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一人きりの広い部屋で本を開きながら、私は何度も窓の外に視線を向けていた。
夕日に照らされた空はとても綺麗なのに、胸の奥がずっと落ち着かない。
先程から本を読み進めようとしても文字は頭に入らず、ページをめくる手もすっかり止まってしまっていた。

心がずっと淋しかった。
アストリアでは、こんな気持ちになったことは一度もなかった。
嫌なことがあっても、悲しいことがあっても、私を大切に想ってくれる人達がいつも傍にいてくれたから、一人で抱え込むことなんてなかった。

でも帝国では違う。
心を許せる人も、私という一人の人間を見てくれる人もいない。
皆にとっての私は東部から送られてきた人質であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。

そんな中でも、総司様だけは優しく接してくださる。
けれどその優しさも講和の誓約があるからこそのものなのだと、自分に何度も言い聞かせてきた。
私に向けられる笑顔も、温かい言葉も、きっと約束を果たすためのもの。
そう思ってしまえば傷付かずに済むと、信じないようにしていた。

それでも昨晩総司様が掛けてくれた言葉は、どうしても忘れられなかった。
私が行方不明になった時、仕事も立場も忘れて夢中で探し続けてくれたこと。
そして私が元気になるまで傍にいるのは、ご自身がそうしたいからなのだと仰ってくださったこと。
あの言葉を思い出すたび、疑うことしかできなかった心が少しずつほどけていく気がした。
あの優しさをほんの少しだけ信じてみてもいいのかもしれない。
そんなふうに思えたのは、きっと総司様のおかげだった。

ぼんやりとこれから先のことを考えていた時、不意に扉が控えめに叩かれ、私ははっと顔を上げる。


「セラ嬢、起きてる?戻ったよ」


聞き慣れた声に思わず目を瞬き、私は急いで寝台から降りた。
今夜はお仕事で遅くなるものだと思っていたから、早くに戻って来てくださったことが嬉しくて、自然と足取りまで軽くなる。


『おかえりなさいませ』


扉を開くと、総司様は微笑んで立っていた。
けれど、その笑みはどこかいつもより固く見えて、私は小さく首を傾げる。
すると総司様は、一度だけ私を見つめて静かに口を開いた。


「君にお客様だよ。お通しするね」

『え?』


意味を理解するより先に扉は大きく開かれ、その向こうに立つ人の姿が目に映る。
その瞬間、私は一度呼吸を忘れたように目を見開いた。


『……薫様……はじめ……?』


信じられなかった。
もう二度と会えないと諦めていた、大切な人達。
何も伝えられないまま別れたことが、ずっと心残りだった。
嬉しいという言葉だけでは足りないほどの想いが胸いっぱいに込み上げ、何かを話そうとしても声にならず、涙だけが静かに瞳に溜まっていく。

そんな私を見た薫様は、息を詰めるように表情を強張らせた。
苦しさを堪えるように唇をきつく結び、震える瞳には安堵と痛ましさが入り混じっている。
その視線は傷一つ見逃すまいとするように私を見つめ続け、やがて堪え切れなくなったように大きく一歩踏み出すと、私を力いっぱい抱きしめてくれた。


「……セラっ、会いたかった……」


『薫様……』


「……セラを守ってやれなくて……本当に……すまない……」


震えるその声は、私が知っている薫様のものとは思えなかった。
いつも誰よりも堂々としていて、どんな時も皆を導いてくださる薫様が、こんなにも苦しそうな声を零されるなんて。
その一言を聞いた途端、堪えていた涙が一気に溢れ出し、気が付けば私も薫様の背中にそっと腕を回し、縋るように衣服を握り締めていた。

薫様は何も悪くない。
それなのに、ご自身を責めていらっしゃるのは、王太子として私を守れなかったという責任を、誰よりも重く背負ってしまっているからなのだろう。
いつも私の味方でいてくださって、どんな時も守ろうとしてくださった薫様だからこそ、その悔しさも、やり場のない悲しみも、震える声の奥から痛いほど伝わってきて、私はただ涙を零すことしかできなかった。


『薫様……謝らないでください。悪いのは薫様ではありません。約束を守れなかったのは私です……何もお伝えできないまま、お別れも言えないまま離れてしまって、本当にごめんなさい……』


薫様との約束を果たすことも、お別れの挨拶をすることもできないまま、私は帝国に連れて来られた。
だからこそ、薫様がどんなお気持ちでいらっしゃるのか、そればかりがずっと心に引っ掛かっていた。
総司様との約束が叶わないと知った時、胸が締め付けられるほど苦しかったように、薫様もきっと傷付いていらっしゃるのではないかと思うたび、その姿を想像するだけで涙が込み上げてきた。

そして何より怖かったのは、いつか薫様や皆に忘れられてしまうことだった。
薫様も、はじめも、東部の皆も。
私がいなくなった日々に少しずつ慣れて、いつものように笑い合い、その輪の中から私だけが静かに消えてしまうのではないかと考えては、夜になるたび枕を濡らしていた。

だから、まさか薫様とはじめが、こうして私に会うために帝国まで来てくれるなんて、夢にも思っていなかった。
こうして会えたことが嬉しくて、胸がいっぱいになって、もう涙を止めることはできない。
私は子どものように薫様に縋りつきながら、溢れ続ける涙をその胸に預けることしかできなかった。

しばらくして、薫様はゆっくりと私から身体を離されると、包み込むように頬に手を添え、涙を優しく拭ってくださった。
その温かい手つきは、昔と何一つ変わらない。
懐かしさに胸がいっぱいになっていると、はじめも静かに私の傍に歩み寄り、揺れる瞳で私を見つめながら、安堵したように小さく微笑んだ。


「セラ、また会えて良かった」

『はじめも来てくれてありがとう。薫様とはじめに、もう一度お会いできるなんて思っていなかったから……本当に嬉しい』

「ああ。俺もだ」


短い言葉なのに、その声には会えなかった日々の想いが滲んでいて、私はまた涙を堪えきれなくなってしまう。
すると薫様は困ったように微笑み、もう一度私の涙を指先でそっと拭いながら、やがて表情を引き締めて口を開いた。


「随分と痩せたんじゃないか?それに、狩猟会の途中ではぐれて谷底に落ちたって聞いたけど」

「額の傷も、その時のものか?」


はじめにも尋ねられ、私は静かに頷く。


『はい。私は乗馬があまり得意ではないので、気付いた時には皆さんの姿を見失っていました。慌てて追いかけていたのですが、野鳥に驚いたお馬が急に暴れてしまって……振り落とされてしまったんです。その時近くに谷があって、そのまま落ちてしまったのですが、総司様が見つけ出してくださいました』


話し終えて顔を上げると、お二人は何も言わず私を見つめていた。
その眼差しはあまりにも真剣で、まるで私の言葉ではなく、私の表情や仕草から別の答えを探しているようにも見える。
部屋の空気まで張り詰めたような沈黙に、私は不思議そうに首を傾げた。
そんな私を見た薫様は、小さく息を吐き、どこか無理に気持ちを落ち着かせるように微笑まれる。


「セラは昔から危なかっしいところがあるからね。心配したよ。医師にはもう診てもらったんだろ?」

『はい。治療も終わって、今は安静に過ごしています』

「……だが、先程殿下も仰っていたが、随分痩せている。狩猟会は三日前だと聞いたが、たった三日でここまで痩せるものなのか?」


はじめの静かな問い掛けに、私の喉は小さく詰まった。
でも返事をしようと唇を開きかけた時、薫様が僅かに眉を寄せ、私の手首をそっと掴まれる。


「セラ、申し訳ないけど少し見させてもらうよ」

『あっ……』


止める間もなく、部屋着のゆったりとした袖口が捲り上げられる。
露わになった腕には、まだ生々しく残る傷跡と、痛々しい火傷の痕。
それを目にしたお二人は息を呑み、驚きに見開かれた瞳は、みるみるうちに言葉を失うほどの衝撃と怒りに染まっていった。


「……っ、なんだ、この傷は……!」

「……傷だけではないな。これは……火傷か?」


私の腕に刻まれた傷跡を目にした薫様は、思わず息を呑まれた。
その表情からは、普段の落ち着きが消えている。
険しく細められた瞳には隠しきれない動揺が滲み、低く押し殺した声音には、傷を負わせた相手への怒りがはっきりと宿っていた。


「東部に流れてきた噂は、出鱈目などではなかったということか……。これは誰につけられた傷なんだ?」


その問いを耳にして、心臓が大きく揺れる。
狩猟会で起きた出来事は、少なからず東部にも伝わっていたのだ。
だから薫様とはじめは、噂の真偽を確かめるために。
そして何より、私が本当に無事なのかを確かめるために、この帝国まで来てくださった。

この場で真実を話せば、私はアストリアに帰れるかもしれない。
狩猟会の日は力ずくで口を封じられてしまったけれど、薫様とはじめがそばにいてくださる今なら。
私の言葉を信じてくださるお二人がいてくださる今なら、ようやく本当のことを伝えられる。
そんな小さな希望を胸に、震える唇を開きかけた時だった。

ふと視線を上げた先で、薫様とはじめの少し後ろに控えていた総司様と目が合う。
その途端、鼓動が嫌な音を立て、背筋に冷たいものが這い上がった。

総司様は真っ直ぐ私を見つめていた。
その瞳には人の温もりがなく、彼の冷たい視線が私の心の奥底まで見透かすように絡みついてくる。
怒りをぶつけられているわけではないのに、その視線に捕まった時には、胸に灯っていた希望は、冷たい水を浴びせられた炎のように音もなく消えていくようだった。

もし私がこの場で全てを明かせば、その先に何が起こるのか。
総司様は言葉ではなく、その眼差しだけで私に理解させようとしている。
その静かな圧力からは、逃げることも、抗うことも許されない気がしてして、唇が震え、一文字さえ紡ぐことができなかった。


「セラ、なぜ答えない?これは明らかに谷に落ちてできた傷じゃないだろ」

『これは……』


薫様のおっしゃる通り、この傷を谷底に転落した時に負ったものだと言い張るには、あまりにも無理がある。
それでも私は、真実を口にすることができなかった。
脳裏に蘇るのは、狩猟会の日に総司様から告げられた言葉だった。
これ以上意地を張れば、困るのは君だけじゃない。
君が守りたいと思っている東部の人たちまで、危険な状況になるかもしれない。
あの時の総司様の瞳は、決して私を脅すために言ったわけではなく、本気でそうするつもりなのだとわかるものだった。

私一人が傷つくことなら耐えられる。
でも、私のせいで東部の皆まで危険に巻き込むことだけは、どうしてもできなかった。
部屋を重苦しい沈黙が包む中、痺れを切らしたように薫様が総司様を振り返る。


「総司殿。先程、君はこの傷について報告しなかったね。この傷のことは、どう説明するつもりかな」


苛立ちを押し殺した声に問われると、総司様は一度だけ静かに瞳を伏せ、何事もなかったかのように顔を上げた。


「この傷につきましては、僕からご説明するよりも、セラ嬢ご本人のお口からお話しいただくのがよろしいかと思いますよ」


その言葉に、思わず総司様を見つめる。
薫様とはじめの視線も感じていたけど、私の目は総司様から逸らせなかった。

総司様は私を見つめ、微笑んでいる。
けれどその瞳には何の温かみもなく、たた形作られただけの笑みが不自然に貼りついている。
だから余計に、瞳に宿る冷たさが際立って見えた。

そして総司様は、その笑みを崩さないまま、ごく自然な仕草で右手を腰に添え、ゆっくりと剣の柄に触れた。
薫様も、はじめも、誰一人として気づいていないさりげない動作だった。
けれど私だけは、その仕草の意味を理解してしまう。
もし私が真実を口にすれば、総司様は迷わずこの場で剣を抜き、お二人を斬る。
総司様の私に向けられる威圧的な視線が、そう物語っていた。


「セラ嬢、お二人は君を案じて、はるばるここまで来てくださったんだ。隠さずに、本当のことをお話しした方がいいんじゃないかな」


総司様は穏やかにそう仰った。
その優しい声音に、薫様とはじめは一瞬だけ訝しげに眉を寄せる。

どうして今、そんなことを口にするのか。
そんな戸惑いが、お二人の表情にははっきりと浮かんでいた。
でもその言葉を耳にした私は、総司様が私に何を求めているのかを理解してしまう。

本当のことを話すと総司様は仰ったけど、その本当とは決して真実のことではない。
狩猟会の日、アルディオン家の皆さんが並べ立てた嘘を、私自身の口で事実として語れという意味だった。
帝国に来て心を病み、自ら身体を傷つけたこと。
帰国したい一心で虚言を口にし、アルディオン公爵家を陥れようとしたこと。
そのすべてを、私自身に認めさせようとしている。
喉の奥がひゅっと細くなり、息が苦しくなるようだった。


「……セラ?どうして話してくれないんだ?」


薫様の優しい声に、胸が締めつけられた。


『……っ……』


声にならない。
唇が震えるばかりで、言葉が少しも出てこない。

どうして。
どうして総司様は、こんなにも残酷なことができるのだろう。
何度私を絶望に突き落とせば気が済むのだろう。
もう立ち上がれないと思うほど傷ついた時には手を差し伸べ、ようやくその手を信じてもいいのかもしれないと思えた頃に、また容赦なく奈落に突き落とす。

私は、総司様の優しさを信じてみたいと思い始めていた。
あの穏やかな笑顔も、気遣ってくださる言葉も、少しずつ本当なのかもしれないと、ようやく思えるようになっていたのに。
その淡い希望は、今この瞬間、音もなく踏みにじられていく。
震える唇を噛み締め、私はゆっくりと顔を伏せた。


『この傷は……私が、自分でつけたものです……』


その一言に、薫様とはじめは信じられないものを見たように目を見開く。


『……帝国に来てから……毎日が苦しくて……気づいた時には、自分で傷つけていました……』


言葉を重ねるたび、胸の奥が裂けそうだった。

違う。
そんなこと、一つも本当じゃない。
それでも私は、嘘を重ねるしかなかった。
大切な人達を守るために私に出来ることはこれしかなかったから。

でも、どうして私を案じて、こんな遠くまで迎えに来てくださったお二人に、こんな嘘をつかなければならないんだろう。
込み上げる悔しさと申し訳なさに耐えきれず、視界が涙で滲み、頬を伝った雫が次々と膝に落ちていく。


『……ごめ……なさい……』
 

震える声で謝ることしかできなかった。
この傷を理由に陛下にお願いをしたことまで話さなければならないのだろうか。
そうなれば私は、自分だけ助かりたい一心で東部の皆さんを利用し、身勝手な嘘を並べ立てた愚かな人間として映ってしまう。

もし、その話まで信じられてしまったら。
東部の皆さんは私に失望するだろうか。
薫様も、はじめも、軽蔑するような目で私を見るようになってしまうのだろうか。
そう思うだけで胸が苦しくなり、呼吸の仕方さえ分からなくなる。

俯いたまま涙を零し続ける私のもとに、ゆっくりと足音が近づいてきた。
視界の端に磨き上げられた革靴が映り、その直後、総司様の手がそっと私の肩に触れる。
慰めるように優しく。
誰が見ても気遣ってくださっているようにしか見えないほど、穏やかな手つきで。
けれど、その指先から伝わる圧力だけは、私にしか分からなかった。
逃げることも、口を開くことも許さない。
そんな無言の命令が、その温かな手の奥に隠されていた。


「彼女は、まだ心身ともに本調子ではありません。これ以上お話しさせるのは、酷というものでしょう。どうか、今日はこのくらいでご容赦いただけませんか?」


総司様はいつもと変わらない穏やかな微笑みを浮かべたまま、静かな声でそう仰った。
その姿は、誰の目にも私を気遣う優しい人にしか映らない。
だからこそ、その優しさの裏に隠された本当の意味を知っている私は、ただ俯いたまま、震えを堪えることしかできなかった。

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