9
僕が相馬を連れて向かったのは、かつて暮らしていたヴェルメルの屋敷。
クラウス兄上から呼び出されたものの、知らされていたのは東部から客人が来ているということだけだった。
東部からとなれば、おそらくセラ嬢に関わる話だろう。
近藤閣下が来られたのかと予想しながら屋敷に足を踏み入れたけど、応接間に通された僕を待っていたのは、ルヴァン王国王太子である薫殿下とレーヴェルン公国公子、一君だった。
「総司、待っていたぞ」
兄上は僕を見るなり腰を上げ、客人達に目を向けながら静かに口を開いた。
「紹介は不要だろうが、一応な。こちらはルヴァン王国王太子、薫殿。そしてレーヴェルン公国公子、はじめ殿だ」
僕は右手を胸に添え、二人に向き直って深く一礼する。
「アルディオン公爵家当主、総司です。王太子殿下、一殿。お久しぶりです」
「久しいね、総司殿」
王太子は口元に柔らかな笑みを浮かべていたけど、胸の内を少しも読ませないものだった。
その隣で一君も静かに一礼し、落ち着いた声を返した。
「久しぶりだな、総司。息災そうで何よりだ」
「一君も変わらないみたいだね」
互いに挨拶を交わして席に着くものの、部屋を包む空気は重いままだった。
兄上の表情は硬く、王太子の微笑みも社交辞令の仮面にしか見えない。
やがて兄上が静かに口を開く。
「呼んだのは、現在セラ嬢の保護を任されている立場のお前から、直接彼女の話を聞くためだ」
「……僕から、ですか」
「ああ」
兄上が短く頷くと、その言葉を引き継ぐように王太子がゆるやかに微笑んだ。
「講和の日、セラの身の安全を保証したのはクラウス殿だと聞いている。だからまずは、その約束が今も守られているのかを確認するためにこちらに伺わせてもらったんだ。けれどクラウス殿は、彼女を預かっている総司殿本人から聞いてほしいと仰ってね。だから、君に来てもらったというわけさ」
その言葉を聞いた時、講和の日の光景が脳裏によみがえった。
東部はセラ嬢を帝国に委ね、その代わりに帝国は彼女の安全と名誉を守ると誓った。
そしてその約束を東部に対して自ら口にしたのは、他でもない兄上だった。
「東部では今、様々な噂が流れているんだ。セラが十分な待遇を受けていない。それどころか自由を奪われ、食事すら満足に与えられず、理不尽な傷まで負わされているとね」
王太子は終始穏やかな笑みを浮かべたまま、感情を挟むことなく淡々と言葉を重ねていく。
狩猟会で起きた出来事が、もう東部にまで伝わっているとは思わなかった。
これは、あまりにも都合が悪い。
帝国内だけの話なら、まだどうにでも収められたかもしれないけど、相手は東部だ。
講和の当事者である彼らを、曖昧な言葉で誤魔化せるはずがない。
何をどこまで話すべきか考えを巡らせていると、王太子は僕の表情を和らげるように微笑み、静かな声で続けた。
「そんなに身構えなくてもいいよ。君を責めるつもりはないし、噂だけで帝国を疑う気もない。ただ東部を預かる立場として、講和の際に帝国が東部に約したことが、今も誠実に守られているのかを確認したいだけなんだ。だからまず、現在セラを預かっている君の話を聞かせてほしい」
その言葉を聞いて、ようやく僕はこの場に呼ばれた本当の理由を理解した。
兄上が自ら事情を説明せず、あえて僕を呼び寄せたのは、この話の行き着く先次第ではセラ嬢の返還を求められる可能性があると考えたからだ。
その判断を、講和の保証人である兄上一人が独断で下すべきではない。
セラ嬢をアルディオン公爵家に迎え、彼女を傍に置くと決めた僕自身が答えるべきだと、兄上はそう考えたのだろう。
「承知しました」
返事をしながら姿勢を正すものの、胸の内では直ぐには答えが定まらなかった。
アルディオン公爵家で起きた出来事をすべて明かせば、帝国を揺るがす大問題になることは避けられない。
そして狩猟会の日、公爵家の者達が皇帝陛下をはじめ、居合わせた諸侯や騎士達の前で口にした虚偽まで、僕自身の口で証明することになる。
何よりセラ嬢を手放さなければならない事態だけは避けなければならない。
だから真実を明かすわけにはいかなかった。
とは言え、何も知らないふりをして取り繕えば、東部はますます帝国への不信を深めるだけだろう。
ならば伏せるべき事実は伏せたまま、嘘の中に真実を織り交ぜて話すしかなかった。
「セラ嬢は現在、僕の屋敷で保護しています。殿下が耳にされた噂とは事情が異なりますが、彼女が傷を負ったことは事実です。先日の狩猟会で妻達とはぐれ、僕が発見した時には谷底に転落していました」
「……は?谷底に落ちたって……セラは無事なのか!?」
それまで終始余裕を崩さなかった王太子が、初めて声を荒らげた。
そのあまりに露骨な動揺に、部屋の空気が張り詰める。
王太子は身を乗り出しかけたものの、隣に座る一君が静かに腕を添えて制すると、小さく息を吐いて再び腰を下ろした。
それでも、その瞳に宿る焦燥と苛立ちは隠しきれていない。
あの穏やかな笑みの下で、これほどまでにセラ嬢を案じていた事実だけは、嫌というほど伝わってきた。
「幸い、命に別状はありません。まだ体調は万全とは言えませんが、医師の診察を受け、今は静養を最優先にしています。骨折はしながったものの全身に打撲があり、頭部にも裂傷を負って縫合しました。傷跡は残らないだろうと医師から聞いております」
王太子は黙って頷き、短く問いを重ねる。
「彼女の食事は?」
「医師の指示に従って、胃に負担の少ないものを召し上がって頂いてます。今では食欲も戻り、ほぼ通常通りに食べられるようになりました」
「身の回りの世話は?」
「信頼できる侍女だけを付けています」
「外出は?」
「今は認めていません。まだ十分な体力が戻っていませんから。ただ、アルディオンに来て頂いて間もない頃、身の回りに必要なものを揃えるため、一度だけ僕と帝都で買い物をしています」
王太子の問いはどれも短い。
けれど、その一つひとつはセラ嬢の日々の暮らしを確かめるためのものだった。
何を食べ、誰に世話をされ、どれほど回復し、どんな毎日を送っているのか、まるで彼女の一日を頭の中で丁寧になぞるように、必要なことを確認していく。
王太子が静かに口を閉ざすと、応接間は水を打ったような静けさに包まれた。
その沈黙の重さを受け止めながら、僕はゆっくりと立ち上がる。
そして右手を胸に添えたまま、深く頭を垂れた。
「このたびは、僕の監督が至らず、このような事故を招いてしまいました。本来なら守るべき立場にありながら、セラ嬢の身を危険にさらしてしまったこと、心よりお詫び申し上げます」
顔を上げることはできなかった。
どれだけ事情があったとしても、セラ嬢が谷底に転落し、命を落としていてもおかしくない状況にまで追い込まれた事実は変わらない。
保護を任された者として、その責任から目を背けるつもりはなかった。
「彼女は帝国にとって講和の象徴である以前に、一人の女性です。その方を守れなかった責任は、すべて現在保護を任されている僕にあります。本当に申し訳ありませんでした」
僕を見上げていた王太子は静かに息を吐き、胸に渦巻く感情を押し込めるように口元へ淡い笑みを浮かべた。
「ありがとう。君が誠実に答えてくれたことは分かった。セラが無事でいてくれたのなら、それだけで十分だよ」
王太子は柔らかな笑みを浮かべ、穏やかにそう告げた。
でも、その表情を見て安堵をしたのも束の間。
「……では」
王太子は静かに席を立つと、そのまま兄上に向き直った。
「実際に確認させていただきたい」
兄上は微動だにせず王太子を見据え、静かな声で問い返された。
「今からですか?」
「ああ、もちろんだ。総司殿の話を疑っているわけじゃない。彼が誠実に答えてくれたことは十分伝わったよ。だが、講和で保証されたのはセラ自身の安全と尊厳だ。ならば王太子である俺には、その約束が今も果たされていることをこの目で確かめる責務がある」
王太子の口調は穏やかだってけど、有無を言わせない重みだけが部屋に静かに落ちていく。
まさかこのままアルディオン公爵家に向かうつもりなのかと、胸の奥に鈍い苦さが広がった。
今のセラ嬢を、この二人に会わせるのは決して得策とは言えない。
そう考えたのは、きっと兄上も同じだったのだろう。
わずかに眉を寄せると、低く落ち着いた声で口を開いた。
「お言葉ですが、王太子殿下。本来であればアルディオン公爵家に使者を送り、日を改めるのが礼儀ではありませんか?」
兄上がそう告げると、王太子は静かに微笑み、その笑みを崩さないまま答えた。
「もちろん、それが礼儀だということは理解しているよ。だが、それでは僕がわざわざこの国まで来た意味がなくなってしまう。前触れをすれば、人は誰だって一番美しい姿を見せようとするものだからね」
王太子は穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと言葉を重ねる。
「僕が知りたいのは、歓迎のために整えられた一日じゃない。セラが普段どんな暮らしを送り、どんなふうに遇されているのか、その一点だけなんだ。もしアルディオン公爵家が講和の約束どおり、誠実にセラを保護しているのなら、抜き打ちの訪問で困ることなんて何一つないはずだよ。むしろ余計な疑いが晴れて良いじゃないか」
つまりこの申し出を退けることは、講和の席で兄上自らが東部に約束した保証そのものに疑念を抱かせることになる。
そして、その疑念はアルディオン公爵家だけではなく、帝国の誠実ささえ問われる火種になりかねなかった。
王太子の言葉を受け、兄上はしばらく黙したまま考え込んでいた。
やがて静かに視線を僕に向け、落ち着いた声で言った。
「この件について、私が結論を出すべきではないだろう。私は講和の場で保証を約した立場ではあるが、今のセラ殿の日常を知り、彼女を守る責任を負っているのは総司しかいない。だから、この場の判断はお前に委ねたい。お前が最善だと思う判断を私は尊重する」
兄上は判断を僕に委ねた。
でもそれは責任を押しつけるためではなく、公爵家当主としての僕を信じ、その決断を支えるという意思表示だった。
僕は小さく頷き、ゆっくりと思考を巡らせる。
そしてこの状況で断るのは得策じゃないと考えていた。
講和で約束した保証を確かめたいという王太子の申し出は、至極当然のものだ。
ここで拒めば、帝国が何かを隠していると思われても仕方がない。
幸い、この二日間だけを見れば、セラ嬢の待遇に問題はなかった。
彼女に与えた部屋も、用意したドレスや装飾品も、部屋の前に立たせている護衛騎士も、毎食医師の指示に従って整えさせている食事も、どれを取っても非難されるようなものではない。
問題があるとすれば、ただ一つ。
セラ嬢自身だ。
彼女がアルディオン公爵家で受けた仕打ちを話してしまうかもしれないし、たとえ自分から口にしなくても、王太子なら必ず尋ねるだろう。
セラ嬢は感情が表情に表れやすいし、些細な反応一つで何かを悟られる可能性は十分にある。
それに、必要とあれば王太子は屋敷の使用人や騎士にも話を聞くだろう。
そこまで徹底的に調べられれば、隠し通せる保証はなかった。
「どうかな、総司殿。このまま君の屋敷に伺って、セラと面会させてもらえるかな?」
王太子は穏やかな笑みを浮かべたまま、静かに問いかける。
僕はゆっくりと息を吐き、覚悟を決めて王太子を真っ直ぐに見据えた。
「……承知しました。セラ嬢との面会をご用意しましょう。僕がアルディオンまでご案内します」
王太子は静かに頷き、兄上もまた僕の決断を受け入れるように小さく頷く。
こうして僕達は、それぞれの胸に異なる思いを抱えながら、セラ嬢の待つアルディオン公爵家へ向かうことになった。
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