8

お部屋に運ばれてきた昼食は、湯気を立てたまま少しずつ冷めていくのに、私はとうとう一口も手をつけられず、落ち着かない気持ちのまま何度もお部屋の中を歩き回っていた。
あの後、いったいどうなったんだろう。
私を庇って紅茶を浴びた総司様は、火傷をされていないだろうか。
そのことばかりが胸を占めてしまい、とても食事をするような気持ちにはなれなかった。

それから更に一時間ほど経った頃、お部屋に控えめなノックの音が響く。
胸が高鳴るまま急いで扉に向かい、そっと開くと、そこにはまるで何事もなかったような穏やかな笑みを浮かべた総司様が立っていた。


『総司様……』

「今、入っても平気?」

『はい、もちろんです』


そう言ってお迎えすると、お部屋に入ってきた総司様は、もう先ほどの黒髪ではなく、いつもの茶色髪に戻られている。
使用人の装いも脱ぎ、公爵家当主らしい気品ある姿に戻っていた。


「あれ?ご飯、食べてないの?」

『総司様がお戻りになるまで待っていたくて。一緒にいただけたら嬉しいなって思っていました』


そう答えると、総司様は少し可笑しそうに目を細めた。


「ははっ、待たなくても良かったのに。もう二時だけど」

『もしお時間がありましたら……ご一緒していただけませんか?』


総司様のお顔を見て安心した途端、不思議なくらい空腹を思い出してしまい、思わずお腹にそっと手を添えてしまう。
そんな私の様子が可笑しかったのか、総司様は肩を揺らして微笑みながら頷いてくれた。


「うん、食べようか」

『良かったです。ですがその前に、今日は助けていただいて本当にありがとうございました』


改めて深く頭を下げる。
私の言葉を信じてくれたことも、一人ではどうすることもできなかった出来事を収めてくれたことも、感謝の気持ちはいくら言葉を重ねても足りないくらいだった。


「お礼なんていらないよ。君を預かる者として当然の務めを果たしただけだからね。それに、本来なら君にあんな思いをさせる前に防がなければならなかったし、僕の落ち度でもあるから」

『いいえ。総司様が味方になってくださったことが、嬉しかったです』


そこに特別な意味はなくても、味方でいてくださる方がいるというだけで、心はこんなにも温かくなる。
昔から総司様は、私に何かあれば真っ先に手を差し伸べてくれた。
幼い頃の思い出まで蘇ってきて、自然と頬が緩んでしまう。


『それよりも、総司様のお身体は大丈夫ですか?火傷はされませんでしたか?』

「うん。あのくらいなら平気かな」

『でも火傷はすぐに冷やさないといけないんです。そのままだと悪くなってしまうかもしれません』

「少しひりひりするくらいだから、そのうち治るよ」

『駄目ですよ。放っておいたら心配ですから……あっ』


そこでふと、一つ思い出して顔を上げる。


『あのお薬があります。私の腕の傷のために、総司様が用意してくださった塗り薬です。あれなら総司様にも使えますから、今お塗りしますね』


そう言った途端、嬉しさが胸いっぱいに広がって、私は思わず両手をぱちんと合わせた。
その仕草が意外だったのか、総司様は少しだけ目を丸くして、くすりと微笑む。


「セラ嬢が塗ってくれるの?肩から背中にかけてなんだけど」

『勿論です。どうぞ、お任せください』


肩や背中は、自分では手が届きにくい場所だから、お役に立てるなら嬉しい。
そう思って迷わず頷いたけど、寝台に腰掛けた総司様がごく自然な仕草で上着とシャツを脱ぎ始めたものだから、私は慌ててくるりと背を向けてしまった。


「なんで後ろを向いちゃうの?」

『……それは、その……まだ心の準備ができていなくて……』


自分でも何を言っているのか分からなくなりながら小さな声で答えると、背後から堪えきれないような笑い声が聞こえた。


「ははっ。心の準備って、何の?」

『お薬を塗る準備です……』

「へえ?薬を塗るのに心の準備なんているんだ。僕、初めて知ったな」


からかうような声色に、ますます頬が熱くなる気がした。


『だって総司様のお姿を、あまりじっと見るのも失礼な気がして……』


消え入りそうな声で打ち明けると、背後は一瞬だけ静かになった。


「そんなこと気にしてたの?」

『……はい』

「真面目だね、セラ嬢は。僕は男だから見られても別に構わないのに」

『だって私はまだ結婚もしていませんし、男性のお身体をこんなふうに見ることなんて、今まで一度もありませんから……』


言葉を重ねるたびに恥ずかしくなり、最後は消え入りそうな声になる。


『ですから……少しくらい緊張してしまっても、仕方ないと思うんです』


思わずむくれたように返すと、総司様は小さく笑った。


「じゃあ、その心の準備が終わるまで大人しく待ってようかな」


優しく告げられた一言に、少しだけ肩の力が抜けて私はほっと小さく息をついた。
何も考えず、私がお薬を塗ると言ってしまったけど、はしたないことを申し出てしまったのかもしれない。
そんな恥ずかしさが込み上げる一方で、総司様の肌に火傷の痕が残ってしまうのは悲しかった。
だからきっとこれで良かったのだと、自分に言い聞かせる。

私は総司様をなるべく見ないように息を整えると、寝台の傍に置かれた小ぶりな飾り棚に歩み寄った。
小さな真鍮の取っ手が付いた引き出しを静かに開けると、中には見慣れた薬の小瓶が大切にしまわれている。
それを両手でそっと抱えた私は、そのまま振り返ろうとした。
けれど足元がもつれ、誤って総司様の足を踏んでしまったから、その拍子に身体のバランスを崩し、悲鳴を上げる間もなく後ろに倒れてしまう。


『っ……』


ふわり、と身体が浮いた次の瞬間には、私はそのまま総司様の胸に背中から倒れ込んでしまっていた。
ぺたんと寝台に腰が落ち、背中越しには火傷の手当てのため何も身に着けていない総司様の温もりが伝わってくる。
支えるように、逞しい腕が私の身体を後ろからそっと包み込み、その腕の中にすっぽりと収まってしまった。
近すぎる距離に胸がどくどくと音を立て、息をすることさえ忘れてしまいそうになる。


『あっ……も、申し訳ありません……本当に、ごめんなさい……っ』


慌てて謝る私の耳元で、柔らかな声が静かに響いた。


「平気?」

『だ、大丈夫です……。ですから、その、お腕を……』


恥ずかしさで身体が固まってしまい、振り向くこともできない。
総司様に抱き留められたまま、私は熱くなった頬を隠すこともできず、小さく身を縮めていた。


「ああ、ごめん」


気付いた総司様は、抱き寄せていた腕を直ぐに離してくれた。
私は弾かれるように立ち上がると、火照り続ける頬を見られないよう慌てて総司様の後ろに回り込み、そのまま寝台に膝を乗せた。
小瓶の蓋をそっと開けると、ほのかに薬草の優しい香りが漂う。
私は動揺した気持ちを落ち着かせるように、一つ小さな深呼吸をした。


『それでは……失礼します』


震えそうになる指先に薬を少しだけ取り、私は総司様の肩から背中に、火傷の跡を包み込むように、そっと労わりながら塗り広げていく。
淡く赤みの残る肌には、私を庇って紅茶を浴びた痕がまだ痛々しく残っていた。

けれど、その火傷よりも先に目を奪われたのは、広い背中に刻まれた幾筋もの古い傷跡だった。
細く白く残るものもあれば、剣が深く食い込んだことを物語るような大きな痕もある。
肩から背中、脇腹にかけて無数に刻まれたそれらは、一つとして同じ形はなく、帝国騎士団を率いる騎士として、総司様が幾度となく戦場の最前線に立ち、生死の境を越えながら戦い抜いてこられた証そのものだった。
どれほど多くの剣を受け、どれほど危険な戦いを潜り抜けてきたのだろう。
その長い歳月を思うだけで胸が締めつけられ、私は薬を塗る指先がこれまで以上に優しくなった。


『痛くありませんか?』

「うん。むしろ、擽ったいくらい」

『ふふ。それなら安心しました』


ほっと息をつくと、総司様は肩越しに小さく笑われる。


「この程度、そんなに心配するようなものじゃないよ。痛みには強い方だしね」


総司様はそう仰るけど、一つひとつの傷跡を見る度、総司様が常に死と隣り合わせの場所にいるように思えて苦しくなってしまう。


『でも、こんなにたくさんの傷を負って……そのたびに、痛かったですよね』


思わずこぼれた言葉に、総司様は少しだけ黙り込んだ。


「……昔はね。でも、不思議なもので慣れるんだ」


その穏やかな声音が、かえって胸を締めつける。
私はそっと薬を塗り広げながら、小さく首を振った。


『誰だって傷つくのは痛いことです。慣れなくてもいいことまで、慣れてしまわないでください』

「でも慣れないと帝国の剣なんて務まらないでしょ?僕には必要なことだったんだよ」


総司様は、そうやって生きてこられたのだ。
痛みに慣れ、傷に慣れ、失うことにも少しずつ慣れながら、帝国最強の騎士と呼ばれる方になっていった。
その強さを手に入れるため、本当は手放したくなかったものまで、ご自分の中から切り離してこられたのではないだろうか。
そんなことを考えてしまい、私は知らず知らずのうちに薬を塗る指先に、さらに優しく力を込めていた。


『総司様は、本当にお強い方なんですね』

「どうかな。ただ強くならなければ、生き残れなかっただけだよ」


その一言には、自慢も後悔もなかった。
ただそうするしかなかったという事実だけが、静かに滲んでいた。


「それに僕は騎士だから。これからも剣を執る限り、傷を負わずにいるなんて無理だよ」

『……そう、ですよね』


分かってる。
帝国騎士団第一部隊を率いる総司様が、危険から遠ざかることなどできないって。
それでも、そう答えるしかない現実が、胸の奥を静かに締めつけていく。
そして傷の一つひとつを見つめていると、不意に胸の奥から懐かしい想いまでが込み上げてきた。

昔も、同じだった。
総司様が剣を執るたび、どうか無事でいてほしいと願っていた。
怪我なんてしてほしくない。
危険な目に遭わないでほしい。
そんなことばかり祈っていた自分を、今でもはっきりと思い出せる。

でも、あの頃の想いはアストリアを離れた夜に置いてきたつもりだった。
それなのに、こうして総司様の背中に残る無数の傷を目の当たりにすると、胸が苦しくてたまらない。
火傷の跡よりも、ずっと昔から刻まれてきたその傷跡が、私の心まで痛めつけるようだった。

どうしてこんなにも苦しいのだろう。
どうして、傷を見るたびに涙が出そうになってしまうのだろう。
……もしかして、私は。
私はまた、総司様を想い始めてしまっているのだろうか。
そんなはずはないと否定したいのに、胸の鼓動は正直で、まるでその答えを知っているかのように静かに速さを増していく。


「セラ嬢?」


考え込んでいた私を気遣うように、総司様が振り返ろうとする。


『あ……動かないでください』


慌ててそう声を掛けると、総司様は素直に動きを止めてくれた。


『まだ、お薬が残っていますから』


そう言いながらも、本当は私の顔を見られたくなかった。
今の私はきっと、傷を見て胸を痛めていることも、心がひどく揺れていることも、全部その表情に浮かべてしまっている気がしたから。


『塗り終わりました』

「ありがとう」


総司様は穏やかに微笑むと、シャツを羽織り丁寧に衣服を整えていく。
私はその背中から目を逸らし、小瓶の蓋を閉めてから、飾り棚の引き出しに戻した。

胸の奥に残る戸惑いは、まだ消えていない。
その理由を考えようとすると、答えに辿り着くのが怖くて、思考は自然と止まってしまう。
そんな私を見つめながら、衣服を整え終えた総司様が静かに口を開いた。


「君に酷いことをした使用人達は、全員屋敷から追い出すことにしたよ」

『え……?』

「ニコラや千、リーシェにも二度と同じことが起きないよう、きつく言っておいた。あの三人も、もう好き勝手には動けないはずだよ。それと君の部屋の近くには、常に護衛騎士を配置することにした。そうすれば僕が屋敷を空ける日があっても、誰も君には近づけないでしょ。これで、ひとまず安心できる?」


そこまで仰ってから、総司様は私の表情を窺うように見つめてくる。


『はい、十分過ぎるくらいです。ありがとうございます』

「お礼はいらないよ。怖い思いさせてごめんね」


申し訳なさそうに微笑まれる総司様のお顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。
その一方で、総司様の口から零れた奥様方の名前を耳にした途端、急に現実に引き戻された気がした。

あの方達は、このお屋敷で総司様と共に生きていく奥様方。
でも、私は違う。
今だけ、この屋敷で保護されているだけの東部からの人質に過ぎない。
その当たり前のことを改めて思い知らされて、気づかないうちに表情が曇ってしまっていたらしい。


「セラ嬢?」


優しく名前を呼ばれ、私ははっと顔を上げる。


『え……?あ、はい』

「どうしたの?浮かない顔して。もしかして、使用人達を追い出すくらいじゃ罪が軽過ぎたかな」


思いがけない言葉に、一瞬きょとんとしてしまう。
すぐに総司様が勘違いなさっていることに気づき、私は慌てて首を横に振った。


『そんなことありません。むしろ、もう意地悪をしないと約束してくだされば、それだけで十分だったくらいです』


その言葉を聞いて、総司様は少し困ったように笑われる。


「それじゃあ何の罰にもならないじゃない。ニコラも、本当なら何か処分を与えるべきなんだろうけどね」

『そんな、本当に大丈夫です。私はそんなこと望んでいません』


その言葉は本心だった。
総司様だって、長い時間を共に過ごしてこられた奥様方を厳しく罰することは、本意ではないはずだ。
それに、私のせいで屋敷の空気がこれ以上悪くなることだけは避けたかった。


「あ、そうだ。せめてニコラは一週間くらい謹慎にしようか。それとも毎月の予算を減らす方が効くかな」

『そんなことをされたら、絶対に駄目です』

「え?なんで?」

『総司様が後悔されます』


総司様は不思議そうに瞬きを繰り返した。


「どうして僕が後悔するのさ」

『それは……』


うまく言葉にできず、私は小さく笑って誤魔化す。


『とにかく駄目です。私はこうして安心して過ごせるお部屋があって、美味しいお食事をいただけるだけで十分幸せですから。それ以上は何も望みません』


そう、それでいい。
帝国での私の処遇も、アストリアに帰れる可能性も、まだ何一つ決まってはいない。
この先どんな未来が待っているのか分からない以上、今のこの穏やかな時間にも、いつか終わりが来るのだろう。
だからこそ、優しくしていただけるたびに嬉しくなってしまう心も、総司様の隣が居心地いいと思ってしまう気持ちも、誰にも気づかれないよう胸の奥にそっとしまっておこう。
私は静かに微笑み、総司様を見上げた。


『お昼にしませんか?せっかく美味しそうなお料理をご用意してくださったのですから』


総司様は私の顔を少しだけ見つめ、それ以上は何も尋ねずに柔らかく微笑んだ。


「そうだね、食べようか」


その笑顔につられるように、私も微笑み返す。
胸の奥には、まだ小さな切なさが残っている。
それでも今は、この穏やかなひとときを大切にしたいと思いながら、私は総司様と並んで食卓に向かった。

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