7

セラ嬢と言い争いになってから、気づけば三週間近い月日が流れていた。
東部との交渉をようやく終え、本来ならば久しぶりに帝都に留まれるはずだった。
けれど、そんなささやかな望みを許すほど帝国は穏やかではなく、北方国境近くで人を襲う凶悪な盗賊団の討伐命令が急遽下り、第一部隊が出動せざるを得なくなった。
連日の行軍に、荒れ果てた山岳地帯での掃討戦。
朝靄の中を馬で駆け、日が沈めば野営を繰り返す日々は決して楽ではなかったけど、正直に言えば都合が良かったのも事実だった。
あの子と顔を合わせる勇気なんて、あの口論のあとには少しも残っていなかったから。
しばらく離れていれば、お互い少しは頭も冷えるだろう。
そんな都合のいい言い訳に逃げていたけど、三週間という時間は思っていた以上に長く、離れれば離れるほど、あの子が今どんな顔で過ごしているのかが気になって仕方なくなっていた。

そしてようやく帝都へ帰還した頃には、街はすでに夜に包まれ、街の灯だけが静かに闇を照らしていた。


「やっと帰ってきたんだ。このまま解散なんてもったいねぇ、隊長も一杯付き合えよ!」


遠征を終えた解放感からか、皆はすっかり上機嫌だった。
この時間から城へ戻ったところで、セラ嬢はもう休んでいるだろうし、仮に起きていたとしても、今さらどんな顔で部屋を訪ねればいいのか僕には分からない。
結局、その現実から目を逸らすように三木の誘いに乗り、皆と酒場へ向かうことを選んだ。
琥珀色の酒を静かに口へ運びながら、ぼんやりとグラスを眺めていると、向かいに座った三木が口元を吊り上げる。


「で?東部のご令嬢とは、その後どうなんだ?」

「どうも何も、この数週間は君たちと一緒に遠征だったでしょ。会ってすらいないよ」


肩を竦めて答えると、武田が鼻で笑いながら杯を揺らした。


「相馬が申しておったぞ。隊長があの娘を泣かせたとな」


思わず眉を寄せ、相馬に視線を向ける。
視線を受けた本人は居心地悪そうに頭を掻き、小さく肩を縮めた。


「……申し訳ありません。酒の席で尋ねられまして、つい口を滑らせてしまいました」

「まあ、別にいいけど」


責める気力もなかった。
事実だし、今さら隠したところで意味もない。


「なあ、なんで泣かせたんだ?まさか、また振られたのか?」


無邪気に笑う龍之介に、僕は穏やかに笑みを返した。


「龍之介は、そんなに僕に斬られたいの?」

「じょ、冗談だって!悪かった、隊長!」


慌てて両手を振る姿に苦笑しながらも、振られたなんていう生ぬるい話なら、どれほど気が楽だっただろう。
あの子の瞳に映ったのは、完全な拒絶だった。
面と向かって顔を見たくないと言われてしまえば、さすがに堪える。


「隊長、今夜は公爵邸に戻られますよね?」

「うん、そのつもりだけど」

「それでしたら、明日にでも一度セラ様とお話しされたほうがいいですよ」

「明日は朝食を済ませたら、すぐ皇帝陛下の名代として国境砦の査閲に向かわなきゃならないんだ。戻るのは夜になるよ」

「でしたら、明後日でも」

「明後日は皇帝陛下主催の秋の閲兵狩猟会だよ」


そう言うと、三木が「ああ」と思い出したように頷く。
帝都近郊の広大な王立演習林で開かれる恒例行事で、騎士団は警護と護衛を兼ねて随行し、貴族たちは馬で森を巡りながら狩猟や騎乗競技を楽しむ。
東部との講和が結ばれた今年は、その友好を示すためセラ嬢も公賓として参加することが決まっていた。


「終わったら話せばいいじゃないか」


龍之介は軽く言うけど、考えるだけで気が重くなる。


「……そうだね」


僕が部屋を訪ねたら、ちゃんと顔を見せてくれるだろうか。
また扉を閉ざされでもしたら、さすがに笑えない。
もっとも、セラ嬢を帝都に迎え入れた直後に遠征任務が下るなんて、予想していなかった。
城をこれほど長く空けることになったせいで、胸の奥には言いようのない落ち着かなさだけが残り続けていた。

もちろん、何かあればすぐ僕のもとへ報せが届くよう手は回してあるし、セラ嬢も僕が同行しない限り城外に出られないよう、使用人から騎士に至るまで厳命してある。
軟禁同然の暮らしを強いていることに後ろめたさがないと言えば嘘になるけど、公爵邸の敷地内にいる限りは誰もあの子に手出しはできないし、危険に巻き込まれることもない。
それが今の僕にできる最善だと、自分に言い聞かせることしか出来なかった。


そして翌朝。
数週間ぶりに食堂に足を踏み入れると、長い食卓には磨き上げられた銀のカトラリーが整然と並べられているだけで、まだ料理は運ばれてきていない。
妙に落ち着かない気持ちのまま椅子に腰を下ろしていると、ほどなくして千とニコラ、それにリーシェが連れ立って姿を現し、僕を見るなり三人とも目を丸くした。


「まあ、総司様!お帰りになっていらしたのですね。ニコラなんて、毎日のようにお帰りを心待ちにしておりましたの!」


朝から相変わらず賑やかだなと思いながら、僕は苦笑して頷く。


「お帰りなさいませ。長旅、お疲れ様でございました。旦那様のお顔を久しぶりに拝見できて、とても嬉しゅうございます」


リーシェも柔らかく微笑んでそう言ったけど、千だけは僕と目が合った途端にふいと視線を逸らし、どこか刺々しい声で短く告げた。


「……お帰りなさい」


声音は淡々としていて、歓迎しているようには聞こえない。
そういえば、今さらになって思い出した。
あの日、セラ嬢のことで口論になって以来、千の機嫌も損ねたままだったんだ。
三週間も経てばさすがに忘れているだろうと思っていたのに、律儀というべきか執念深いというべきか、まだ怒っているらしい。
正直、その頑なさには少しうんざりしてしまう。


「ただいま」


ひとまずそれだけ返しながら、僕の視線は自然と食堂の扉に吸い寄せられていた。
今にもセラ嬢が姿を見せるんじゃないかと、そのたびに胸が小さく跳ねるのに、開く扉から現れるのは使用人ばかりで、待ち人の姿だけはいつまで経っても見えない。
やがて朝食がすべて並べ終えられた頃、一人の使用人が静かに歩み寄り、深く一礼して口を開いた。


「恐れながら、セラ様より、本日はご気分が優れないため、お部屋にて静養なさりたいとのお申し出がございました。つきましては、朝餐へのご出席はお控えになるとのことでございます」


……え。
気分が優れない?
その一言で、思考が一度ぴたりと止まった。


「気分が優れないって、いつから?彼女は大丈夫なの?」

「昨夜まではお変わりなくお過ごしでございました。今朝、お加減が優れないとのお申し出がございましたが、詳しいご容体までは把握いたしかねます」


申し訳なさそうに頭を垂れた使用人の言葉を聞いて、僕がいるから食堂に来なかったのではないかという嫌な可能性が頭を巡る。
今にもセラ嬢の部屋に様子を見に立ち上がりそうになっていると、ニコラが眉を下げて話しかけてきた。


「セラ嬢ね、最近ほとんどお食事を召し上がってくださらないんです」

「……え?」

「何度も、少しでも召し上がった方がお身体のためですよってお声掛けしているんですけど、食堂へいらしてもほんの少し口をつけるだけで、そのままお部屋に戻ってしまわれるんです。ねえ、皆さん」


同意を求められた侍女たちも、揃って困惑したように頷いた。


「食べないって、どうして?」

「このお屋敷での暮らしが、よほどお辛いのではないでしょうか。お声を掛けても、いつもどこかお顔が晴れませんし……」

「でも、食堂には毎回来ていたんだよね?」

「はい。毎食欠かさずお越しくださっておりましたわ。本日お姿が見えないのは、旦那様がお戻りになったことをご存じだったのかもしれませんね」


リーシェの言葉を聞いて、嫌な予感は確信へと形を変えていく。
あの日、セラ嬢は珍しく感情を露わにして、涙を零しながら僕を拒んだ。
僕は時間が経てば少しは落ち着くだろうと高を括っていたけど、もしあの出来事が僕の想像以上に彼女の心を深く傷付けてしまっていたのだとしたら、この城で暮らすことそのものが耐え難くなっていてもおかしくはない。
だから食事を拒み、そして僕がいるから食堂にも来ない。
そう考えると、今聞いた話には思い当たる節がありすぎて、僕は誰にも悟られないよう奥歯を強く噛み締めた。


「千。君はセラ嬢を見ていて、何か気付いたことはない?」


正直、ニコラやリーシェより、こういう時に一番当てになるのは千だった。
昔から人の些細な変化によく気付くし、感情を読むことにも長けている。
だからこそ尋ねたのに、千は紅茶を一口含むと、こちらを見ることもなく淡々と答えた。


「さあ」

「さあ、じゃないでしょ。三週間も一緒にいて、何も気付かなかったなんてことはないよね」

「総司が言ったんじゃない。私から必要以上に関わるなって。私はその言葉通りにしていただけよ」

「……ああ、そう」


そこで返す言葉はなくなった。
結婚前は、もっと物事を割り切れる性格だと思っていたのに、案外こういうところは頑ななんだなと、胸の内で小さく息をつく。
けれど、そんなことよりも頭を占めているのはセラ嬢のことだった。

今からでも部屋に様子を見に行くべきかと悩みもした。
でも、もし本当に僕を避けるために食堂に来なかったのだとしたら、押しかけたところで返って彼女を追い詰めるだけだ。
仕事に向かう前に、あの拒絶をもう一度突きつけられる勇気は、今の僕にはなかった。

結局、行き場のない焦燥だけを胸の奥に押し込めたまま、目の前に並べられた朝食に手を伸ばす。
けれど何を口に運んでも味などほとんど感じられず、気付けば考えることといえばセラ嬢のことばかりだった。
そんな時、沈黙を破るように、ニコラが甘えるような声で僕を呼んだ。


「ねえ、総司様?」

「何?」

「セラ嬢には、随分たくさんドレスをお与えになったんですね。ニコラ、少しだけ複雑なお気持ちになってしまいました」


……朝からそんな話か。
内心ではうんざりしながらも、妙な詮索をされるわけにはいかない。
僕は表情だけ穏やかに緩めると、何気ない口調を装って答えた。


「どうして?君には毎月十分な手当を渡してる筈だよ。その中で気に入ったものがあれば、好きなだけ誂えればいいじゃない」

「それでも、ヴェルモンの新作をあれほど何着も、それに宝石まで揃えるなんて、ニコラにはとてもできません」

「仕方ないよ。セラ嬢は帝都に来た時、身の回りの品を持たずに来たんだから。それに陛下からも、彼女の立場に相応しい衣装や装身具は、一切不足のないよう僕が責任を持って整えるよう仰せつかっている。あれは僕個人の贈り物というより、主人として当然果たすべき務めなんだ」

「ええ……?でもぉ……」


なおも納得できないといった様子で頬を膨らませるニコラに視線を向けると、ふと彼女が身に纏っているドレスが目に留まる。
見覚えがあるそれは、以前セラ嬢のためにヴェルモンで誂えた一着だった。
初めて袖を通した彼女を見て、よく似合っていると素直に伝えたら、少し照れたようにはにかみながら頬を染めてくれたあのドレス。
その記憶が鮮やかに蘇り、胸の内に言いようのない違和感が広がっていった。


「……それより、ニコラ。そのドレスはセラ嬢のものだよね。どうして君が着ているの?」


自分でも気付かないうちに、声はわずかに冷たさを帯びていた。
その変化を感じ取ったのか、ニコラは一瞬だけ肩を揺らしたものの、すぐに柔らかな笑みを作って答える。


「このドレスは、セラ嬢がくださったんですよ」

「本当に?どうして?」

「以前、夕食のお席でセラ嬢が誤ってニコラのドレスを汚してしまわれたんです。その時のお詫びにと、お譲りくださったんですよ。このドレスはあまりお好みではなかったみたいで、遠慮なさらなくて結構ですよって仰ってくださったものですから、ありがたく頂戴いたしました」


……好みじゃない?
あの日、僕がよく似合っていると伝えた時、セラ嬢は嬉しそうに微笑んでいた。
あの笑顔は、全部僕に気を遣って見せてくれたものだったっていうの?

いや……違う。
僕の知っているセラ嬢は、人から贈られたものを、何のためらいもなく他人に譲ってしまえるような子じゃなかった。
あの時に見せた笑顔だって、作り物には見えなかったし、少なくとも僕にはそう信じられた。

それでも、僕たちは五年以上もの歳月を互いを知らないまま過ごしてきた。
変わったのは僕だけじゃない。
僕が知っているセラ嬢は、もう過去の彼女でしかなくて、今の彼女は僕の知らない日々の中で少しずつ違う人になってしまったのかもしれない。
そんな考えが胸を掠めるだけで、息が詰まりそうになる。


「それより総司様。このドレス、ニコラに似合っていますか?」


弾んだ声とともに、ニコラは食事の途中だというのに席を立ち、僕の目の前まで歩み寄ると、裾を軽く摘まみながら嬉しそうにくるりと一回転してみせた。
でも、その姿を見ても心は少しも動かなかった。
セラ嬢が袖を通した時には、息を呑むほど美しく見えた一着なのに、今は同じドレスとは思えないほど印象が違う。
上質な生地も、繊細な刺繍も、その気品を引き立てるどころか、どこか浮いて見えてしまい、まるで宝石を安物の箱に無理に押し込めたようなちぐはぐさばかりが目についた。


「僕はドレスの良し悪しなんて詳しくないよ」

「ええ?」

「でもニコラなら、こういう落ち着いた色よりも薔薇色や空色みたいな華やかな色の方が君らしく映えるんじゃないかな」


遠回しな言い方だったけど、それ以上取り繕う気にもなれなかった。


「もう、総司様ったら」


ニコラは唇を尖らせ、不満そうに頬を膨らませる。
けれど、その拗ねた様子すら、今の僕にはどうでもよかった。
頭から離れないのは、食事も満足に摂らず、一人部屋に閉じこもっているセラ嬢のことだけだった。
あのドレスを本当に好まなかったのか、それとも誰かに譲らざるを得ない理由があったのか、確かめたい。
だけど、その答えを聞く資格が今の僕にあるのかと問われれば、自信を持って頷くことはできなかった。
小さく息を吐き出しても、胸につかえた重苦しさは少しも消えてくれなくて、結局その日の朝食は、何を食べたのかさえ思い出せないまま終わってしまった。

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