5

セラ嬢に手渡した盆の上には、小ぶりな深皿に盛られた温かい野菜のポタージュが載せられていた。
じゃがいもや玉ねぎなどの野菜を丁寧に煮込み、滑らかに裏ごしした淡い乳白色のスープからは、湯気とともに優しい香りが立ち上っている。
医師からも、衰弱した身体にはまず消化の良いものを少しずつ口にさせるよう言われていた。
セラ嬢は「ありがとうございます」と小さく礼を述べ、両手で大切そうに器を受け取る。
すると立ち上る香りに誘われるように、彼女の喉が小さく鳴った。

……やっぱり、お腹は空いていたんだ。
あれほど栄養を失っていたんだから当然だ。
その細い指先がかすかに震えているのは、きっと熱があるせいだけじゃなく、ようやく口にできるまともな食事を前にしているからだと思った。


「最初は胃に負担の少ないものから食べた方がいいんだって。食べてみて」

『はい、いただきます』


そう言いながらも、セラ嬢はすぐには口を付けようとはしなかった。
ゆっくりと匙を取り、慎重にスープを掬い上げる。
そのまま口に運ぶと思ったのに、彼女は何かを確かめるように、そっと匙を皿に戻した。
もう一度掬っては戻し、今度は柔らかく煮込まれた野菜を静かに掻き分け始める。
当たり前のように確認ばかりするその仕草を見た時、胸が締め付けられた。
本当は空腹で、食べたくてたまらない筈だ。
それなのに彼女は、目の前の食事を素直に口に運ぶことすら出来ないほど、この屋敷で傷付けられてきたんだろう。


「セラ嬢」


思わず声を掛けると、彼女の肩が小さく震えた。


「君の食事には細心の注意を払うよう厨房にも言ってあるし、ここまで運んできたのも相馬だよ。だから安心して食べて」


僕の言葉を受けたセラ嬢は、不安げに瞳を揺らしながら僕を見つめ、それから再びスープに視線を落とした。
そのまましばらく器を見つめ続けた後、ようやく匙を持ち上げる。
恐る恐る口に運ぶと、小さく喉を鳴らして飲み込む音だけが静かな部屋に響いた。
僕は息を詰めたまま、その一つひとつの動作を見守る。
すると彼女はもう一度匙を口に運び、続けて三口目も飲み下した。
そして四口目を口に運ぼうとした時、彼女の唇がかすかに震え、大きな瞳から堪え切れなくなったように涙が静かに零れ落ちる。
その涙に、僕は思わず目を見開いた。


『……美味しい……』


掠れるような声でそう呟くと、彼女は慌てて涙を拭い、何事もなかったかのように背筋を伸ばし、変わらぬ美しい所作で再びスープを口に運んでいく。
その姿を見つめているうちに、不意に幼い頃の彼女を思い出した。

身体は小柄なのに食べることが大好きで、美味しいものを頬張るたび、それはもう嬉しそうに笑う子だった。
あの笑顔を見るのが好きで、僕はいつからか自分の好物までわざと残して彼女に食べさせ、その幸せそうな顔を眺めて満足するようになっていた。
たったそれだけの時間が、僕には何より愛しかった。
それなのに、その当たり前の幸せも、無邪気な笑顔も、僕がこの帝都に連れてきたせいで奪ってしまった。
そう思えば胸の奥が鈍く軋むけど、この子を手放すという選択だけは、どうしても僕にはできない。
本当に救いようがないよね、僕は。

だけど今は無理でも、いつか必ず君を僕のものにしてみせる。
その優しい眼差しも、淡く色づく柔らかな唇も、白い陶器のように滑らかな肌も。
そして誰かに向けて微笑むその笑顔も、いつの日かすべて僕だけに向けられるものにしたい。
そんな身勝手な願いを、僕はどうしても捨てられなかった。


「それなら良かったよ。一度にたくさん食べられなくても、こまめに食事した方がいいみたいだし、お腹が減ったらその度に食事をしようね」

『そうなのですか?一日三食ではなく?』

「うん。医師がそう言ってたんだ。だから一日五食でも六食でも、食べられそうな時にたくさん食べるといいよ」

『はい。ありがとうございます』


律儀に礼を述べるその姿は、以前と何も変わらないように見える。
だけど、それが表面だけのものだということくらい、今の僕にはわかっていた。

今回の出来事で、彼女は完全に心を閉ざしてしまった。
僕が尋ねても詳しいことは何ひとつ語ろうとはせず、ただ静かにこの部屋で暮らしたいとだけ口にする。
それはきっと、この屋敷の誰とも関わらず、僕を含めたすべての人間と距離を置いたまま、この屋敷を去る日まで息を潜めて耐え抜くという、彼女なりの決意なんだろう。
そう考えると、遠征命令が突然下り、彼女を迎えるための環境を整える間もなく屋敷を空けなければならなかったことが悔やまれる。

そして、それ以上に許せなかったのは、彼女をここまで追い詰めたここの屋敷の人間たちだった。
誰が中心でこの子を虐げていたのかはまだ分からない。
それでも昼間の様子を思い返せば、主犯が誰であろうと、あの場にいた者たちは皆で口裏を合わせ、平然と嘘を並べ立てていたことだけは疑いようがない。
あの連中の顔を思い浮かべるだけで、腹の底から煮え立つような怒りが込み上げ、気付けば拳を強く握り締めていた。

加えて、あの場で嘘をついたのは僕も同じだった。
あの状況下でセラ嬢を手放さないでいられるための方法は、千の言葉に乗ることしかなかった。
だから僕は迷わずその嘘を受け入れたけど、セラ嬢からしたら、彼女を傷つけた者たちと同じように、僕もまた真実を隠し自分の都合を優先した人間にしか映らなかったはずだ。

でも……もしあの場でセラ嬢の願いがそのまま受け入れられていたら、僕はこの子を永遠に失っていたかもしれない。
そう思うだけで胸の奥がひどく冷え、それとは裏腹に、今こうして僕の目の届く場所にいてくれるという事実だけが心を温めてくれる。
懸命にスープを口に運ぶ姿も、美味しいと涙を零したあの愛らしい顔も、見るたびに僕の心を満たし、どうしようもなく愛おしいという想いを募らせていった。


『ご馳走様でした』

「全部食べられて偉かったね。まだ食べられそうなら、何か別のものを用意させようか?」

『いいえ。お腹はいっぱいになりました』

「そう。それなら今はゆっくり休んで。目が覚めたらまた少し食べて、食べたら眠る。その繰り返しで少しずつ身体を戻していけばいいから、焦らなくていいよ」


そう言いながら彼女の手元から器を受け取る。
セラ嬢は静かに頷いたあと、遠慮がちに僕を見上げ、小さな声で口を開いた。


『あの……お気遣いありがとうございます。でも、もう大丈夫ですよ』

「大丈夫って、何が?」

『総司様はお仕事をなさっていたのでしょう?私はもう、一人でも大丈夫です』


やっぱり、そう言うと思った。
だけど、今回の件を受けて、陛下は僕に数日の休暇を与えてくださった。
おそらく陛下もセラ嬢の訴えが決して虚言ではなかったことを理解している。
だからこそ公爵家の立て直しと、彼女の心身を支える時間を僕に与えてくださったのだろう。
あの場で陛下が僕たちの嘘を咎めなかったのも、騒ぎを大きくすれば東部との講和にまで影響が及ぶと見抜いていたからに違いない。
ならば、この貴重な休暇を他のことに費やす理由なんてない。
今までは無理に距離を置いていたけど、こうなったことでようやくこの子の傍にいる口実が出来たんだ。
僕は一瞬たりとも彼女から目を離したくなかった。


「でも医師からきつく言われてるんだ。君をしばらく一人にはしないようにって」

『……え?どうしてですか?』

「身体はもちろんだけど、心もまだ回復しきっていないからだよ。誰かがそばにいた方が安心できるだろうって。本来なら同じ女性である侍女や屋敷の奥方が付き添うべきなんだろうけど」


そこまで話した途端、セラ嬢の表情がかすかに強張る。
その反応を見る限り、少なくとも彼女があの人たちを恐れていることだけは間違いなかった。
だから僕しか適任者がいないだろうと考えて、再び彼女に話しかけた。


「今回のことは、僕の責任だからね。君が元気になるその日まで、きちんと僕自身の目で見届けたいんだ」

『ですが……総司様、お仕事はどうされるのですか?』

「陛下が休暇をくださったから平気だよ。君が安心して療養できるよう、傍についていてあげなさいってね。もちろん後回しにできない書類仕事は残っているから、この部屋に机を運ばせたんだ。ここなら仕事を進めながらでも、君の様子を見守っていられるでしょ?」


セラ嬢は瞳を揺らし、何とも言えない困ったような表情で視線を伏せた。
きっと、僕が本気でこの部屋に居座るつもりだと察して困っているんだろう。


『ですが、私はもう大丈夫です。本当に悪いことなんていたしませんし……ずっと見られていると、少し落ち着きません』

「見張るつもりなんて少しもないよ。君は今までどおり自由に過ごしてくれて構わないし、僕は勝手に仕事をしているだけだから、そんなに気を遣わなくても大丈夫だよ」

『ですが……総司様は、どちらでお休みになられるのですか?』

「ん?僕なら、このソファーで十分眠れるよ」

『……それはやはり駄目だと思います。奥様方が、お気を悪くされるのではありませんか?』

「その心配ならいらないよ。この部屋に僕がいることを知っているのは相馬だけだからね。周りは僕がいつもどおり執務室に籠もって仕事をしていると思っているはずだよ」


そう何気なく答えると、セラ嬢は眉を下げ、どこか納得できないというように僕を見つめ返してきた。


『そういうことはあまり良くないと思います』

「どうして?」

『どうしてって……大切な奥様方を欺くようなことは、決して良いことではございません』

「うーん。でも、僕たちは政略結婚だからね。お互いに情があるわけでもないし、この程度のことで誰かを裏切ることにはならないと思うよ」


さらりとそう告げると、セラ嬢はより眉を顰めて僕を睨みつけてくるから、僕は思わず目を瞬く。


『総司様は、本当に女心がお分かりにならないのですね。たとえ政略結婚であったとしても、旦那様が他の女性のお部屋で長い時間を過ごしていらっしゃると知れば、奥様方はきっと複雑なお気持ちになります。少なくとも私でしたら、そんな旦那様は嫌です』


そう言い切ると、セラ嬢はぷいと僕から顔を背けてしまった。
その拗ねたような横顔が懐かしくて、胸の奥にしまっていた幼い日の記憶が不意に蘇る。


『総司様は……私だけの旦那様になってくださいますか?』
まだあどけなさの残る小さな彼女は、不安そうに僕を見上げながら、一生懸命そんなことを尋ねてきた。
誰とも分けっこしたくないのだと頬を赤く染めて訴える姿が可愛くて、その時の僕は心の中で固く誓った。
絶対に他の奥方なんて迎えるものかって。

……それなのに今の僕には三人もの妻がいる。
この家を盤石なものにし、誰にも文句を言わせないだけの力を手に入れるには必要な政略結婚だった。
理屈ではそう割り切ってきたはずなのに、心が通うこともなく、それどころか僕の一番大切な子を傷つけたあの人たちを思えば、そんな繋がりは煩わしい足枷でしかなかった。


「うーん……でもさ、僕はさっき君に約束したよね。これからは君のことを一番に考えるって」


そう言うと、セラ嬢はゆっくりと僕を振り返り、ぱちりと目を瞬かせる。


「また君に総司様は嘘ばかりですって泣かれるのは困るからさ。今度の約束くらいは、ちゃんと守ろうと思ってるんだ」


冗談めかして笑ってみせたけど、その言葉だけは紛れもなく本心だった。
だけどセラ嬢は困ったように眉を下げ、小さく首を横に振る。


『あれは……その約束を守っていただきたくて泣いたわけではありません』

「そうなの?じゃあ、どうして泣いたの?」

『総司様が嘘ばかりおっしゃる方になってしまったことが、ほんの少し悲しかったのです』

「それってつまり、僕が嘘をつくと君は悲しいってことでしょ?だったらなおさら約束は守らないとね」

『そういうことではなくて……』


困り果てたように眉を寄せ、小さく指先をもじもじと動かすその癖は、昔から少しも変わらない。
思わず笑みが零れそうになったけど、彼女は急に苦しそうに咳き込み始め、華奢な肩を震わせた。


「ほら、まだ無理したら駄目だよ」


慌てて彼女の背中を優しくさすりながら、僕はふと思い出したように机の脇に置かれていた包みを手に取り、小さい手のひらにそっと乗せた。


「はい、これ飲んで」

『……これは、何のお薬ですか?』


不安そうに揺れる青い瞳が僕を見上げるものだから、思わず苦笑が零れる。


「そんな顔しなくても大丈夫だよ。医師が痛みを和らげるために用意してくれた薬だから。身体のあちこちが痛むでしょ?少しは楽になるし、飲めばちゃんと眠れるはずだよ」


そう言って水の入ったグラスを差し出すと、彼女は薬と僕の顔を何度か見比べ、小さく息を呑んだ。


『本当に、大丈夫なのですか?』

「もちろん。僕が君に身体を悪くするようなものを飲ませるわけないでしょ?」


安心させるように微笑めば、彼女はようやく緊張を解き、小さく頷いて薬を口に含む。
その姿を見届けた僕は胸を撫で下ろしながらも、同時に誰にも知られたくない感情が静かに胸の奥で疼くのを感じていた。

この薬は、傷の痛みを大きく和らげ、身体をゆっくり休ませるために作られた希少な鎮痛薬だ。
人体に害を及ぼすようなものではなく、強い依存性があるわけでもない。
ただあまりにも効き目が優れているため流通量は極めて少なく、その価値は金貨を惜しみなく積める上流貴族でさえ簡単には手に入れられないほど高い。
だからこの薬は、医師に処方された薬ではなかった。

皇族や高位貴族が重傷を負った際に用いられることもある一方で、その希少さゆえ正規の市場に出回ることはなく、闇の取引でしか流通しない逸品。
正規でルートで取引されない理由は、飲めば数時間は深い眠りに落ちてしまうからだった。
あまりにも効き目が強く、犯罪に悪用されることも少なくないと聞く。

だからこの薬を渡すもう一つの理由は、夜通し彼女の傍に寄り添い、その寝顔を惜しむことなく眺めていたいという邪な願いがあるからだった。
グラスから唇から離れる刹那、ほのかに赤らんだ頰が愛おしくてたまらない。


「詳しい話はまた明日にしよう。今日は何も考えずにゆっくり休んで。君は早く元気になることだけ考えていればいいから」

『ですが……』

「僕は向こうで少しだけ仕事を片付けたら、今夜はちゃんと自分の部屋に戻るよ。だから心配しなくていいし、安心して眠って」


僕がそう言って、小さな身体を寝台に寝かせると、セラ嬢はようやく安心したように小さく頷き、コンフォーターを口元まで引き上げながら、こちらを見つめた。


『……おやすみなさい』

「うん。おやすみ、セラ嬢。いい夢を」


そう返すと、彼女はふわりと目を細め、そのまま静かに瞼を閉じていく。
その寝顔を見つめながら、僕は堪えきれず小さく笑った。

本当に、この子は可愛い。
昔も今も、僕を叱る理由はいつだって僕のことを想っているからで、少し拗ねた顔も、困って眉を下げる癖も、真っ直ぐすぎる優しさも何ひとつ変わっていない。
それに純粋で、人を疑うことを知らないどこか危ういところも。

眠りに落ちていく穏やかな寝息を耳にしながら、僕は乱れた前髪をそっと指先で整える。
そして今度は頬を撫で、そのまま柔らかな唇を指先でなぞった。


「やっと二人きりだね」


……ああ、本当に可愛い。
今日あんな出来事があったばかりだというのに、僕がいるこの部屋で、こんなにも無防備な寝顔を晒してしまうところも、あれほど僕を警戒しているくせに、最後は僕の言葉を信じて素直に身を委ねてしまうところも。
普段は芯が強く、今日だって皇帝陛下の前で一歩も引かなかった姿には、さすがの僕も息を呑まされたけど、それでも結局君はまだ僕の掌の中にいる。

僕が望めば、こうして誰にも邪魔されることなく君の寝顔を眺めていられるし、その穏やかな寝息を独り占めすることだってできてしまう。
そんな自分勝手な優越感に浸る資格なんてないと分かっているのに、君があまりにも愛おしいものだから、この胸に芽生えてしまう感情はどうしても抑えきれなかった。


「……おやすみ、セラ嬢。明日からもずっと一緒にいようね」


囁きが届くことはない。
それでも僕は彼女の傍から離れることなく、規則正しく繰り返される寝息に耳を澄ませながら、その穏やかな寝顔を、飽きることなく静かに見つめ続けていた。

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