4
遠い意識の奥で、紙をめくる静かな音が聞こえてくる。
まどろみの中に沈んでいた意識が、少しずつ浮かび上がり、重たい瞼をゆっくりと開けば、目に映ったのは今では見慣れてしまったアルディオン公爵家の天井だった。
ぼんやりと天井を見たあと、私は無意識に壁掛け時計に視線を向ける。
それは、この屋敷で過ごすうちに染みついてしまった癖だった。
針が示していたのは、夜中の二時過ぎ。
あの地獄のような朝食まで、あと五時間ほど……。
その時間を耐え抜いても、すぐに昼食、夕食と、また同じ苦しみが待っている。
そう思うだけで胃がきりきりと痛み始め、身を守るように身体を丸めようとした刹那、全身に鋭い痛みが走り、小さく息を呑んだ。
「セラ嬢?起きたの?」
声のする方に顔を向けると、総司様が羽根ペンを持つ手を止めて立ち上がり、こちらに歩いてくる。
部屋の隅には見覚えのない大きな机が置かれ、その上には書類がいくつも広げられていた。
『……総司……様?』
どうして総司様が、このお部屋に……?
これはまだ、夢の続き……?
そんなことを考えながらぼんやり見上げていると、総司様の指先がそっと私に伸びてくる。
ひんやりとした大きな手が額に優しく触れ、少しだけ留まると、またすぐに離れていった。
「まだ熱はあるね。傷の痛みはどう?」
その声を聞いているうちに、ぼやけていた意識が少しずつはっきりとしていき、今日起きた出来事が夢ではなく現実だったのだと、心に重く落ちてくる。
私の計画は失敗に終わり、結局またこの公爵邸に戻ってきてしまった。
その現実を受け止めた途端、呼吸が浅く乱れ、苦しさに耐えきれず咳き込むと、溢れた涙を見た総司様は慌てたように私の身体を支え、ゆっくりと上体を起こしてくださった。
「……平気?」
『こほ……っ……けほっ……』
……そうだ。
私は狩猟の途中で奥様方とはぐれ、そのまま谷底に落ちてしまったんだ。
泣き疲れ、意識がぼんやりとしてきた頃、総司様が私を見つけてくださったことだけは、なんとなく覚えている。
あの時は、ただ独りになってしまうことが怖かった。
だから総司様が僕を信じてと言ってくださった時、私はその言葉に縋るように頷いてしまい、そのままこうして再びこの場所に戻ってきた。
「ほら、水を飲んで」
総司様は水差しからコップに水を注ぎ、私にそっと差し出してくださる。
『……ありがとうございます』
小さく礼を告げて受け取ると、乾ききった喉に少しずつ水を流し込み、ようやく苦しかった呼吸が少しだけ落ち着いていくのを感じた。
「少し待っててね」
総司様は部屋の扉を開き、廊下で控えていた方に食事の用意を頼まれた。
ほどなくして戻ってくると、目線が合うよう寝台の端に静かに腰を下ろした。
「身体はどう?医師には診てもらって治療は終わってるけど、しばらくは安静にしていないと駄目みたいだよ」
穏やかな声で、総司様は医師から聞いた診立てを丁寧に伝えてくださった。
全身には打撲や擦り傷があるものの骨に異常はないこと。
高熱のため解熱剤を飲んでいること。
それから極度の栄養失調であることと、腕の傷には毎日薬を塗って治療を続けることも。
『……わかりました。ありがとうございます』
返事はしたものの、私の心はどこか遠くに置き去りになったままだった。
これから先、私はどうなってしまうんだろう。
そのことばかりが胸を占め、不安に震えそうになる指先をそっと握り締めていると、総司様が静かに口を開いた。
「セラ嬢、ごめんね。君を保護している立場なのに、君が辛い生活を送っていたことにも気付けなくて、本当に申し訳ないと思ってるよ。全部、僕の至らなさが招いた結果だ」
そう仰ると、総司様はゆっくりと頭を下げられた。
谷底から助け出してくださった時も、総司様は私に謝罪の言葉を掛けてくださっていたことを思い出す。
……けれど。
総司様は今日、陛下をはじめ皆様の前で、私の訴えを極度の混乱と精神的動揺が招いた虚言だと仰った。
異国に来たことで心が乱れ、そのような言動に及んだのだと。
そればかりか、以前の私とのやり取りにまで事実とは異なる話を織り交ぜ、最後には東部の皆様を盾にして、私が何も言えないよう封じてしまった。
そんな方の謝罪なんて、欲しいとは思えない。
心にも、少しも届かない。
だから私は何も言葉を返せないまま、ただ唇を閉ざしたまま俯くことしか出来なかった。
「まだ不安があると思う。でもこれからは、ちゃんと君を護るよ。君が少しでも居心地良く暮らせるように、僕に出来る限りのことはするつもりだから」
その言葉に、私は思わず総司様を見つめ返した。
『……それは、本当ですか?』
「勿論、本当だよ」
迷いのない返事だった。
でもその言葉を信じたい気持ちと信じられない気持ちが胸の中でぶつかり合い、私は唇を開いた。
『それでしたら、どうか私の身柄をアルディオン公爵家から移してください』
総司様は見るからに表情を曇らせ、それでも穏やかな声を崩さないまま首を横に振った。
「それは出来ないよ」
『何故ですか?出来る限りのことをすると仰ってくださったのは、総司様ではありませんか』
「それは君がここで暮らすことが大前提だ。その環境を整えるために、出来る限りのことをするっていう意味だよ」
その答えを聞いて、胸の奥に沈んでいた違和感が、ゆっくりと形を持ち始めるようだった。
『……何かあるのですか?』
「え?」
『私の処遇が決まるまで、どうしてもここに身を置かなければならない理由です』
総司様は私の視線から目を逸らし、小さく息を吐いてから、慎重に言葉を選ぶように話し始めた。
「君は東部との講和を進めるうえで、とても大切な存在なんだ。その君を安易に他所に移すわけにはいかないって、陛下からも言われてる。それにアストリアには、君がアルディオン公爵家で暮らしていることをもう伝えてあるんだ。今さら預かる場所を変えたら、向こうに余計な不信感を与えちゃうでしょ」
『そのご事情は理解しています。ですが、それはあくまで私が安心して暮らせることが前提のお話です。毎日理不尽な扱いを受け、そのことを皆様の前では虚言のように扱われて……どうして私だけが、総司様や帝国のご事情のために耐え続けなければならないのですか……っ』
抑えていた感情が溢れ、呼吸が震える。
涙で視界が滲んでしまったのは、悲しいというより、悔しかった。
ここまでの仕打ちを受けなければならないことはしていない筈なのに、苦しむことばかりを求められる自分が。
「それは……本当に申し訳ないと思ってるよ」
『口だけの謝罪は欲しくありません』
私がそう告げると、総司様は小さく自嘲するように笑った。
「……そうだよね。でも、何を言われても君の預かり先を変えることだけは出来ない。それだけは、絶対に譲れないんだ。だから、そのことはもう諦めてほしい」
その一言に、私は思わず目を見開いた。
総司様もまた、何かを押し殺すような表情のまま静かに続けた。
「その代わり、今度こそ僕が君を護る。これからは君のことを、一番に考えるって約束するよ」
……嘘ばっかり。
総司様は、本当に嘘ばかりだ。
いくら護ると仰っても、総司様は帝国最強の騎士として日々お忙しく過ごされ、お屋敷を空けていることの方がずっと多い。
そのような方が、どうやって私を護るというのだろう。
総司様がいらっしゃらない時こそ、私にとって一番恐ろしい時間なのに。
『……総司様は……平気で嘘ばかりつくようになってしまわれたのですね……』
熱で頭が浮かされているせいだろうか。
それとも今日はあんなことがあったばかりだろうか。
堪えていた涙が頬を伝うと同時に、胸の奥に押し込めてきた言葉まで、止めることができずに零れ落ちていった。
『それとも……昔、私と交わしてくださった言葉も……最初から全部嘘だったのですか……』
総司様との約束を、ずっと信じ続けてきた。
あの約束を胸に大切に抱いて生きてきたからこそ、総司様が平気で嘘を口になさることが何よりも悲しかったし、アストリアに攻め入って来られたあの夜、「約束を果たしにきたよ」と仰った総司様の言葉が信じられなかった。
私にとって一番大切だったあの約束を、あんな捻じ曲げた形で実行するなんて、あまりにも心がないと思ったから。
だけど……そんなふうに思う資格なんて、私にはないのかもしれない。
私が勝手に約束を支えにして、勝手に期待して、勝手に傷ついているだけなのだと、頭ではわかっている。
それでも、どうしても許せなかった。
忘れようとしても忘れられず、諦めようとしても諦めきれず、私の中には今も昔の総司様が生き続けている。
優しく笑ってくださった総司様も、手を差し伸べてくださった総司様も、辛い時には必ず大丈夫と励ましてくださった総司様も、何一つ色褪せることなく心に残り続けているから。
「……違うよ。そんなわけないでしょ?」
涙を拭おうと私に伸ばされた手をそっと避けると、総司様は苦しそうに表情を歪め、そのまま静かに手を下ろされた。
それでも責めることなく、昔と変わらない穏やかな声で、もう一度私に語りかけてくださる。
「君のことを護るって言ったのは本心だよ。だから……君の話を聞かせてくれる?」
私は自分の手で少し乱暴に涙を拭い、滲む視界の向こうにいる総司様を見つめ返す。
彼は一呼吸置くと、真剣な面持ちで尋ねてきた。
「君が今日、狩猟中に皆とはぐれたって聞いたけど、それは本当?」
『……はい』
「じゃあ、誰かに突き落とされたわけじゃないんだね?」
『はい。馬が野鳥に驚いて暴れてしまい、私には制御できず、そのまま谷に落ちてしまいました。ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません』
「謝らなくていいよ」
総司様は静かにそう言うと、今度は私の包帯が巻かれた腕に目を向けた。
「この腕の傷は?食事に酷いものを混ぜられていたことも含めて、一体誰がやったのか、詳しく教えてもらいたいんだ」
その答えを口にしたところで何が変わるのだろう。
もし私が、主犯はニコラ様だと申し上げたとして。
総司様が最も大切になさっているあの方を、本気で咎めてくださるとは思えなかった。
それどころか、私が余計にニコラ様の恨みを買い、総司様からも厄介な存在だと思われるだけかもしれない。
本当に私を守るつもりだったのなら、今日あの場で、私の言葉を頭から否定したりはなさらなかったはずだからだ。
結果として総司様は、私の安全ではなく、ご自身の中にある何か譲れないものを選ばれた。
だから今さら真実を打ち明けたところで、私にとって良い結果になるとは思えなかった。
『そのことは、お話ししたくありません』
「……どうして?」
『余計な反感を買うかもしれないからです』
総司様は、その言葉を聞いて僅かにその瞳を揺らした。
『私はただ、正式な処遇が決まるまで静かに暮らしたいだけなのです。このお屋敷の方々とは出来るだけ関わらず、お食事も安心して口にできるものを、この部屋の中で一人で頂ければそれ以上は何も望みません。総司様にも皆様にも、出来る限りご迷惑はお掛けしませんので、その願いだけ叶えてくださいませんか?』
もう何も期待はしない。
平然と嘘を口にし、人を欺くことを厭わない方々に、本心を伝えたところで傷付くのはいつも私の方なのだと、この帝国に来て嫌というほど思い知らされた。
アルディオン公爵邸にいる限り、どのみち私に自由はない。
何かお役に立ちたいと願っても、それすら許されないのなら、余計な波風を立てず、一日一日を静かにやり過ごすしかない。
そうして新しい居場所が決まる日を待つことだけが、今の私に残された唯一の希望のように思えた。
「……君は、本気でそれだけでいいと思ってるの?」
『はい』
総司様は眉を寄せ、何かを堪えるように小さく息を吐いてから、私を見つめた。
「君が望んでいることは分かったよ。この部屋で食事をしたいことも、出来るだけ屋敷の者と顔を合わせずに過ごしたいことも、僕から皆に話は通しておく。君が安心して食べられる食事も、必ずこの部屋まで運ばせる。誰が運ぶかも含めて見直すよ。君が不安になるようなことは、出来るだけ取り除くから」
まだ完全に安全とは言えないけど、総司様は配慮してくださることは心強い。
お礼を告げようとした時、不意に部屋の扉がノックされた。
お食事が運ばれてきたらしい。
総司様はトレーに乗ったお食事を受け取ると、私の前まで運んでくださった。
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