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セラ嬢を部屋まで送り届け、後で迎えに来ることを告げてから、僕は千の部屋に向かった。
正妻である彼女の部屋は、屋敷の構造上、僕の私室とは扉一枚を隔てた場所にある。
でも僕はほとんど屋敷に戻らないし、戻ったところで執務室に籠もっていることが多い。
だから僕自身の部屋に足を運ぶのは、着替えをする時や湯浴みをする時くらいのものだった。
そんな久しく使っていない自室から、隣の部屋へ続く扉を開き、千の部屋を訪ねる。
ノックをして中に入ると、彼女はすでに紅茶を用意して待っていた。
「待っていたわ。どうぞ」
「すぐに出るから、いらないよ」
僕がそう言うと、千は困ったように微笑む。
「でも、立ったまま話すのも落ち着かないでしょう?いいから座って」
セラ嬢と出かける予定がある以上、ここに長居をするつもりはなかった。
それでも、用意された席を無下に断る理由もなく、僕は仕方なく腰を下ろす。
すると千は紅茶を勧めることもなく、僕を見つめながら口を開いた。
「ごめんなさいね。出かける前に呼び止めてしまって。でも、わざわざ外に連れ出してあげるなんて、随分と彼女のことを気にかけているのね」
「当たり前でしょ。陛下から託された大切な子なんだから」
「でも、それはあくまで保護する立場としての話でしょう?」
千は穏やかな声のまま、探るような視線を向ける。
「ここまで細やかに手を尽くす必要があるのかしら」
「細やかに、ねぇ……」
「今日、新しい使用人が屋敷に来たでしょう?その選定にも総司自ら一人一人面接をしたと聞いたわ。それに頻繁にセラ嬢の部屋を訪ねて、身の回りの世話までしている。そして、この後は外出に付き添うつもりなのよね。それはもう、単なる保護という範囲を越えているように思えるのだけど」
面倒な話を始めたものだと思った。
本当なら、こんなことを千と話している時間すら惜しい。
でも今は余計な波風を立てるわけにはいかなかった。
あの子を側室として迎えるまで、僕自身の感情を不用意に周囲に悟らせるつもりはない。
だから僕は小さく息を吐き、何でもないことのように答えた。
「そもそも、こうなった原因は君達が余計なことをしたからじゃない。本来なら、僕はあの子をここまで気にかけるつもりはなかったんだ。陛下から預かった以上、それなりの部屋と必要なものを用意して、あとは不自由がないようにしておけば十分だと思ってたしね」
実際僕は、遠征でつい最近までこの屋敷を留守にしていた。
ようやく戻ってきた時には、あの子は散々傷付けられていて、そのケアをする為、休暇中は彼女の傍にいた。
それのどこに問題があるのかと、千を真っ直ぐ見つめた。
「でも、あの件が起きたでしょ。しかもルヴァン王国の王太子までセラ嬢の返還を求めて、公爵家を訪れる事態になった。そこまで状況が変わった以上、今さら適当な対応をするわけにはいかないし、もう失敗は許されないんだ。それくらい、君ほど聡い人なら当然理解していると思ってたけど」
千はその言葉を聞いて、ため息を吐きながらも静かに頷いた。
「勿論、総司の言い分はわかるし、使用人の件についてはまだ理解できるわ。けれど、彼女の機嫌を取るように接したり、わざわざ外出に付き添ったりする必要まであるのかしら」
「周囲の目があるからね。僕自身が彼女を丁重に扱っていると外部に示すには、いい機会だと思っただけだよ。そうすれば、公爵家の内情を疑っている者達も、少しは見方を変えるかもしれないじゃない」
「別の意味で、疑念を持たれる可能性もあると思うけど」
「別の意味って何さ」
すぐに聞き返した僕を見据えて、千はわずかに目を細めた。
「総司がセラ嬢に特別な感情を抱いているのではないかと、そう受け取られても不思議ではないということよ」
その言葉は、まるで隠している本心を見透かされたような気分になる。
でも僕は表情を変えずに、鼻で軽く笑ってみせた。
「そんなことを考えるなんて、随分と想像力が豊かだね。でも僕と彼女の家が母親同士のことで、昔色々と揉めていたことくらい帝国中が知っている話だよ」
「それはあくまで親同士の確執でしょう?当人達まで同じように憎しみ合わなければならない理由にはならないわ。互いに惹かれ合うことがあったとしても、不思議ではないわよね」
「それ、本気で言ってるの?」
思わず呆れた声が漏れる。
でも千が何を考えてそんなことを口にしているのか理解できない僕に、彼女は言った。
「だって、あなた達は元々婚約していたんでしょう?」
その言葉を聞いて、僕は一度黙った。
何故ならその話は、帝国内でもほとんど知られていない、アストリアとヴェルメルの間にあった過去の事情だ。
公にはされずに、ごく限られた者だけが知る事実であり、何年も前にすでに破棄された約束でもある。
なぜ千がそれを知っているのか。
僕は問いただすこともせず、ただ彼女を見つめた。
すると千は、僕の反応を見て小さく息を漏らし、どこか呆れたように微笑んだ。
「私の祖国が、他国の情勢や情報収集に長けていることは、総司も知っているでしょう?少し調べれば、この程度の事情に辿り着くことは難しくないわ」
「……へえ。つまり、僕のことを随分と熱心に調べていたっていうこと?」
僕が皮肉を込めて言うと、千は落ち着いたまま首を横に振った。
「セラ嬢について調べていたら、自然と知ることになっただけよ」
「そもそも、なんであの子のことを調べる必要があるのかも僕には理解できないけど」
「突然この屋敷で預かることになったんだもの、素性や背景を確認しておくのは当然のことだと思っただけよ。何も知らないまま受け入れるより、慎重であるに越したことはないでしょ」
「そんな警戒しなくても、あの子は誰かを傷つけるような子じゃないよ。それに、そんなくだらない話をするためだけに僕を呼び止めたっていうなら、もう行かせてもらうけど」
これ以上ここに留まる理由はない。
僕が椅子から立ち上がると、千は僅かに苛立ったような表情を浮かべた。
それでも、すぐにいつもの穏やかな笑みを口元に戻し言葉を紡ぐ。
「普通、彼女の立場なら、自分の立場を理解して、周囲から差し伸べられる手にも相応の遠慮を見せるものだと思うわ」
千は紅茶の水面を見つめながら、淡々と続けた。
「それなのにここぞとばかりに総司に甘えて。セラ嬢って、一見すると控えめで慎ましやかに見えるけど、随分と強かなところがあるのね。ああやってにこにこ嬉しそうにしていれば、なんでも思い通りになると思ってるんでしょうけど」
その言葉を聞いて、胸の奥に苛立ちが生まれた。
あの子を知らない者が、外側から見ただけで勝手に評価することがどうしようもなく気に入らなかった。
「……強か、ね」
僕は立ち上がったまま、ゆっくりと千を見る。
「ただ外に出られるかもしれないって喜んだだけの子を、強かなんて言わないでよ」
僕の声はいつも通り落ち着いていた。
けれど、胸の内にある不快感までは隠しきれなかった。
「あの子はずっと酷い扱いを受けてたんだ。それでも誰かを恨むこともなく、与えられた場所で必死に耐えてた子だよ。あの子が誰かに頼ることをどれだけ我慢してたかを考えたら、強かなんて言えるほど簡単な話じゃないと思うけど」
「総司は、随分と彼女の肩を持つのね。あなたは警戒する必要はないとか、彼女は誰かを恨むような人ではないとか簡単に言うけど、この前の狩猟会で彼女が何をしたのか忘れたわけではないでしょう?あの出来事がアルディオン公爵家にとってどれほど重い意味を持つのか、あなたなら分かるはずよ」
千の言葉はいつも淡々としていて、表面だけを見れば冷静な判断をしているように聞こえる。
けれどその奥に隠しきれない苛立ちが滲んでいることくらい、僕にもわかった。
「彼女は、自分を守るためだったのかもしれない。でもあの行いは、公爵家の内情を多くの人間の前に晒すことになったわ。もし陛下が公爵家に問題があると判断されたら?もし貴族達が、アルディオン家は預かった令嬢を守れない家だと見なしたら?あの場で彼女がしたことは、それほど大きな影響を持つものだったのよ。でもその重大さをあの子が理解していると思えないし、そんな彼女を総司は咎めもしない。だから、納得いかないのよ」
僕はしばらく何も言わなかった。
千の言っていることが、全て間違っているわけではない。
あの場で彼女が口にした言葉が、公爵家にどれほどの波紋を広げるものだったのか、僕だって理解している。
理解しているからこそ、胸の奥に苦く残るものがあった。
「分かってるよ。だけど悪いのはセラ嬢が声を上げたことなの?あの子がどうしてそんな選択をしなければならなかったのか、そこを考えないのは違うよ。ましてや突然異国に連れて来られて、何も知らない場所で、周囲に頼れる人間もいない状況ならなおさらね」
僕は視線を逸らさずに、言葉を続ける。
「彼女が公爵家の名を傷つけたって言うなら、その前にどうしてあの場で直接訴えるしかないところまで追い詰められたのかを考えてあげるべきなんじゃない?」
あの日、傷ついた彼女を見た時に感じた怒り。
それは、屋敷の人間達に向けたものだけではなかった。
何よりも、自分自身に向けたものだった。
僕がもっと早く気付いていれば。
僕がもっと早く彼女の周囲を見ていれば。
あの子が、あんな形で助けを求める必要なんてなかったはずだ。
「僕が屋敷を離れていた間のことだから、僕には関係ないなんて言うつもりはないよ。この家で起きたことなら、当主である僕の責任だ」
千が少しだけ目を見開く。
まるでその言葉が意外だとでも言うように。
「狩猟会でのセラ嬢の行動を責めることは簡単だよ。この家の体面や、公爵家としての立場だけを考えるならね。でも僕は、そんなものだけを見て彼女を責めるつもりはないよ。あの子が、ああするしかないところまで追い詰められていたことを知っているから」
僕がそう言い終えると、千はしばらく黙ったまま僕を見ていた。
やがて、ふっと小さな笑みをこぼす。
けれどその表情には、どこか試すような冷たさがあった。
「……随分と優しいことを言うのね、総司」
「そう?」
「ええ、そうよ。あなたはいつも、もっと合理的に物事を見る人でしょう?誰かが傷ついたとしても、それが必要な結果なら受け入れる。相手の事情や感情なんて考えない人だと思っていたわ」
千の言葉には、明らかな皮肉が混じっていた。
けれど僕は、それを気にした様子もなく肩をすくめる。
「僕のこと、ずいぶん酷い人間だと思ってたんだね」
「だってあなたは他人に興味がないじゃない。それなのにセラ嬢のことになると随分と違う考え方をするのね。陛下から預かった大切な令嬢だから、と言っていたけど……本当にそれだけなのかしら」
千は瞬きもせず僕を真っ直ぐ見上げていた。
まるで僕がどんな答えを返すのか、その一瞬の揺らぎすら見逃すつもりはないと言わんばかりに。
だけどそんな視線を向けられたところで、僕の表情が変わることはなかった。
「千は考えすぎだよ」
「そうかしら。そもそも、昨日だってそうでしょう?わざわざ変装してまで彼女に危害を加えていた使用人達を自分の手で確かめた。あなたがそんなことをするなんて、正直驚いたわ」
「何、それ」
僕は思わず笑う。
「僕をどれだけ面倒くさがりな人間だと思っているのさ」
「少なくとも、余計な手間を嫌う人だとは思っているわ」
「まあ、否定はしないけどね。でも、後から一人一人に話を聞いて回る方が面倒だっただけだよ。現場を見た方が早いと思っただけ」
「本当に、それだけ?」
「そうだよ」
迷いなく答える。
けれど、千は納得した様子を見せなかった。
「もう一つ聞いてもいいかしら」
「何?」
「捕らえた使用人達のことよ。あなたは全員解雇したと言っていたわね。でも、私は誰一人として荷物をまとめて屋敷を出ていく姿を見ていないの」
やっぱり、そこまで見ていたか。
千のこういう細かいところに気付く性格が、本当に厄介だと思う。
答えなんて、彼女はもう分かっているはずなのに。
それでもわざわざ僕の口から聞こうとする。
まるで事実ではなく僕自身の考えを確かめることが目的であるかのように。
「使用人のことまで気にかけるなんて、君こそ随分と優しいんだね」
「はぐらかさないでよ」
「別にはぐらかしているつもりはないよ。ただ帝国の剣として、罪を犯した者を裁く権限は僕に与えられてるんだから、証言や状況も全部確認した上で判断して相応の処罰を決めたんだ。それを、君に一から細かく説明する義務があるとは思わないけど」
彼女が何を疑っているのかなんて、僕には分かっている。
使用人達の処遇そのものを気にしているわけじゃない。
どうして僕がそこまで動いたのか。
どうして彼女のために、そこまで手をかけるのか。
千が見ているのは、そこだ。
でも、それを認める必要なんてない。
少なくとも、今は。
「それにしても、千がそんなふうに人のことを詮索するなんて珍しいね。明日の天気でも心配した方が有意義なんじゃない?」
僕がわざと軽い調子で笑うと、千は呆れたように目を細めた。
「……本当に、すぐそうやって逃げるのね」
「逃げてるつもりはないよ。ただ、答える必要がないことにまで答えたくないだけ」
「それを逃げてるって言うんじゃないの?」
「千は相変わらず厳しいね」
そう言って笑ってみせると、千はそれ以上言い返さなかった。
ただ静かに、僕を見つめている。
その視線の奥にあるものが、好奇心なのか、疑念なのか、それとも別の何かなのか。
彼女はきっと、まだ納得していない。
でもこれ以上ここで言葉を重ねても、余計なものまで拾われるだけだった。
僕はその視線を受け流し、扉に手を伸ばす。
本当なら、もっと早くセラ嬢のところへ戻るつもりだった。
彼女を一人にしておく時間が長くなるほど、不安にさせてしまう気がしていたから。
もっとも、その心情も千に知られるつもりはないけど。
「もういいかな」
扉に手を掛けたまま、僕は振り返らずに言う。
「憶測だけで話を続けるなら、また今度にしてほしいんだけど」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、背後から小さなため息が聞こえる。
「……本当に、あなたは変わらないわね」
「そう?」
「ええ。昔から、自分が言いたくないことは絶対に口にしないもの」
その言葉を聞きながら、僕は構わず扉を開く。
「じゃあね、千」
そう告げて、僕は部屋を後にした。
背後から向けられる視線を感じながらも、振り返ることはなかった。
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