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部屋に重苦しい静寂が落ちた時、私の肩に置かれていた総司様の手を、払いのけるように退かしたのは薫様だった。


「俺は、セラが自ら自分を傷つけるとは思わない」


その声には迷いがなかった。
思わず顔を上げると、薫様の隣ではじめも静かに頷いた。


「俺も殿下と同意見だ。長年セラを見てきたが、そのようなことをするとは俄かに信じ難いな」


私を信じてくれる二人の優しさに胸が熱くなり、視界が再びぼやけてしまう。
けれど総司様は少し困ったように眉を下げるだけで、その穏やかな表情を崩されることはなかった。


「それでは、お二人はセラ嬢が虚偽を口にしているとお考えですか?」

「まさか。セラは自分を守るために嘘を並べるような人じゃない。もし事実と違うことを口にしているなら、それは自分の意思じゃなく、誰かに口を塞がれていると考える方が自然だろ?」


薫様の鋭い視線が、真っ直ぐ総司様に向けられていた。


「つまり、殿下は僕が彼女を脅していると仰りたいわけですね」

「可能性の話をしているだけさ。もっとも、俺はその可能性を軽く見るつもりはないけどね」

「ですが、お二人は何の前触れもなくセラ嬢との面会をご希望になりました。僕はそのご要望を受け入れ、この場をご用意しただけです。それまで彼女と顔を合わせることもなく、今この場でも余計な言葉は一切交わしておりません。それにもかかわらず、彼女の話がお二人のご期待に添わないというだけで、脅迫があったと結論づけられるのは少々納得がいきませんね」

「君が納得するかどうかなんて、俺にはどうでもいいんだよ。今日はセラが講和の誓約通りに扱われているか、この目で確かめるために来た。だから、君が俺たちを納得させる側じゃないのかな」


お二人の言葉には、一つひとつ隙がない。
感情ではなく理屈だけを積み重ね、相手の追及を受け流していく。
私は唇を噛み締めたまま、お二人のやり取りを見守ることしかできなかったけど、総司様はふっと笑みを深められた。


「承知しております。ですが殿下、講和の誓約に反しているとご判断になる以上は、それを裏づける確かな事実が必要ではありませんか?現時点でここにあるのは、セラ嬢の言葉だけです。彼女の証言を信じられないと退けてしまわれるのであれば、どのようなご説明を差し上げても、殿下は最初からお聞き入れになるおつもりがないということになってしまいます。それでは、僕に弁明の機会は最初から存在しないのと同じですよね」


薫様は小さく鼻で笑うと、まるでその返答など最初から予想していたかのように言葉を返した。


「総司殿は随分と口が回るんだね。でも残念ながら、君の弁明を聞きたいわけじゃない。セラが自分で傷つけたと言うなら、それを裏づけるものを見せてほしい。君は証拠を求めるけど、それは俺も同じだよ。本人がそう言ったから、なんて話だけで納得できるほど、俺は物分かりがいい方ではなくてね」


薫様は一歩前に進み、総司様を真っ直ぐ見据えた。


「それに君はセラの証言を疑うのかと言ったけど、それは違う。俺はセラを疑っているんじゃない。セラの置かれている環境を疑っているんだ。人は自分を守るためではなく、大切な誰かを守るために嘘をつくことがある。それくらい、君も分かっているんじゃないのかな」


薫様のその言葉は、私が置かれている立場を、誰よりも深く見抜いてくださっているように思えた。
東部からの人質として帝国にいる私は、決して歓迎される存在ではない。
ただ東部を縛るために置かれた存在であり、私自身もまた、東部の皆さんを思うからこそ、自分の望むままに生きることは許されなかった。
だからこそ、薫様のお言葉は胸の奥に静かに沁み渡り、その優しさがかえって苦しかった。

ほんの数日前、私は皇帝陛下の御前で勇気を振り絞り、自分の思いを伝えた。
けれどその願いが報われることはなく、その一件は東部にも伝わり、薫様やはじめまで巻き込んでしまっている。
もうこれ以上、私のせいで大切な人が傷つく姿だけは見たくなかった。
もしここで総司様の怒りを買えば、その矛先がお二人に向けられてしまうかもしれない。
そんな恐れが胸いっぱいに広がり、私は震えそうになる心を押さえ込みながら口を開いた。


『薫様、庇ってくださりありがとうございます。ですが……先程申し上げたことは、すべて真実なのです』


私は薫様、そしてはじめをまっすぐ見つめて言葉を紡ぐ。
そして不意に幼い日の記憶が胸に蘇った。

「嘘は人を傷つけることもあれば、人を守ることもあるわ。ただし、人を守るための嘘は、自分が傷つくことを承知で口にするものよ。誰かの幸せを願って背負う嘘には、たとて悲しくても人の心を守る優しさがあるの」
生前、お母様が教えてくださったその言葉を、私は今も忘れたことがない。
私の吐くこの嘘が、どうか薫様とはじめを守るための、小さな優しさになりますように。
そう願うことしか、私にはできなかった。

薫様は私の言葉を聞き終えると、苦しげに瞳を伏せ、小さく息を吐かれた。
そしてその沈黙を破ったのは、これまで静かに成り行きを見守っていたはじめだった。


「……そうか。セラがそこまで言うのなら、それもまた一つの事実なのかもしれないな」


落ち着いた声だったけど、その眼差しは少しも揺らいではいない。
はじめは静かに総司様に向き直り、言葉を続けた。


「だが、一つだけ確認したい。セラが他者に傷つけられたのであれば、それは誓約に反する行為だ。では、セラが自らを傷つけたのであれば、それは誓約に反しないと言い切れるのか」


その一言に、総司様の眉がほんの僅かに動く。
そして、薫様は待っていたかのように口元を緩めた。


「斎藤の言う通りだよ。仮にセラの話をそのまま受け入れるなら、自らを傷つけなければならないほど帝国で心を病んだということになる。それはつまり、帝国が講和の誓約で約束した、セラの尊厳と心身の健やかさを損なうことなく、その身分に相応しい生活を保証する、という責務を果たせていなかった証明じゃないか。どちらに転んでも、帝国側の責任は消えないんだよ」

「それに、この傷は一日や二日でできたものには見えない。日を重ね、少しずつ増えていった傷だとすれば、日常的にセラと接していた者が異変に気づけなかったとは考えにくい。もし気づかなかったのであれば、そちらの監督不行き届きだ。気づいていて放置していたのであれば、なおさら責任は重い」


薫様とはじめの言葉を聞いた総司様は静かに息をつき、小さく肩を竦めて見せた。


「……なるほど。お二人とも、さすがですね。確かにその理屈だけを聞けば、帝国側に責任があるようにも聞こえます。ですが、その責任を問う相手は僕ではありません。講和の誓約は、タルタリア帝国とアストリアが交わした国家間の約定です。その履行について議論するのであれば、本来その場は皇帝陛下とアストリアの代表者との間で設けられるべきでしょう」


総司様は口元に笑みを浮かべたまま、何一つ動じることなく話を続けた。


「それに僕は陛下の勅命でセラ嬢をお預かりしているに過ぎません。この場で僕が帝国の責任を認めようと認めまいと、それで誓約の効力が変わるわけではありませんから。ですから、お二人が帝国に異議を唱えたいのであれば、僕ではなく、然るべき相手になさるべきだと思いますよ」


薫様は総司様をじっと見つめ、それから小さく笑う。
その笑みは、どこか感心したようでもあった。


「なるほど。そこで線を引くんだね。自分では判断しない、と」

「残念ながら、僕には役目を越えた権限はありませんから」

「……まあ、この件は今日のところはここまでにしておこう。俺も感情だけで物事を決めるつもりはないからね」


そう言うと、ふと何かを思い出したように目を細めた。


「ところで、一つ聞いてもいいかな」

「何でしょう?」

「講和の際、アストリアでは近藤公が自ら人質役を務めると申し出たそうだね。それなのに、帝国側はセラを指名したと聞いている。それで少し気になったんだ。あれは、セラでなければならなかった理由があったのかなってね。それとも、東部でも相応の家柄を持つ若い令嬢であれば、誰でも構わなかったのかな」


確かに帝国に来たばかりの頃は、何故私が選ばれたのか疑問に思ったことはあった。
けれど、自分の代わりに誰か別の人が苦しめば良かったとは思えないし、決まってしまったことをあれこれ考えるより、先を見なければいけないと、敢えて深く考えないようにしていた。


「殿下は、随分面白いことをお尋ねになりますね」

「興味本位だよ。今後のこともあるし、人質の選定基準くらい知っておいて損はないと思ってね」


笑顔の総司様に薫様も笑みを返す。
総司様は彼から視線を外さないまま、穏やかに口を開いた。


「近藤公のようなお立場の方は、東部の政務に欠かせない存在です。そのような方を長期間帝国に留め置くことは、東部にとっても望ましくありません。一方で、人質として帝国に迎える以上、その方にはこちらで生活を続けていただくことになります。その先の人生まで見据えれば、新しい場所で身を固め易い若い令嬢の方が現実的だったんですよ」

「つまり若い令嬢であれば、セラである必要はなかった、と?」


総司様は微笑みながらも、その問いの裏にあるものを測るように少しだけ目を細めた。


「詳しいことは僕にもわかりかねます。ただ家格、年齢、教養、両国への影響力、人格……様々な要素を踏まえて選ばれますから、セラ嬢はその条件を満たしていたということでしょう」  

「なるほど。つまり、人選はあくまで講和に必要な条件に基づいて行われたものであって、誰か個人の意向が反映されたものではない、と理解していいんだね」

「ええ、もちろんです」

「それを聞いて安心したよ。もしセラでなければならない理由が、講和の条件とは別のところにあったのなら、それは国家の決定に誰かの私情が入り込んだということになる。そんなことになれば、異を唱えるのは東部だけじゃない。帝国の貴族達も、その人選が本当に公正だったのかを問題にするはずだからね」

「国家同士が交わす誓約は、公平であって初めて信頼に値する。もし人選に私的な思惑が介在していたのであれば、その誓約そのものの正当性が問われることになるだろう」

「ご安心ください。帝国は、一個人の感情で講和の条件を左右するような国ではありませんよ」


総司様の返答を聞いて、薫様とはじめは互いに視線を向け合う。
そしてその後、薫様がふっと口元を緩めた。


「……そうか」


小さく頷かれた薫様は、それ以上総司様を追及することなく、今度はゆっくりと私に向き直った。


「総司殿の話が真実であれば、セラ東部に連れ戻せるかもしれない。今、俺達はセラの返還について帝国と改めて協議できるよう、水面下で準備を進めているところなんだ」


その一言に、私は思わず息を呑んだ。
胸の奥で、小さな希望が灯る。
隣では総司様が表情ひとつ変えず、静かに薫様の言葉に耳を傾けていた。


「もちろん感情論で押し通すつもりはない。帝国にも十分な利益があり、理にかなっていると誰もが認めざるを得ない条件を整えている。人選に誰かの私情が介在していないのであれば、その提案を帝国が退ける理由はないはずだからね」


その言葉の意味を理解した途端、私は目を見開いた。
私の知らないところで、そこまで考えてくださっていたなんて。 


『そのようなことまで……私のために動いてくださっていたのですか……?』


震える声でそう尋ねると、薫様は少し困ったように笑った。


「当たり前だろ?セラは俺の大切な婚約者なんだから。必ずセラをアストリアに連れて帰る。それまで少しだけ待っていてほしい。近藤公のことも心配しなくていいよ。セラが戻るその日まで、俺が責任を持ってお支えするから」

「山崎卿も平助も、伊庭も順調に快方へ向かっていると聞いている。皆、セラが戻ってくる日を心待ちにしたながら前を向いている。故にセラも、一人で抱え込む必要はない」

「千鶴が早くセラを連れ戻せって煩くてかなわないんだ。東部にはセラの帰りを待っている者が大勢いるんだよ」


私は、ずっと諦めていた。
この先も帝国で暮らし、故郷に帰る日は二度と来ないのだと、そう思い込んでいた。
だからこそ、誰にも気づかれないところで私の帰る場所を守ろうとしてくださる人がいて、私のために道を切り開こうとしてくださっていることが、夢のように嬉しかった。
胸いっぱいに込み上げる想いを抑えきれず、私は小さく首を横に振る。


『薫様、はじめ……ありがとうございます。こんなにも私のことを想ってくださる方がいるなんて……私は、本当に幸せ者です。いただいたお気持ちに応えられるよう、私も諦めずに頑張ります』


言葉を紡ぎ終えた頃には、涙がぽろりと頬を伝っていた。
慌てて袖で目元を拭い、お二人を見上げて微笑む。
すると薫様とはじめは、まるで幼い頃と何ひとつ変わらない優しい笑みで、静かに私を見つめ返してくれていた。

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