9
国境砦の査閲に向かう道すがら、馬を走らせながらも先程見たセラ嬢の姿が頭から離れなかった。
遠くから見上げただけだから思い違いかもしれない。
それでも、あの時の彼女は今にも泣き出してしまいそうな顔をしているように見えたから、気づいた時には引き寄せられるように、彼女の部屋の真下まで駆けつけていた。
それなのに、間の悪いことにニコラが僕を呼び止めた。
適当にあしらってすぐに顔を上げたつもりだったけど、その僅かな間にセラ嬢は部屋へ戻ってしまったらしく、バルコニーにはもう誰の姿もなかった。
せっかくセラ嬢の方から僕を呼び止めてくれたのに、本当に余計なことをしてくれる。
抱き着いてくるニコラを手で振り払いながらも、今すぐセラ嬢のところに向かいたい気持ちばかりが募っていった。
だけど今日は皇帝陛下の名代としての役割があり、自分の都合だけで動くわけにはいかない。
胸の奥に引っ掛かるものを抱えたまま、僕は屋敷を去るしかなかった。
そしてその日の務めを終えて城に戻った頃には、とっくに日付が変わっていた。
セラ嬢の部屋を見上げても、窓の灯りはすでに消えている。
深夜に部屋を訪ねるわけにもいかず、結局その日は一言も話せないまま終わってしまった。
次の日になり、帝国で毎年執り行われる閲兵狩猟会の日を迎えた。
この狩猟会は、皇帝陛下自らが諸侯や貴族を招き、帝国各地の騎士団を閲兵するとともに、狩猟を通して騎馬技術や弓術を競う伝統ある行事だ。
騎士たちは日頃の鍛錬の成果を示し、各家門は優秀な騎士や軍馬を披露する。
また皇族や諸侯が一堂に会することから、外交や社交の場としての意味合いも大きく、帝国中の有力者が顔を揃える一年でも屈指の催しだった。
僕は帝国騎士団第一部隊隊長として、閲兵の指揮と皇帝陛下の警護を任されている。
各騎士団が定められた順に整列し、行進や騎乗演武を終えた後は、狩猟地に移動する参加者全体の警備を第一部隊が担う。
狩猟中も危険が及ばないよう各方面に部下を配置し、不測の事態が起これば真っ先に対応するのが僕の役目だった。
皇帝陛下をはじめ、父上や、ヴェルメル大公であるクラウス兄上も列席し、帝国の名だたる公爵家や侯爵家、伯爵家の当主たちがそれぞれの一族を伴って集まっている。
貴族の令嬢や奥方たちも来賓として参加するだけではなく、それぞれ騎乗用の装いに身を包み、狩猟へ加わるのが帝国の習わしだ。
女性たちは大型の獣を狙うことはなく、兎や狐、山鳥などを対象に弓や鷹を用いて狩猟を楽しむ。
それもまた、高位貴族の女性に求められる教養の一つとされていた。
もちろん僕の奥方たちも、それぞれ愛馬に跨り、侍女や護衛騎士を伴って参加している。
そんな中、人々の視線を集めていたのはこの狩猟会に初参加となるセラ嬢だった。
淡い色合いの狩猟服に身を包み、白馬に跨る姿は可憐で、まるで物語の中から現れた令嬢のようだった。
「まあ、なんて美しい方なんでしょう」
そんな感嘆があちらこちらから漏れるたび、周囲の視線は吸い寄せられるようにセラ嬢に集まっていく。
以前、乗馬はあまり得意ではないと本人は控えめに笑っていたけど、その姿を見れば、幼い頃から公爵令嬢とし相応の教養を積み重ねてきたことくらいすぐにわかる。
背筋をすっと伸ばし、凛と前を見据えるその横顔には、誰かに教え込まれたものではない、生まれ育った環境が育んだ気品が宿っていた。
だからこそ、皆はその優雅な姿に目を奪われるんだろうけど、僕は彼女を見つめながら拭えない違和感を覚えていた。
以前よりも明らかに華奢になったように見える。
もともと儚げな雰囲気ではあったけど、今日はその印象が一段と強く、放っておけばどこかに消えてしまいそうなくらい頼りなく感じた。
そして一番気になったのは、彼女の瞳だった。
初めて会った頃から何度も見てきた青い瞳。
嬉しいときは宝石みたいに輝いて、笑えば春の空みたいに優しく揺れる僕が大好きな瞳。
それなのに今日は、その輝きがどこにも見当たらない。
笑っていないから、そう見えるだけなんだろうか。
それとも帝国での暮らしに心が疲れてしまったんだろうか。
そんな考えばかりが頭を巡って、胸の奥に引っ掛かった不安だけは、どうしても消えてくれなかった。
その後、閲兵を終え、狩猟に移る前のひととき、皇帝陛下は参列した諸侯や貴族たちとの歓談の場を設けられた。
北部を治める名門の当主たちが次々と拝謁し、穏やかな笑い声が広がる中、不意に陛下の視線が一人の人物に向けられる。
「セラ嬢」
その名が呼ばれると、周囲の視線が一斉に彼女に集まった。
セラ嬢は静かに一歩前に進み出ると、綺麗な所作で礼を披露する。
『お呼びいただき誠に光栄にございます、皇帝陛下』
愛らしさと気高さを感じられる笑みを見て、陛下も満足そうに目を細められる。
先ほどまで彼女に見惚れていた貴族たちも、今度はその立ち居振る舞いを食い入る様にみつめていた。
「うむ、帝国での暮らしはどうだ?不自由はないか」
柔らかな問いかけに、セラ嬢はゆっくりと顔を上げた。
『皆様には大変なお心遣いを賜り、帝国に参りましてから今日まで、温かなおもてなしを受けております。雄大な自然、美しい街並み、規律ある騎士の皆様のお姿にも日々感銘を受け、このような歴史ある帝国で過ごす機会をいただけましたことを、心よりありがたく存じております』
穏やかで嫌味のない受け答えだった。
その言葉に偽りは感じられず、北部の貴族たちも満足そうに頷いている。
するとセラ嬢は一度だけ息を整え、小さく微笑んだまま続けた。
『ですが陛下。恐れながら、一つだけお願い申し上げてもよろしいでしょうか?』
「申してみよ。其方は東部との友好を結ぶために帝国に迎えられた大切な賓客である。遠慮は要らぬぞ」
その言葉を聞いたセラ嬢は深く一礼し、静かに口を開いた。
『まず初めに、アルディオン公爵閣下や公爵家の皆様には、今日まで細やかなお心遣いをいただいておりますこと、この場をお借りして心より御礼申し上げます。皆様には日々ご厚情を賜っておりますが、そのうえで恐れながら陛下にお願いがございます。どうか私の身を置く場所を、アルディオン公爵家以外にお移しいただけませんでしょうか?』
その一言が放たれた時、僕は思わず目を見開いた。
なぜなら、セラ嬢からは何も聞いていない。
陛下のすぐ傍らに控えていた僕でさえ知らされていなかった願いを、彼女は躊躇うことなく口にした。
北部の貴族たちの間にどよめきが広がり、小さなざわめきは瞬く間に会場全体へ伝わっていく。
でも、それも当然だ。
皇帝陛下自ら決められた処遇に対し、当人が公の場で変更を願い出るなんて前代未聞だからだ。
『これは決して、アルディオン公爵家の皆様への不満ではございません。皆様には今日まで、私にはもったいないほどのお心遣いをいただいております。ですが、私は東部を代表し、陛下のお計らいによって帝国に身を置く者です。そのような立場の者が、特定の公爵家のお庇護を受け続けることは、お立場によっては様々な憶測を招くこともございます。私のために、アルディオン公爵家や陛下のお立場にご迷惑をお掛けするようなことだけは避けたいのです。ですから、どうか私の身は陛下直属の離宮にお移し頂ければと思います』
その願いは誰かを責め立てるわけではなく、帝国への敬意とアルディオン公爵家への配慮だけを滲ませていた。
その言葉だけを真っ直ぐに受け止めるのなら、公の場で述べるに相応しい願いだっただろう。
けれどそれはあくまでも、セラ嬢が事前に僕に相談し、公爵家当主である僕を通して陛下に願い出るという道を選んでいたならの話だ。
でも、セラ嬢はそうしなかった。
僕には何一つ告げず、皇帝陛下をはじめ帝国中の有力貴族が見守るこの場で進言した。
その意味がわからないほど、僕は愚かじゃない。
公には決して明かせない事情があったとしても、アルディオン公爵家にはこれ以上身を寄せたくない。
少なくとも、このまま僕の庇護の下にいることだけは望んでいない。
その意思を、彼女は誰の目にも覆せない形で示した。
つまり彼女は穏やかな言葉を選びながら、僕にも陛下にも、この願いを軽々しく退けられない一手を打ったのだ。
私がアルディオン公爵家に身を寄せたくない本当の理由を申し上げる前に、どうかこの願いをお聞き届けください。
そんな言葉にならない意思が、セラ嬢の言葉の奥に潜んでいる。
もし陛下がこの願いを退ければ、彼女は皆の前でなぜアルディオン公爵家を離れたいのかを語らざるを得なくなる。
そうなれば、最も傷つくのは僕の名誉だ。
だからこそ彼女は、陛下であっても容易には退けられない公の場を選んだんだろう。
僕たちの立場を守るため最後まで言葉を選び抜いたうえで、それでもなお退くつもりはないという、彼女なりの覚悟だった。
居並ぶ貴族たちは、セラ嬢の言葉を聞いて一斉に息を呑んだ。
驚愕に目を見開きセラ嬢に視線を向ける者もいれば、何があったのかと真意を探るように疑念を滲ませながら僕を見つめる者もいる。
誰一人としてその動揺を言葉にはしなかったものの、幾重にも交錯する視線だけで十分だった。
この場にいる誰もが、彼女があえて僕を介さず、この場で願いを口にした理由を、それぞれの胸の内で量り始めているのだということが伝わってきた。
「……なるほど」
頷く陛下の傍から、僕はその横顔を見つめる。
陛下はすぐには答えることはせず、ただ静かに口を閉ざした。
陛下と僕の間には、以前交わした約束がある。
東部との講和を成し遂げた暁には、セラ嬢を僕に託すこと。
セラ嬢本人ですら知らないことだけど、彼女は講和を成功に導いた僕への恩賞の一つとして、陛下から預けられた存在だった。
そのことを知るのは、この場では陛下と僕、父上、そして兄上だけ。
だから陛下は、僕を差し置いて彼女の願いを受け入れることはできない。
それは一度下された帝国の裁可を覆すだけではなく、僕との約定を自ら破ることにも等しいからだ。
やがて、張り詰めた静寂を破るように、陛下はゆっくりと口を開かれた。
「セラ嬢。其方の願いは確かに聞き届けた。其方がアルディオン公爵家への感謝を忘れず、それでもなお帝国全体を案じて進言したことは、余にもよく伝わっておる」
陛下はそこで一度言葉を切り、僕に視線を向けられた。
「しかし、其方の身柄は余が総司に預けた大切な賓客である。その処遇については、余一人の判断だけで決めることはできぬ。当事者たる総司の考えを聞かずして結論を出すことは、公平とは申せまい」
陛下の問い掛けを受け、会場中の視線が一斉に僕に集まる。
この場に集う誰もが息を潜め、僕の返答を待っていた。
「恐れながら申し上げます」
僕は一歩前に進み出ると、陛下に恭しく一礼した。
「まず、セラ嬢がこのような場においてなお、アルディオン公爵家の立場をご配慮くださったことに、当主として心より御礼申し上げます」
一度だけセラ嬢に目を向ける。
彼女もまた、迷うことなく僕を見つめ返していた。
彼女は今、自分の意思でここに立ち、自分の意思で戦っている。
それなら僕も、中途半端な言葉で誤魔化すつもりはなかった。
「しかしながらこの件につきまして、一つだけ看過できないことがございます。セラ嬢のお立場は、一公爵家の客人ではございません。東部との講和の証として、皇帝陛下自らがお預けになられた帝国の賓客にございます。その御身の処遇は、ご本人のお気持ちだけで決められるものではなく、帝国の威信にも関わる事柄でございます。もしご本人のお言葉だけで御沙汰を改めれば、各家門はどう受け止めるでしょうか。賓客の処遇は願い一つで変わるという前例が残れば、帝国の決定は軽いものと映りかねません」
帝国は東部の強気な動きを封じるために、講和を結びセラ嬢を得た。
それにも関わらずセラ嬢の言葉を簡単に呑んでしまえば、帝国の威厳を揺らがせることになる。
まず僕が告げたのは、この案に反対をする政治的な理由だった。
でもこれはあくまでも彼女を手放したくない僕が、その想いを彼女や周りに気取らせないようにするための前置きにしか過ぎなかった。
「ですがもし、セラ嬢がそのようなお申し出をなさらなければならないだけのご事情がおありでしたら、僕もその願いを無下にするつもりはございません」
そう言って僕は、再び彼女に視線を向けた。
「セラ嬢。僭越ながら、一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか。あなたがそのようなお申し出をなさるほどの理由がおありでしたら、どうかこの場でお聞かせください。私どもに至らぬ点がございましたなら、アルディオン公爵家当主として、その責はすべて僕が負います」
僕がそう告げた直後、セラ嬢の瞳が僅かに揺れた。
その小さな変化が、胸に痛いほど刺さる。
その様子は、セラ嬢が僕の元から去りたい明確な理由があると物語っているようだった。
青い瞳は少しも逸れることなく、真っ直ぐ僕だけを映している。
彼女を見つめているだけで胸が酷く苦しいのに、こんなことになってもなお、僕はどうしようもなく君が恋しかった。
ようやくこの帝国に迎え、ようやく手の届く場所まで連れて来たというのに、僕達の距離は縮まるどころか、酷く離れてしまったように感じる。
少し近づいたと思えばまた離れ、ようやく君の心に少し触れられるかもしれないと思った頃には、今度は大勢の貴族達が見守るこの場で、自ら僕のもとを離れたいと願い出るほどの覚悟を決めてしまっている。
その事実は、思っていた以上に僕の胸を抉った。
あの日、僕が泣かせてしまったことが原因なのか。
ユフィ夫人の一件を、今も許せずにいるのか。
それとも、僕という存在そのものが、君にとって耐え難いものなのか。
考え始めればいくらでも理由は浮かぶ。
なぜなら君が僕を拒んでいることくらい、帝国に連れて来る前から嫌というほど分かっていたことだからだ。
それでも構わないと思った。
どれほど嫌われても、どれほど拒絶されても、セラ嬢だけは誰にも渡したくなかったから。
だけど君が今、覚悟を決めてこの場へ立ったことも分かっている。
中途半端な思いつきで、陛下にあの願いを口にする人じゃない。
きっと何度も考え、迷い、それでもなお自分の意思を貫く必要があったんだろう。
だからこそ僕も、曖昧な言葉でその覚悟を受け流すつもりはなかった。
もし本気で僕のもとを離れたいというのなら、遠慮なんていらない。
公爵家の名誉も、僕の立場も気にする必要はない。
僕を傷つけることなど恐れず、その理由をこの場で明かせばいい。
その覚悟で僕の前に立つというのなら、僕もまた、正面から受けて立つつもりだった。
……もっとも。
それができる君ではないことも、僕は知っている。
誰よりも優しく、誰よりも自分より他人を優先してしまう君が、公の場でアルディオン公爵家を責め、僕を傷つけるような言葉を選ぶとは思えなかった。
だからこれは、賭けだった。
君の優しさに賭ける、ひどく身勝手で、あまりにも卑怯な賭け。
きっと君は、公爵家の当主である僕が、公爵家の名誉と立場を守るため、この場では君の願いを受け入れざるを得ないと考えたのだろう。
だからこそ、公の場という逃げ場のない舞台を選び、余計なことを語られる前に、僕や陛下が願いだけを聞き届けるよう仕向けた。
実に君らしい、見事な一手だった。
まさか君がここまでの覚悟を決めてくるなんて思ってもいなかったから、その気丈さには心の底から驚かされたよ。
だけど、ごめんね。
君の読みは、たった一つだけ外れている。
僕にとって何より優先すべきものは、公爵家の体面でも、当主としての責務でもない。
他の誰でもない、君だよ。
だから僕は、その一手に屈するつもりはなかった。
たとえ君を追い詰めることになったとしても、君の思い描いた通りに事を運ばせてあげるつもりはない。
きっと君は、僕が自ら不利になりかねない問いを投げ掛けるなんて考えてもいなかっただろう。
僕の本心を知らない君にとって、あの言葉は想定外だったはずだ。
だけど、それでいい。
君がほんの少しでも迷ってくれるのなら、それで十分だ。
いつもの君らしく、自分より誰かを優先してしまうその優しさに心が揺らぎ、その願いを自ら引き下げてくれるのなら、僕はどれほど卑怯だと笑われても構わない。
君がどれほど僕を拒もうと、どれほど僕から離れようとしたとしても、その程度で諦められるほど、僕の想いは浅くないから。
だから僕は、穏やかな笑みの裏で静かに君の逃げ道を塞いでいく。
何があっても君だけは、この手から逃がすつもりはなかった。
ページ:
トップページへ