5
その後も僕達は広い庭園を歩き続け、湖では手漕ぎの舟に乗りながら他愛もない話を交わし、丘の上では樫の木から吊るされた大きなブランコにセラ嬢を乗せて、後ろから背中を押して遊んでいた。
風を受けるたびに彼女の柔らかな髪が揺れ、弾けるような笑い声が庭園に響く。
その笑顔は少しも曇ることがなく、まるで幼い頃に戻ったみたいに無邪気で、その姿を眺めているだけで、重たい現実を忘れることができた。
でも、いくらこのひとときが平穏でも、人を斬ることを生業として生きてきたことも、この子の未来を奪って僕の傍に繋ぎ止めてしまったことも、消えてなくなるわけじゃない。
何も背負っていなかった子供の頃のように、ただこの子の隣で笑っていられる日々はもう二度と来ないと、僕自身が一番よくわかっていた。
『総司様、向こうのお花を少し見に行ってもよろしいですか?』
期待を隠し切れない声に、思わず笑みが零れる。
「もちろん。気になるならゆっくり見ておいで」
『ありがとうございます』
嬉しそうに微笑むと、セラ嬢は軽やかな足取りで駆けていく。
長い時間を掛けて庭園の見どころを巡り歩き、噴水広場も、薔薇園も、藤棚も、湖畔も見て回った僕達が最後に辿り着いたのは、庭園の最も奥にある静かな広場だった。
その中央には誰の手も届かないほど広く、白いシロツメクサが一面に咲き広がっている。
風が吹くたび、小さな花々が波のように揺れて、夕日に照らされた景色は優しい白色に染まっていた。
『このお花、初めて見ました。綺麗……』
そう小さく呟いたセラ嬢は花壇の前で、一輪一輪を愛おしそうに眺め始める。
その後ろ姿を少し離れた場所から見守っていた僕は、足元いっぱいに広がるシロツメクサを見て懐かしい記憶を思い出していた。
アストリアの庭園にも、こんな場所があった。
低木に囲まれ、人目につかないその一角だけは、幼い僕達だけが知っている秘密基地みたいな場所だった。
誰にも邪魔されず並んで座り込み、その日にあった出来事を話したり、明日は何をして遊ぼうかなんて真剣に相談したり、本当にどうでもいいことで笑い転げたり。
時には結婚式ごっこなんて、子どもらしい遊びに夢中になったこともある。
そして僕は、そこでよくシロツメクサの花冠を編んでいた。
少し大きな花冠を頭に乗せては、嬉しそうにくるりと回って見せる彼女が好きだった。
その光景を思い出した時には、迷うことなく身体が動いていた。
僕は花の中に静かに腰を下ろし、一本一本丁寧に茎を編み始める。
不思議なもので、幼い頃に何度も繰り返したことは、身体の奥深くにちゃんと残っているらしい。
何年も触れていなかったはずなのに、指先は迷うことなく次の花を選び、茎を絡め、輪を繋いでいく。
昔より大きくなった手は作業も早く、セラ嬢が夢中になって花を眺めている間に、白く可憐な花冠は少しずつ形を整えていった。
少しでも喜んでくれたらいい。
この子が笑ってくれるなら、それだけで嬉しい。
そのささやかな願いだけを胸に、僕は静かに立ち上がる。
足音を忍ばせながら背後まで歩み寄り、彼女が被っていた帽子をそっと持ち上げると、代わりに出来たばかりの花冠を優しく頭に乗せた。
『あれ……?』
驚いたようにセラ嬢が振り返り、何が起きたのか分からないまま頭に手を添える。
指先が柔らかな花びらに触れ、その正体に気付いた時、大きな瞳がゆっくり揺れた。
『シロツメクサの……花冠、ですか……?』
「せっかく綺麗に咲いていたからね。昔、君はこれが好きだったでしょ?久しぶりに作ってみたんだけど、作り方もちゃんと覚えていたみたいだ」
幼い頃は、本当によく強請られた。
冠だけじゃない。
腕輪も、指輪も、首飾りも。
僕が何か作るたび、セラ嬢は宝物でも受け取ったみたいに笑ってくれるから、その笑顔が見たくて、何度だって花を摘んだ。
そんな記憶を懐かしみながら彼女を見ると、セラ嬢は息を詰めたまま微動だにしなかった。
やがて震える唇を結び、今にも零れそうになるものを懸命に堪えるように睫毛を伏せると、その表情を見られたくないとでも言うように、静かに僕から背中を向けた。
「セラ嬢?」
距離を詰めると、僕は彼女の細い肩にそっと手を添え、自分の方に向き直らせた。
振り向いたセラ嬢は、唇を懸命に引き結んでいたけど、その瞳いっぱいに溜め込んだ涙だけは隠し切れず、とうとう堰を切ったように頬を伝い始める。
一粒、また一粒。
静かに零れていくその涙を見て、胸の奥が締めつけられるようだった。
『ご、ごめんなさい……』
彼女は慌てて涙を拭ったけど、拭っても拭っても新しい雫が溢れてしまい、困ったように何度も目元を押さえていた。
その姿は痛々しくて、見ている僕の方が落ち着かなくなる。
「どうしたの?」
『ごめんなさい……なんでもないです』
「なんでもないなら、泣かないでしょ」
責めるつもりで言ったわけじゃない。
ただその涙の理由が知りたかっただけなのに、その言葉は思っていたより重く落ちてしまった。
彼女は俯いたまま、首を横に振る。
でも僕の頭に浮かぶ理由なんて、一つしかなかった。
「アストリアを思い出したの?」
その言葉を聞いて、セラ嬢の肩がぴくりと揺れる。
しばらく沈黙が流れ、やがて彼女は小さく頷いた。
「アストリアにも、シロツメクサがたくさん咲いてたもんね。ごめん、余計なことをして」
懐かしい思い出なんて、今の彼女には苦しいだけだったのかもしれない。
僕が勝手に昔を重ねて、勝手に喜ぶと思い込んで、結局またこの子を泣かせてしまった。
後悔が心中に広がっていく中、セラ嬢は涙で濡れた瞳のまま僕を見上げ、慌てた様子で口を開いた。
『いいえ、私の方こそ急にごめんなさい。それにこの花冠、とっても嬉しいです。また作ってくださりありがとうございます、総司様』
無理をして笑っているようには見えなかった。
だからこそ分からない。
色々思うことはある筈なのに、どうして僕に優しい笑顔を向けられるんだろう。
「似合ってるよ」
自然と零れた言葉に、彼女は照れたように花冠に触れて、頭から外したそれを眺めながら微笑んだ。
『こんなに綺麗な花冠をいただいたのは、久しぶりです』
「そう?」
『はい。一つひとつ丁寧に編んでくださったことが伝わってきて、大切にしたいと思いました』
その何気ない一言が胸に残る。
セラ嬢が想い描く故郷の思い出の中に自分も含まれているような気がしてしまうのは、きっと僕の都合のいい勘違いなんだろうけど。
「でも、明日には枯れちゃうけどね」
少しでもこの空気を軽くしたくて、わざと肩を竦めて笑う。
すると彼女は花冠を胸に抱くように両手を添え、愛おしそうに見つめた。
『短い時間しか咲けないからこそ、余計に大切にしたいと思うものもあるんです』
「……そっか」
それ以上、何かを尋ねることは出来なかった。
もし踏み込んでしまえば、ようやく取り戻したこの穏やかな時間まで壊してしまいそうで、それが怖かったからだ。
それにセラ嬢だってきっと、本当に伝えたいことを胸の奥に閉じ込めたまま、僕の隣で微笑んでくれている。
それが今の僕達の距離だった。
「日も落ちてきたし、そろそろ屋敷に戻ろうか」
『はい』
返ってきた声は、もう先程まで涙を滲ませていた人のものとは思えないほど明るかった。
顔を見れば、澱みなどひとつも残っていない、いつもの優しい笑顔。
まるであの涙が幻だったかのように、こうして笑える人だからこそ、人知れず涙を流してきた夜がきっと一度や二度ではなかったのだろう。
そう思うと、今は彼女が笑えば笑うほど、僕の心は僅かに疼く気がしていた。
馬車が待つ場所まで続く小道を、僕達はただ歩いていく。
セラ嬢はいつものように少しだけ僕の後ろから付き従い、木々を揺らす夕風だけが静かな沈黙を運んでいた。
けれど、その沈黙を和らげたのは彼女だった。
『総司様。今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました』
控えめに歩幅を速めると、彼女は僕の隣まで並び、小さく首を傾けながら僕の表情を窺うように微笑む。
「少しでも気分転換になったなら良かったよ」
『少しどころではありません。本当に、とーっても楽しかったですよ』
その人懐こい話し方に、思わず口元が緩む。
「とってもって、どのくらい?」
少し意地悪をするように問い返すと、セラ嬢はくすっと笑って立ち止まり、何の迷いもなく両腕をいっぱいに広げてみせた。
『このくらいです』
夕暮れ色の空を抱きしめるように腕を広げるその仕草が、あまりにも無邪気で愛らしくて、思わず僕も笑ってしまう。
「ははっ。それは随分大きいね」
『はい。今日見た景色も、お花も、お話しした時間も……全部合わせたら、このくらいでも足りないくらいです』
照れ隠しのようにそう言って笑う彼女を見つめていると、さっきまで胸に沈んでいた重たい感情さえ忘れそうになる。
……本当に困るよね。
何も知らない顔で笑って、僕の心だけはいとも簡単に掻き乱していくんだから。
『私、今日ずっと考えていたことがあるんです』
「考えていたこと?」
『はい。帝国に来たばかりの頃は、毎日どうして私が選ばれたんだろうと、そればかり考えていました。勿論政治的な理由が色々あったのだとはわかっていますが、それでも父や故郷のみなさんとも離れてしまって、この先どうなるのかも分からなくて……正直、とても怖かったんです』
彼女は少し照れくさそうに視線を伏せ、それから柔らかな声で続けた。
『だから自分の中でなかなかうまく受け止められなくて、私はきっと凄く悲観的だったんだろうなって。でも、今は少しだけ考え方が変わりました。きっとこの国でもこれから素敵な出会いが沢山あって、楽しい日々が待っているのかもしれないって、そう思えるようになったんです。前向きに考えられるようになったのは、総司様のおかげなんですよ』
そう言って僕を見上げた瞳は、どこまでも澄んでいて、心臓が脈を打つ。
セラ嬢が選ばれたことに、政治的な理由なんて全く関係ないからこそ、純真な瞳に見つめられることが苦しく感じたのかもしれない。
『総司様は私を気遣ってくださって、こうしてお屋敷の外にも連れ出してくださいました。総司様からしたら、お仕事で私のお世話をしてくださっているのでしょうけど、それでも私は本当に嬉しかったんです。処遇が決まるまでの間だけでも、総司様とご一緒出来て本当に良かったです。もし預かってくださる方が総司様ではなく別の方だったら、私は帝国を好きになれなかったかもしれません。だから私、とても運が良かったんですね』
彼女は少し照れたように笑って続ける。
『今笑って過ごせているのは、総司様がいてくださったからです。だから偶然だとしても、このご縁は大切にしたいと思っています。ありがとうございます、総司様』
何の迷いもなく紡がれたその言葉に、僕は静かに彼女を見つめた。
その真っ直ぐな笑顔は、本来なら胸の奥に沈めた罪悪感を抉り出し、僕を苦しめるはずだった。
夕暮れの光を映した瞳は澄み切っていて、そこに映る僕はきっと、彼女が信じる優しい人のままなのだろう。
だからこそ、いずれ真実を知れば、君はきっと失望する。
今みたいに穏やかに笑いかけることもなくなり、僕を見るたび苦しそうに目を伏せるだろう。
なぜなら君が感謝を向けているその相手こそ、君から未来を奪った張本人なのだから。
だけど、それが何だというんだ。
そんなことは、とっくの昔に分かっていた。
君を故郷から引き離すと決めたあの日から。
君を誰にも渡さないと決めたあの時から。
そもそも僕はもう、とっくの昔から正しい生き方なんてしていないじゃないか。
罪悪感を抱いたところで、この子が故郷に帰れるわけでも、僕が君を手放せるわけでもない。
だったら、胸の奥にまとわりつくそれらの感情なんか、何の意味もなかった。
僕は僕の望みを優先し、君を失う未来より君に憎まれる未来を選んだ。
それがどれだけ醜くても、どれだけ身勝手でも構わない。
君さえ僕の手の届く場所にいてくれるなら、それでいい。
だから僕は胸の奥に渦巻いた感情ごと押し殺し、いつも通り口元に笑みを浮かべた。
「君は本当にお人好しだね。君の立場なら、帝国に連れて来た僕を憎んでもおかしくないと思うけど」
セラ嬢は小さく首を傾げ、穏やかに微笑んだ。
『でも総司様は、お役目を全うされただけですから』
「本当にそうだと思う?」
『え?』
僕はきょとんとした様子の彼女を見つめたまま、くすりと笑う。
「僕が君を故意に選んで、この帝国に連れて来たのかもしれないよ。君の自由を奪って、僕の傍に置いておきたかったから、とかさ」
冗談めかして口にしたその言葉は、僕だけが知る真実だった。
ほんの一瞬でも、その瞳が揺れるだろうか。
疑うことを知らないその綺麗な心に、少しでも疑念が芽生えるだろうか。
そんなくだらない好奇心を抱いた自分に苦笑する。
けれどセラ嬢は眉を寄せることも、警戒する様子もなく、ただぽかんと僕を見上げていた。
あまりにも呑気なその表情がおかしくて、耐え切れず吹き出してしまう。
「ははっ、何その顔。本当に間抜けだね」
『間抜けとは何ですか?総司様が急に訳の分からないことをおっしゃるからではありませんか』
少しだけ頬を膨らませて抗議する姿に、笑みが深くなる。
「もう少し慌てるかと思ったのに。つまらないな」
『慌てるも何も、そのようなお話を信じる理由がありません』
「どうして?」
『だって総司様は、そのようなことをなさる方ではないからです』
その返事はあまりにも迷いがないから、苦笑いを溢した。
「随分買いかぶられてるね」
『買いかぶってなどいません。総司様は優しい方ですから』
……本当に。
君はどこまでも、お人好しだ。
その信頼は嬉しいはずなのに、同時に滑稽でもあった。
君が信じている僕なんて、本当はどこにもいない。
ここにいるのは、自分の欲のために君を乱暴に奪い、その人生さえ思い通りにしようとしている男だけだ。
それでも君が目の前の僕を信じているうちは、その期待を裏切らないよう演じ続ければいい。
真実を隠して、君が笑っていられる嘘を守り抜いたまま。
たとえその先で僕自身がどれだけ醜い人間になろうとも、僕はもうその覚悟だけはとっくに決めているのだから。
「困ったお嬢様だね」
小さく笑ってそう零すと、セラ嬢はその意味も知らず、嬉しそうにはにかんだ。
その笑顔を見つめながら、僕もまた穏やかに笑う。
その無防備な笑顔が夕暮れの空より眩しく見えて、僕はまたひとつ、胸の奥に沈めた罪から目を逸らした。
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