが漂っている。
結局、私は紅茶を数口飲んだだけで席を立つしかない日々を送っていた。

明日には紅茶さえ飲めなくなってしまうのではないかという不安が胸の奥に沈殿していく。
けれどどうすればこの状況を変えられるのか、その答えは考えても見つからなかった。

あれからも総司様は、一度も食堂に姿を見せていない。
それどころか、このアルディオン公爵邸でお見かけすることさえなかった。
帝国の剣であり帝国騎士団第一部隊を率いるお立場なのだから、日々お忙しくされているのだろう。
それは頭では理解していたけど、それでも一度だけでいい。
お会いして、あの日の非礼をお詫びしたかった。
そして出来るなら、私が今置かれている状況をご相談したかった。

けれど、その考えはすぐに総司様のお言葉を思い出して消えていく。
不満があるなら、自分で動けばいい。
文句を言っているだけでは、何も変わらない。
あの時の総司様は、確かにそう仰っていた。
だから今この状況を訴えたところで、自分でどうにかしろと返されるだけなのかもしれない。
そう思うと、頼る前に自分でできることを探すべきなのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。

けれど現実は厳しかった。
まともな食事を口にできない日々が続き、空腹を水だけで紛らわせる生活にも、とうに限界が近づいている。
立ち上がるだけで足元がふらつき、少し歩いただけで息が切れ、鏡に映る自分の頬は日に日に痩せ細っていく。
このまま何も言わず耐え続ければ、いずれ身体の方が耐えられなくなる。
だからこそ今日こそはきちんとお話をしよう。
そう心に決め、夕刻、食堂の扉を開いた。

白いクロスが掛けられた食卓には、すでに千様、リーシェ様、ニコラ様の三人が揃って席に着いていて、私も静かに一礼して自分の椅子へ腰を下ろす。
銀の蓋が順番に外されるたび、香ばしい香りが食堂いっぱいに広がり、狐色に焼き上げられた仔羊のローストには香草が美しく散らされ、透き通った琥珀色の肉汁がゆっくりとお皿に流れている。
焼きたての白パンは湯気を立て、黄金色の表面は香ばしく、添えられた発酵バターがゆっくりと溶け始めていた。
彩り豊かな根菜のローストに、香り高い茸のクリーム煮。
透き通る琥珀色のスープからは、優しい湯気が立ち昇っている。
どれも一流の料理人が腕を振るったことが一目でわかる、美しい晩餐だった。

勿論、私のお皿を除けば。
運ばれてきたスープの表面には、灰色の鼠が腹を上にして浮かび、細い尾が器の縁から力なく垂れ下がっている。
白パンには泥と煤が擦りつけられ、黒ずんだ黴がいくつも広がり、仔羊のローストには腐敗した野菜くずや食べ残しが山のように積み重ねられていた。
色鮮やかなはずの果物には踏み潰された虫が何匹も貼り付き、皿の隅では蠅が羽音を立てながら群がっている。
鼻を刺す腐臭が立ち上り、思わず息を止めた。

今日も、何一つ口にできるものはない。
それでも私は目を伏せることなく、小さく息を整えた。
逃げてはいけない、今伝えなければ。
そう自分に言い聞かせ、三人の奥様方を静かに見渡した。


『……皆様、お食事の最中に申し訳ございません。少しだけ、お時間を頂いてもよろしいでしょうか?』


ナイフとフォークを動かしていた三人の手が止まる。
緊張している私を見て、ニコラ様だけが面白そうに口元を緩めた。


『皆様にご迷惑をお掛けしてしまったことがございましたら、心よりお詫び申し上げます。ご不快なお気持ちにさせてしまったのであれば、どうか遠慮なくお聞かせください。改めるべきところがございましたら、きちんと改めたいと思っております』


一度だけ胸の前で手を重ね、ゆっくりと頭を下げる。
そして顔を上げると、震えそうになる声を懸命に押さえながら続けた。


『ですが……食事だけは、どうかこのようなことはおやめいただけませんでしょうか?』


目の前に並ぶのは、とても人が口にするものとは思えない食事だった。
腐臭を放つ残飯に、黒ずんだ虫の死骸、濁った汁の中へ浮かぶ鼠。
悪意だけを丁寧に盛り付けたようなその光景を見つめていると、胸の奥が締めつけられていく。
もしお父様がこの光景をご覧になったら、きっと酷く心を痛められる。
私を帝国へ送り出したことを、きっと一生悔やまれる。
だからこそ、このまま黙って耐え続けていてはいけない。
そのうち飽きてやめてくれることを願って大人しくしていたけど、身体が限界に近付いているからこそ、勇気を振り絞り三人の奥様方に向き直った。


『私が未熟で、お気に召さないことも多いのだと思います。それでも、どうか罰を与えられるのでしたら、食事以外の形にしていただきたいのです。私には、皆様に敵意を向けるつもりも、お立場を脅かすつもりもございません。ただ、この先も帝国でお世話になる身として、誠心誠意お仕えしてまいりたいと思っております。ですから、どうか……お願い申し上げます』


部屋で何度も言葉を選び、何度も言い直しながら考え続けた。
そして奥様方を刺激する言葉だけは決して使わない方がいいという結論に至った。
私はまだ結婚すらしていない。
だから、ご夫君を持つ方々のお気持ちを、本当の意味で理解しているとは言えないだろう。
その思いを否定するのではなく、せめて別の形へ変えていただけないか。
そう願うことしか、私にはできなかった。


「悪いけど、私は食事の件に何も関わってないわ。あなたに罰を与えるつもりもないし」


最初に口を開いたのは千様だった。
そう言い捨てると、何事もなかったように食事を続けられる。


「私も同じですわ。あなたに、それほど興味はありませんもの」


リーシェ様も気怠そうに肩を竦め、視線すら寄越さなかった。
お二人のお言葉に偽りはないように思えた。
少なくとも、ご自身で直接このようなことを命じている様子はない。
だからこそ私の視線は、自然とニコラ様に向いていた。


「ニコラも何も知らないですよ?ニコラは何も指示してません。今日だってお芝居を見に出掛けていて、先程帰ってきたばかりですし」


最初に嫌がらせが始まったきっかけは、間違いなくニコラ様だった。
けれど、ここまで行き過ぎた今となっては、本当にその都度指示を出しているわけではないのかもしれない。
奥様方のお気持ちを察した使用人の方々が、ご機嫌を取ろうとして勝手に続けている可能性も十分に考えられた。

私はゆっくりと椅子から立ち上がる。
そして食堂の壁際へ整列している使用人たち一人ひとりに視線を向けた。
そこには女性しかいなかったけど、侍女長もいらっしゃる。
皆、表情一つ変えず、まるで何事も起きていないかのように立っていた。


『皆様に、お話がございます』


静まり返った食堂に、自分の声だけが静かに響く。


『私はこのお屋敷に置いて頂いてから、毎日まともなお食事を頂くことができておりません。食事は生きていくために欠かすことのできないものです。ですから、それを口にすることさえ叶わない日々が続くのは、決して楽なことではありません』


お食事が運ばれてくるたびに、今日は頂けるのではないかとどうしても期待してしまう私がいる。
そのたびに食べられない食事が目の前に並ぶのは、私にはとても堪え難いことだった。
心も身体も削れて、今はただ食事がしたい。
その願いを胸に、震えそうになる声を懸命に抑えながら私は頭を下げた。


『私は皆様と争いたいわけではありませんし、ただ穏やかに、このお屋敷で与えられた日々を過ごしたいと願っております。ですから、どうか……このようなことはなさらないで頂けませんか?』


返事はなかった。
誰一人として私の目を見ることなく、まるで何も聞こえなかったかのように黙り込んでいる。
ある者は床に視線を落とし、ある者は窓の外に目を逸らし、またある者は無表情のまま微動だにしない。
その沈黙は、自分には関係ないと語っているようだった。


「……ふふっ」


静まり返った食堂に、小さな笑い声が落ちた。
顔を上げると、ニコラ様が肩を震わせて笑っている。


「皆さん、困っていらっしゃるじゃありませんか。セラ嬢は、人前で犯人探しを始めるおつもりなの?随分と恐ろしいことをされるのね」

『いいえ、そのようなつもりでは……』

「じゃあ、どういうつもり?」


ニコラ様は席を立つと、笑みを浮かべたまま、一歩、また一歩と私へ近づいてくる。


「皆の前で使用人を問い詰めれば、誰か一人くらい名乗り出ると思ったのかしら?」

『違います。私はただ、お話を……』

「お話?」


ニコラ様は私の言葉を遮るように声を上げる。


「あなたは今、アルディオン公爵家の使用人全員に、あなたたちが犯人でしょうと言ったのよ。ここでお世話になっている立場なのに、何様なのかしら」


その言葉に、食堂の空気がぴんと張り詰めた。
使用人たちの表情が険しくなり、ニコラ様の言葉に同調するかのように私に敵意の眼差しが向けられた。


「毎日真面目に働いている者まで疑われて、本当に可哀想」

「ニコラ様……」


若い侍女が申し訳なさそうに呟くと、ニコラ様は優しく微笑み返した。


「気にしなくていいのよ。悪くない人間ほど、こうして疑われてしまうものだから」

『違うのです。私は、皆様を疑いたかったわけではありません』

「でもセラ嬢が余計なことを仰るから、皆が傷付いてしまったのは事実だわ。今度からは、証拠もないのに人を疑うのはやめた方がいいんじゃない?」


周囲の使用人たちは誰一人反論せず、むしろ私から距離を置くように静かに視線を逸らしていく。
私は立ち尽くしたまま、唇を噛み締めることしかできなかった。
勇気を出して口を開いたはずなのに、状況は何一つ変わらないどころか、私は使用人たち全員を敵に回してしまったようだった。


『ですが私に出される食事はとても食べられるものではないのです』

「嫌だったら食べなければいいんじゃない?セラ嬢が食べなくても誰も困らないし、無理強いさせるつもりはニコラにもないの。ごめんなさいね、食事をするのも嫌なくらいこの公爵家が嫌いだなんて思ってもみなくて」

『そうではありません……っ、私はただ……』

「煩いわ……!」


高い、鋭い声が響き渡り、私の身体は思わずびくりと震えた。
ニコラ様の大きな瞳が、私を真っ直ぐに捉える。
そこに宿る光は、みるみるうちに細く、冷たく細められていった。


「さっきから聞いていれば、セラ嬢は総司様の奥方にでもなったつもり?あんなに立派な部屋を与えられて、あれほどたくさんの美しいものを買い与えてもらって。それなのに、この程度のことで不満があると言うの?人質のくせにどれほど図々しいのかしら。本来なら食事が用意されてるだけでありがたく思わないといけない身分でしょう?」


空気が凍りついたような静寂が、広間を覆った。
私は言葉を失い、ただ胸の奥で激しく波打つ痛みを感じていた。
この公爵家に連れてこられて以来、私はいつも邪魔者のように扱われ、自由を奪われ、尊厳さえ踏みにじられてきた。
それでも仕方ないと耐えてきたのに。


「私たちを傷つけた責任をどう取るつもりなのかしら。責任は取っていただかなくてはなりませんね」


ニコラ様は静かにそう告げると、怒りを押し隠したような微笑みを浮かべた。


「そう言えば、先程セラ嬢は罰を与えるなら食事以外の形にして欲しいって言っていたわよね」


その一言とともにニコラ様が小さく合図を送ると、控えていた侍女が二人、音もなく私に歩み寄ってくる。
逃げるように一歩退いた私の腕は、左右から逃がさないように掴まれた。


『離してください……っ』


振りほどこうとしても、何日も満足に食事を口にできていない身体には力が入らず、そのまま食堂の中央に置かれた椅子に座らされてしまう。
肩を押さえられ、立ち上がろうと身を起こせば、いつの間にか後ろへ回った使用人が椅子を支え、私の逃げ道を静かに塞いでいた。


『お願いです……』


震える声で懇願しても、返事をする者は誰ひとりいない。
重苦しい沈黙の中、ニコラ様はゆっくりと卓上に歩み寄り、並べられていた銀のフォークを一本手に取られた。
その仕草はまるで何事もなかったかのように優雅で、その静けさが胸の奥の恐怖をさらに大きくしていく。


「少しだけ、反省していただきますね?」


細い指先で銀のフォークを静かに弄びながら、ニコラ様は柔らかな笑みを崩されない。


『ニコラ様、お願いです。やめてください……』


涙で滲んだ声は、自分でも驚くほど弱々しかった。


「安心して?」


そう囁くと、ニコラ様は私の前へ静かにしゃがみ込み、穏やかな眼差しで私を見つめる。


「これからはご自分の言葉がどれだけ人を傷つけるのか、忘れないようしてくれればいいの」


冷たいフォークの先端が私の手の甲へ触れて、思わず息を呑む。
その直後には鋭い痛みが走り、私は耐え切れず小さく声を漏らした。


『……うっ……』


鋭いフォークが突き刺さり、表面の皮膚を裂き、肉に食い込む。
血がにじみ出し、ニコラ様はそれをさらにぐりぐりと、ゆっくりとねじり回した。
喉から漏れた声は、悲鳴というより、抑えきれない嗚咽に近かった。
激しい痛みが腕全体を駆け巡り、視界がぼやける。
温かい血が手の甲を伝って滴り落ちると、ニコラ様はまるで愛おしむようにその様子を見つめ、フォークをさらに深く押し込んだ。


「これがセラ嬢の不満に対する答えよ。これからはあなたみたいな人を保護してあげている公爵家の寛大さを、もっと感謝してね?」


痛みの中で、私はただ唇を震わせ、涙を堪えることしかできなかった。
総司様のいないこのお屋敷の中で、私の運命はますます暗く、冷たいものへと変わっていくようだった。

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