6

今日は、とても幸せな一日だった。
総司様と並んで街を歩き、大きな庭園では童心に返ったようにはしゃぎ、本屋では抱えきれないほどの本まで買っていただいて、嬉しい反面、こんなに甘えてしまっていいのだろうかと申し訳なく思ってしまうほどだった。

そして今も私の腕の中には、総司様から贈っていただいたシロツメクサの花冠がある。
もう二度と手にすることはないと思っていた花冠を、再び総司様が私のために編んでくれたあの瞬間は、胸の奥にしまい込んでいた想いが一気に溢れてしまい、気付けば涙をこぼしていた。
そんな自分に動揺して、アストリアを思い出したのかと尋ねた総司様の言葉に思わず頷いてしまったけど、本当は違う。
ただ嬉しくて、同時に切なくて。
総司様のことが大好きで堪らなかった頃の自分の想いが、私の中に舞い戻ってきてしまったかのような感覚だった。

実は今日一日、何度も泣きそうになった。
総司様が、まるで幼い頃のように私の隣で笑ってくれていたから。
追いかけっこをして、木に登って、シロツメクサで花冠を編んで。
その一つひとつが、幼い私たちが何気なく積み重ねてきた幸せな日々そのもので、懐かしい記憶を優しく撫でるように心に蘇ってくる。

そもそも、あの庭園に連れて行ってくださったことも、本当に偶然だったのだろうか。
それとも私が花や自然を好きだったことを覚えていて、少しでも喜ばせようと、あの場所を選んでくださったのだろうか。
きっと深い意味はないと、頭ではわかっている。
それでも今日は、昔の思い出を一つずつ辿るような出来事ばかりで、もしかしたら総司様にとってもあの日々は大切な思い出だったのではないかと、そんな都合の良い期待まで抱いてしまった。

総司様は以前、私が好きだった総司様はとっくの昔にいなくなったと仰っていた。
でも、今日一日を振り返れば振り返るほど、私にはどうしてもそうは思えなかった。
目の前にいる総司様は、姿も、笑い方も、時折見せてくださる優しさも、私が大好きだった頃の総司様と何も変わらない。
だからこそ幸せなのに苦しくもあって、私は少し前を歩く総司様の横顔をちらりと見上げた。


「屋敷に戻る前に、少し寄り道してくれる?帝都の紅茶専門店の近くまでお願い」

「かしこまりました」


庭園を出て馬車の元まで辿り着くと、不意に総司様が御者の方に声を掛ける。
御者は恭しく一礼して、馬車は出発の支度を始めた。
私が黙ってその場に立っていると、総司様がこちらを振り返り、柔らかな笑みを浮かべた。


「一件寄りたいところがあるんだけどいい?」

『はい、勿論です』


そう答えると、総司様は先に馬車に乗り込み、私に向かって手を差し伸べてくれた。


「ほら、おいで」

『ありがとうございます』


その手にそっと自分の手を重ねると、総司様は私が乗りやすいよう優しく支えてくれる。
馬車に乗り込んで向かい合って腰を下ろすと、ほどなくして扉が閉まり、静かに車輪が石畳を転がり始めた。
窓の外では、庭園の緑が少しずつ遠ざかっていく。
今日という幸せな一日が終わってしまうことが少しだけ淋しくて、私は膝の上におかれたシロツメクサの花冠をそっと撫でた。


『紅茶を買われるのですか?』

「うん。相馬が今日、僕の仕事まで引き受けてくれたからさ。せめて好きそうな紅茶でも買って帰ろうと思って」


その言葉を聞いて、思わず頬が緩んだ。
やっぱり総司様は優しい方だ。
相馬卿が総司様を慕っているのも、きっとこういうところなのだろう。


『相馬卿、きっと喜ばれますね』

「だといいけど。あ、そう言えば君は紅茶が好きだったよね」

『はい。頂くのも淹れるのも好きです』

「じゃあ、一緒に選んでよ。僕一人じゃ何がいいのかさっぱりだから」


思いがけないお願いに、私は思わず目を輝かせる。


『私でよろしければ、喜んでお手伝いします』

「助かるよ」


総司様は満足そうに頷くと、どこか悪戯を思いついたように目を細めた。


「よかった。もし相馬が気に入らなかったら、セラ嬢が選んだって言えばいいし。全部君のせいに出来るね」

『ええ?それでは私が相馬卿に嫌われてしまいます』

「大丈夫、大丈夫。相馬はそういうので人を嫌いになったりしないから」

『もう……。私に責任をなすりつけないでください。その時は総司様も同罪なんですからね?』


少しだけ拗ねたつもりで言うと、総司様はくすりと笑い出した。


「同罪か。それは困ったな」

『総司様も一緒に選ぶんですから、一緒に責任を負ってください』

「はいはい。そこまで言われたら逃げられないね」


そう言って笑う総司様は、どこか子どもっぽくて。
その表情が懐かしくて、私もつられて笑みを零した。


『でしたら安心しました。相馬卿に喜んでいただけるよう、一生懸命お手伝いします』

「うん、期待してる」


導かれるまま帝都に来て、一ヶ月と少し。
最初は何もかもが怖くて、不安ばかりを抱えていたけど、今はあの頃よりも少しだけ現実を受け入れられている私がいる。
アルディオンのお屋敷では胸が苦しくなる出来事もあった。
それでも、総司様が動いてくださったお陰であの件は無事に収まり、今は自分の処遇が決まる日を静かに待つばかりだった。

ふと薫様のお顔が浮かぶ。
あの方のお傍に戻ることができたならどれほど幸せだろうという願いは、今も胸の奥で変わらず灯り続けている。
けれど、その願いを口にすることはできず、私は窓の外に視線を向けた。
これからのことをぼんやり考えていると、向かいに座る総司様が身を乗り出し、私に手を伸ばしてくる。
私の帽子を軽く持ち上げると、その代わりに花冠を頭に乗せてくれた。


「折角作ったんだから、被ってよ」

『はい』

「紅茶を選びに行く時もこのままでね。外したら怒るから」


真面目に考え事をしていたというのに、そんな子どもみたいなお願いを真顔で口にするものだから、思わず頬が緩んでしまう。


『ふふ、花冠をしたまま外を歩くのですか?』

「普通の人ならおかしいけど、セラ嬢だったら大丈夫じゃない?」

『それはどういう意味ですか?』

「だって花の精みたいだからさ。全然違和感ないよ」


褒めてくれているつもりなのかもしれないけど、花の精だなんて、そんな大袈裟な。
あまりにもさらりと言われたから、返す言葉に困ってしまう。


『そんなことありません』


少し照れながら首を横に振ると、花冠を彩る白い花びらから甘い香りが漂ってくる。
総司様はその様子を眺め、満足そうに目を細めた。


「あるよ。ほら、そのまま窓を見てみなよ」


言われるまま馬車の窓に目を向けると、硝子に映る自分の姿が目に入った。
緑の葉に囲まれた白い花冠は思っていたよりも可愛らしく、少し気恥ずかしい。


『……やっぱり、少し恥ずかしいです』

「そう?僕はすごく似合ってると思うけど」


総司様は迷いなくそう言い切ると、ふっと口元を緩めた。


「店の人も絶対そう思うよ。もうそろそろ着くけど、外したら駄目だからね」

『本当にこのまま行くのですか?』

「もちろん」


いたずらを思いついた子どものように笑う総司様を目の前に、私までつい笑ってしまう。


『もし皆さんに笑われたら、総司様のせいですからね』

「その時は僕が、似合ってるって言い返してあげる」


総司様は時々、冗談なのか本気なのか分からないことを口にする。
だけど総司様があまりにも優しく微笑むから、その笑顔につられるように、私もまた笑みを零した。
薫様を想えば、この胸は切なくなる。
けれど今この馬車の中には、張り詰めていた心を忘れさせてくれる優しい空気が流れていて、花の香りに包まれながら過ごすこのひとときだけは、肩の力を抜いて笑ってもいいのかもしれないという気持ちになれた。


それから程なくして馬車は紅茶専門店の前で停車する。
総司様は本当に私を花冠をつけたままお店の中に行かせるつもりらしい。
落ち着かない心情のまま馬車を降りると、案の定街の人達の視線が波のように私たちに集まってきた。
東部から来た人質である私を、快く迎えてくれる人は多くない。
値踏みするような眼差しもあれば、それ以上に冷え切った視線を向ける人もいて、そのたび胸の奥が締めつけられるようだった。
先日の狩猟会で起きた出来事が、自分の立場をさらに悪くしてしまったことは、誰より私自身がよくわかっている。
俯いてしまいそうになる気持ちを必死に堪えながら歩いていると、不意に耳元で穏やかな声がした。


「大丈夫だよ」


総司様が私の歩みに合わせて隣を歩きながら、気遣うような眼差しを向けてくれるから、それだけで不安な気持ちが和らいでいく。
そのとき、通りの端で遊んでいた小さな女の子が、ぱっと瞳を輝かせながら私たちに駆け寄ってきた。


「こら、急に走っては駄目よ」


母親らしき女性が慌てて呼ぶ声も耳に入らないほど夢中になって私の前まで来ると、その子は花冠を見上げて嬉しそうに笑う。


「お姉ちゃん、可愛い!お花の妖精さんみたい!」


思いがけない言葉だった。
冷たい視線ばかり気にして縮こまっていた心が、その無邪気な一言にふわりとほどけていく。
総司様は少し得意そうに笑うと、女の子と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。


「可愛いでしょ。この花冠、僕が編んだんだよ」


女の子は「わあ、すごい!」と手を叩いて喜び、それを聞いていた周りの貴族からは小さなどよめきが広がった。
総司様が自分の手で花冠を作り、それを私に贈ったという事実だけで、私がアルディオンでどのように扱われているのかは十分に伝わるからだろう。
 

「花冠も可愛いけどね、お姉ちゃんがとっても可愛い。本の中のお姫さまにそっくり!」


その言葉に総司様がくすっと笑って私を見る。


「だって」


こんなにたくさんの人が見ている前で褒められるなんて、やっぱり恥ずかしい。
それでも、心の中に広がる温かさは隠せなかった。


『ありがとう。あなたこそ、とても可愛いわ』

「本当?」

『うん。笑った顔も可愛くて、とっても素敵。またその笑顔を見せてね』


膝を折って女の子と目線を合わせ、微笑みかける。
女の子は嬉しそうにはにかむと、花冠を指差して無邪気に言った。


「ねえ、お姉ちゃん。その花冠、私にちょうだい?」


近くにいた母親が慌てて「そんなこと言ったら駄目でしょう」と女の子の肩に手を添える。
それでも女の子は諦めきれない様子で私を見上げていた。
その愛らしい様子に思わず頬が緩み、私はそっと花冠に触れる。
この子を笑顔にしてあげたいけど、私は柔らかく微笑みその子に言った。


『ごめんね。これは私にとって大切な宝物なの。だからこの花冠はあげられないのだけど、でも……そのかわりに、これをもらってくれる?』


私はそう言って、髪を束ねていた細い白色のリボンをほどいた。
故郷のアストリアを発つ日、私の髪に編まれていた布のリボン。
高価なものではないけど、私にとっては大切な思い出が詰まった品だった。


『あなたに似合うと思うから、大事にしてもらえたら嬉しいな』


女の子はぱっと顔を輝かせると、両手で大切そうにリボンを受け取り、「ありがとう!」と弾む声で笑った。
母親も何度も頭を下げながら礼を伝え、その親子は何度も振り返っては手を振り、嬉しそうに人混みの中に消えていく。
その姿を見送っていると、総司様が私に話しかけてきた。


「あのリボン、アストリアを出た日につけてたものでしょ?あげちゃって良かったの?」


まさか総司様が、そのことを覚えているとは思わずに目を瞬く。


『覚えていらっしゃったのですか?』

「覚えてるよ。君が帝国に来た日のことだからね」


総司様が、あの日の私を気に留めていてくださったなんて思いもしなかった。
あの日は故郷を離れる淋しさと、この先どうなるのか分からない不安で胸がいっぱいだったから、誰がどんな装いをしていたのか、私自身の記憶にはほとんど残っていない。


「なんでそんなに驚いてるの?」

『少し意外だったので。総司様は、あまり周りのことを気にされない方なのだと思っていました』

「なにそれ。結構な酷い言われようじゃない?」

『違うのです。悪い意味ではなくて……』

「ふうん?」


総司様は冗談めいた笑みを浮かべているけど、私がそう思ってしまったのには理由があった。
以前、ニコラ様が総司様はドレスなどには興味がないと話していらしたし、千様も総司様は他人にあまり関心がないと仰っていた。
奥様方がそうお話しになるのなら、本当にそうなのだろうと、私は勝手に思い込んでしまっていた。

けれど、よくよく思い返してみれば、それは私の早とちりだったのかもしれない。
まだ交流があった頃、私が初めての髪型にした日も、新しいパレッタやリボンを身につけた日も、総司様は決まってその変化に気付いてくれていた。
ほんの少し髪飾りが変わっただけで気付くというのは、周りを見ていなければできることではない。
そんなことを思い出していると、総司様が苦笑混じりに肩をすくめた。


「君って、やっぱりお人好しだよね。自分の大事な物まで知らない子にあげちゃうんだから」

『少しだけ迷いましたよ。でも、あの子が花冠を見つめている顔を見たら、どうしても何か贈りたくなってしまったんです』

「だからって、数少ないアストリアからの物を選ぶの?」

『他に差し上げられる物を持っていませんでしたから。それにあの子の喜ぶ顔が見られたから、それだけで十分です』


少し眉を下げて微笑んだ総司様は、私の頭に乗った花冠に手を伸ばし、その形を崩さないように優しく整えながら、穏やかな声で口を開いた。


「別に僕に遠慮なんてしないで、この花冠をあげたって良かったのに」


どうやら総司様は、私が総司様を気遣って、この花冠をあの子に渡さなかったのだと思っているみたい。
でも、本当は違う。
これはただ、私がどうしても手放したくなかっただけ。
私にとって、それほど大切な花冠だった。
たとえ数日もすれば枯れてしまう儚いものだとしても、少しでも長く私の傍に置いておきたかった。
けれど本当の気持ちを言葉にすることは出来ないから、もっともらしい理由を口にした。


『でも、それだと総司様の言いつけを守れなくなってしまいますよ?』

「言いつけって?」

『紅茶を選びに行く時もこのままでって仰っていたじゃないですか。外したら怒るからって。だから私は、ちゃんとその言いつけを守っただけです。私、こう見えて結構お利口なんですからね』


少しだけ得意げにそう言ってみせると、総司様は一瞬きょとんと目を丸くし、それから堪えきれなくなったように吹き出した。


「あははっ……何それ。そんなふうに返されるなんて思わなかったよ。君って案外そういうところ、口が回るよね」


笑いながらそう言う総司様に、私は少しだけ胸を張る。


『褒め言葉として受け取っておきます』

「褒めたつもりはなかったんだけど」

『でも、怒られませんでしたよ』

「それは怒る理由がないからね」

『それなら、お利口だったということですね』


自分なりに筋は通っていると思って言い返すと、総司様は困ったように笑っていた。


「君は本当に、自分に都合のいいように話をまとめるのが上手だね」

『違いますよ。これも、ちゃんと考えた結果です』

「はいはい」


子どもをあやすような返事をされてしまい、少しだけ唇を尖らせる。


『はいはいっていうお返事はあまり宜しくないんですよ?』

「じゃあ、何て返せば満足するの?」


そう尋ねられてしまうと、返事に困ってしまう。
何て言ってもらえたら嬉しいのかなんて、自分でもよく分からない。
少し考え込んでいると、総司様はくすりと笑い、私の頭の花冠に視線を移した。


「でも、この花冠をちゃんと守ってくれたことは分かったよ。僕が思っていた以上に大事にしてくれたみたいだしね」


どきりと胸が跳ねる。
本当の理由に気づかれたわけではないけど、私は慌てて視線を逸らし、小さく咳払いをした。


『総司様が外したら怒ると仰ったからです』

「まだそれを押し通すんだ」

『もちろんです。総司様に怒られたくないですから』


迷いなく頷くと、総司様はまた声を立てて笑った。


「分かったよ。君は僕の言いつけをちゃんと守れる、とても優秀なお嬢様だった。それでいい?」


少しだけからかうような声音。
それでも、どこか機嫌の良さが隠しきれていなくて、私は満足そうに頷いた。


『はい。それで十分です』

「こんなことで満足するなんて君は案外ちょろいね」

『え?ちょろいってなんですか?私はちょろくありません』

「そう?」

『絶対違います』


即座に言い返すと、総司様はくすりと笑って目を細めた。
まるで私の反応を一つひとつ眺めること自体が面白いみたいに、その視線は今日一日殆ど私だけに向けられていた。
その笑顔を見ているうちに、私まで何だかおかしくなってしまい、気づけば二人で笑い合っていた。
それはもう、アストリアで過ごしていた頃の私達に戻ったみたいだった。

交わすのは他愛のない話ばかりなのに笑いは尽きなくて、私が何か言葉にするたび総司様の表情がころころ変わる。
その様子を見ているだけで嬉しくなって、心が温かく満たされていく。
だから幼い頃の私は、総司様が隣にいるだけで嬉しくて、思いついたことを何でも話しかけていた気がする。

けれど再会してからは、どうしても総司様との間に見えない距離を感じてしまって、何を話せばいいのか分からないまま、言葉を飲み込んでしまうことばかりだった。
だから、こんなふうに総司様が心から楽しそうに笑ってくださる姿を見ることができた今が、たまらなく嬉しい。
私はそっと花冠に触れながら、その名前を呼んだ。


『総司様』

「うん?」


優しい返事が返ってきて、自然と頬が緩む。


『楽しいですね』


素直に気持ちを言葉にすると、総司様は一度だけ僅かに瞳を揺らした。
けれどすぐに、その表情は穏やかにほどけ、優しく笑って頷いてくれる。


「うん、楽しいね」


短い返事だった。
けれど、その一言だけで十分だった。
あの頃と同じように笑い合えて、同じ時間を過ごせている。
それだけで、総司様に会えない間に積もり続けた淋しさが、少しずつ溶けていく気がした。

木々を揺らす風が私達の間を静かに吹き抜け、花冠の小さな花がかすかに揺れる。
私は大切な宝物に触れるようにそっと花冠を押さえ、微笑んだ。
今日という日も、この花冠も、総司様と笑い合えた時間も、私はずっと忘れないだろう。

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