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馬車を降りた僕達は、まず約束していた書店に向かった。
セラ嬢は目を輝かせながら棚を見て回り、新しく見つけた物語を一冊一冊大切そうに手に取り、迷いながらも何冊か選んでいく。
読み終えた本の続編を見つけた時なんて、まるで子どものように嬉しそうな顔をするものだから、その様子を見ているだけで自然と口元が緩んでしまった。

その後は街をゆっくり歩きながら、気になった店を覗いたり、帝都で評判の喫茶店に立ち寄って紅茶を飲んだりと、穏やかな時間を過ごした。
セラ嬢は初めて目にする品々に興味津々に視線を向け、そのたびに楽しそうに話しかけてくれる。
その笑顔を見るたび、連れて来て良かったと思う反面、彼女は人通りの多い場所になると、周囲からの視線に肩を竦め、帽子のつばを下げるようにして俯いてしまう。
帝国の剣である僕と、公爵家に迎えられた東国のご令嬢。
その組み合わせが人目を引くのは仕方のないことだけど、それでも彼女が落ち着かない思いをしているのは見ているだけで分かった。

だから最後に連れて来たのは、帝都の中心から少し離れた丘陵に広がる、帝都中央大庭園。
どこまでも続く青々とした芝生に、季節の花々が咲き誇る花壇。
陽光を受けて煌めく大きな湖では白いボートが静かに揺れ、木漏れ日が降り注ぐ遊歩道には、いつも恋人達や家族連れが絶えず訪れ、帝都でも指折りの人気を誇る憩いの場所だ。
普段なら多くの人で賑わっているものの、今回は今朝のうちに庭園の管理者に話を通し、人払いを済ませておいた。
自然や花を心から愛するセラ嬢なら、人目を気にせず過ごせるこの場所でこそ、本当の笑顔を見せてくれる気がした。


「はい、着いたよ」


馬車は大庭園の正門ではなく、皇族や限られた貴族だけが利用を許される湖畔近くの専用乗降口で静かに止まり、御者が扉を開くと、爽やかな風が車内まで流れ込んできた。
僕に手を引かれて外に降り立ったセラ嬢は、目の前に広がる景色を見た途端、息を呑むように瞳を見開く。


『わあ……すごい。こちらは何ていう場所なんでしょう?』

「帝都中央大庭園だよ。帝都でも一番広い庭園なんだ」

『こんなに綺麗な場所があるんですね。それに、人も全然いません』


そう言ってセラ嬢がこちらを振り返り、花がほころぶように微笑んだ直後だった。
裾をふわりと揺らしながら駆け出した彼女は、飛ばされそうになる帽子を両手で押さえ、弾むような足取りで草花の間を軽やかに駆けてゆく。
風に誘われるまま両手を広げると、くるりと一度身を回し、嬉しそうに笑って、また子どものように花の中を駆け回る。
その無邪気な笑顔は、貴族令嬢らしい慎ましさなど忘れてしまったかのようで、見ている僕まで自然と頬が緩んでしまった。

……変わってない。
幼い頃、庭園で同じように花を見つけては夢中になり、僕が声をかけるまで時間を忘れて遊んでいたあの子が、そのまま目の前にいるようだった。
帝国に来てからは、あんなふうに心から笑うことさえ少なくなっていた。
だからこそ、今見せてくれているその姿が、胸の奥にどうしようもなく愛おしく映る。
僕だけが知っている、何にも縛られていなかった頃のセラ嬢。
僕が大好きで堪らなかった姿を、こうしてまた見ることができるなんて思ってもいなかった。


「僕との約束、もう忘れちゃったのかな」


呼びかけると、花畑の真ん中で楽しそうにしていたセラ嬢がぴたりと足を止める。
きょとんと僕を見つめたあと、すぐに何かを思い出した様子で大きく目を見開いた。


『あ……』


その声と同時に表情が曇り、慌てた様子でこちらに駆け戻ってくる。
僕の前まで来ると、申し訳なさそうに両手を重ねて頭を下げた。


『花があまりにも綺麗で……つい夢中になってしまいました。総司様とお約束したばかりでしたのに、本当にごめんなさい』


今日は帝都に着いた時、僕はセラ嬢と一つだけ約束を交わしていた。
外は何があるか分からないから、絶対に一人で勝手な行動はしないこと。
どこかに行きたくなっても、何か気になるものを見つけても、必ず先に僕へ声を掛けること。
あの時の彼女は真剣な顔で「必ず守ります」と頷いてくれたはずなのに、花が目に入った途端、その約束は綺麗さっぱり頭から抜け落ちてしまったらしい。
それでも僕の心を満たしているのは、昔と変わらない彼女への愛しさだった。


「本当に反省してる?」


少しだけ意地悪く尋ねると、セラ嬢はこくりと何度も頷く。


『はい……。私が悪かったです』

「ふうん」


わざと考え込むように腕を組むと、彼女は不安そうに僕の表情を窺った。
その様子も可愛くて、つい口元が緩む。


「それじゃあ罰を考えないとね」

『罰……ですか?』

「約束を破ったんだから、そのままってわけにもいかないでしょ」

『……はい』


しょんぼりと肩を落とす姿まで昔と変わらなくて、笑いを堪えるのが大変だった。
少し間を置いてから、僕は穏やかに微笑む。


「今日の罰は、僕の隣から離れないこと。綺麗な花を見つけても、走り出す前にちゃんと僕に教えて。一緒に見に行くから」


その言葉に、セラ嬢は目を丸くしたあと、安心したように柔らかな笑みを浮かべた。


『そのようなことでよろしいのですか?』

「うん。それとも、もっと厳しいほうがよかった?」

『いいえ。私も総司様と一緒に見られたほうが嬉しいです』

「じゃあ決まりね。今度からは僕を置いていかないでよ」

『はい。もう絶対に離れません』


そう言うと、セラ嬢は今度こそ僕の歩幅に合わせて隣に並び、花畑を見つめながら嬉しそうに微笑んだ。
その横顔を盗み見るだけで十分だった。
昔のまま、何にも縛られず笑っていた頃の彼女が、ほんの少しだけ戻ってきた。
それだけで今日ここに連れてきた意味は十分にあった気がした。


「でも次は本当に気をつけてよ。僕だって護衛なんだから、君が急に走っていったら追いかけるしかなくなるし、それを見た人に僕が令嬢の後ろを必死に走ってたなんて噂されたら、さすがに格好がつかないからね」


そう言うと、セラ嬢は一瞬きょとんとしたあと、くすくすと楽しそうに笑った。


『そんな総司様も、一度は見てみたい気がします』

「勘弁してよ。部下達に知られたら、しばらく笑い話にされそうだから」


僕もつられて笑うと、セラ嬢はどこか懐かしそうに目を細めた。


『昔、鬼ごっこをして遊んでいただいた時も、総司様はなかなか私を捕まえられませんでしたもんね』


その言葉に、思わず苦笑が零れる。

……違うんだけどな。
あの頃の君はまだ幼くて、本気で追いかけたら転んでしまいそうだった。
だから敢えて少しだけ距離を空け、追いつきそうになっては速度を緩めて、少しでも長く逃げていられるよう加減していただけだ。
それをどうやら本人は、僕が本当に捕まえられず苦戦していたと思っていたらしい。


「へえ、そういうこと言うんだ」


少しだけ口元を吊り上げる。


「じゃあ、今も同じか試してみる?」

『え?』

「十数えるから逃げていいよ」

『え……?』


戸惑ったように僕を見上げる彼女をよそに、僕は何食わぬ顔で数え始めた。


「十、九」

『そ、総司様?本当になさるのですか?』

「八、七」


数字が進むにつれ、セラ嬢はますます落ち着かない様子になり、ついには観念したように帽子を押さえながら駆け出した。
途中で何度も僕を振り返り、そのたびに慌てて前を向いて走り出す姿が可笑しくて、思わず笑ってしまう。


「あーあ。さっき、僕から離れないって約束したばかりなのに」


そう呟いてから、僕も数字を数え終えたと同時にゆっくりと走り出した。
必死に逃げている本人には悪いけど、距離はあっという間に縮まっていく。

あと一歩、そう思って腕を伸ばしかけた時だった。
両腕はの怪我がまだ治っていないことを思い出す。
咄嗟に伸ばした手を引き、代わりに彼女の身体を傷つけないよう腰の少し上にそっと腕を回すと、そのまま勢いを逃がすように軽く引き寄せた。


「はい、捕まえた」

『きゃっ……』


突然動きを止められたセラ嬢は小さく声を上げたものの、すぐに僕の顔を見上げると、悔しそうに頬を膨らませた。


『もう……総司様、速すぎます……』

「君が遅いんだよ」


くすりと笑って腕を離す。


『昔はもっと長く逃げられたのに……』

「あの頃は手加減してたからね」

『え?』


意外だったらしく目を丸くする彼女に、僕は肩を竦めた。


「本気で追いかけたら、泣かれてたかもしれないでしょ」

『そんなことありません』

「どうだか」


そう返すと、セラ嬢は少しだけ悔しそうに唇を尖らせ、それでも最後には楽しそうに笑っていた。
そしてふと、近くの木に目を向ける。


『わあ、この木、とても大きいですね』


彼女が見上げた先には、長い年月を生きてきたのだろうと思わせる一本の大樹が堂々と枝葉を広げていた。
太い幹は大人が何人も手を繋がなければ囲めないほど立派で、空高く伸びた枝には青々とした葉が生い茂り、その隙間から零れる木漏れ日が芝生の上に優しく揺れている。
その木を眺めた途端、不意に思い出した。
まだ幼かったセラ嬢が、屋敷の庭で誰にも見つからないよう木登りをしていた日のことを。
僕に見つかった時、小さく肩をすくめながら恥ずかしそうに頬を染めていた姿が、今でも鮮明に蘇る。

可愛かったな。
あの頃の君は、叱られるかもしれないと分かっていても、好奇心には勝てなくて、いつも目を輝かせていた。
それなのに、少し経って届いた手紙には、少しだけ誇らしそうな文字で木登りは卒業しましたと綴られていた。
総司さまも努力されていると考えれば、わたしもこれくらいの我慢はできます、そう書いてくれていたことも思い出した。
その一文を読んだ時の胸の温かさだって、今でも忘れられない。

でも、本当はそんなことしなくても良かったのに。
木登りをして笑う君も、嬉しそうにはしゃぐ君も、全部君らしくて好きだった。
僕はただ、隣で笑っていて欲しかっただけだった。
そんな感傷を振り払うように、僕は大樹の低く伸びた幹に足を掛け、そのまま身軽に登っていく。


『総司様?』


下から僕を見上げるセラ嬢は、驚いたように目を丸くしていた。
その顔が昔のままで、思わず笑みが漏れる。
だから僕は何も考えないようにして、ただ静かに片手を差し出した。

昔、一度だけ。
アストリアで、この子と並んで木に登ったことがある。
あの日と同じ景色も、同じ時間も、もう戻ってはこない。
それでも、少しだけでもいい。
あの頃を思い出せる時間を、この子と過ごしたかった。


「一緒に登る?」


令嬢に向かってこんな誘い方をする男なんて、きっと僕くらいだろう。
もちろん、誰にでもこんな真似をするわけじゃない。
君だから。
幼い頃、一緒に笑って、一緒に遊んで、一緒に過ごした時間を重ねてきた君だから、僕は君が何を好きで、何をすると嬉しそうに笑うのかを、今でも覚えている。


『ですが……』


セラ嬢は僕の手をじっと見つめながらも、困った様子で眉を下げた。


「まあ……あれからずいぶん経ったもんね。さすがにもう木登りなんてしたくないか」


冗談めかして笑う。
別に困らせたかったわけじゃない。
ただ僕が、昔の思い出に少しだけ縋りたかった。

あの頃みたいに笑ってくれたら。
あの頃みたいに、何の迷いもなく僕の手を取ってくれたら。
そんな自分勝手な願いを胸の内だけで笑い飛ばし、差し出した手を引こうとした、その時だった。
柔らかな温もりが、そっと僕の掌に重なる。


『……本当は、今でもよく思っていたんです。木に登って、上から景色を見たいなって。でも私は女の子ですから、大きくなった今は、もうそんなことをしてはいけないのだと思っておりました』


少し照れたように微笑んだ彼女は、僕を真っ直ぐ見上げながら尋ねてくる。


『今日だけは、昔の私に戻ってもよろしいでしょうか?総司様が支えてくださるのでしたら、きっと勇気を出せます』


思わず息を呑んだ。
昔と何一つ変わらない、僕を信じ切ったような笑顔。
そんな顔を向けられたら、胸の奥に押し込めている感情が溢れそうになる。


「もちろん。落としたりしないから安心して」


僕は穏やかに笑い返し、彼女の歩幅に合わせながらゆっくりと登り始める。
両腕にはまだ傷が残っている。
だから無理に腕で身体を支えさせることはせず、足場を一つひとつ確かめながら声を掛けた。


「右足はその枝。そのまま幹に体重を預ければ大丈夫だよ」

『はい』


慎重に足を運んでいたセラ嬢も、少しずつ昔の感覚を思い出したのか、次第に表情が柔らかくなっていく。


「そう、その調子」


僕が手を添えながら支えると、セラ嬢は安心したように小さく笑った。
足が滑りそうになるたび腰を支え、枝を越える時は腕を添え、その身体が不安定にならないように導くと、やがて二人とも太く横に伸びた枝まで登り、その上に並んで腰を下ろす。
枝は大人が二人並んでも十分なほど太く、目の前には庭園いっぱいに広がる緑と色鮮やかな花々、陽射しを受けて輝く湖が一望できた。
風が葉を揺らし、その心地よい音に耳を澄ませながら、隣を見る。


『すごい……とても綺麗』


並んで座るセラ嬢は、嬉しそうに辺りを見渡しながら、子どもの頃と少しも変わらない無邪気な笑みを浮かべていた。
その横顔を見つめるだけで、胸の奥にしまい込んでいた遠い日々が、静かに息を吹き返していく。
願わくば、この穏やかな時間だけは、もう少しだけ終わらないでいてほしかった。

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