10
狩猟会の日。
私は、覚悟を決めて皇帝陛下に願いを申し上げた。
望みは、ただ一つ。
私の身柄をアルディオン公爵家から移していただきたい、それだけだった。
もちろん、講和条約の担保として帝国に連れて来られた私の願いが、そう容易く受け入れられるはずがないことくらい最初から分かっていた。
だからこそ高位貴族が一堂に会するこの場で、進言する必要があると考えた。
私が公の場でその願いを口にすれば、この場にいる誰もがアルディオン公爵家での私の扱いに疑念を抱く。
私自身が何も語らない限り、それはあくまでも憶測に過ぎないけど、それでも十分だった。
陛下のお言葉によって総司様に預けられている私が、自ら身柄を移してほしいと願い出たその事実だけで、公爵家は決して穏やかではいられない。
もし陛下に「預けられた者が、それほどまでに望む理由があったのか」と思われれば、それだけで十分厄介な火種になるからだ。
だからこそ、公爵家にとって最も傷が浅い方法は、私を手放してしまうこと。
陛下が総司様にご意見を求められた時点で、この計画は思い描いた通りに進むだろうと思えた。
そう、信じていたのに。
総司様は私をまっすぐ見据え、静かに口を開いた。
「そのようなお申し出をなさるほどの理由がおありでしたら、どうかこの場でお聞かせください。私どもに至らぬ点がございましたなら、アルディオン公爵家当主として、その責はすべて僕が負います」
その言葉に、私は息をのんだ。
どうして……。
どうして、ご自分からそんな危うい場所に踏み込まれるの?
総司様の言葉があまりにも誠実だったからこそ、私はすぐに言葉を返せなかった。
総司様は、本当に何もご存じないのだと思った。
私がどんな日々を送ってきたのか知らないからこそ、私を案じて理由を尋ねてくださっているのだと。
だから余計に、今回の件に何の非もない総司様に、公爵家の醜い裏側を語ることなんて私にはできなかった。
まして多くの貴族が見守るこの場所で、公爵家を、そしてその当主である総司様を糾弾するような真似だけはどうしてもしたくなかった。
「……いいえ、私は……」
……駄目、言えない。
私には、できない。
真実を口にしてしまえば、総司様を傷つけてしまう。
唇を震わせたまま総司様を見つめ、この申し出に他意はないと告げなければと、何度も心の中で言い聞かせた。
けれど、その考えに至った時点で、きっと私はもう答えを出してしまっていたんだろう。
どんな目に遭わされても、この人だけは傷つけたくない。
そんな愚かなほど甘い想いが、胸の奥から溢れ出し、私の言葉を奪ってしまった。
でもそんな私を見つめていた総司様は、ごくわずかに口元を緩めた。
それは誰も気づかないほど淡い微笑み。
それでもその笑みに含まれた真意が決して綺麗なものではないことを、私は悟ってしまった。
「セラ嬢。遠慮はいりません。思うところがあるのなら、ここでお話しください」
穏やかな声音。
誰が聞いても思いやりに満ちた言葉。
でも、その微笑みは私がかつて恋をしたものとは、あまりにも違っていた。
幼い頃の私は、総司様の笑顔が大好きだった。
総司様が微笑んでくださるだけで胸が温かくなって、その優しい眼差しを向けてもらえることが何より嬉しかった。
あの微笑みは、私にとって大切な宝物だった。
でも、今私に向けられているその笑みには、あの頃の温かな色はどこにも残っていない。
柔らかく微笑んでいるはずなのに、その瞳は私の心の奥底まで見透かしているようだった。
どうせ君には言えない……そう語っているように見えてしまう。
それは私の弱さを知り尽くした上で、手の中で転がすような笑みだった。
……ああ、そういうことだったんだ。
総司様は誠意から私に発言の機会をくださったわけではない。
私に寄り添うような言葉をかければ、その優しさを踏みにじるような真似は私にはできないだろうと、総司様は最初から見抜いていらしたんだろう。
幼い頃から私を見てきた総司様だからこそ、私がどんな人間なのかを理解している。
だからアストリアでも、敢えて私の身近な人達の命を盾にして無理矢理講和条約を結ばせたし、先日も「君はお人好しだから心配なんだ」と、困ったように笑っていらした。
その言葉の通り、いつもの私ならこの場では何も言わずに飲み込む道を迷わず選んでいたはず。
誰かを傷つけるくらいなら、自分さえ我慢すればいい。
私が黙って耐えるだけで丸く収まるのなら、そのほうがいいと思ってしまうから。
……でも、本当にそれで終わらせていいの?
ここで真実を飲み込んでしまえば、明日からもまた同じ日々が続いてしまう。
満足なお食事もいただけず、理由もなく傷つけられ、自由さえ奪われる毎日がこの先も繰り返されていく。
その未来を思い浮かべた時、胸の奥で何かが静かに音を立てた。
もし総司様が、ほんの少しでも私の気持ちに寄り添おうとしてくださっていたなら、私はきっとこれ以上この場を荒立てようとは思わなかった。
この先にどんな不安が待っていたとしても、一度は総司様を信じ、自分の胸の内を打ち明けてみようと思えたはずだった。
けれど総司様が、私なら決して騒ぎ立てることはないと、私の性格を知り尽くしたつもりで、総司さまへの想いを利用するような一手を選ばれるのなら、私はそのさらに先を選ぶ。
誰かが助けてくれる日を待つだけでは、もう何も変わらない。
私を守れるのは、もう私しかいないのだから。
『総司様。そのような温かいお心遣い、ありがとうございます』
私は柔らかく微笑み、総司様を見つめた。
その言葉に、総司様もようやく肩の力を抜いたように、穏やかな笑みを返してくださる。
けれど、その安堵を宿した笑顔を裏切るように、私はゆっくりと陛下に視線を向けた。
『では、正直に申し上げます。私はアルディオン公爵家で、満足に食事をいただけたことがほとんどありません。食事には常に鼠の死骸や虫、残飯が混ぜられ、一日に水しか口にできない日も何度もございました』
静まり返ったその場に、私の声だけが響く。
言葉を重ねるたび、胸の奥に沈め続けてきた記憶が蘇り苦しくなるけど、それでも私は迷うことなく言葉を続けた。
『食べようとすれば笑われ、食べなければ飢え、無理やり鼠の死骸や虫を口に押し込まれたこともありました。ですから今も空腹で、とても苦しいです』
その一言が落ちた瞬間、広間は一気にざわめきに包まれた。
「まさか……」
「そこまで非道なことを……」
信じられないという声が幾重にも重なり、総司様も息を呑んだまま、大きく目を見開いて私を見つめている。
陛下でさえ険しく眉を寄せ、そのまま鋭い視線を総司様に向けられた。
「総司。この娘が申していることは事実なのか」
総司様は珍しく一度言葉を失い、それでもすぐに陛下に向き直る。
「……陛下もご存知の通り、僕は一昨日まで遠征任務で屋敷を空けておりました。屋敷の者からは、セラ嬢ご自身が食事に手をつけられないだけだと報告を受けております。到底、そのようなことが行われていたとは……信じられません」
私は静かに一歩前へ進み、陛下に頭を下げた。
『恐れながら、陛下』
陛下が頷かれるのを見届けてから、私は総司様を見ることなく言葉を続ける。
『総司様は長くご不在でした。この方にお尋ねになっても、お屋敷の中で何が起きていたのかをご存じないのは当然です。ですが、陛下のご命令で私をお預かりくださるお立場でありながら、その間の私の暮らしに目を向けることもなく、届く報告だけを信じておられたことも、また事実です。知らなかったというお言葉だけでは、済まされないこともございます。実際、総司様は昨日、私が体調を崩していることをご存じの様子でした。それでも、ご自身で私の元に足を運び、お加減を気にかけてくださることは一度もありませんでした』
私の言葉が途切れると同時に、広間の空気はさらに重く沈んだ。
けれど私は小さく頭を下げてから、もう一度まっすぐ陛下を見つめる。
『そして、それだけではありません。お見苦しいものをお見せする非礼を、どうかお許しください』
陛下からお許しをいただくと、私は乗馬用の上着に手をかけ、そのまま肩からそっと外した。
下に身につけていた半袖の薄衣から、これまで隠していた両腕があらわになる。
その瞬間、総司様の瞳が目に見えて揺れた。
信じられないものを見たように息を呑み、その表情からは動揺が隠しきれていなかった。
『この傷はすべて、アルディオン公爵家の方々から受けたものです。食事の時間になるたび、私は強制的に食堂へ連れて行かれました。けれど、食事をいただくためではありません。熱い紅茶を浴びせられ、先の尖ったもので何度も傷つけられ……それが、私にとって毎日の食卓でした』
白い肌には、爪で引き裂かれた無数の傷跡が赤黒く残り、鋭いフォークで突き刺された痕が痛々しく刻まれている。
さらに腕のあちこちには、繰り返し熱い紅茶を浴びせられたことでできた火傷の痕が、生々しく赤く残っていた。
その姿を目の当たりにした貴族たちは一斉に息を呑み、やがて広間は悲鳴にも似たざわめきに包まれる。
「なんということだ……」
「これはあまりにも酷い……」
「これが人のすることか」
怒りと嫌悪を滲ませた声は次々と広間に広がり、その非難の矛先はアルディオン公爵家へと向けられていく。
誰が私にこれほどの仕打ちをしたのかと、犯人を追及する声まで飛び交い始め、広間は騒然としていた。
私はその騒めきが少し収まるのを待ち、静かに口を開く。
『講和条約を締結する際、ヴェルメル大公閣下であるクラウス様は、私の身分に相応しい地位と待遇、そして何より、安全を保証すると約束してくださいました。ですが、現実はご覧のとおりです。満足な食事すら与えられず、このような傷を負いながら今日まで過ごしてまいりました。幾度となく、どうかおやめくださいとお願いもいたしました。それでも何ひとつ変わることはありませんでした。だからこそ、この場をお借りして申し上げます。これは、帝国自らがお示しになった約定に反しているのではありませんか?』
私は責め立てるような口調ではなく、あくまで静かに、事実だけを積み重ねる。
だからこそ、その言葉は誰にも否定できない重みを帯びていた。
『この講和条約は、東部だけが義務を負うものではないはずです。アストリア公爵家は、家族を帝国に預けるという最も重い条件を受け入れました。それは帝国が、私の安全と名誉を守ると約束してくださったからです』
私はゆっくりと息をつき、真っ直ぐ陛下を見据えた。
『もし、その約束が守られないのであれば、帝国自らが条約の信義を損ねたと受け取られても仕方がありません。条約とは一方だけが誠実であれば成り立つものではないのですから』
広間の空気が凍りつく。
これはもう、私一人が虐げられたという話では済まされない。
帝国が締結した講和条約そのものの信頼に関わる問題へと変わってしまったからだ。
貴族たちもその意味を悟ったのか、先ほどまでの怒号は消え失せ、重苦しい沈黙だけが広間を支配していた。
総司様も、クラウス様も、今まで見たことのないほど険しい表情で口を閉ざしている。
陛下もまた何も仰らず、私を見据えられたまま、その眼差しは深く沈んでいた。
まさか東部から迎え入れた人質に、条約そのものの正当性を問われる日が来るなんて、誰一人として予想していなかったのだろう。
それ以上に、帝国が保護しなければならない立場にある私に、このような仕打ちを加える者が、総司様の治めるアルディオン公爵家にいたという事実そのものが、彼らにとってはあまりにも想定外だったに違いない。
これはもう、一公爵家の不始末では済まされない。
帝国が掲げる統治の正当性も、諸侯や他国との約束も、そのすべてを疑わせかねないほど重い現実だった。
皇帝陛下は深く息を吐かれると、一度静かに目を伏せられた。
そして再び顔を上げられた時、その瞳には先ほどまでの穏やかさは欠片もなく、皇帝として臣下を裁く者だけが持つ、冷え切った威厳が宿っていた。
鋭く研ぎ澄まされた視線が、真っ直ぐ総司様に向けられる。
「……総司。余はそなたを信じ、この娘の身柄を託した。にもかかわらず、公爵家の者すら制することができず、このような惨状を招いたとはなんとも愚かしい。己の家ひとつ統べられぬ者に帝国随一の騎士を名乗る資格があるとでも思っているのか。この失態はアルディオン家だけの問題ではない。帝国が交わした講和条約の信義を傷つけ、余の名に泥を塗ったも同然だ。そなたは、この責任をいかなる形で果たすつもりだ」
その静かな叱責は雷鳴よりも恐ろしく、広間にいる誰一人として息をすることさえ憚られるほどの威圧を帯びている。
総司様はその言葉を聞き、何一つ言い返さなかった。
帝国第一騎士団を率いる長として、皇帝陛下に絶対の忠誠を誓う騎士として、一歩前へ進み出ると、剣帯に添えた手を外し、片膝をついて深く頭を垂れる。
その姿勢には一切の言い訳も弁明もなく、ただ己の責を受け入れる覚悟だけが滲んでいるように見えた。
「セラ嬢のお言葉が事実でございましたなら、その責はすべて僕にございます。アルディオン公爵家当主として、陛下のいかなるご裁断にも異を唱えるつもりはございません」
低く絞り出すような声が広間に落ちる。
青ざめた横顔からは血の気が失われ、それでも頭を上げることは決してなかった。
その姿を見て、胸が痛まなかったわけではない。
それでも、これは総司様ご自身が選ばれたことだった。
あの時、私の身柄を預かる役目を辞してくだされば、それで終わっていたはずなのに。
どうしてあの時、あえてあのようなお言葉を口にされたのか。
私を甘く見ていらしたのか、それとも私の身柄を保護する役目を担わなければならない何か別の理由がおありだったのか、その真意は今もわからない。
けれど、少なくともこの結果だけを見れば、その選択は誤りだった。
なぜなら総司様は、長いことお屋敷にはいらっしゃらなかった。
つまりこの出来事についてどれほど弁明を重ねられたとしても、この場にいる誰もが、それだけでは責任を免れられないことを理解している。
帝国随一と称えられるほど聡明で、どんな窮地も切り抜けてこられた総司様であっても、言葉だけで覆せる状況ではなかった。
そんな総司様を見つめていると、静まり返った広間に、凛とした女性の声が響いた。
その声の主は、総司様の正妻である千様だった。
「陛下、恐れながら、一言申し上げる機会をお与えくださいませ」
視線の先には、千様が美しい所作で立っている。
陛下が静かに頷かれると、千様は優雅に一礼し、落ち着き払った口調で口を開いた。
「恐れながら、セラ嬢のお言葉だけをもって事実と断じられますことは、どうかお控えいただきたく存じます。誠に遺憾ながら、彼女のご主張は事実とは大きく異なっております。食事にそのような不浄なものを混入させるなどという卑劣な振る舞いも、ご令嬢のお身体に故意に傷を負わせるような非道も、皇帝陛下へ忠誠を誓うアルディオン公爵家の者として、断じて行ってはおりません」
あまりにも淀みなく紡がれる言葉に、私は息を呑んだ。
そこに迷いは微塵もなく、罪悪感の欠片さえ見当たらない。
どうしてここまで堂々と嘘を口にできるのだろう。
信じられない思いで千様を見つめると、千様は私の視線を真っ直ぐ受け止められたあと、再び陛下に向き直られた。
「今回、東部との講和は帝国にとって長年の悲願でございました。その証としてお預かりしたご令嬢に危害を加えるなど、それが帝国の名誉を傷つけ、講和条約そのものを危うくする行為であることくらい、アルディオン公爵家の者であれば誰もが理解しております。そのような浅慮な真似をする者が、この屋敷にいるとお考えになりますか?」
その言葉に、広間のあちこちから小さなざわめきが起こる。
「……確かに」
「そのようなことをする利がない」
そんな囁きが、少しずつ広がっていった。
確かに、私にあのような仕打ちをすることは、公爵家にとって何一つ利益のない愚行だった。
そのあり得ない事実を逆に利用して、千様はさらに言葉を重ねられる。
「アルディオンへお迎えして以来、セラ嬢は何度お食事をお勧めしても、ご自身のご意思で口になさらない日が続いておりました。また、お心が乱れますと涙ながらに取り乱され、ご自身でフォークやナイフなどを手に取り、お身体を傷つけようとなさることも幾度となくございました。そのたびに私ども妻一同と屋敷の使用人たちはお止めし、お支えしてまいりました。異国の地でお苦しかろうと、そのご事情を思えばこそ、これまで一切口外せずにおりました。しかし、その沈黙を利用して旦那様を陥れようとなさるのであれば、もはや黙していることは公爵家への裏切りに等しいと考えます。私が申し上げることは紛れもない事実にございます。この場におりますアルディオン公爵家の者すべてが、その証人となりましょう」
その言葉に応えるように、ニコラ様とリーシェ様が一歩前に進み出す。
続いて同行していた侍女たちも、一人残らず進み出て深く頭を下げた。
誰一人として躊躇う者はいなかった。
その光景に、胸の奥が冷たく凍りついていく。
こんなにも多くの方が、一斉に嘘を口にするなんて……。
広間の視線が少しずつ私へ集まっていくのがわかった。
先ほどまで私を信じてくださっていた方々の目にも、迷いが生まれている。
このままでは、本当に私が嘘をついていることになってしまう。
焦りに胸が締めつけられながらも、私は震えそうになる唇を静かに結び、陛下を真っ直ぐ見上げた。
『陛下。私は、この場で一つたりとも偽りは申し上げておりません。たとえ多くの方が同じ言葉を口になさったとしても、それだけで虚偽が真実へ変わることはございません。どうか人数ではなく、事実をご覧ください。嘘を申しているのは私ではなく、あちらの方々です』
千様は表情一つ変えず、すぐに言葉を重ねられた。
「陛下。旦那様はセラ嬢をお迎えした翌日には、ヴェルモンの工房より最高級のドレスや装身具を数多く誂えられました。お部屋も公爵邸で最も格式ある客室をご用意し、私どもも旦那様のお気持ちを汲み取り、ご令嬢を厚くおもてなしするよう努めてまいりました。もし疑念がおありでしたら、どうぞ公爵邸をご覧くださいませ。旦那様がどれほどご令嬢を丁重に遇してきたか、おのずとお分かりいただけるはずです」
私は小さく息を吸い、静かに首を横に振った。
『確かに、お部屋もお召し物も、この上ないものをご用意いただきました。そのことには心から感謝しております。ですが、そのことと日々の食事や私への扱いは別のお話です。見えるところだけを整えれば、見えないところで何をしても許されるということにはなりません』
「では、お聞かせください。あなたの目的は何ですか?講和条約を破棄なさりたいのですか?それとも旦那様を失脚させたいのですか?これほどまでに厚遇を受けながら、その恩を仇で返すような振る舞いを、私は到底見過ごすことはできません」
その言葉に、思わず目を見開く。
広間の空気が再び私への疑念に傾き始めた、その時だった。
「……陛下」
低く澄んだ声が響く。
ずっと頭を垂れておられた総司様が、ゆっくりと顔を上げられた。
「恐れながら、僕にも申し開きの機会を賜りたく存じます」
陛下が無言で頷かれると、総司様はゆっくりと立ち上がり、陛下を真っ直ぐ見据えられた。
その横顔からは、何一つ感情を読み取ることができず、私は不安な心情のまま総司様を見つめていた。
「陛下もご承知のとおり、僕の母はかつて彼女のお母上を手にかけた嫌疑を受け、アストリアで断罪されました。その一件によって、彼女が今なお僕へ複雑なお気持ちを抱いておられることは理解しております。遠征へ赴く前夜も、僕が部屋を訪ねると、僕の顔など見たくない、この部屋から出ていってほしいと激しく取り乱され、涙ながらに訴えられました」
私が泣いてしまったのは、そんな理由ではない。
私は総司様があまりにも悲しいことを口になさるから。
「さらに、その際には短剣をお求めになりました。しかし精神的に大変不安定なご様子でしたので、ご自身を傷つけられる危険、あるいは興奮のあまり屋敷の者へ危害が及ぶ可能性も否定できず、お渡しすることは控えました。そのことがお気に障られたのか、その直後から僕により強い拒絶を示されるようになりました」
『総司様……何をおっしゃっているのですか……?私は、そのことで涙を流したわけでは……』
震える声でようやく言葉を返すと、総司様は静かに私を見つめられた。
「では、お聞かせください。あれほど取り乱され、涙を流してまで僕を拒まれた理由は、何だったのですか?」
その問いに、喉が詰まる。
それは総司様が、私が好きだった僕はとっくの昔にいなくなったと仰ったから。
その言葉を聞いて、抑えてきた想いが溢れてしまっただけだ。
けれど……そんな過去の恋心を、大勢の前で口にできるはずがなかった。
答えられずにいる私を見つめる総司様の唇に、感情の見えない微かな笑みが浮かぶ。
そして、そのまま陛下に向き直られた。
「陛下。彼女は故郷を離れ、帝国に来てまだ日も浅く、心身ともに疲弊しております。その上、母君の件で複雑な感情を抱く僕の元に身を寄せなければならない現状は、想像以上に大きな負担なのでしょう。だからこそ今回の件も、悪意ある虚言ではなく、極度の混乱と精神的動揺が招いたものとしてお取り計らいいただけないでしょうか。この件につきましては、引き続き僕が責任をもってお預かりし、心身の静養に努めさせていただきます。どうかこれ以上、事を大きくなさいませんようお願い申し上げます」
総司様は、まるで私が混乱のあまり嘘を並べ立て、公爵家を陥れようとした哀れな娘であるかのように語り切られた。
そのあまりにも残酷な言葉に、ただでさえ力の入らない身体は小刻みに震え始める。
目の前が滲み、立っているだけでも精一杯だった。
陛下は静かに瞳を閉じられ、しばらく思案されたあと、小さく息を吐かれた。
そして総司様に視線を向け、ふっと微笑む。
「……よい。そなたがそこまで申すのであれば、余も今回に限り深くは問うまい。異国の地で心乱れての振る舞いであったとして不問に付す。ただし、この娘の監督は引き続きそなたへ命ずる。同じ過ちが二度と繰り返されることは許さんぞ」
「はい。ありがたき幸せにございます」
『陛下!お待ちください!』
私は、思わず声を張り上げていた。
『私が申し上げたことに、一つとして偽りはありません!どうか、信じてください!』
「セラ嬢」
低く名を呼ばれ、反射的に総司様を見上げた。
総司様は穏やかな微笑みを浮かべたまま、静かな声音で告げられた。
「もうやめた方がいいよ。これ以上意地を張れば、困るのは君だけじゃない。君が守りたいと思っている東部の人たちまで、危険な状況になるかもしれないんだ。そんな結末、君だって見たくないでしょ?」
その声はいつも通りに優しい。
けれど口元に浮かぶ笑みとは裏腹に、その瞳だけは少しも笑っていなかった。
澄み切っているはずのエメラルド色の瞳が、今は冷たく私を縫い留め、息をすることさえ許さないほどの圧力となってのしかかってくる。
これは忠告なんかじゃない。
私がこれ以上抗えば大切な人達を傷付けることになるという最後の警告だった。
胸の奥がひやりと冷え、知らず知らずのうちに指先が震えた。
ふと周囲を見れば、先ほどまで戸惑いを浮かべていた人々の表情は、いつの間にか冷え切ったものへと変わっている。
アルディオン公爵家に楯突き、この場を騒がせた厄介な令嬢、そんな烙印を押されたかのように、幾つもの冷たい視線が容赦なく私に降り注いでいた。
味方なんて、どこにもいない。
この帝国では、私の言葉よりも総司様の一言の方が、何倍もの重みを持っているのだから。
「心配しなくていいよ。この件は僕に預けて」
花がほころぶような穏やかな笑みでそう告げられ、私は唇を震わせたまま、何ひとつ言葉を返すことができなかった。
勇気をかき集め、どれほど必死に声を張り上げても、この帝国で私の訴えに耳を傾けてくれる人は誰ひとりいない。
ただ、その残酷な現実だけが胸に深く突き刺さり、抱えていた小さな希望さえ、音もなく砕け散っていくようだった。
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