3
セラ嬢を腕に抱いたまま、僕は仲間達と共に夜の街道をひたすら馬で駆け続けた。
腕の中の彼女は外套と毛布に包まれているにもかかわらず、小刻みに身体を震わせ、浅く苦しそうな呼吸を繰り返している。
時折、熱に浮かされたように小さく呻き、眉を寄せるたび、抱き締める腕に僅かな力が伝わってきた。
「セラ嬢、平気?」
呼び掛けても返事はない。
薄く開いた瞳は焦点が合わず、意識は朦朧としているらしく、僕の声も届いているのか分からなかった。
額に触れると、明らかに正常ではない熱が掌に伝わってくる。
谷底で冷え切った身体に無理が重なったのだろう。
このまま走り続けるしかないことが歯痒くて仕方がなかった。
「武田」
横を駆ける武田がこちらを見る。
「このまま、ヴェルメルに向かってくれる?兄にセラ嬢が見つかったって伝えて欲しいんだ」
「ああ」
「あと兄にそのまま陛下への報告を頼んで。今日の件で向こうも動いてるはずだから」
狩猟会の最中に講和条約の要である彼女が行方不明になったとなれば、兄上もその対応に追われているはずだ。
見つかったと分かれば、余計な混乱も避けられるだろうとそう告げた。
「あとは任せろ」
武田は短く頷くと、そのまま馬首を返して夜道を駆けていった。
僕達も速度を緩めることなく城を目指す。
アルディオン公爵家に辿り着いた頃には、セラ嬢の身体はさらに熱を帯び、苦しそうに何度も浅い息を繰り返していた。
城に戻ると、僕は馬を降りるや否やセラ嬢を抱き上げたまま、相馬と共に本邸に駆け込んだ。
腕の中の彼女を見ても、閉じられた瞼は時折かすかに震えるだけで開く気配はない。
頬は赤く火照り、額に落ちた金色の髪は汗で張り付き、その姿を目にするたび、一刻も早く寝かせて医師に診せなければという焦燥だけが募っていく。
慌ただしい足音が廊下に響くと、その物音に気付いたのだろう。
奥から千とニコラ、リーシェが揃って姿を現し、足早に僕の元に駆け寄ってきた。
「良かった……無事に帰ったのね」
「総司様、ニコラは本当に心配しておりましたの。お怪我はございませんか?」
「旦那様、お帰りなさいませ。さぞお疲れでしょう。どうか少しでもお身体を休めてくださいませ」
誰一人に視線を向けないまま、僕はその脇を足を止めることなく通り過ぎる。
すると背後から、千が不安そうな声を掛けてきた。
「……セラ嬢は平気なの?」
その声と共に、毛布に包まれて眠るセラ嬢を確かめようと、千の手がそっとこちらへ伸ばされる。
けれどそれに気付いた時には、僕は反射的に身体を大きく引いていた。
セラ嬢を抱く腕に力を込め、その手から庇うように身体ごと避ける。
そんな拒絶を隠そうともしない僕の態度に、千の手が宙で止まった。
「今は一刻を争うんだ。悪いけど、そこを退いてくれる?」
低く抑えた声だった。
それでも胸の奥で燻り続けていた感情は、うまく隠せなかったのかもしれない。
三人は息を呑んだように僕を見つめ返し、何も言い返せないまま静かに道を開ける。
相馬が軽く会釈をすると僕の前に出て、三階にあるセラ嬢の部屋まで駆け上がり、素早く扉を開いた。
「隊長、このままでは寝具が汚れます」
部屋に入るなり、相馬は寝台に歩み寄ってコンフォーターを大きく捲り上げる。
谷底を転がり落ちたセラ嬢のドレスは泥と砂にまみれ、裂けた裾には枯葉まで絡み付いていた。
このまま寝かせるわけにはいかないと、相馬は収納棚から厚手のブランケットを数枚取り出し、それを寝台一面に丁寧に敷き詰めていく。
「これで大丈夫です」
その言葉に頷き、僕は腕の中のセラ嬢を慎重に寝かせた。
「相馬、医師を呼んでくれる?」
「承知しました」
相馬は一礼すると部屋を飛び出していった。
僕はその場を動くこともできず、眠るセラ嬢の傍に膝をつく。
「……セラ嬢」
呼び掛けても、やっぱり返事はない。
ただ苦しそうな吐息だけが静かな部屋に流れ、どのくらい彼女の顔を眺めていたんだろう。
やがて扉が開き、相馬に伴われて白髪混じりの老医師が部屋に入ってきた。
医師は寝台に歩み寄るなり、彼女の様子を一目見て表情を引き締める。
脈を測り、額に触れ、すぐに僕に視線を向けた。
「公爵様、ここから先は全身の傷を診察いたします。衣服もお脱がせしなければなりませんので、恐れ入りますが皆様は一度お部屋の外にお願いいたします」
当然のことだ。
そうしなければ傷の状態も分からない。
頭では理解していても、足は動かなかった。
そんな僕の迷いを見透かしたように、医師は静かに続ける。
「ご安心ください。女性の看護人を二名連れて参りました。どちらも宮廷医務室に勤める者で、私が長年信頼を置いている者達です。診察から処置まで責任を持って当たらせます」
僕は医師の後ろに視線を向けた。
そこには治療道具を抱えた二人の女性が静かに頭を下げている。
宮廷医務室直属の看護人なら、セラ嬢を安心して任せられるだろうと僕は頷いた。
「分かりました、頼みます」
「必ず最善を尽くします」
僕と相馬は静かに部屋を出る。
扉が閉まると同時に、中からは看護師達が衣服を整える音や、医師が傷の状態を確認する落ち着いた声が微かに聞こえ始めた。
全身の泥を丁寧に洗い流し、裂傷を消毒し、打撲の状態を確かめ、必要な箇所に薬を施しながら包帯を巻いていく。
熱を下げるため冷水で額を冷やし、身体を冷やし過ぎないよう乾いた寝衣へ着替えさせ、温かな掛け布へ包み直す。
そのすべてが終わるまで、僕は扉の前から一歩たりとも動かなかった。
どれほど時間が過ぎたのか分からない。
ただ扉の向こうから苦しげな声が聞こえないことだけを願いながら治療が終わるのを待っていると、やがて扉が開き、医師が部屋から姿を現した。
「公爵様、お待たせいたしました。処置は一通り終わりました」
相馬と共に部屋に足を踏み入れると、先ほどまで苦しそうに浅い呼吸を繰り返していたセラ嬢は、清潔な寝衣に着替えさせられ、寝台の上で静かに眠っている。
額には包帯が丁寧に巻かれ、乱れていたミルクティーブロンドの髪も整えられていた。
まだ顔色は決して良くないけど、先ほどまで苦痛に歪んでいた表情は幾分か和らぎ、穏やかな寝息を立てている。
その姿を見て、胸を締め付けていた重苦しさがようやく少し落ち着いてくるようだった。
僕はそっと寝台の傍に歩み寄り、眠る彼女の額に掛かった髪を優しく払う。
「……良かった」
思わず漏れたその声は弱々しかった。
医師は僕の様子を見届けると、小さく頷きながら口を開いた。
「まず、お身体の状態についてご説明いたします。幸い、谷底へ転落された際に頭部に受けた衝撃は軽度でございました。額には裂傷がございましたので縫合しておりますが、傷口も綺麗でございますから、適切に治療を続ければ痕が残ることはないでしょう。また全身には打撲と擦過傷が多数ございます。幸い骨折は見受けられませんでしたが、筋肉への損傷は少なくありません。数日はお身体を動かさず、十分に安静になさる必要がございます」
僕も相馬も胸を撫で下ろしたように頷いた。
「また、冷え切った状態で長時間過ごされたことによって高熱を発しております。身体を温めながら解熱剤を服用していただき、熱が上がり切らないよう冷布による処置も施しました。念の為、定期的に様子を確認し、水分も少しずつ摂らせてください」
「分かった」
短く答えたものの、医師は僅かに表情を曇らせた。
「ですが、公爵様……今回、私が最も気になりましたのは転落によるお怪我ではございません。お嬢様のお身体は、極度の栄養失調に陥っております」
その言葉が静かな部屋に重く落ちた。
「筋肉も著しく落ちておりますし、内臓もかなり弱っております。この状態で急に通常のお食事に戻してしまいますと、お身体が耐えられない恐れがございます」
「それなら、どうすればいいの?」
僕が尋ねると、医師は落ち着いた口調で説明を続けた。
「最初の数日は胃腸へ負担を掛けないよう、温かなスープや柔らかく煮込んだ野菜、薄く味付けした粥のようなものを少量ずつ、回数を分けて召し上がっていただくのがよろしいでしょう。消化の良い白身魚や鶏肉も、様子を見ながら少しずつ増やしていかれてください」
「一度に多く食べさせる必要はないんですね」
相馬が確認すると、医師は頷く。
「はい。量よりも回数でございます。少しずつ身体に栄養を戻していくことが何より大切です。焦りは禁物でございます」
「……分かった」
医師は言いにくそうに眉を寄せ、少しだけ言葉を選ぶように僕を見た。
「それから、お腕の傷と火傷でございますが……」
医師は後ろに控えていた女性に頷いた。
彼女は静かにセラ嬢の寝衣の袖を捲り上げる。
そこに現れた白い腕には赤く変色した火傷の痕と、その上に幾筋も重なる鋭利な物で裂かれたような傷跡。
しかも見た限り、一度や二度ではない。
古い傷に新しい傷が幾度も重なり、痛々しく肌を刻んでいる。
僕の指先が僅かに震え、相馬も言葉を失ったままその腕を見つめていた。
「火傷も裂傷も、どちらも繰り返し負った痕跡でございます。幸い傷そのものは治癒に向かっておりますが、このままでは痕が残る可能性がございます」
医師は静かに薬箱から小さな硝子瓶を取り出した。
「実は、一つだけ非常によく効く軟膏がございます。傷跡の再生を促し、火傷の痕も目立たぬほど綺麗に治せる可能性があります。ただ……」
医師は申し訳なさそうに続ける。
「希少な薬草のみを用いて調合する薬ゆえ、大変高価でございます。一瓶だけでも一般の貴族が躊躇するほどの金額になります」
「でも、それで治るんだね」
「はい。お時間は掛かりますが、継続して使用できれば、痕を残さず治せる見込みは十分ございます。お嬢様はまだお若いので代謝も活発でしょうから」
「なら、それを使って。金額なんてどうでもいいよ。必要なら何瓶でも用意して。この子の傷が治るなら、それ以外に気にすることなんてないから」
「承知いたしました」
看護師は蓋を開けると、薬を指先に少量取り、医師の説明に合わせながら傷に丁寧に塗り広げ始めた。
「この薬は一日に二度、傷口を清潔にした後で薄く均一に塗布してください。強く擦り込む必要はございません。優しく肌に乗せるように伸ばしていただければ十分でございます」
白い薬が赤く傷付いた肌に静かに広がっていく。
僕はその様子を一言も発せず見つめ続けていた。
もう二度と、この身体に新しい傷など増やさせない。
眠るセラ嬢の穏やかな寝顔を見つめながら、その誓いだけは胸の奥へ深く刻み込んでいた。
「……医師としての見立てを聞かせてほしい。この火傷や傷は、自ら負ったものじゃなく、誰かに加えられたものだと考えていいのかな」
僕の言葉を聞いた医師は静かに頷き、セラ嬢の腕に視線を落とした。
「はい。そのように考えて差し支えございません」
医師は傷跡を指先で示しながら続ける。
「まず裂傷ですが、ご覧の通り傷はほぼ同じ方向から繰り返し加えられております。深さにも大きなばらつきがなく、刃物を当てる角度も一定でございます。もしご自身で傷を付けられたのであれば、痛みによる反射や腕の動きによって、途中で刃先が逸れたり、角度や深さに乱れが生じるのが普通です。しかし、お嬢様のお傷にはその形跡がほとんど見受けられません」
医師は一呼吸置き、慎重に言葉を選んだ。
「さらに、傷の位置も不自然です。ご自身の利き手で無理なく刃を入れられる角度とは一致しておらず、この向きの傷を何本も同じように付けることは極めて困難でしょう。なので医学的な見地から申し上げますと、お嬢様がご自身で負われた傷とは考えられません。第三者によって、腕を自由に動かせない状況で加えられた可能性が極めて高いと判断いたします」
「そう……」
「火傷も同様です。これは熱い飲み物を上方から浴びせられた際に生じやすい痕でございます。ご自身で誤って零したのであれば、熱さに反応して腕を瞬時に引いてしまうため、火傷は帯状に流れたり、濃淡にばらつきが生じるのが一般的です。しかし、お嬢様のお腕に残る火傷は、熱が一箇所に集中し、しかも比較的均一に残っております。腕の動きが制限された状態で熱湯を浴びたと考えた方が、傷の形状としては自然でございます」
「……つまり、火傷にしても傷にしても、腕の自由を奪われたまま無理やりそうされた可能性が高いっていうこと?」
帝国内でも指折りの医師である彼が今日の騒ぎを知らないわけはないだろう。
だからこそ僕の問いに、医師は苦々しく眉を寄せた。
「あくまでも、医師として傷跡から判断した私個人の見解ではございます。ですが、その可能性は極めて高いと考えております。火傷も裂傷も、ご本人が自ら負われたものとしては説明のつかない点があまりにも多いです。少なくとも私には、お嬢様がお一人でこのようなお傷を負われたとは到底考えられません」
部屋に静寂が落ちる。
僕は何も答えられず、ただ眠るセラ嬢の横顔を見つめた。
ヴェルメルにいた頃から、彼には何度も命を預けてきた。
腕は確かで、診立てを誤るような医師じゃない。
だからこそ、今の言葉にも疑う余地などなかった。
胸の奥に沈んでいた怒りが、音もなく冷え固まっていく。
「診てくれてありがとう。本当に助かったよ」
「お役に立てたのであれば幸いでございます」
「あと、君には十分な褒美を取らせるつもりだ。薬代も診療代も気にしなくていい。必要なものがあるなら遠慮なく言って」
「そのようなお気遣いをいただき、恐縮でございます」
僕は小さく頷くと、表情を引き締めた。
「それと、もう一つだけ頼みがある」
医師も看護師達も、姿勢を正して僕を見る。
「今日ここで見たセラ嬢の傷のことは、決して誰にも口外しないでほしい。侍女や使用人はもちろん、城の者にも、外部の人間にもね。このことを知ってるのは、この部屋にいる者だけで十分だから」
「承知いたしました。医師には守秘義務がございます。本日拝見したことは墓場まで持って参ります」
二人の看護人も揃って頭を垂れる。
「私どもも決して他言いたしません」
その返答を聞き、僕は小さく頷いた。
医師達が部屋を後にすると、再び静けさが戻る。
僕は眠るセラ嬢に視線を向けた。
穏やかな寝息を立てるその寝顔は、先ほど目にした痛々しい傷跡とはあまりにも不釣り合いで、胸が締め付けられる。
……早く目を覚ましてほしい。
そう願っているはずなのに、その青い瞳が開いた時、彼女はどんな表情で僕を見るのだろう。
そのことを思うと、待ち遠しさと同じくらい、胸の奥に拭いきれない恐れが静かに広がっていった。
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