6
次に目を覚ました時には、室内は朝の光に満たされていた。
見慣れた天井が目に映り、ゆっくりと視線を巡らせると、いつものお部屋の景色が広がっていて、そのすぐ隣には……
「おはよ。よく眠れた?」
寝台の傍に置かれた椅子に腰掛けた総司様が、穏やかな笑みを浮かべながら私を見つめていた。
『……おはようございます。よく眠れました』
そう答えながらも、胸には小さな疑問が次々と浮かんでくる。
どうしてまだここにいらっしゃるんだろう。
それに、この椅子はいつの間に用意されたの?
いつからこうして眺めていたんだろうと考えれば、何とも言えない気持ちになってしまう。
『総司様はどうしてこちらに?』
「そろそろ起きる頃かなって思って来てみたんだ」
あまりにも自然なお返事に、私はじっと総司様を見つめる。
『昨晩はきちんとお部屋に戻られたのですか?』
「え?ああ、うん。戻ったよ」
……怪しい。
総司様がお召しになっているのは、昨夜と同じ私室でお過ごしになる時のゆったりとした部屋着のまま。
お着替えをなさった様子もなく、本当は一晩中ここにいらしたのではないかという疑いが益々深くなってしまう。
でも、それ以上問い詰める間もなく、総司様はにこりと微笑んだ。
「それより朝食にしようよ。起きて食べられそう?」
『はい。ですがその前に、一度バスルームに行ってもよろしいですか。汗をかいてしまったみたいで』
解熱剤のおかげか、身体の重さは昨夜よりずっと楽になっていた。
昨日は、お医者様とご一緒に来てくださった女性の看護人のお二人が、私の身体を丁寧に清めてくださったと聞いている。
それでも熱を出したせいで寝汗をかいてしまい、少しだけ身体が落ち着かなくてそうお願いすると、総司様は優しく頷いた。
「勿論いいよ」
ほっと胸を撫で下ろし、コンフォーターを捲って起き上がろうとした時だった。
『……あっ……、なにを……っ』
総司様の腕が私の背中と膝裏に回り、ふわりと身体が宙に浮く。
まるで壊れ物でも抱えるように、それでいて逃がさないと言うようにしっかりと支えられ、私はあっという間に横抱きにされてしまっていた。
「まだ全身痛いでしょ?僕が運んであげる」
優しく微笑みながらそんなことをおっしゃるけど、その笑顔が今は少し怖い。
純粋な親切なのか、それとも私がこれ以上アルディオン家に不満を抱かないようにするためなのか、それとも別の思惑がおありなのか……私には何一つ分からない。
ただ、こんなふうに抱き上げられてしまうのは、あまりにも落ち着かなかった。
『あの、自分で歩けますから』
「いいから、僕に任せて」
総司様は、私の言葉なんて最初から聞くつもりがなかったらしい。
さらりと言い切ると、そのまま迷いなくバスルームに歩いて行った。
こんなにも近くに総司様のお顔があると、どこに視線を置けばいいのかも分からず、私は胸の前で小さく身を縮こませることしかできない。
やがてバスルームに着くと、総司様は傷に響かないよう私をゆっくりと降ろしてくださった。
その途中、私の身体を支えるために身を屈められた総司様のお顔が、不意に私の首筋に触れそうなほど近づいた。
そして、すう、と穏やかな息遣いが肌をかすめ、まるで匂いを確かめるように静かに香りを吸い込まれた気がする。
『……っ』
思わず肩がぴくりと震える。
気のせいだったと思いたいけど、身体を離した後の総司様の表情はどこか満足そうにも見える。
『今……』
さすがに、「私の匂いを嗅ぎましたよね?」などと尋ねられるはずもない。
私の思い違いだったのかもしれないし、あまり考えすぎるのもよくない。
そう自分に言い聞かせ、小さく息を吐いた。
『運んでくださってありがとうございます。では、シャワーを浴びてまいりますね』
「うん、ごゆっくり」
総司様がバスルームを出て行かれると、私は念のため内鍵を掛け、壁際に据えられた衣装戸棚から新しい下着と寝間着を取り出した。
身につけていたものを脱ぎ終えた私は、ふとその寝間着を鼻先に寄せ、それから自分の腕にもそっと顔を近づける。
『……私、くさくなかったよね……?』
もし本当に総司様が香りを確かめていらしたのだとして、嫌な匂いがするとでも思われていたら胸が痛くなる。
匂いを嗅がれたことよりも、どう思われたのかを気にしている自分に呆れながら、温かな湯を浴びた。
熱で流れた汗を洗い流し、髪も身体も丁寧に清めていくと、まとわりついていた重さまで少しずつ溶けていくようだった。
身体の芯まで温まり、頬をほんのり赤く染めながらバスルームを出ると、窓際の丸いティーテーブルには、二人分の朝食が美しく並べられていた。
「身体、温まった?」
『はい、お待たせしました』
「じゃあ、朝食を食べようか」
白い陶器の深皿には、鶏の出汁でやわらかく煮込まれた大麦のポタージュが湯気を立て、その隣には生クリームを少し加えてなめらかに仕上げられた人参のピュレ。
薄く焼かれた白パンに、やわらかそうなチーズが添えられ、林檎のコンポートも。
さらに香草で蒸し上げられた白身魚が、小さな皿に上品に盛り付けられていた。
どれも身体を労わるためのお食事なのだと、一目でわかる献立だった。
けれど私が思わず目を瞬かせたのは、そのすべてが総司様のお皿にも同じように並べられていたからだった。
『総司様も同じものを召し上がるのですか?』
「うん。その方が君も安心して食べられるでしょ?はい、これも食べなよ」
そう言って総司様は、白身魚を小さくほぐし、私のお皿に取り分けてくださる。
その仕草を見て、不意に幼い日の記憶が蘇った。
お茶会のたび、総司様は焼き菓子や果物を、いつも私のお皿に取り分けてくださっていた。
侍女の方が「私がいたします」と申し上げても、「僕がやりたいから」と譲られず、当たり前のように私のお皿を満たしてくれるのがいつもの光景だった。
あの頃と何一つ変わらない優しい気遣いに、胸が少しばかり温かくなってしまう。
「はい、どうぞ」
『ありがとうございます。いただきます』
まずは大麦のポタージュをひと匙いただく。
鶏の出汁のやさしい旨みが口いっぱいに広がり、大麦のやわらかな食感が身体にゆっくりと染み渡っていく。
続いて人参のピュレを口に運ぶと、自然な甘みが広がり、思わず頬が緩んでしまった。
『……おいしい』
こんなにおいしいお食事を頂けるなんて、空腹で苦しかった毎日が嘘のよう。
身体が素直にもっと食べたいと喜んでいるのがわかる。
その嬉しさに夢中になって食事を続けていると、不意に誰かの視線を感じた。
そっと顔を上げれば、総司様が私を見つめながら、穏やかに微笑んでいた。
思えば昔も、私がお菓子を頬張るたび、総司様はご自分はあまり召し上がらず、今のように微笑みながら私を見守っていてくれた。
あの頃と同じ景色が今目の前にあることが、どこか信じられないのに懐かしくて、以前感じていた温かさを思い出してしまう。
「食べられるなら、僕の分も食べていいよ」
『いいえ、もう十分いただいています。それより、総司様こそ召し上がらないのですか?』
「なんだか僕は、お腹いっぱいなんだよね」
そう仰るけど、総司様は先ほどからほとんどお料理に手をつけていらっしゃらない。
時折フォークを持ち上げても、口に運ぶことはほとんどなく、その視線はずっと私に向けられていた。
そんなに見つめられていると、なんだか落ち着かない。
私はスプーンを置き、そっと首を傾げた。
『もしかして、これとは別に朝食を召し上がったのですか?』
今日はいつもより深く眠ってしまったようで、目を覚ました頃にはもう九時近かった。
総司様は普段どおり早朝に朝食を済ませ、そのあと私の様子を見にいらしたのかもしれない。
そう思って尋ねると、総司様は小さく笑う。
「ううん、食べてないよ。そんなに何度も朝ご飯は食べられないからね」
『そうだったのですね……。でしたら、私はもう一人でも大丈夫ですから、これからは総司様はいつも通り皆様とご一緒になさってください』
そう申し上げれば、総司様は間髪入れずに首を横に振った。
「せっかく数日間は屋敷にいられるんだから、僕もここで食事をするよ」
『ですが、それでは奥様方がご心配なさるのでは……』
私が遠慮がちに言いかけると、総司様は穏やかな笑みを浮かべたまま、それでも有無を言わせない口調で言葉を重ねた。
「あの人達のことは、君が気にする必要ないから。それと今後、あの人達の話は僕の前ではしないこと。いいね?」
ぴしゃりと言い切られ、私はそれ以上何も言えなくなってしまう。
きっと総司様にとって、あの方々は大切な存在なのだ。
だから私が軽々しく口を挟むことを、お望みではないのかもしれない。
総司様は総司様なりに、奥様方のことをきちんと考えた上で動いていらっしゃるのだろう。
私の傍にいてくださるのも、何かお考えがあってのことなのかもしれない。
例えば私の体調や様子を見守り、その経過を陛下へ報告するお役目があるとか。
あるいは東部との講和が結ばれたばかりだから、人質である私が帝国で十分な保護と厚遇を受けていることを内外に示す必要があるのかもしれない。
そう考えれば、この優しさにも絶対に何か理由がある。
そんなことは、再会してからの総司様の行動を思い返せば当たり前のことだった。
……それなのに。
幼い頃と何ひとつ変わらないような優しい眼差しを向けられるたび、私はその理由を見失いそうになってしまう。
この優しさは、心から向けられているものではない。
そうわかっているはずなのに、少しでも優しくされると嬉しいなんて思ってしまう私は、本当に単純で嫌になっちゃう。
「どうしたの?ため息なんて吐いて。口に合わない?」
いつの間にか、自分でも気づかないうちにため息をこぼしていたらしい。
私は慌てて首を横に振り、総司様に微笑み返した。
『いいえ、とってもおいしいですよ。もっとたくさんいただきたいくらいです。でも、お腹がいっぱいになってきてしまって……それが少し残念で』
「食べたい時は、いつでも食べていいんだよ。今まで食べられなかった分まで、ちゃんと食べて」
『ありがとうございます』
「さっきも君を抱き上げたけど、あまりにも軽くて心配になったんだ。だから遠慮なんてしないで、もう少しふっくらするくらいがちょうどいいよ。丸々太るまで、僕がちゃんと食べさせてあげるから」
どこか子どもをあやすような優しい口調に、思わず笑みがこぼれる。
『丸々太るというのも、どうなんでしょう。太らせて私を食べるおつもりですか?』
幼い頃に読んだ絵本を思い出す。
悪い魔女が子どもを捕まえて、「丸々太ったら食べてやろう」と笑う、少しだけ怖くて、それでもどこか面白いお話。
総司様のお言葉がそれによく似ていて、私はくすくすと笑ってしまった。
けれど、その笑い声を聞いた総司様は、一瞬だけ目を細める。
その唇には確かに笑みが浮かんでいるのに、それは先ほどまでの穏やかな微笑みとはどこか違っていた。
私の言葉を否定するでもなく、面白がるでもなく、胸の内にしまっている何かを隠したまま眺めているような意味深な笑み。
その眼差しがあまりにも意味ありげで、思わず私の身体はぴたりと止まってしまう。
……あれ?
今の笑顔、何だかちょっと怪しくなかった?
少しだけ嫌な予感がしたような。
『……え?まさか本当に太らせて食べようと……』
思わず顔を少し引き攣らせてしまった私を数秒見て、それからようやく何事もなかったように総司様はふっと笑みを崩した。
「するわけないでしょ」
『……で、ですよね』
ほっと胸を撫で下ろしながら答えると、総司様は呆れたように苦笑し、どこかおかしそうな眼差しを私に向けられた。
「僕をどんな人間だと思ってるのさ。人を太らせて食べるような、そんな得体の知れない怪物じゃないよ」
『だって、総司様が丸々太るまで食べさせるなんておっしゃるからです』
「それにしたって発想が飛びすぎだよ。君の中の僕は、随分常識外れな人間になってない?」
強ち否定できない気持ちもある。
けれどそんなことを口にしたら何を言われるかわからないから、私は曖昧に首を横に振った。
その反応を見た総司様は、何かを見透かしたようにふっと笑う。
澄んだエメラルドの瞳が、ほんの少しだけ細められた。
「でも、まあ。君はおいしそうだよね」
『……そういう変なことは言わないでください』
「変かな?」
総司様は首を傾げ、まるで本気で不思議そうにしてるから、私のほうが調子を狂わされてしまう。
「小さい頃は、もっと頬もぷくっとしてたでしょ?僕はあのくらいが好きだったな。だから、もう少し肉付きが良くなってくれると安心するよ」
『安心する、ならまだわかりますけど……おいしそうなんて言われたら、誰だって驚きます』
「そう?」
『そうです』
「じゃあ訂正しようか」
総司様は紅茶を一口飲むと、にやりと笑った。
「君は元気になったら、もっと可愛くなるよ」
『……その言い方も、少し恥ずかしいので嫌です』
「そうなの?注文が多いな」
総司様はそう言ってくすりと笑う。
その笑顔があまりにも懐かしくて、私までつられるように笑みをこぼしてしまった。
本当はこんなふうに笑い合っていてはいけないのに。
今の私達は、幼い頃のように気兼ねなく過ごせる間柄ではないのに。
私は東部から送られてきた人質で、総司様は帝国を背負うお立場にある。
それでもこうして向かい合っていると、不思議なくらい昔の時間が戻ってきたような気がしてしまう。
窓から差し込む朝の陽射しも、湯気を立てる温かな朝食も、他愛ない言葉を交わしながら笑い合うひとときも、まるでかつてのお茶会がそのまま続いているみたいに錯覚してしまう。
……そんなはずはないのに。
私達を取り巻くものは、あの頃とは何もかも違ってしまった。
もう戻れない場所があることも、越えられない立場があることも、痛いほどわかっている。
もし、この部屋の外にある現実を忘れてしまえたなら。
悲しかったことも、苦しかったことも、胸に積もる不安も何もかも置き去りにして、ただ総司様と穏やかに笑い合っていられたなら、どんなに幸せだっただろう。
そんな叶うはずもない願いを抱いてしまった自分が、少しだけ情けなくて。
胸の奥に小さな淋しさを抱えたまま、総司様に微笑み返した。
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