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狩猟会が幕を開けると、僕は予定通り陛下の第一護衛として、その御側から一歩たりとも離れることなく馬を進めていた。
鬱蒼と木々が茂る狩場では、先導する騎士達が獲物の痕跡を探し、猟犬が獣の匂いを追って駆け回っている。
僕達第一部隊は周囲へ絶えず目を配り、弓を構える貴族達や陛下の死角が生まれないよう隊形を保ちながら進んでいた。
それが僕に課せられた役目であり、普段ならばどれほど長時間であろうと気を緩めることなど決してない。
だけど今日ばかりは違った。
視線は森のあちらこちらへと吸い寄せられ、木々の隙間から淡い色の髪が覗きはしないかと、無意識のうちにセラ嬢の姿ばかりを探してしまう。
あれほどの騒ぎがあった直後だ。
さすがにこの場で彼女に露骨に危害を加えるほど愚かな真似をする者はいないと信じたい。
それでも、アルディオン公爵家の者達と共に行動していると考えるだけで胸騒ぎは消えず、任務中だというのに僕の集中力を少しずつ奪っていた。


「総司」


低く落ち着いた声に振り返ると、いつの間にかクラウス兄上が馬を寄せ、僕のすぐ隣へ並んでいた。
僕を探して来てくれたのか、それとも偶然近くを通りかかったのかは分からないけど、この距離なら周囲に聞かれる心配も少ない。


「彼女は平気か?」


僕は小さく首を横へ振り、馬の歩みを乱さないように気を配りながら囁くように答えた。


「……わかりません。何が真実なのかも、まだ不透明ですし」


セラ嬢が公爵家を陥れるためだけに虚偽を口にするような人ではないと、僕は信じている。
だけど今日の彼女が、僕の予想を遥かに超える行動を起こしたのは事実だった。
まさか大勢の貴族が見守るあの場で、アルディオンを告発するなんて夢にも思っていなかった。
でも、それほどまでに彼女は追い詰められていた可能性もある。

もし彼女が語った生活が、この三週間、本当に続いていたのだとしたら。
僕のいない間、誰にも助けを求められず、自分一人で耐え続けていたのだとしたら。
あの告発は公爵家を貶めるためではなく、ようやく掴んだ自分の命を守るための最後の機会だったのかもしれない。
そう考えてしまえば、また彼女を力でねじ伏せてしまったことに胸が締めつけられる。

食事をまともに与えられていなかったという話だけでも十分すぎるほど衝撃だったのに、彼女の白い肌を無惨に裂くように刻まれた幾つもの傷痕が目に飛び込んできた時、思考は真っ白になった。
あの細い腕に、あれほどの傷を負わせた人間がいる。
その現実を目の当たりにした途端、身体の奥底から煮え立つような怒りが込み上げ、今すぐその者を引きずり出し、自らの手で裁いてやりたい衝動に駆られた。
そして護ると誓ったのに彼女を護れなかった愚かな自分にも、抑えきれない憤りが沸いた。

けれど同時に、あの場で毅然と立ち続けていた千の姿も脳裏を離れない。
あれほど堂々と言葉を並べる姿を見れば、彼女が嘘をついているようにも見えなかったからこそ不可解だった。
でも、僕は三週間ものあいだ城を空けていた。
だから何一つ反論する材料を持たず、千があの場で僕に代わって言葉を尽くしてくれたことに救われたのも事実だった。
そのおかげでその場を切り抜けることが出来たし、セラ嬢を失わずに済んだ。
けれど、その代償を最も大きく支払ったのは、他でもないセラ嬢自身だった。


「もしセラ嬢を見かけたら、兄上も少し様子を見ていてもらえませんか?」

「ああ、構わない。だが、彼女はアルディオンの者たちと一緒なんだろう?危険じゃないのか」

「彼女たちには護衛騎士を数名つけています。少なくとも、人目のある場所で好き勝手はできないはずです」


そう答えながらも、胸の内では苦い思いが渦巻いていた。
本当なら、護衛の編成を変え、彼女だけを第一部隊の保護下に置きたかった。
けれど狩猟会はあの後すぐに始まり、人員配置を大きく組み替える時間も、護衛騎士の数にも余裕はなかった。
まして僕は陛下直属の第一護衛だ。
今の僕の立場で彼女だけを露骨に特別扱いすれば、余計な憶測を招き、かえって彼女を危険に晒しかねない。
だからこそ、護りたいのに思うように護れない現実が、ひどく歯痒かった。


「とにかく……こちらを早めに終わらせて、僕は彼女を探しに行きます」

「ああ、その方がいい。陛下の警護なら俺も支えられる」

「ありがとうございます」


それからも狩猟は滞りなく進み、貴族達は鹿や猪を追い、森のあちこちで角笛が鳴り響くたびに歓声が上がる。
第一部隊は終始陛下を中心に警戒を続け、危険な獣が近づけば即座に排除し、狩場の安全を確保していった。
やがて予定されていた狩猟も終盤へ差しかかり、陛下を休憩所まで送り届ければ、ようやく僕の護衛任務も一段落する。
そう思った時だった。


「隊長!」


切羽詰まった叫び声が森に響き、一人の騎士が血相を変えて馬を飛ばしてくる。
嫌な予感が胸を貫き、僕は反射的に手綱を握る手に力を込めた。


「何かあったの?」


馬上から問い掛けると、騎士は息を乱しながら深く頭を垂れた。


「申し訳ございません。奥方様方の狩猟に随行しておりましたところ、セラ様のお姿を見失いました」


その一言に、心臓が嫌な音を立てる。
抑え込もうとしても、声の奥に滲んだ焦燥までは隠せなかった。


「見失ったってどういうこと?まだ見つかってないままなの?」

「現在もなお所在は判明しておりません。一名が引き続き周辺を捜索しており、残る三名は奥様方を安全確保のため休憩所までお送りしております」

「どうして捜索に人手を回さないのさ……!」


思わず漏れた声には、自分でもわかるほど苛立ちが滲んでいた。
騎士は一度肩を震わせ、ただ申し訳なさそうに頭を垂れる。

まだ入団して間もない若い騎士だ。
事情を知らない彼らからすれば、帝国騎士団として優先すべきは公爵夫人達の護衛であり、講和条約によって預かる身となったセラ嬢は、あくまでも政治上の重要人物に過ぎない。
その判断自体は責められない。

……だけど。
僕には、それでは済まされなかった。
胸の奥で膨れ上がる焦りを押し殺しながら馬首を返し、陛下の元に急ぐ。
すると陛下は僕の表情を見るなり、何も言わず静かに視線を向けられた。


「陛下。ご報告申し上げます。セラ嬢が狩猟中に行方不明になったと報告が入りました。恐れながら、第一部隊数人を率いて捜索に向かうお許しをいただけませんでしょうか」


陛下は静かに息を吐き、穏やかな口調で口を開かれた。


「ああ、構わず行け。第一部隊の指揮は其方に一任する。必ず連れ戻してこい」

「はい、ありがとうございます」


短く一礼すると、僕は踵を返した。
相馬や三木、武田、龍之介を伴い、報告に来た騎士の先導で再び森に馬を走らせる。
セラ嬢の姿を見失ったという場所は、森の最奥、深い谷に続く獣道の入口だった。
この一帯は、狩猟に慣れていない者は足を踏み入れることを避けるよう言われている危険な区域として知られている。
複雑に入り組んだ山道は濃い樹々に陽光を遮られ、昼ですら薄暗く、似たような景色がどこまでも続くため、一度道を外せば方向感覚など容易く失われてしまう。
さらに谷底に吹き抜ける風が人の声や馬のいななきを掻き消し、互いを呼び合っても気付けないことが少なくない。
まして、昨夜まで降り続いた雨で地面はぬかるみ、足跡さえ長くは残らない。
こんな場所で、彼女がたった一人だなんて、嫌な想像ばかりが頭を過ぎる。
捜索を続けていた騎士とも合流したけど、返ってきたのは望んでいた報告ではなかった。


「申し訳ございません。未だセラ様は発見できておりません」


その報告を聞き、胸の奥が重く沈んだ。
気づけば西の空は朱から藍へと色を変え始め、森の中には早くも長い影が落ちていた。
この辺りは山深いせいで日暮れも早い。
あと僅かで視界は奪われ、捜索は今より遥かに困難になるだろう。

焦りに任せれば判断を誤る。
それでも、このまま夜を迎えれば、セラ嬢が置かれる状況は一気に過酷なものになる。
北部の夜気はこの時季になると容赦なく冷え込み、薄着の彼女が一人で耐えられる寒さではない。
それにこの森には崖も多くあるし獣もいる。
闇に紛れれば危険は何倍にも膨れ上がるリスクがあった。

……駄目だ。
悪い想像ばかりが次々と頭を過ぎり、胸の内で抑え込んでいた焦燥が、今にも理性を焼き尽くしそうなほど膨れ上がっていく。
だからこそ、僕が冷静でいなければならない。
取り乱せば、彼女を助けられる可能性まで失ってしまう。
僕は胸の内を押し殺すように息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。


「隊長、ご命令を」


相馬が馬を一歩進め、真っ直ぐ僕を見据える。
その一言で熱くなりかけていた頭が僅かに冷えた。
僕は森全体を見渡すように視線を巡らせると、迷いなく口を開いた。 


「相馬は東側の尾根沿いをお願い。谷に下る獣道があれば、一つも見落とさないで」

「承知しました」

「三木は西側だ。足跡でも衣服の切れ端でもいい。少しでも痕跡を見つけたら、すぐ合図を」

「任せとけ。絶対に見つけ出してやる」

「武田は谷に続く本道を調べて。崖や落石の跡も確認を」

「承知した。地形も含めて仔細に確認しよう」

「龍之介は北側を。呼び掛けながら進んで。返事があれば無理に近付かず、すぐ報せて」

「おう!わかったぞ、隊長!」


そして僕は報告に来た二人の騎士に向き直る。


「君達は戻ってクラウス閣下に事態を報告して。それと、セラ嬢が自力で出発地点か休憩所に戻ってる可能性もある。必ず両方を確認して、何か分かったら狼煙でも伝令でも構わないからすぐ知らせて」

「はっ!」


全員が散っていくのを見届けながら、僕は固く拳を握る。
セラ嬢が無事でいてくれることを願いながら、僕もまた誰より深い森の中に馬を進めた。


それから、どれほどの時が流れただろう。
僕達は幾度となく合流しては捜索範囲を確認し合い、再び散って森の奥に馬を進めることを繰り返していた。
いつしか夕闇は完全に夜に姿を変え、頭上には無数の星々が静かに瞬いている。
北部特有の冷たい風が木々の間を吹き抜けるたび、肌を刺すような寒気が外套の隙間から入り込み、揺れる松明の炎が心細げに明滅した。


「ぶっ……くしゅっ!」


龍之介が大きなくしゃみをして鼻を擦り、松明の橙色の光に照らされた困り顔でこちらを見る。


「なあ、隊長。まさかセラ様、本当に逃げ出したってことはねぇのか?」

「……え?」

「いや、昼間の騒ぎがあったばっかだろ。さっき狩猟会の締めに顔を出した時もさ、貴族の連中がそんな話ばっかしてたんだよ。とうとう耐えきれず逃亡したんじゃないかって」


狩猟会はとうに幕を閉じ、貴族達もそれぞれの陣に戻っている。
龍之介には状況確認のため、一度だけ閉会の場に向かってもらっていた。
恐らくその時に耳に入った噂なんだろうけど、僕は小さく首を横に振った。


「それはないよ。あの子は、そんなことをする人じゃない」


東部の人達を何より大切に想っている彼女が、自分一人の感情だけで後先も考えず逃げ出すなんて考えられなかった。
今日だってそうだ。
僕が東部の人達のことを口にした途端、彼女は唇を噛み締め、それ以上何も言えなくなってしまった。
東部の人達にとってセラ嬢がかけがえのない存在であるように、彼女にとってもまた東部は何より大切な居場所なんだろう。
だから皮肉にも、その想いこそが彼女自身を縛る鎖になってしまう。


「けどよ、昼間のセラ様はすげぇ度胸だったぜ。あんな大勢の貴族や陛下の前で、自分の考えをちゃんと言い切るなんてよ。正直、俺ぁ肝を抜かれた」


三木は感心したように腕を組み、大きく頷いた。


「ああ。儚げな娘とばかり思っていたが、存外そうでもないらしい。追い詰められた時ほど、人の本質というものは現れるものだ」


武田も珍しく感心したように静かに呟く。
二人の言葉を聞きながら、僕の脳裏には昼間のセラ嬢の姿が鮮明に蘇っていた。
震える声を必死に押し殺し、それでも誰一人責めることなく、自分にできる最善を探して懸命に言葉を紡いでいたあの姿。
きっと、何日も一人で考え続けた末に辿り着いた答えだったんだろう。
それなのに、その願いは最後まで聞き届けられることなく力で押し切られ、彼女はどれほど絶望したんだろうか。
最後に僕を見上げた、今にも涙が零れ落ちそうだった青い瞳を思い出す度、息をすることさえ苦しくなる。


「隊長、戻りました」


相馬が馬を寄せ、一礼する。


「向こうの道と崖下も確認しましたが、人影はありませんでした」

「ありがとう、相馬。それじゃあ、この先を探そう」

「承知しました」


僕達は深い森をさらに奥に進み、捜索を終えた場所の木肌へ短剣で印を刻みながら、一歩ずつ範囲を広げていく。
けれど、それは彼女が動いていないという前提の捜索だ。
もしセラ嬢が彷徨っていたなら、僕達は互いに気付かないまますれ違ってしまっている可能性もある。
それに、本当に全てが嫌になって逃げ出した可能性だって……

……いや、余計なことばかり考えていたら駄目だ。
今はただ、生きていてくれさえすればそれだけでいい。


「相馬はここから先の尾根沿いを確認して。三木と龍之介は沢の方へ。武田は南側の林をお願い。少しでも異変があれば、すぐ合図を出して」

「承知」


四人が散っていくのを見送り、僕はすぐ傍の崖に歩み寄った。


「……まさか、ここに落ちてたりしないよね」


嫌な胸騒ぎを振り払うように、松明を掲げる。
炎の光は闇をわずかに照らすだけで、谷底までは到底届かない。
その時、小さな嘶きが背後から聞こえ、振り返る。
一頭の白馬が、まるで何かを訴えるようにゆっくりと僕のそばへ歩み寄ってきた。
けれの月明かりに照らされたその姿を見た時、全身の血が凍りつく。


「……この馬は」


見覚えがある。
この上はアルディオン公爵家の馬で、セラ嬢が乗っていた馬だった。


「セラ嬢は!?」


馬に問い掛けても、返ってくるのは当たり前に嘶きだけ。
けれどその馬は何度も崖の方に顔を向け、小さく前脚で地面を掻いた。
まるであちらだと言わんばかりに。
僕はすぐに馬から飛び降り、自分と白馬の手綱を近くの太い樹へ固く結び付けると、崖の縁へ駆け寄った。


「セラ嬢!!聞こえるなら返事をして!」


声を張り上げても、聞こえてくるのは谷を吹き抜ける風の唸りだけだった。
この谷は両側を切り立った岩壁に囲まれ、風が渦を巻いて流れる地形になっている。
そのせいで音は思うように真っ直ぐ届かず、声を張り上げても途中で岩肌へぶつかり、あちこちに反響してしまう。
もし谷底から誰かが助けを呼んでいたとしても、上にいる者には風音へ紛れてしまい、聞き取れないことも珍しくない。
それに、彼女が気を失っていたら返事なんて返せるはずもない。

……いや、それ以上は考えるな。
胸を過る最悪の想像を無理やり押し殺し、僕は崖の斜面へ足を掛けた。
ここは断崖絶壁というほど切り立ってはいない。
岩肌のあちこちから木々の根が張り出し、獣道のように人一人がようやく足を掛けられる岩棚が点々と続いている。
馬では到底下りられないが、訓練を積んだ騎士なら慎重に進めば降りられる程度の斜面だ。
僕は左手で岩に張り付く太い根を掴み、右手には松明を掲げたまま、一歩、また一歩と足場を確かめながら身体を下ろしていく。
濡れた岩は靴底を滑らせ、細かな石が谷底へ転がり落ちるたび、闇の奥から乾いた音が返ってくる。
それでも歩みを止める気はなかった。
どうか、そこにいて。
生きて、僕を待っていて。
祈るような想いだけを胸に抱きながら、僕は闇深い谷の底を目指して慎重に降り続けた。


それから慎重に崖を下り切ると、僕は松明を高く掲げ、辺りをゆっくりと見回した。
谷底は静まり返り、聞こえてくるのは木々を揺らす風と、どこか遠くで流れる沢のせせらぎだけ。
揺れる炎が岩肌に影を踊らせる中、僕は足跡や衣服の切れ端でもないかと、一つひとつ目を凝らしながら歩みを進めていく。
けれど暫く行くと、風の音に紛れて何かが聞こえた気がした。
僕はぴたりと足を止め、息を潜める。
耳を澄ませると、風が止んだほんの一瞬、か細く途切れ途切れに誰かがすすり泣くような声が闇の奥から流れてきた。


「……セラ嬢?」


その名を口にした時には、もう身体は声のした方に向かって駆け出していた。
木の根を飛び越え、ぬかるんだ地面に足を取られそうになりながらも、松明を掲げて暗闇を切り裂く。


「セラ嬢!いるの!?返事をして!」


叫びながら走ると、大岩と折れた大木が折り重なるように倒れている場所が見えた。
その陰に、誰かがいる。
僕は目を凝らし、松明を高く掲げる。
橙色の炎が闇を押し退けるように照らし出した先には、泥と落ち葉にまみれながら横たわるセラ嬢の姿があった。
その青い瞳がゆっくりと僕を捉え、信じられないものを見るように大きく見開かれる。


『……総司様……?』


その声を聞いて。張り詰めていた糸が切れそうになる。

……よかった、生きてる。
その事実だけで感情が溢れそうになり、言葉より先に身体が動いていた。
僕は急いで駆け寄ると、周囲を見渡して風を避けられる岩陰に松明を突き立てる。
炎が消えないことを確かめると、彼女の姿が見えるよう角度を整え、両手を空けてその傍に膝をついた。


「セラ嬢、大丈夫?」


震える声を抑えながら問い掛け、涙に濡れた頬にそっと手を添える。
その場所は氷のように冷たい。
どれだけ長い時間、一人でここにいたのだろう。
セラ嬢は涙をいっぱいに溜めた瞳で僕を見つめ、小さく唇を震わせながらも二度頷いた。


「よかった……君が無事で」


思わず零れた安堵の言葉に、彼女は今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。


「取り敢えず、ここから出よう」


そう言って抱き起こそうと腕を差し伸べると、彼女は困ったように眉を下げた。


『脚が……挟まっていて……』


視線を落とした先の光景を見て、息を呑んだ。
崖から転がり落ちてきたのであろう巨大な岩が、途中で倒木へ激しくぶつかって止まっている。
その衝撃で太い幹は裂けるように折れ、岩との間には人一人がようやく足を差し入れられるほどの狭い隙間ができていた。
そして、その隙間にセラ嬢の右脚だけが挟み込まれている。
落下の勢いで巻き込まれたのだろう。
幸い岩は倒木へ乗り上げるように止まっていたため押し潰されてはいないものの、その重みで脚は完全に動きを封じられていた。


「こんな……」


僕はすぐに岩に手を掛け、力いっぱい押してみるけどびくともしない。
さすがに一人で持ち上げられる重さじゃないように思えたけど、それでも諦める気にはなれなかった。


「少しだけ我慢して」


歯を食いしばり、今度は倒木に肩を押し当てる。
岩は完全に地面に食い込んではおらず、倒木が支えになって僅かに浮いている状態だった。
それなら動くはずだと、足場を確かめ全身の力を込めて押し上げる。
軋むような音と共に倒木が僅かににしなり、岩がほんの少しだけ傾いた。
その隙を逃さず、僕は彼女の足首をできるだけ傷つけないよう慎重に抱え、挟まれた脚をゆっくりと引き抜く。
岩が再び重々しい音を立てて元の位置へ戻る頃には、彼女の脚は自由になっていた。


「……抜けた」


張り詰めていた息を吐きながら、僕はすぐに彼女の脚に目を向ける。
酷く腫れてはいるものの、不自然な方向に曲がってはいない。
骨が砕けている様子もない。
それでも、このまま歩ける状態ではないことだけは一目で分かった。


「もう大丈夫だよ。ここからは僕が連れて帰るから」


僕はセラ嬢を安心させるようにそっと微笑んでみたけど、彼女は瞳を揺らすと顔を歪めて首を横に振った。


『帰りたく……ないです……』

「……え?」


あまりにも弱々しいその一言に、僕は思わず息を呑んだ。
この状況で、彼女の口からそんな言葉が零れるなんて考えもしなかった。
でも昼間のあの出来事を思い返せば、当然とも思える。
彼女にとって、あの屋敷はもう虐げられる場所でしかないのかもしれない。
自分が築き上げた場所が彼女にとって辛いものでしかないという現実を知り、胸の奥を鋭い痛みが貫いた。


「……ごめんね、君を一人にして」


気付けば、その言葉が唇から零れていた。
揺れる松明の灯が、彼女の涙で濡れた頬を淡く照らし出す。
その青い瞳は驚いたように僕を見つめ、静かに揺れていた。


「君を護れなかったこと、本当に申し訳なく思ってるよ」


震えそうになる声を押し殺しながら、僕は彼女の頬にそっと触れる。


「これからは絶対に君を護る。誰にも傷付けさせないよ。だから……僕を信じて、一緒に帰ってくれる?」


セラ嬢は僅かに目を見開き、何かを言おうとして唇を震わせた。
けれど言葉にはならず、そのまま静かに僕を見つめ続ける。

こんなにも近くで見つめ合うのは、いつ以来だろう。
昔も彼女は、こうして真っ直ぐ僕を見つめてくれていた。
あの頃と変わらない澄んだ青い瞳を前にすると、鼓動が嫌になるほど速くなる。
それでも今の僕が願うのは、自分を想ってほしいということじゃない。
ただ、この子にもう一度だけ僕を信じてもらいたい。
この先は何があっても、その存在を脅かされることなく笑っていられるように。
そのためなら、僕は何だってする。
長い沈黙の末、セラ嬢はゆっくりと瞼を伏せ、一度だけ頷いてくれた。

その仕草だけで十分だった。
胸を覆っていた重苦しいものが、少しだけ軽くなる。


「ありがとう。じゃあ、帰ろうか」


僕は肩へ掛けていた外套を外すと、冷え切った彼女の肩にそっと羽織らせた。
大きすぎる外套は彼女の身体をすっぽりと包み込み、震えていた細い肩を隠していく。
前がはだけないよう胸元を軽く合わせると、「少し失礼するね」と小さく声を掛け、片腕を背中へ、もう片方を膝裏へ静かに差し入れた。
傷ついた脚に負担が掛からないよう細心の注意を払いながら、壊れ物を抱えるようにゆっくりと身体を抱き上げる。


『……っ』


身体が浮くと同時に、セラ嬢は小さく息を呑み、不安を隠すように僕の肩をきゅっと掴んだ。
外套越しに伝わる細い指先の力が愛おしくて、思わず頬が緩む。


「大丈夫。落としたりしないから」


囁くように告げると、彼女は少しだけ肩の力を抜き、安心したように僕に身体を預けた。
腕の中に収まったその身体は、信じられないほど軽い。
もともと華奢な子だったけど、こんなに軽いはずがない。
きっと、彼女が言っていた通り満足に食事も摂れなかったんだろう。
あの屋敷でどれだけ我慢を重ね、どれだけ一人で耐えてきたのか。
そう思うだけで、抱く腕き自然と力が籠もる。

……もう二度と、この子を一人にはしない。
その想いだけを胸に、僕は大切な宝物を抱えるようにセラ嬢を腕の中に包み込み、谷の出口に向かってゆっくりと歩き始めた。

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