3

千の部屋を出た僕は、身支度を整えると、セラ嬢が待つ部屋に向かった。
扉を軽く叩けば、中から控えめな足音が近づき、ほどなくして静かに扉が開く。
そこに立っていた彼女は、僕が言った通りきちんと着替えを済ませていて、僕の姿を見つけると嬉しそうに顔を綻ばせた。


『総司様』


その呼び方や表情が、どうしようもなく僕の心を甘く揺らし、可愛いなと素直に思う。
こうして僕を見上げる姿は、以前と比べればずっと大人びたものになった。
それでも時折見せる仕草だけは変わらない。
期待するように向けられる愛らしい眼差しも、僕を見つけたことを心から喜んでいるように輝く瞳も、警戒することを知らない無垢で人懐こい微笑みも、あの頃のまま僕の記憶に残る小さな彼女と重なる。
きっと本人は気づいていないだろうけど、そういうところが僕にはたまらなく愛しい。
どれほど月日が流れても、この子の本質は何一つ変わらないのだと思えることが何より嬉しかった。


「待たせてごめんね。準備は出来た?」

『はい。ですが、総司様はお出かけして本当に大丈夫なんですか?お忙しかったら、私は外に行かなくても大丈夫ですよ』

「こんなに天気がいいのに、君は屋敷の中だけで満足できるの?」

『勿論です。バルコニーからでも、お日様の光はたくさん浴びられますから』


そう言って少しも迷わず頷くものだから、思わず笑みが零れてしまう。
きちんと外出用の装いまで整えているくせに、自分の楽しみより僕の都合を優先してしまうところが、いかにもセラ嬢らしい。
でも、今日は僕自身がこの子と一緒に過ごしたくて誘ったんだから、屋敷に残るなんて選択肢は最初から存在しなかった。


「そんなことを言ってないで、行くよ」

『本当に無理されていませんか?』

「僕から誘ったんじゃない。それとも、僕と出かけるのは嫌だった?」


少しだけ意地悪く尋ねれば、彼女は慌てたように首を横に振った。


「それなら行こうよ」

『はい。よろしくお願いします』


嬉しそうに頷く彼女に微笑み返しながら、ふと部屋の隅にある衣装棚に視線を向けた。

この前、くだらない理由で僕の大切な彼女に石を投げつけた男がいた。
あの時のことを思い出すだけで、今でも冷たい怒りが蘇る。
もう二度と彼女を傷つけるものを近づけたくない。
だから僕は棚から一つの帽子を手に取り、彼女に被せた。
淡い色合いの柔らかな布地で仕立てられた小さなストローハットには、彼女のドレスとよく似合う細い飾り紐が添えられている。
上品で控えめな造りだからこそ、彼女の清楚な雰囲気を損なわず、それでいて顔周りを少し隠してくれるものだった。


「これをしてなよ。君によく似合ってるし、少しくらい顔が隠れた方が安心だからね」

『ありがとうございます』


照れたようにはにかむその笑顔に満足して、僕は彼女を連れて部屋をあとにした。
玄関では使用人たちが一斉に頭を下げる。
穏やかに応じながら屋敷を出ると、正門前には磨き上げられた馬車が静かに待機していた。
御者が扉を開くより一歩早く歩み寄り、白い手袋を嵌めた手で扉を押さえると、もう片方の手をセラ嬢に差し伸べる。


「どうぞ」


彼女がそっと手を重ねると、その細い指先を優しく支えながら足元に視線を送り、ドレスの裾が踏まれないよう歩幅を合わせて馬車の踏み台まで導く。


「気をつけて。裾を踏むと危ないから」


そう声を掛けながら腰を軽く支え、礼法のままに丁寧に馬車に乗せると、彼女が席に着いたのを確認してから静かに向かいに腰を下ろした。


『ありがとうございます。今日は相馬卿はご一緒ではないのですか?』

「うん。相馬は僕の代わりに仕事を引き受けてくれてるんだ」


昨日のことを思い出して自然と口元が緩む。
「最終日くらいは、お二人でゆっくり過ごしてきてください。仕事は俺が片付けておきますから」と言って背中を押してくれた相馬には悪いと思いながらも、その厚意に甘えさせてもらうことにした。


『そうなんですね。では今日は、総司様と二人だけですか?』

「そうだけど、どうしたの。相馬がいないと落ち着かない?」


僕がわざとそう尋ねると、セラ嬢はきょとんとしたあとで可笑しそうに笑った。


『ふふ、違いますよ。どうしてそんなことを仰るんですか?』

「だって、護衛が僕一人じゃ頼りないから少し心配になった……なんて言われたら、さすがに僕もちょっと傷つくからね」

『総司様が頼りないなんて思ったことありません。沢山頼ってしまって申し訳ないなって思っているくらいなのに』

「ふーん、それならいいけど」


平然とした顔で答えてみせると、セラ嬢はまたくすくすと可愛らしく笑った。

やがて馬車は動き出し、石畳を抜けて帝都の大通りに入ると、窓の外には色鮮やかな街並みが次々と流れていった。
セラ嬢は窓際に身を寄せるようにして、その景色を夢中になって眺めている。
幼い子どものように瞳を輝かせる横顔が愛らしくて、僕は思わず口元を緩めた。


『総司様、あちらのお店の前に並んでいる方達は何を待っていらっしゃるのですか?皆さん、とても嬉しそうです』


彼女が指差した先を見ると、店先には長い列ができている。
馬車の中にも、甘い香りが風に乗って漂ってきた。


「ああ、あれは林檎の蜜煮を包んだ焼き菓子が評判の店だよ。帝都でも人気だから、ああして並ばないと買えないことも多いんだ」

『林檎の蜜煮……?』


その言葉を小さく繰り返した彼女は、店先を眺めながら嬉しそうに目を細めた。


『きっと、とても美味しいのでしょうね』

「気になるなら、今度街に出る用事がある時に僕が買ってきてあげる。今からあの列に並んだら、直ぐに日が暮れちゃいそうだからね」


彼女は驚いたようにこちらを見たあと、ふわりと笑顔を咲かせた。


『ありがとうございます。でも、総司様はお忙しいのですからご無理はなさらないでくださいね』

「そんな大げさなことじゃないよ。ついでに寄るくらいなら大した手間でもないしね。その代わり、美味しくなくても文句は受け付けないからそのつもりで」

『ふふ。それでしたら、美味しいって信じることにいたします』


その笑顔を見ていると、絶対この子に買ってきてあげたいという気持ちになる。
明日からまた忙しくなるけど、どこかで時間を作って、ちゃんと僕が買って渡したい。

しばらく街並みを眺めながら他愛もない話を続けていると、僕は思い出したように尋ねる。


「そういえば今日は、どこか行きたいところはある?」


セラ嬢は少し考え、それからゆっくり首を横に振った。


『特にありません。総司様のお時間をいただいているだけでも十分ですから』

「そう言うと思った」


思わず苦笑すると、彼女は不思議そうに首を傾げる。


「じゃあ、欲しいものは?」

『何もないですよ』

「君は本当に欲がないね。何を聞いてもありませんばかりじゃ、連れ出した僕の立場がないんだけど」

『そんなことはありません。今日こうして帝都を見て回れるだけでも、とても楽しいです』


その言葉に嘘はないんだろう。
だからこそ困るけど、予想していたことではあったから、僕もいくつか行く宛は考えていた。


「じゃあ、まずはこの前の書店に寄ろうか。あれから読み終えた本もあるだろうし、続きや新しい本も買い足そう」


そう口にした途端、それまで遠慮がちだったセラ嬢の表情が分かりやすく明るくなる。


『……よろしいのですか?』

「もちろん。欲しいものはないって言うくせに、本だけは別なんでしょ?」


図星だったらしい。
セラ嬢は恥ずかしそうに頬を染めながら、小さく笑って頷いた。


『……実は、この前買って頂いた物語の続きが少しだけ気になっていました』

「それ、どんな話なの?」


僕がそう尋ねたことが意外だったのか、一度大きな目をぱちりと見開いた後、嬉しそうに話し始めた。


『王都で暮らす男爵令嬢のお話なんです。その方は、幼い頃に一度だけ助けてくださった騎士の方にずっと憧れていて、いつかもう一度お会いしたいと願っているのですが……』


セラ嬢は膝の上で両手を重ね、物語を思い返すように柔らかい声で続けた。


『何年も経ってようやく再会できたのですが、その騎士様はお嬢様のことを覚えていらっしゃらないご様子で……それだけでも十分切ないお話なのですが、その騎士様には親同士が決めた許婚がおられたのです』

「なるほどね」

『ですから、主人公のご令嬢は叶わない恋だからと諦めようとなさるのですが……』


そこまで話したセラ嬢は、少し困ったように微笑んだ。


『それでも、お会いするたびに騎士様の優しさを知ってしまって、気持ちを止められなくなってしまうのです』


窓から差し込む陽射しを受けながら語る横顔は、まるで本当にその二人を案じているようだった。

でも、その話を聞いていた僕は、別のことを考えていた。
叶わないから諦める。
相手には約束された未来がある。
そんな理由だけで身を引く人間は沢山いるんだろう。
でも、僕にはきっと無理だ。
もし本当に欲しいものがあるなら、諦めるという選択肢は最初からない。
手を伸ばして、それでも届かないなら、その時に考えればいい。
誰かのものだからと最初から線を引くくらいなら、最初から欲しいとも思わない。
そんな考えが頭を過ぎり、自分でも小さく苦笑する。


「それで、その騎士は?」


僕が先を促すと、セラ嬢は嬉しそうに話し始めた。


『まだ主人公の気持ちには気付いていないのですが、彼女のことをとても大切になさっているご様子なんです。だから読んでいる私まで、どうなってしまうのだろうと気になってしまって』


そう言ってから、彼女はふと僕を見つめた。


『総司様でしたら、どうなさると思われますか?』

「僕?」

『はい。その騎士様は、ご婚約者様との約束もあります。でも、お嬢様を大切に思うようになってしまったとしたら……総司様でしたら、どうされますか?』

「うーん、そうだね」


僕は小さく笑って窓の外に視線を向けた。


「約束はもちろん大事だよ。でも、それだけで自分の気持ちまで縛れるほど、人間は器用じゃないと思う。もし本当にその人を手放したくないと思ったら、僕は諦めないかな」

『……諦めない、ですか?』

「うん。自分の気持ちを偽って生きるなんて、僕には向いてないからね。欲しいものを簡単に手放せるほど、お人好しでもないし」


少しだけ冗談めかして言うと、セラ嬢は目を丸くしたあと、小さく笑った。


『ふふ、総司様らしいです』

「そう?」

『はい。きっと総司様でしたら、最後まで諦めずに頑張られるのだろうなと思いました』


セラ嬢は無邪気にそう返してくるけど、実際は頑張るなんてそんな可愛らしいものじゃない。
もちろん、そんな本音をこの子に話すつもりはないけど。


「セラ嬢は?」

『え?』

「君だったら、好きな人に相手がいたらすぐに諦めるの?」


何気ない世間話の続きを装って尋ねた。
けれど、本当は少しだけ知りたかった。
この子なら、どんな答えを返すのか。
セラ嬢は突然の問いに目を丸くし、それから少し困ったように微笑んだ。


『難しいご質問ですね』

「そう?」

『はい。きっと……胸はとても苦しくなると思います。好きになってしまった気持ちは、そんなに簡単にはなくならないと思いますから』


そう言って、彼女は自分の胸元にそっと手を添える。


『でも、相手の方が幸せそうに笑っている姿を見たら、その幸せを壊してしまうようなことは、私にはできない気がします』


やっぱり。
君ならそう答えると思った。


『ですから、その方にお気持ちをお伝えすることは、多分ないと思います』

「諦めるんだ?」


僕が静かに言うと、セラ嬢は少しだけ首を横に振った。


『……諦める、というよりは』


言葉を探すように伏せられた睫毛が、ゆっくりと持ち上がる。


『好きになった方には、笑っていてほしいんです。もし私の願いを叶えることで、その方や、その方が大切になさっている方が悲しんでしまうのでしたら、それはきっと私が望んだ幸せではない気がするので』


その微笑みは穏やかだった。
けれど、どこか少しだけ切なくも見える。


『もちろん、すぐに忘れられるとは思いません。きっとお姿をお見かけするだけで胸が苦しくなりますし、泣いてしまう日もあるかもしれません』


少し照れくさそうに笑ってから、彼女は続ける。


『それでも、相手の幸せを願えるような人でいたいです』

「君らしいね」

『そうでしょうか?』

「うん。どこまでも優しい答えだ」


優しい。
いや、優しすぎる。
この子は誰かを押し退けてまで幸せを掴もうとはしないし、自分が傷つく方を選んでしまうのだろう。
でも、そんな生き方は僕にはできない。
欲しいと思ったものを、誰かに譲るなんて考えたくもない。
約束された相手がいようと、その人が誰を選ぼうとしていようと、それだけで諦める理由にはならない。
本当に手放したくないと思ったなら、最後まで足掻く。
どれだけ綺麗事を並べても、その結末は自分の手で掴み取るしかないんだから。


「まあ、結末は本を買ってからのお楽しみだね」

『はい』


嬉しそうに頷いたセラ嬢は、もう物語の続きを思い浮かべているのだろう。
窓の外に視線を向けた横顔はどこまでも穏やかで、流れていく帝都の街並みを見つめる瞳は、好奇心に満ちてきらきらと輝いていた。
そんな何の曇りもない笑顔を見ていると、不意に考えてしまう。

……もし君が、本当のことを知ったら。
どうして君がこの帝国に来ることになったのか。
どうしてこれから先も、この国から離れられないのか。
その裏にある僕の本心まで何もかも知ってしまったら、君はどんな顔をするんだろう。
君の望む幸せを奪ってまで自分の願いを優先し、自分の傍に繋ぎ止めようとしている僕を、身勝手で欲深い人間だと軽蔑するのかな。

まあ、それでも。
仮に時間を巻き戻せたとしても、僕はきっと同じことをする。
君を自由にして、誰かの隣で幸せそうに笑う未来を黙って見送れるほど、僕は聞き分けのいい人間じゃない。
そんな綺麗な諦め方なんて、最初からできるはずがないんだ。
自分がどれだけ身勝手なのかくらい、とっくに分かっている。
それでも君だけは、この手から零したくない。
だから僕は今日も、何も知らずに笑う君の隣で、何事もなかったように微笑みを作った。

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