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次の日の朝、目を覚ますと、お部屋の中は静まり返っていた。
寝台から身体を起こして辺りを見回すけど、今日は総司様のお姿はない。
その代わり、寝台脇の小さな卓の上に一枚の便箋が置かれているのが目に留まった。
手に取ると流れるような端正な文字で、所用があるため少し出掛けてくること、昼前には戻ることが綴られている。
その文字を眺めているだけで、不思議と心が温かくなり、私は思わず微笑んだ。
総司様のお手紙を見るのは、本当に久しぶりだった。
アストリアでずっと総司様からのお手紙を待っていたからか、ほんの短い書き置きでさえ嬉しく思えてしまう。
それに、今日は幼い頃の私と総司様がアストリアでピクニックをしている夢を見た。
総司様のお膝で安心しきって眠ってしまった、遠い日のひと時。
夢の中の記憶を懐かしく思いながら、便箋を畳んで卓に戻し、私は身支度を整えるためバスルームに向かった。
でも衣服を脱いだ途端、胸がまたきゅっと縮こまる。
『うぅ……また……』
恐る恐る下着を見ると、今日も透明な染みがついてた。
しかも昨日より少し広がっている気がして、私は恥ずかしさに頬を染める。
こんなことばかり続いてしまうなんて、どうしたんだろう。
誰に見られるわけでもないのに、いたたまれなくなり、私はそっと洗濯籠の奥へ押し込み、人目につかないよう隠した。
そのあと身を清め、朝食をいただき、読書をして過ごしていると、扉の外から聞き慣れた声が届く。
「ただいま」
その一言が耳に届いた時には、自然と足が扉の方に動いていた。
『お帰りなさい』
扉を開けて告げた私の言葉に、総司様は穏やかに笑みを浮かべている。
そんな何気ないやり取りが、少しだけくすぐったかった
幼い頃、おままごとの中で何度も交わした、ただいまとお帰りなさい。
あの頃は遊びでしかなかった言葉を、こうして総司様と交わしていることが不思議で、少しだけ照れくさくもあった。
人質として帝国へ連れて来られた私が、こんな穏やかな時間を過ごせるようになるなんて、あの日は想像もしていなかった。
もちろん、ここが故郷になることはないし、胸の奥には今も故国への想いがある。
それでも総司様が守ってくださるこの日々に、少しずつ心が安らぎ始めている自分もいた。
けれど、その穏やかな時間は今日で一区切りとなる。
総司様の休暇は、今日が最後。
明日からは再び騎士団のお務めが始まり、お忙しい毎日に戻られるのだ。
総司様と一緒に昼食を終え、お茶をいただいていると、総司様は静かに紅茶のカップを置き、私を見つめて口を開いた。
「セラ嬢、少し相談があるんだ」
『はい、なんでしょう?』
「この屋敷に新しい侍女を数人迎えることにしたんだけど、その中から君専属の侍女を一人決めようと思ってるんだよね」
思いがけない言葉に、私は目を瞬かせた。
「今まで屋敷にいた侍女を、そのまま君の世話係にはできないでしょ。直接関わってなかったとしても、君にあんな思いをさせた以上、慎重に選びたいんだ。執事長に命じて、公爵家とは直接関わりのない土地から侍女を集めてもらったんだ。身元やこれまでの奉公先、素行まで調べたうえで、僕自身も全員と話をしてみたから問題はないと思うよ」
そこまで考えてくださっていたことに、驚くと同時に感謝の気持ちが込み上げる。
『お忙しいのに、私のためにそこまでしてくださったのですか?』
「当然だよ。君の安全は、僕が護るって言ったでしょ」
総司様はそう言って、柔らかく微笑まれた。
「僕が決めても良かったんだけど、毎日一番長く顔を合わせるのは君だから、最後は君に決めてもらった方がいいと思ってさ」
『私が選んでもいいのですか?』
「うん。候補は僕が信用できる者だけに絞ってあるから、君はその中から一緒にいて落ち着ける相手を選べばいいよ」
その言葉にお礼を告げて、どんな方々が来られるのだろうと、小さな期待と緊張を胸に抱きながら、その時を待つことにした。
そして午後になると、執事長がお部屋を訪れた。
「公爵閣下、ご準備が整いました」
「ありがとう。それじゃあ、行こうか」
総司様に促され、私は静かに立ち上がる。
侍女候補の方々は応接間に集まっているものだと思っていたけど、総司様はそのまま廊下を歩き始めた。
『応接間ではないのですか?』
「うん。緊張したまま横一列に並ばせても本当の人柄は見えないから、普段どおり過ごしてもらってるんだ。仕事ぶりもわかるだろうし、君にはその様子を見てもらいたいかな」
『その方が、よく分かるのですね』
「取り繕った姿より、何気ない仕草の方がその人らしさは出るからね」
なるほど、と私は小さく頷いた。
総司様らしい選び方だと思う。
応接間で形式ばった挨拶を交わすより、普段の姿を見た方が、その人の人柄が感じ取れる気がした。
まず案内されたのは、陽当たりの良い回廊だった。
大きな窓から差し込む陽光の中で、一人の女性が花瓶の花を丁寧に整えている。
落ち着いた物腰で、年齢は三十代半ばほどだろうか。
柔らかな笑みで挨拶をしてくださったけど、私はどこか少しだけ緊張してしまった。
続いて向かったのは、洗濯室。
二十代後半ほどの女性が、真新しいリネンを几帳面に畳んでいる。
仕事ぶりは見事で、一枚一枚の布を乱れなく揃えていく姿に思わず見入ってしまう。
その方も穏やかな方だったけど、どこかきちんとしなければという気持ちが先に立ってしまい、自然に言葉を交わせる気がしなかった。
その後も何人かの様子を見せて頂いたものの、誰を選べばいいか決めかねていた時。
さらに屋敷の奥に進むと、小さな中庭に面した渡り廊下から、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
視線を向けると、一人の若い娘が、籠いっぱいの洗濯物を抱えながら困ったように立ち尽くしていた。
「あれれ……」
高く積みすぎてしまったのだろう。
足元が見えなくなってしまったらしく、どう運べばいいのか分からず戸惑っている。
その姿がおかしくて、思わず頬が緩んだ時だった。
「あっ……きゃっ!」
慌てた拍子に一枚の布が風に舞い、その子は慌てて追いかけようとしている。
私は思わず駆け寄り、その布を拾い上げた。
『どうぞ』
「も、申し訳ありません……!ありがとうございます!」
顔を上げた子は、私と同じくらいの年頃だった。
まだ少し幼さの残る愛らしい顔立ちで、大きな瞳が驚いたように瞬いている。
『重そうでしたから』
「つい、一度に運ぼうとしてしまって……。お恥ずかしいです」
そう言って照れ笑いを浮かべる姿が、どこか親しみやすくて、私まで笑みがこぼれる。
背後では総司様が静かに私たちの様子を見守っていた。
彼女と別れ、再び歩き始めると、総司様が穏やかに尋ねてくる。
「気になる人はいた?」
私は少し考え、それから素直な気持ちを口にした。
『最後の方がいいです』
「理由を聞いてもいい?」
『私と同じくらいの年齢でしたから』
自分でも少し単純な理由だと思い、恥ずかしくなって俯く。
『年上の方は、とても頼もしくて……きっと何でも安心してお任せできる方なのだと思いました。ただ、その分少しだけ緊張してしまって。もちろん、私のためにお仕事として接してくださっていることは分かっています。でも……もし歳の近い方でしたら、気軽にお話しできるのではないかと思ったんです。お友達のように、些細なことでも笑って話せるような関係になれたら素敵だなって、そう思いました』
「じゃあ、さっきの子にしようか。君らしい、良い理由だと思うよ。僕が知りたかったのは、セラ嬢が一番自然に笑えた相手だからね」
そう言われて振り返ると、先ほどの子が遠くからもう一度こちらに頭を下げていた。
私も笑顔で頭を下げると、彼女も嬉しそうに微笑んでくれるから、その笑顔を見て胸の奥に温かなものが灯った。
あの方となら、きっと毎日を穏やかに過ごしていける。
そんな予感が心を満たしていくようだった。
『ありがとうございます。ですが、本当に良かったのでしょうか。私はいつまでこちらでお世話になるのかもわからないのに、専属の方までつけていただいて……』
ここに滞在するのは、帝国での正式な処遇が決まるまでの間だけと伺っている。
もし短い間だけのお世話なのだとしたら、せっかく心を通わせたとしても、やがては別れが訪れてしまうのかもしれない。
そう思うと寂しさがこみ上げて、気付けば不安をそのまま言葉にしていた。
けれど、隣を歩いていた総司様はふっと笑みを引かれると、私を見下ろし小さく首を傾げる。
「それは、アストリアに帰れるかもしれないのにって、そういうこと?」
その問いかけに、私は慌てて首を横に振った。
『違います。そういう意味ではなくて、ただ帝国での処遇がいつ決まるのかもわからないので、お伺いしただけです』
「いつ決まるかわからないからこそ、きちんと整えておくべきでしょ?」
そう言って総司様は、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
その優しさに心が温かくなりながら並んで歩いていると、中庭の奥から木槌の音や職人さん達の掛け声が風に乗って聞こえてきた。
目を向けると、公爵邸の広大な敷地の一角では、多くの職人さん達が忙しく行き交い、大きな建物の周囲で最後の仕上げに取り掛かっているようだった。
足場を片付ける者、庭石を据える者、植栽の位置を整える庭師までいて、完成が近いことは遠目にも伝わってくる。
『あちらは、何か建設されているのですか?』
少しでもよく見えたらと思い、前を歩く職人さん達や低木の向こう側に隠れてしまう建物をのぞき込もうと、私は思わずつま先立ちになる。
そのおかげで建物の全景までは見えなかったものの、白い外壁はすでに陽の光を受けて美しく輝き、均整の取れた優雅な佇まいだけははっきりと目に映った。
建物の前庭も、色とりどりの花壇や小道が丁寧に整えられていて、どこか私の好きそうな雰囲気に思える。
けれど、もう少しだけ見てみたくてさらに身を乗り出そうとした時、ふわりと温かな手が私の目を優しく覆った。
「見たらだめだよ」
突然視界が閉ざされ、私は驚いて肩をすくめた。
『……あ、ごめんなさい』
興味本位とはいえ、勝手にのぞこうとしてしまったことが急に恥ずかしくなり、肩を落として俯いてしまう。
すると総司様は手を離されてから、小さく苦笑を漏らした。
「もうほぼ出来てるんだけど、北部は雪が結構降るから、冬の間は思うように工事が進まなくてね。予定より少し建設が遅れちゃったんだ。でももうすぐ完成する予定だよ」
その笑顔は、どこか嬉しそうに見えた。
私はもう一度、完成間近の建物に視線を向ける。
けれど、公爵邸の本邸だけでも十分すぎるほど広く、来客用の部屋も数え切れないほど用意されているのに、新しく別邸まで建てる理由がどうしても思い浮かばない。
誰か大切なお客様を迎えるためなのだろうか。
それとも、公爵家には私の知らない事情があるのだろうか。
気にはなる。
けれど、それ以上踏み込んで尋ねることはできず、私は胸の中だけで小さな疑問を抱えたまま歩き続ける。
そんな私の様子に気付かれたのか、総司様はくすりと笑って目を細められた。
「完成したら、連れてってあげる。だから、それまではお楽しみね」
『はい。楽しみにしています』
私はあの別邸が完成する頃にも、まだこのお屋敷にいるのかな。
もしここにいないのなら、その時の私はどこで暮らしているんだろう。
どれほど考えても、私の意思はもう帝国では何の力も持たない。
望んだことであっても、望まなかったことであっても、私がこれからどこで生きていくのかは、きっと周囲の決めることに従うしかないから。
そう思えば、今の私が余計なことを考えても仕方がないのかもしれない。
ただ与えられた場所で、できることをして過ごすしかない身なのだから、先の見えないことに心を囚われるより、今を大切にするべきなのだと思った。
そんなことを考えていると、不意に総司様が声を掛けてくださった。
「今日で休暇も最後だし、君が外に出たいならこの後出かけられるけど、どうする?」
思いもしていなかった申し出に、私は目を見開いた。
ずっと外に出たいと思っていた。
けれど、もう叶わないことなのだと諦めていたから、胸の奥に小さな灯りがともるような喜びが込み上げてくる。
その感情が、きっと表情に出てしまっていたのだろう。
「あははっ、わかりやすい反応」
総司様は楽しそうに笑った。
『……すみません。嬉しくて、隠せませんでした』
思わず俯きながらそう告げると、総司様は優しい眼差しで私を見下ろした。
「謝ることじゃないよ。君がそんな顔をするくらい、外に出たかったんだってわかったしね。折角天気もいいし、着替えて出かけようか」
『最後の休日なのに宜しいのですか?』
「僕も気晴らしかしたかったから丁度いいよ。だから、付き合ってよ」
『はい、ありがとうございます』
以前なら、誰かに何かを望むことさえ怖かった。
けれど総司様は、私が口に出せなかった願いまで、まるで気づいてくださるようだった。
その優しさが嬉しくて私が微笑みを返した時、廊下の奥から静かな靴音が響いてきた。
音のする方を見れば、千様がこちらに向かって歩いてくる姿が見えた。
私はすぐに姿勢を正し、丁寧に頭を下げる。
『千様、ご機嫌麗しゅうございます』
千様とは、あの一件以来お会いしていなかった。
緊張を隠しながらその場に立っていると、千様は感情の読めない瞳で一瞬だけ私を見つめ、それから淡々と返された。
「ご機嫌よう」
短い挨拶を残した千様は、そのまま総司様に視線を移した。
「総司、この後少し話せるかしら?」
「用事があるなら、今聞くけど」
「ここでは話せないわ。この後、私の部屋に来てもらえる?」
総司様は一度私を見る。
その視線に気づいた私は、心配を掛けないように微笑んで頷いた。
「わかった。そのかわり、そんなに時間は取れないけど」
「時間はかけないわ。じゃあ、待っているから」
千様はそれだけ告げると、静かにその場を離れていった。
残された私は、去っていく背中を見つめながら、胸の奥に小さな不安を覚えていた。
けれど、隣にいる総司様の存在が、そんな不安を少しだけ和らげてくれるようだった。
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