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総司様のお仕事が始まってから、この部屋は少しだけ変わった。
お部屋に置かれていた総司様の私物は綺麗になくなり、その代わりのように私の傍に来てくれたのが、専属侍女になったエイミーだった。
明るくて、よく笑って、とても優しい子。
しかも奇跡みたいに同い年だったこともあって、私達は出会って間もないのに、昔から知り合いだったような気持ちで笑い合えるようになっていた。

エイミーの話では、彼女が私の専属侍女に決まった日に、総司様から私の事情を簡単に聞かされたらしい。
私の体調にはよく気を配ること。
少しでも変わった様子があれば、すぐに総司様に知らせること。
そう頼まれたのだと、彼女は少し照れくさそうに教えてくれた。

あれから数日。
総司様は騎士としてのお仕事がお忙しいようで、まだ一度も顔を合わせていない。
それでも毎晩、深夜に屋敷に戻られると真っ先にこの部屋に立ち寄り、私が無事に眠っていることを確かめてから執務室に向かわれているのだと、エイミーがこっそり教えてくれた。
その話を聞くたび、胸の奥が温かくなる。
姿は見られなくても、ちゃんと気にかけてもらえている。
そう思えるだけで、心細い気持ちが落ち着くような気がしていた。


「はい、お嬢様。今日のお薬ですよ」

『ありがとう、エイミー』


差し出された薬を受け取り掌に乗せる。
けれど今夜は、どうしてもすぐに飲む気になれなかった。
この薬を飲むと、あっという間に眠くなってしまう。
本を読んでいても、気づけば朝になっているのだから、私は白い錠剤をじっと見つめたまま小さく唇を尖らせる。


「ほら、早く飲んでください」

『んー……でも、今夜はまだ寝たくないの。手芸をもう少し進めたくて』

「駄目です。夜更かしは身体によくありません。それに、閣下からもお願いされているんですから」

『お願い?』

「セラお嬢様が毎日健やかに過ごせるように、十一時までにはお薬を飲ませて休ませること、って」

『そんなことまで決まってるの?』

「それだけじゃありませんよ。ほら」


そう言うと、エイミーは制服のポケットから小さな革張りの手帳を取り出した。
慣れた手つきでぱらりと開き、私にも見えるように差し出してくる。


『えっと……朝は八時に起床。朝晩の湯浴みのあとは腕のお薬を忘れずに塗ること。食欲があるなら時間に関係なく何か食べさせること。甘い物は適度な量にして、ねだられても過度に食べさせすぎないこと。天気の良い日は庭を散歩させること。風が冷たい日は無理に外へ出さないこと。庭で花を見つけると夢中になって歩き回る可能性があるので、目を離さないこと。少しでも寂しそうにしていたら話し相手になること。それでも元気が戻らなければ、すぐに報告すること……』


読み上げている途中で思わず苦笑してしまう。
その先にも細かな約束事が何ページも続いていて、手帳はまるで私の取扱説明書みたいだった。


『……なんだか少し、子供扱いされてるみたい』


エイミーはくすっと笑いながら手帳を閉じ、肩をすくめる。


「違いますよ。閣下が心配性なんです。私、最初にこの手帳を渡された時は驚きましたもん。ここまで細かく書くのって」

『え?この手帳、総司様が書いたの?』

「そうですよ」


どおりで見覚えのある字だと思った。
きょとんとしている私を見たエイミーが堪えきれないように笑い出すものだから、つられて私まで笑ってしまう。
ひとしきり笑ったあと、エイミーは意味ありげに私を見つめると、にやりと口元を緩めた。


「でも、閣下って本当にお嬢様のことを大切になさってるんですね」

『え?』

「だって、普通はここまでしませんよ」


そう言って、閉じた手帳を軽く持ち上げる。


「専属侍女に細かく指示を出すご主人様はいらっしゃいますけど、こんな手帳を何ページも使って渡す方なんて聞いたことがありません。それもお仕事でお忙しい合間に、ご自分で全部書かれたんですよ?」


私は思わず手帳を見つめた。
あの整った筆跡を、一つひとつ自分で書いてくださったのだと思うと、胸の奥がくすぐったくなるようなおかしな気分になる。


「それに……失礼を承知で申し上げますけど、お嬢様は閣下の奥様でも、ご側室様でもありませんよね」

『それはそうだけど……』

「それなのに、このお気遣いですもの。私だったら、きっと勘違いしちゃいます」

『勘違い?』

「特別に想って頂けているかなって」


その一言に胸がどきりと跳ねたけど、慌てて首を横に振る。


『違うよ。総司様はそういう意味で気遣ってくださってるわけじゃないの』

「そうですか?」

『私が怪我をしたから心配してくださっているだけだよ。皇帝陛下から私の面倒を見るようご命令を受けてるから、責任を感じてくださっているだけなの』


エイミーは「そうなんですね」と小さく頷いたけど、その口元にはまだ楽しそうな笑みが浮かんでいる。


「でしたら、閣下は責任感がお強い方なんですね」

『うん、そうだね』

「私、これまで何人か貴族のお屋敷で働いてきましたけど、預かり人の為にここまで心を配るご主人様は初めて見ました。普通は護衛や使用人に任せっきりですよ」

『それは……当主としての責任があるからって前に総司様が仰ってたよ。立場柄、こうして気にかけてくださってるだけだから、私としては逆に申し訳なくて』


そう答えると、エイミーは少しだけ首を傾げた。


「でも、責任だけで、毎晩あんなお疲れのご様子でも必ずお顔を見に来られるものでしょうか?侍女達の間でも最近噂されてるんですよ。閣下は一日に一回はセラお嬢様のお顔を見ないと眠れないみたいって」


思わず目を丸くした。


『そんな話になってるの?』

「はい」


あまりにもあっさり頷かれてしまい、思わず言葉を失う。
知らないところでそんな噂になっているなんて、考えたこともなかった。


「閣下がお嬢様を大切になさっていることだけは、本当だと思いますけどね」


その言葉を聞くと、どうしても心が温かく色付いてしまう。
けれど、それをそのまま受け止めてしまうのは違う気がした。


『大切にはしてくださってると思うけど、でもそれは私だからじゃないの。総司様は、誰が預けられても同じように守ろうとする方だよ。そういう人だから、私は安心してここで過ごせてるの』


そう言うと、エイミーは私の顔をじっと見つめ、それから困ったように笑った。


「お嬢様って、本当に閣下を信頼していらっしゃるんですね。でも、ご存知ですか?閣下には怖い噂も沢山あるんですよ」

『怖い噂……?』


エイミーはお部屋の中なのに少し声を潜め、誰かに聞かれないよう辺りを見回してから続けた。


「帝国最強の騎士ですから、戦場では敵味方を震え上がらせるほど恐れられているそうです。それはもう数え切れないほどの命を奪ってきた、とか。一度剣を抜いたら血も涙もない方だとか……戦場では笑いながら敵を斬っている、なんて話まであります。中には、閣下のことを命を奪うことを楽しんでいる戦闘狂だ、人を斬る時だけ生き生きとしている……なんて言う人までいるんですよ」


総司様に良くない噂があること自体は、なんとなく分かっていた。
帝国騎士団第一部隊を率いる方で、戦場では数多くの敵と向き合ってきた騎士なのだから、誰からも好かれるような穏やかな話ばかりではないのだろう。


「でも本当に恐れられているのは、それだけではないんです。帝国にとって邪魔になる人間を消している……そういう噂もあります」


思わず総司様が人を殺めている姿を想像してしまい、心が少し重くなる。


「敵国の間者や、皇帝陛下に背く者。帝国に害をなすと判断された人間は、ある日突然姿を消す。表向きは事故や失踪として処理されるけど、裏では閣下が動かれたのではないかと囁かれることがあるそうです。実際、このお屋敷でも……最近、何人かの使用人の行方が分からなくなったと聞きました」

『……え?最近って、いつのこと?』

「私もここに来たばかりなので詳しいことは知りません。昔からいる使用人の方々が話しているのを聞いただけですが、私や新しい使用人達が配属される少し前、突然いなくなった方が何人かいるそうですよ。辞めたことになっているけど、本当はどうなのか分からない。もしかしたら、閣下に処分されたのではないか……そんな噂です。ただ屋敷内で人がいなくなったのは最近が初めてだそうですね。それまではどちらかというと留守にされるばかりで、閣下は殆どお屋敷にいらっしゃらなかったとか」


まさか……私に嫌がらせをしていた侍女の方のことではないかと考えてしまう。
でも、総司様は私に、解雇したと仰っていた。
だから正直、考えても何が真実かはわからない。
ただエイミーの話を聞いて、ふと幼い頃の記憶が蘇った。

昔見た総司様の瞳。
いつものような穏やかな色ではなく、温もりを失った冷たい瞳。
人を傷つけることを、何とも思っていないように見える眼差し。
あの瞳を見た時、私は幼いながらに恐怖を覚えた。

講和が結ばれた時もそうだった。
総司様は一切迷うことなく、アストリアの騎士に剣を向けた。
そこに躊躇いも、手加減も、一切なかった。
その姿は、まさしく帝国最強の剣。
誰も寄せつけないほど冷酷で、近寄ることさえ怖くなるような人だった。

だから、エイミーの言葉をすべて否定することはできなかった。
総司様には、確かにそういう一面がある。
人を傷つけることを恐れず、必要と判断したことなら、どれほど残酷な手段でも選べる方なのだと思う。
けれど、総司様は決して人を傷つけることが好きな方ではない。
心がない方でもない。
きっと誰よりも責任感が強い方だから、中途半端な情けは誰かを危険にさらしてしまうことを知っている。
だから、目的のためなら手段を選ばない。
優しさを押し殺してでも、時には残酷であることを選ぶ。
それが総司様の強さなのだと、今なら少しだけ分かる気がした。

ここに来たばかりの頃は、そんな総司様が怖かった。
冷たい態度を取られるたび、拒まれているようで胸が苦しくて、何度も涙をこらえた。
でも、一緒に過ごす時間の中で少しずつ分かってきた。
総司様は、できることの限られた中でも、私が穏やかに過ごせるようにと、誰にも気づかれないところで手を尽くしてくださっている。
不器用で、素直ではなくて、時には冷たく見えるけど、その奥には確かな優しさがある。

だから今は思う。
総司様もまた、とても苦しい立場にいるのだと。
守るもののために、自分の中の優しさまで隠して、冷酷な剣であり続けなければならないのかもしれない。


『……でも、総司様は優しい人だよ』


気づけば、私は小さくそう呟いていた。


『もちろん、お仕事の時は私の知らない総司様もいるのかもしれないけど……何かを守るために剣を振るうことと、誰かを傷つけることを楽しむことは、全然違うと思うの』


アストリアでの出来事は、今思い返しても胸が痛む。
あの日、総司様が剣を向けた相手は、私にとって大切な人達だった。
悲しくなかったと言えば嘘になる。

それでも、あの方は任務を果たしただけだった。
決して私欲のために剣を振るったわけではないし、結果として誰一人命を奪うこともなかった。
だから今はもう、あの日の総司様を責めることだけはできなかった。
私がそう話すと、エイミーは少し驚いたように私を見つめ、それからふっと柔らかく微笑んだ。


「正直に言うと、私も最初は怖かったんです。閣下のお屋敷で働くと決まった時は、どんな恐ろしい方なんだろうって不安でいっぱいでした。でも、この手帳を見たら……なんだか怖いというより、可愛らしく思えてきちゃって」

『ふふ。確かに総司様は、可愛いところがあるかも。この前も庭園でシロツメクサの花冠を作ってくださったの』

「ええ?閣下ご自身がですか?」

『そうだよ。それに、突然追いかけっこを始めたり、一緒に木に登ろうって誘ってきたり』

「それは……可愛いというより、子供みたいですね」


その言葉がおかしくて、二人でくすくすと笑い合う。


『でも、すごく楽しかったの。帝国に来てから、あんなに思い切り笑えたのは初めてだった。きっと私が元気になれるように、そうしてくださったんじゃないかなって思うんだ』


総司様は、そういう想いを決して口にはしない。
まるで偶然思いついた遊びのように振る舞うけど、本当はきっと違う。
どこに行けば私が喜ぶのか。
どうすれば不安や寂しさを少しでも忘れて笑えるのか。
そんなことを、私の知らないところで考えてくださっていたのだと思う。


『だから、少しでも感謝の気持ちを伝えたいんだけど……総司様は、当主として当然のことをしているだけだから気にしなくていい、っていつも言うの』

「それで、そちらを作っていらっしゃるんですか?」


エイミーの視線が私の手元に落ちる。
そこには、まだ作りかけの小さな布人形が置かれていた。
布や綿、糸も、全部エイミーが街で探して揃えてくれたものだった。


『うん』


私は少し照れくさくなりながら、小さな布人形を両手で包む。


『この前読んでいた本にね、自分の姿をした小さな人形を持ち歩くと、その子が身代わりになって災いから守ってくれるっていう言い伝えが載っていたの』

「身代わり人形なんてあるんですね」

『本当にそうなるかは分からないよ。でも、なんだか素敵なお話だなって思って』


私はまだ顔もない小さな人形をそっと撫でる。
丸い頭と身体だけの、まだ何者でもない小さな子。
これから総司様の茶色い髪をつけて、エメラルド色の瞳を縫って、騎士服も作って着せるつもりだった。


『総司様のお仕事は、いつも危険と隣り合わせだから……もし本当に、この子が総司様を守ってくれたらいいなって思ってるんだ』


剣を振るうたび、危険な任務に向かうたび、この小さな子が少しでも総司様の身代わりになってくれたなら。
怪我も、災いも、悲しいことも、全部この子が代わりに受け止めてくれたなら。
そう願わずにはいられなかった。


『喜んでもらえるか分からないけど……』


自由に街に出ることはできないし、自分で贈り物を選ぶこともできない。
それに、奥様がいらっしゃる男性に刺繍入りのハンカチや身につける物を贈るのは、少し違う気がした。
だからこそ、この人形が一番いいと思った。
手のひらに乗るくらい小さな人形なら、感謝の気持ちも一緒に縫い込めるし、お仕事の邪魔にもならず、どこかにそっと置いていただけるかもしれない。


「絶対に喜んでくださいますよ」
 

エイミーは迷いなく言い切る。
その言葉が嬉しくて、私は小さく微笑んだ。


『そうだといいな』


私は人形をそっと撫でる。
一針ずつ願いを込めて作るこの子の完成が楽しみだった。


『だからね、今日はもう少しだけ続きを作りたいの。少しくらいなら、寝る時間が遅くなってもいいかなって思うんだけど……』

「それは駄目です」


エイミーは間髪入れずに首を横に振った。


「閣下との約束を破った罰で、どうして手帳に書いたことを守らなかったのって叱られたらどうするんですか?」

『そんなことで叱られないよ』

「そうでしょうか?私は結構、本気で叱られる気がします。明日、私が消されていたらお嬢様の枕元に化けて出ますからね?」


膨れた顔でそんなことを言うものだから、私は吹き出してしまう。


『ふふっ。それじゃあエイミーを困らせないためにも、ちゃんとお薬を飲んで寝るね』

「はい。それが一番です」


そう言って二人で顔を見合わせると、また笑い声が重なった。
静かな夜の部屋に響くその笑い声は、とても穏やかで温かくて。
私は出来上がりを楽しみにしながら、作りかけの小さな総司様をそっと籠に戻した。

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