8
次の日も、朝目を覚ますと、総司様はもう私のお部屋にいらして、窓から差し込む朝の光を背に、書類に目を通されていた。
私が身じろぎすると、すぐに気づいて顔を上げ、優しく微笑んでくれる。
その笑顔を見ただけで、私も自然と笑みを返していた。
それから二人でおいしい朝食を囲み、他愛のない話を交わしながらゆっくりと食事をいただく。
もう二度と訪れないと思っていた総司様との穏やかな時間が、傷だらけになってしまった私の心を包み込み、冷え切っていた場所に優しい温もりを灯してくれているようだった。
それでも、心の奥ではちゃんとわかっている。
総司様が私に優しくしてくださるのは、お立場があるから。
私はいつまでもここにはいられないし、処遇が決まればこの屋敷を離れて、帝国のどこか知らない土地で暮らしていかなければならない。
それに、東部に残してきた皆さんは今どうしているのだろうと考えてしまうたび心は曇り、笑顔の奥に隠していた淋しさが顔を覗かせる。
そんな私の変化に気付いたのか、総司様は優しく声を掛けてきてくださった。
「セラ嬢、少しお腹減らない?」
時計に目を向ければ、まだ昼食をいただいてからそれほど時間は経っておらず、針は二時を少し回ったところだった。
こんなに早くお腹が空いてしまうなんて少し恥ずかしくて、頬を染めながら小さく頷くと、総司様はまるでその返事を待っていたかのように嬉しそうに目を細められる。
「やっぱり。最近は食べられる量も増えてきたからね」
そう言って執務机から立ち上がると、扉の外で控えていた騎士の方に二、三言だけ指示を出された。
それからほどなくして、銀のワゴンが静かにお部屋に運び込まれる。
白い刺繍の施された上質なクロスの上には、磨き上げられた銀のティーポットと湯気を立てる磁器のティーカップが並び、立ちのぼる茶葉の香りには柑橘や花を思わせる優しい甘さが溶けていた。
その隣には三段重ねの優雅なティースタンドが用意されていたけど、私の身体を気遣ってくださったのだろう、並べられているものはどれも消化に負担をかけないよう工夫されたものばかりだった。
一番上には、スポンジで作られたシフォンケーキと、ミルクプリン、桃をやわらかく煮たコンポートが、宝石のように艶めいている。
二段目には、小ぶりのスコーンが並び、泡立てた生クリームと杏子ジャムが添えられていた。
隣には薄く焼き上げたビスケットや、小さなマドレーヌまで並んでいる。
そして一番下には、ふんわりとした白パンで作られた小さなサンドイッチ。
柔らかく蒸した鶏肉や卵、きゅうりが薄く挟まれ、安心していただけそうなものばかりだった。
どれも一口でも食べやすい大きさに整えられ、私がまだ本調子ではないことを考えて、一つひとつ工夫されているのが伝わってくる。
思わず見惚れてしまう私に、総司様は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「まだ身体は本調子じゃないだろうけど、甘いものも食べてもらいたくてさ。医師と料理長に相談して、なるべく負担の少ないものを用意してもらったんだ」
『ありがとうございます。こんなに素敵なお茶の時間、とても嬉しいです』
そう口にすると、総司様は安心したように微笑み、紅茶を私のカップに静かに注いでくださった。
立ちのぼる湯気に包まれながら、その穏やかな午後がどうか少しでも長く続いてほしいと心の中で願っていた。
用意してくださったお茶菓子は、どれも思わず頬が緩んでしまうほど美味しかった。
林檎の焼き菓子は優しい甘さが口いっぱいに広がり、桃のコンポートは果実そのものを頬張っているように瑞々しい。
焼きたての小さなスコーンも、温かな生地に杏の甘酸っぱい香りが重なるたび、幸せが胸いっぱいに広がっていく。
一口、また一口と味わうたびに自然と笑みが零れてしまい、そんな私を見つめていた総司様が、くすりと楽しそうに笑われた。
「本当に幸せそうに食べるね」
『だって、とても美味しいですから。ひとつ食べるたびに、これが世界で一番美味しいお菓子だと思うのに、次のお菓子をいただくと、今度はそれが世界で一番になってしまうんです』
「へえ。セラ嬢は何を食べても、おいしいおいしいって言うのかな」
私はふるふると首を横に振って、小さく笑う。
『違いますよ。アルディオン家のお食事が、本当に美味しいのです』
そう口にして、ふと心の奥に沈めていた記憶が浮かび上がった。
本当は、ずっと食べたかった。
奥様方が温かな料理を囲み、楽しそうに微笑みながら食事を召し上がる姿を見つめるたび、漂ってくる香りに何度喉を鳴らしたかわからない。
けれど私の前に置かれるお皿に目を落とせば、濁った汁の中には虫が浮かび、腐りかけた食材や、思わず息を止めたくなるようなものが当たり前のように混ぜられていて、とても口に運べるものではなかった。
だけど一度だけ、空腹に耐えきれず、震える指先で虫を端に寄せ、恐る恐るスープを口に運んだことがある。
少し酸っぱいような、傷んだ匂いが鼻に抜け、それでも飲み込もうとしたけど、「そんなものまで食べるのですね」という小馬鹿にした笑い声が響き、何人もの冷たい笑顔が私を見下ろしていた。
あの時の惨めさも、胸が締めつけられるような悲しさも、今でも忘れられるものではなかった。
今はこうして温かく、美味しい食事を頂くことができている。
でもこの穏やかな時間は、総司様がお屋敷にいてくださる間だけなのかもしれない。
お仕事が始まったら、私は本当にこのお部屋で安全に食事をいただけるのだろうか。
また皆さんのいる食卓に連れて行かれ、無理やりあの食事を口に押し込まれたり、痛い思いをしたりするのではないか。
そんな考えが胸を覆い、知らないうちに笑顔は消えていた。
「セラ嬢、どうしたの?何か心配ごとでもあった?」
不意に優しい声が降ってきて顔を上げると、総司様が首を傾げ、私の表情を覗き込んでいた。
昔から総司様は、私の小さな変化にもすぐ気づいてくださることがある。
私が悲しそうにしている時も、悩みを抱えている時も、誰より早く声をかけてくださるのはいつも総司様だった。
昔の私は、そんな優しさに甘えて割と何でも素直に話せていた。
でも、今は違う。
こんなことを打ち明けてもいいのか迷いながら総司様を見つめ返していると、不意に部屋の扉が静かに叩かれた。
「あれ?誰だろう。ちょっと待っててね」
総司様はそう言って立ち上がり、扉を開く。
すると、そこに立っていたのは相馬卿だった。
普段よりも厳しい表情を浮かべた相馬卿は、一礼すると総司様の耳元に顔を寄せ、低い声で何かを告げている。
「……え?本当に?」
「はい。クラウス様が、至急お越しいただきたいとのことです」
その報告を聞いた総司様は、眉を寄せて苦々しく息を吐かれた。
何があったのだろう。
胸がざわつき、不安げにその様子を見つめていると、総司様は私の視線に気づき、すぐ穏やかな笑顔で私の元に来てくださった。
「セラ嬢、僕はこれから急用で少し出掛けなければならなくなったんだ。部屋の外には護衛の騎士を立たせておくから、少しの間、ここで待っていてくれる?」
『……はい。何か、あったのですか?』
「いや……大したことじゃないよ。でも、どうしても僕が行かないといけなくてさ。ごめんね、休暇中は一緒にいるって言ったのに」
総司様は柔らかく笑っていたけど、その笑みの奥には私には話せない事情があることが滲んでいた。
当たり前のことだ。
私は帝国の人間ではなく、この国に保護されている立場なのだから、詳しいお話を聞かせていただけるはずがない。
それでも総司様がお屋敷からいらっしゃらなくなると思うだけで、胸の奥に不安が広がっていく。
私は膝の上で指先をぎゅっと握りしめ、大丈夫、と何度も自分に言い聞かせながら顔を上げた。
『お休みの間もお仕事なんて大変ですね。私は大丈夫ですから、総司様はどうかお気をつけて行ってらしてください』
その言葉を聞いた総司様は、何故か瞳を揺らすと、私に手を伸ばし頬を撫でた。
その手つきは、毎年お会いしていたあの頃と何ひとつ変わらない。
何のためらいもなく私に触れてくださっていた、あの頃の総司様そのものだった。
けれど私にとっては、こうして総司様に触れられること自体があまりにも久しぶりで、驚きのあまり息を呑み、その場で固まってしまう。
私の反応に気付いた総司様も、はっとしたように指先の動きを止めると、名残を惜しむようにその手を離された。
「部屋の前には、僕が信頼している騎士を置くから安心していいよ。今、相馬に呼びに行ってもらってるんだけど、そろそろ来る頃かな」
総司様がそう仰って扉を開けられると、ちょうど廊下から足音が近付き、二人の騎士が姿を現した。
総司様はそのまま二人を部屋に招き入れると、私に向き直って紹介してくださった。
「僕と同じ帝国騎士団第一部隊の騎士だよ。赤髪の彼が武田、青髪の彼が三木」
お二人が揃って一礼してくださったので、私も「よろしくお願いします」と頭を下げる。
けれど顔を上げた時、そのお姿に見覚えがあることに気付いてしまった。
このお二人は、総司様がアストリアに攻め入られたあの日、伊庭君や平助君の喉元に剣を突きつけていた騎士だった。
中でも三木卿は、静かに数を数えながら、今にも伊庭君を斬ろうとしていた方。
あの日の光景が甦り、身体が強張って言葉を失う私を見て、総司様は困ったように苦笑を浮かべた。
「見た目は少し怖いけど、この二人のことは信用してもらって大丈夫だよ。セラ嬢のことは、何に代えても護るよう言ってあるから」
その言葉を受けると、先に青髪の三木卿が一歩前に出て、気まずそうに頭を掻いた。
「……三木三郎だ。あんたにゃ俺らの印象は最悪だろうけどよ。隊長に頼まれた以上、護衛はきっちりやるし、命に代えても護る。そこだけは信じてくれていいぜ」
続いて赤髪の武田卿が静かに一歩進み、胸に手を当てて私を真っ直ぐ見据えた。
「武田観柳斎だ。隊長から護衛を任された以上、いかなる者にも貴嬢に指一本触れさせるつもりはない。安心して任せてもらおう」
「まあ、こんな感じで騎士らしい礼儀作法には少し欠けるけど、君を屋敷の人達に引き渡したりなんてしないし、頼りになる人達だよ」
総司様がそう仰るのなら、きっと本当にそうなのだろう。
まだ少しだけ胸の奥には戸惑いが残っていたけど、私はその気持ちをそっと飲み込み、お二人に向かって微笑みながら小さく頭を下げた。
すると三木卿は照れ隠しのように鼻を擦り、武田卿もわずかに口元を緩めて頷かれた。
「じゃあ、僕は着替えて出かけてくる。セラ嬢はゆっくり食べてて。何かあれば、部屋の外にこの二人がいるから相談するといいよ」
『はい、ありがとうございます』
「武田、三木。セラ嬢を宜しくね」
「おうよ、任せとけ」
「承知した。ゆめゆめ案ずることはない」
総司様とお二人が部屋をあとにされると、室内はたちまち静けさに包まれた。
昨日からずっと総司様が傍にいてくださったからだろうか。
同じ部屋のはずなのに、今は広すぎるほどに感じられ、その静寂が胸に染み入ってくる。
先ほどまで甘く幸せな気持ちで味わっていた焼き菓子も、不思議なくらい味気なく思えてしまい、私は小さく息をついてから、一口だけ口に運んだ。
窓の向こうに広がる穏やかな空を見つめながら、どうか総司様がご無事で戻られますようにと、胸の中で何度も繰り返していた。
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