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あの日以降も、私の食事は改善されることはなかった。
一日に口にできるものは、朝に与えられる小さなパンが一つだけ。
それすらカビが生えていれば食べることは叶わないこともあり、日に日に身体は痩せて、立ち上がるだけでも力を振り絞らなければならないほど衰えてしまっていた。

それに食堂に足を運べば、ニコラ様は何かにつけて私の振る舞いを咎め、罰と称して熱い紅茶を腕に浴びせることもあれば、この前と同じようにフォークの先を容赦なく突き立てることもある。
そんな日々が幾日も続き、私の両腕には赤く爛れた火傷の跡と、小さな傷が幾重にも刻まれ、白かった肌は痛々しい痕ばかりになってしまっていた。


『……うっ……』


涙を流したところで何も変わらないと分かっているのに、どうすればこの苦しみから抜け出せるのか、その術だけはどうしても見つからなかった。
騎士団に助けを求めようと考えたこともある。
けれど部屋の扉を開ければ、侍女たちがまるで私を監視するかのように何人も立っていて、一歩たりとも外に出ることは許されない。
それなのに食事の時間だけは別だった。
どれほど拒んでも半ば引きずられるように食堂に連れて行かれ、少しでも足取りが遅ければそのたびに熱い紅茶がかけられる。
そんな苦痛が、一日に何度も繰り返されていた。

そんな中、今日の朝だけは不思議なことが起きた。
侍女が部屋にやって来ると、「お顔の色が悪いので、本日はお部屋でお休みください」と告げてきた。
いつもならどれほど体調が悪くても部屋に残ることは許されないからこそ、その言葉はあまりにも不可解だった。

それでも今朝だけは、吐き気を堪えながら食べられない食事を前に座る必要もなく、熱い紅茶を浴びせられることも、傷口に新たな痛みを刻まれることもない。
ただそれだけのことが、涙が滲むほど嬉しかった。
重たい身体をゆっくり起こすと、水差しに震える手を伸ばし、何杯も何杯も水を飲んだ。
せめて渇いた身体だけでも潤せば、少しは楽になれるような気がしたから。

それから一時間ほど経った頃だろうか。
屋敷の外を歩くことは許されなくても、せめて陽の光だけでも浴びたくて、私はふらつく足取りのままバルコニーに出た。
柔らかな朝の日差しに目を細め、何気なく庭に視線を向けた時。
庭の向こう、公爵邸の正面玄関に、見覚えのあるお二人の姿が映った。


『……え?』


総司様。
そして、その隣には相馬卿。
総司様は遠征に出られていて、しばらくお屋敷には戻られないと聞いていた。
それなのに、いつの間にお帰りになっていたんだろう。

そこで頭の中にひとつの考えがよぎる。
もしかしたら、今朝私が部屋で休むよう勧められたのは、総司様が食堂にいらしていたからではないだろうか。
私と総司様が顔を合わせないように、誰かがそう仕向けたのかもしれない。
そう考えるほど、今朝の不自然な気遣いにも説明がついてしまう。

お二人は騎士の正装に身を包み、今にも屋敷を発たれるところだった。
また遠征に向かわれるのだとしたら、次にお会いできるのは何週間も先になるかもしれない。
そう思ったら、胸の奥から込み上げた想いを抑えることなどできなかった。


『総司様……っ』


精一杯呼びかけたつもりだった。
けれど今の身体では思うように声が出なくて、か細く頼りない響きだった。
それでも総司様は、その小さな声に気付いてくれた。
はっと顔を上げ、真っ直ぐに私のいるバルコニーに視線を向けてくれる。
その眼差しと重なった時、張り詰めていた心の糸が切れそうになるほど胸が熱くなり、堪えていた涙が静かに瞳いっぱいに滲んでいった。


『総司様……』


ようやくお会い出来た。
その姿を目にした途端、胸の奥に押し込めていた想いが一気に込み上げてくる。

ずっと、お帰りを待っていたんです。
謝りたいことも、きちんとお話ししたいことも、たくさんあるんです。
どうか少しだけ、私のお話を聞いてください。
そう願っているのに、喉の奥は締めつけられたように苦しくて、唇を震わせても声は思うように形になってくれなかった。

だけど諦めきれず、私は三階のバルコニーの手すりを強く握り締める。
総司様は遥か下、右手の庭園の出入り口付近にいらして、この距離では声が届くはずもない。
それなのに少しでも距離を縮めようと身を乗り出し、ただその姿を見つめ続けた。

こちらを見上げていた総司様は、何かに突き動かされるように一歩、また一歩と庭園の中に足を進めた。
けれどその歩みは自然と速くなり、長い外套を翻しながら駆け出すと、私の声が届く場所まで急いで来てくださる。
その間も総司様の視線は一度たりとも私から逸れることはなく、その瞳に心配の色を滲ませながら呼びかけてくださった。


「セラ嬢、体調は?」


本当は、あまり良くない。
けれど今はそれよりも総司様と少しだけお話がしたかった。
その一心で唇を開きかけた時。


「総司様……!」


聞き慣れた明るい声が庭園に響き、私はびくりと肩を震わせる。
総司様のことばかり見つめていて気付かなかったけど、ニコラ様は庭園を散歩していらしたらしい。
日傘を差した侍女を従えた彼女は、総司様を見つけるなり嬉しそうに駆け寄り、そのまま何のためらいもなく彼の腕の中に飛び込んだ。


「……うわ、なに?」

「お仕事、気をつけて行ってらしてくださいね。ニコラ、良い子に待っています」

「ああ、うん」


総司様に抱きついたままのニコラ様は、ふと私に視線を向ける。
けれど、その瞳に宿っていたのは隠しようもない怒りと敵意で、その冷たい眼差しに射抜かれた時、背筋にぞくりと寒気が駆け抜けた。
このままここにいたら、きっとまた何かされる。
そんな不安が胸をよぎった時には、身体は考えるより先に動いていて、私は逃げるように部屋の中に戻っていた。


『どうしよう……』


ニコラ様に気付かれてしまった。
もしかしたら、私が何かを伝えようとしていたことまで勘付かれてしまったのかもしれない。
それでも、今の状況だけは何としても総司様にお伝えしなければという焦りだけが胸の奥で膨らんでいく。
そう考えているうちに、しばらくして私の部屋の扉が静かに開かれた。


「セラ嬢、ご機嫌よう」


姿を現したのは、総司様が私に買ってくださった、あのドレスを身につけたニコラ様だった。
食堂で顔を合わせることはあっても、ドレスを譲った日を除けば、彼女がこの部屋を訪ねてきたことなんて一度もない。
それなのに今日は、私の返事を待つこともなく当然のように室内に入り込み、まっすぐ私を見つめている。


「総司様ならお出掛けになったわ。今夜もお帰りは遅いみたい」

『そうなんですね……』

「あれ?そんなに残念そうな顔しちゃって。まさか総司様に色目でも使うつもりだった?」

『違います。そのようなつもりはありません』

「そうだよね。そんなことしたら、ニコラ許さないもの。でもさっき、バルコニーで何を話そうとしてたの?」

『風に当たっていたら偶然総司様のお姿が見えたので、ご挨拶をしようと思っただけです』


私の目の前まで歩み寄ったニコラ様は、花が綻ぶような愛らしい笑みを浮かべたまま、私を見下ろした。
怯えてはいけない。
そう思って視線を逸らさずにいた直後、身体を強く突き飛ばされる。
力の入らない身体は受け身を取ることもできず、そのまま床に尻もちをついてしまった。

そして息を呑みながら顔を上げた刹那。
鋭く風を裂く音が耳元を掠め、目の前には日傘の石突が突き付けられていた。
磨き上げられた金属の先端は細く鋭く、ほんの少し押し込まれるだけで肌など容易く裂いてしまいそうで、全身が恐怖に凍りつく。


「ほんと嫌になっちゃう。どうしてあなたみたいな東部の女に、総司様の私生活を見られないといけないの?何も見えなくなるように、その目をぐちゃくちゃに潰したいくらい」

『ニコラ……様……』

「総司様のお名前を勝手に呼ぶその口も左右に裂いてあげたいし、総司様の声を聞くその耳も削ぎ落としてあげたいわ。そうすれば、いくら邪魔でもこの部屋で暮らすことくらいは許してあげてもいいよ?」


甘く鈴のような声で紡がれる言葉とは裏腹に、その瞳だけはぞっとするほど冷たく狂気を宿していて、私は息をすることすら忘れてしまう。
そんな私を見下ろしていたニコラ様は、いつものようにくすりと愛らしく笑うと、ようやく石突を引いた。


「昨晩ね、総司様が私のお部屋に来てくださったの。朝までずっと一緒だったわ。ニコラに会いたくて仕方なかったみたいで、たくさん可愛がってくださったのよ。もう、最高に幸せな夜だった」


夢でも語るような幸せそうな声を聞きながら、胸の奥が軋む。
その痛みの理由だけは、考えないようにしていた。
ニコラ様は裾を優雅に翻すと、胸元を撫でながら微笑む。


「それに、このドレスも私の方がずっと似合うって。まるで最初からニコラのために仕立てたみたいだって褒めてくださったの」


以前、このドレスを試着した時。
総司様が掛けてくださった言葉が嬉しくて、私はあれから何度も思い返していた。
あの言葉をそのまま信じ切っていたわけではないけど、このドレスが数ある美しい衣装の中で一番好きになったのは、間違いなく総司様のお言葉があったからだった。
だからこそ、ニコラ様の言葉は胸の奥深くに突き刺さるものだった。


「総司様はね、他の二人よりニコラを一番に愛してくださってるの。だからセラ嬢が何を言ったって無駄。もしニコラを悪者みたいに言いつけたりしたら、総司様はとってもお怒りになると思うわ」

『私は……総司様に何も言うつもりはありません』

「ええー?本当かなぁ?」


可愛らしく首を傾げたニコラ様は、ふっと口角だけを吊り上げる。


「明日開かれる皇帝陛下主催の閲兵狩猟会。セラ嬢も来賓として出席しないといけないって、さっき総司様が仰っていたの。でも総司様がお仕事をなさっている最中に余計なことをされたら困るなぁって思ったんだよね」


甘えるように柔らかな声なのに、その微笑みだけは氷のように冷たかった。


「だからこれからは侍女を数人、あなたに付きっきりで仕えさせることにしたの。お世話をするためじゃないわ。あなたが何をして、誰と話して、どこへ行くのか、全部見張るため。少しでも妙な真似をしたら、すぐにニコラの耳に入るようにしてあるから、そのつもりで行動した方がいいよ」


その言葉に、胸の奥がひやりと冷えていく。
もう私にはほんの少しの自由すらないのだと、その笑顔が何より雄弁に物語っていた。


「まあ、仮に総司様に告げ口したとしても、ニコラがやったって証拠なんてないけどね。それにニコラは何もしてないし?セラ嬢が構ってほしくて、自分で傷つけたんだよね?」


私の腕には多数の傷や火傷の痕がある。
けれど、このお屋敷に私の味方は一人もいない。
皆が口を揃えて私が自分で傷付けたと言えば、それが真実になってしまう。
その事実を突き付けられ、喉の奥が苦しく詰まった。


「それにね、セラ嬢が公爵家での暮らしが辛くて、お食事もほとんど召し上がっていないことは、さっき総司様にもちゃんとお話ししたの。でも総司様、全然気にしていらっしゃらなかったわ。体調が悪いって聞いても、お見舞いにも来ないんだもの。セラ嬢には、これっぽっちも興味がないみたい」


その言葉に胸が締め付けられ、私は唇を強く噛み締めた。
そんな私を見て満足そうに目を細めると、ニコラ様は楽しげに続ける。


「でも当然だよね。セラ嬢って総司様のお好きな女性とは正反対だもの。しかも今は痩せ細ってますます貧相だし、毎日お部屋に引きこもってるだけで何の役にも立たない。こんな子を預からないとならないなんて、総司様が本当に可哀想」


心を抉るような言葉を淀みなく並べ終えると、ニコラ様は花が咲くようににっこりと笑った。


「でも総司様はお忙しくて、あまりお屋敷にはいらっしゃらないでしょう?だからセラ嬢のお世話は、実質ニコラがしてあげてるようなものなんだから。もう少し感謝して、身の程をわきまえて静かに暮らしてくださいね」


そう言い残すと、ニコラ様は優雅にドレスの裾を翻し、そのまま部屋を後にした。
静寂だけが残された部屋で、私は立ち上がることもできないまま、その場に座り込んでいる。
頭の中では、さっき投げ掛けられた言葉ばかりが何度も何度も繰り返されていた。


私は……何を期待していたんだろう。
総司様に事情をお話しすれば、このお屋敷での暮らしが少しでも穏やかになるよう、取り計らってくださるかもしれない。
そんな都合の良い期待を、どこかで抱いてしまっていた。

けれど総司様にとって、このお屋敷で暮らす方々は長い年月を共に過ごしてきた大切な存在で、私は講和条約によって預けられた、ただ一人の部外者に過ぎない。
そんな私の言葉を重く受け止めていただけるはずもなく、もしお話ししたとしても、お仕事でお忙しい総司様を困らせてしまうだけなのかもしれない。

先ほど庭園で目にした、ニコラ様と総司様の親しげな姿が脳裏によみがえる。
あの時、総司様のお顔までは見えなかったけど、きっと幼い頃の私が大好きだった、あの優しく穏やかな笑顔をニコラ様に向けていらしたのだろう。
そう思うだけで胸の奥がまた苦しくなった。

もし私がニコラ様のことをお話しすれば、総司様はまた私を鋭い目で睨むかもしれない。
また言い争いになって、冷たい言葉を向けられてしまうかもしれない。
それだけは、どうしても嫌だった。
けれどこのまま大人しくしていたら、私は遠くないうちに心も身体も耐えられなくなってしまう。
だからこそ、明日の閲兵狩猟会は、お屋敷の外に出られる大事な機会かもしれないと思った。

皇帝陛下が主催なさる催しである以上、陛下のお姿を拝見できる可能性はある。
もし一瞬でもお言葉を賜る機会が得られるのなら、私は公爵令嬢として正式に謁見を願い出よう。
そして総司様やニコラ様を非難するのではなく、講和条約によって帝国に迎えられた者として安心して暮らせる環境を与えていただきたいこと、条約の名に恥じぬよう私も誠意を尽くすつもりでいることを、包み隠さずお伝えしたい。
それが誰も傷つけず、この状況を変えられる、私に残されたたった一つの望みのように思えた。


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