10

仕事が再開してからというもの、息をつく間もないほど慌ただしい日々が戻ってきた。
結局ここ数日も屋敷に帰り着く頃には日付が変わり、ようやく帰宅できてもセラ嬢の寝顔をほんの少し眺めるだけで、僕自身は執務室の寝台に身体を横たえる毎日が続いている。
それでも今夜は、その部屋に向かう前に湯浴みだけは済ませなければならなかった。
返り血を浴びたままでは、あの子の部屋の空気まで穢してしまいそうで嫌だったし、肌にこびりついた鉄の匂いは、自分でもうんざりするほど鼻につく。
熱い湯で血の痕を洗い流し、ようやく一息ついたところで軽く髪を拭い、静かに息を吐く。


「さてと」


今夜も少しだけ様子を見てこよう。
そう思って部屋を出ようとした時、扉が控えめに叩かれ、そのままゆっくり開いた。
隣室から顔を覗かせたのは千だった。


「お帰りなさい、総司」

「ただいま」


普段よりもずっと柔らかい笑みを浮かべている。
珍しいこともあるものだと眺めていると、彼女の右手で揺れるワイングラスが目に入り、その理由にすぐ気づいた。


「お酒でも飲んでた?」

「ええ。さっきまでリーシェと一緒だったの。良いワインが届いたからって誘われて」

「へえ、君達って意外と仲が良かったんだ」

「別に仲良しってわけじゃないわ。ただ今日はたまたま。それにリーシェは最近、画家の男に夢中みたいだし」


ああ、例の新しい愛人か。
腕だけは確かな画家らしく、この前挨拶に来た時、一枚くらいなら付き合いで買ってもいいかと思って絵を譲ってもらったことを思い出す。


「それならもう休んだ方がいいんじゃない?顔も赤いし、かなり酔ってるように見えるけど」


瞳はどこか焦点が定まらず、普段ならこんなふうに機嫌よく話しかけてくることもない。
僕ににっこり笑いかけている時点で、相当アルコールが回っているのは間違いなかった。


「まだ眠くないもの。それより総司は?今日はもう休むの?」

「いや、これから執務室に行くよ。まだ少し片づけておきたい仕事が残ってるから」


とは言え、まずはセラ嬢の部屋に顔を出すつもりだ。
けれど休暇が明けた今は、あの子の部屋に長く留まるわけにはいかない。
僕はあくまでも彼女を保護する立場でしかないため、様子を確かめたら、すぐに引き返すしかなかった。

本当ならもっと一緒にいたい。
眠っているあの子の身体に触れて、心の澱みを取り去ってから眠りにつきたい。
でも今は、余計な憶測を招くような振る舞いは極力しない方が、この先の面倒事も少なく済む気がした。


「こんな時間からまた仕事なの?たまには自分の部屋でちゃんと眠ればいいのに。この部屋の寝台、全然使ってないでしょう?」

「執務室の寝台の方が性に合ってるんだよ。仕事の途中で眠くなったらそのまま横になれるし、この部屋は広すぎて、なんだか落ち着かなくてさ」


勿論、今はそれだけじゃない。
執務室の窓からはセラ嬢の部屋が見える。
夜更けになれば明かりは落ち、窓辺も闇に溶けてほとんど見えなくなる。
それでも、その先にあの子が眠っているのだと思うだけで、不思議と張り詰めていた心が少しだけほどけるのだから、自分でもつくづく救いようがないと思う。


「じゃあ、僕はそろそろ行くよ」 


そう口にして、千に背を向け行こうとした時だった。
彼女はいきなり僕に身を寄せ、逃がさないとでも言うように、力任せに寝台に押し倒してきた。
思わず唖然として彼女を見上げると、千は組み敷くような形のまま僕を見下ろし、僅かに眉をひそめていた。


「千?」


お酒のせいで頬は赤く染まり、その瞳には普段より熱を帯びた光が宿っている。
じっと僕を見据えたまま、彼女は低い声で問いかけた。


「前に話したこと、ちゃんと考えてくれたの?」

「なんのこと?」

「後継者のことよ。私、もういい加減子供が欲しいの」


結婚してからというもの、千は折に触れて世継ぎの話を持ち出してきた。
そのたびに僕は、子供は欲しくないとか、騎士団から養子を迎えれば済む話だとか、適当な理屈を並べて躱してきた。
彼女もそれ以上強くは踏み込まず、どこか納得したような顔をして引き下がっていたけど、諦めたわけではなかったらしい。
今夜は遠回しな探りではなく、自分の望みを真っ直ぐに口にした。


「何度も言ってるけど、僕は子供が欲しいなんて思えないんだ」

「育てることが負担なら、それでも構わないわ。私が責任を持って育てるもの。あなたに無理をさせるつもりなんてないのよ」

「そういう問題じゃないよ。実際に子供が生まれれば、僕だって何もしないわけにはいかない。それに結婚する前から言ってあったでしょ。僕には夫としての役目を期待しないでほしいって」

「だから私は、その約束は守っているじゃない」


千は少しだけ眉を寄せながら、静かに言葉を返した。


「あなたに愛情を求めたことなんて、一度もないわ。ただ私は最低限の体面だけは守ってほしいって言ったはずよ」

「十分守ってると思うけど」

「本当にそう思っているの?」


責めるような口調ではなかったものの、その問いには積もり積もった不満が滲んでいるようだった。


「私達は結婚して、もうすぐ二年になるの。それなのに子供が授からないとなれば、周囲は好き勝手な噂を始めるわ。何か事情があるんじゃないか、夫婦仲が悪いんじゃないかって。そういう目で見られ続けるのは、決して体面が保たれているとは言えないでしょう」


よりにもよって今この話を持ち出すのかと、胸の内で小さくため息をつく。
今は仕事に加えてセラ嬢のことで頭がいっぱいだというのに、こんな話まで重なるなんて、本当に間が悪い。

リーシェやニコラなら、まだ気楽だった。
リーシェが求めるものは恋愛ごっこにも似た刺激で、ニコラは欲しい物さえ与えておけば機嫌は直る。
二人とも何度か僕に身体の関係を迫ってきたことはあったけど、結局あの子達が欲しかったのは僕自身ではなく、自分の欲求を満たすための何かだった。
だから別の形で埋め合わせをすれば、それ以上深追いされることはなかった。

でも千は違う。
彼女が望んでいるのは自分の子供をアルディオン公爵家の正統な後継者にすることであり、その願いは僕にしか叶えられない。
真面目で責任感が強く、与えられた仕事は誰より丁寧にこなし、無駄遣いもせず、他の男に心を向けることもない。
だからこそ、僕が彼女に何不自由ない暮らしを約束したとしても、彼女の胸に空いた穴は、衣食住や地位だけでは埋まらないのだろうということは千の目を見れば嫌でもわかってしまう。
それでも彼女が求めているものを、僕は与えることは出来ない。
だからこそこの話はいつだって、逃げる側の僕にだけ重くのしかかってくることだった。


「別に、周りが何を言おうと僕には関係ないけどね。社交界の噂がどうだとか、体裁がどうだとか、そんなくだらない理由だけで子供を作るなんて、僕には到底理解できないよ」

「でも、貴族の家に生まれた以上、世継ぎを残すのは当然の務めでしょう。私の両親だって顔を合わせるたびに子供の話ばかりするし、あなたのお父様だって同じ考えのはずよ」


もちろん、その通りだ。
貴族としての在り方を誰より重んじる父は、以前、僕が子供を作るつもりはないと告げた時、激しく怒っていた。
初代当主であるお前が最初から血を繋ぐことを放棄し、養子に家を継がせるなど言語道断だ、そう叱責されたことは今でもよく覚えている。

だけど、その父が今では何も言わない。
理由は至極単純だった。
父は知っているからだ、僕がセラ嬢との子なら何の迷いもなく望むことを。
だからこそ、あの人はあの計画を立て、自ら僕の協力者になった。

セラ嬢が正式に僕の側室となれば、世継ぎの問題は何一つ残らない。
そう確信しているからこそ、以前のように跡継ぎの話を持ち出すこともなくなった。
もちろん、その理由を千に教えるつもりはないけど。


「残念だけど、父は今じゃそんなことは一言も言わないよ」

「そんなはずないでしょ。あのお父様が体裁を気にしないなんて信じられないもの」

「だったら今度、本人に聞いてみたら?僕は嘘なんてついてないから。それに僕は昔から父には伝えてあるんだよ。言われた通り結婚はする。でも子供だけは絶対に作らない。それが僕が結婚を受け入れる条件だってね」
 

千は眉をひそめ、不思議そうに僕を見つめる。


「どうしてそこまで頑ななの?そんなに子供が欲しくない理由でもあるの?」


理解できないのも無理はない。
貴族の結婚は家と家を繋ぐ契約であり、その先に後継者を残すことまで含めて初めて果たされる義務だ。
そこに愛情があろうとなかろうと関係ない。
それが当たり前の世界で育った彼女には、僕の考えは異端にしか映らないだろう。
でも、この話をいつまでも続けるのも面倒になって、僕は少しだけ口元を緩める。
 

「子供が欲しくないっていうよりさ、そういう行為そのものをしたくないって言った方がわかりやすいかな」


僕が千を見上げたまま穏やかに言い切ると、僅かに彼女の瞳が揺れた。
けれどすぐにまるで冗談でも聞いたかのように目を細め、くすりと笑って僕を見下ろす。


「何を言っているのよ。結婚する前、あなたが散々女性と遊んでいたことくらい、社交界では誰でも知っている話でしょう?」

「あれは結婚前の話ね。でも今は違うよ。そういうことには、すっかり興味がなくなったんだ」


軽く笑って答えたものの、実際は興味を失ったわけじゃない。
ただ、相手がセラ嬢以外では何も感じなくなってしまっただけだ。


「あなたが興味ないのはわかったわ。でも妻である私の頼みなんだから、興味がなかろうが協力くらいしてくれたっていいじゃない」

「無理矢理やれって?そんなの無理だよ、勃たないから」

「若いのに、そんなわけないでしょ?男の人なら誰だって少しは反応するものよ」

「僕はしないんだよ。だから君にいくらお願いされても、子供はもう無理なんだ」


確かに昔の僕は、セラ嬢を心の中に思い浮かべながら、別の女性と夜を過ごしていた。
あの頃の僕は、今思えば自分でも分かるほど投げやりだった。
届かない想いを抱え続ける苦しさから逃げたくて、ほんの一瞬でも胸の痛みを忘れられるならと、間違った慰め方を選んでいた。

けれど、もう一度セラ嬢の隣に立てるかもしれないと思えた瞬間から、過去の自分が酷く醜いものに感じられるようになった。
あんなやり方で心を少しでも埋めようとしていたなんて、今では思い出すだけで嫌悪感が湧く。
たとえ頭の中にセラ嬢の姿を描いたとしても、他の人に触れることすら嫌になった。

そして今、セラ嬢はこの屋敷にいる。
無理矢理連れてこられ、不安や孤独を抱えながらも、それでも自分の心を失わずにいる彼女は、あまりにも真っ直ぐで、眩しいほどに清らかだった。
傷つけられても誰かを憎むことを選ばず、与えられた運命を受け入れながら、それでも小さな幸せを探そうとしている。
そんなセラ嬢が心の底から愛おしくて、それと同時にそんな彼女に堪らなく欲情した。
僕は結局のところ、彼女以外の相手にこの心が動くことはないようだった。


「そう。それなら試してみていい?」


僕は思わず耳を疑った。
けれど彼女は至って真剣な顔で、身に纏っていた絹のナイトガウンの紐に指をかけると、ゆっくりとほどいて脱ぎ捨てた。
キャンドルの明かりに照らされた彼女の白い肌が露わになり、豊かな胸の膨らみが僕の前に晒されても、それを隠そうともせず、そのまま僕を見下ろした。


「私がしてあげる。総司が本当に何も感じないというのなら、私自身が触れてみて、その目で確認したいの。それでも反応しなかったら、今夜は諦める。それくらいのことは、妻として許されるはずよ」

「それ、本気で言ってるの?」

「ええ、本気よ。それじゃないと私が納得できないんだもの。私はそれ程までに子供が欲しいの。出来ないっていうなら証明してみせてよ。ただ言葉で済まされるのはもう嫌だわ」


……煩わしいな、本当に。
千の言い分が理解できないわけじゃないけど、こうなることだけは避けたかったからこそ、結婚する前に夫としての役割は期待しないでほしいと何度も伝えたはずだった。
あの言葉には当然、夫婦の営みも含まれているつもりだったし、子供を望んでいないことくらい察してくれているものだと思っていた。
けれど彼女にとっては、そのことと夫婦として最低限の体裁を保つことは別問題だったらしい。
今になって思えば、一つひとつ細かく説明しておくべきだったのかもしれないと悔いる。

とはいえ、今さら後悔しても遅い。
このまま拒否すれば、また別の夜に同じ話を繰り返されるだろう。
でも今夜だけ苦痛に耐えれば、少なくとも当面はこの要求から解放されるかもしれない。
胸の奥でセラ嬢の姿が静かに疼くのを感じながら、僕は小さく息を吐き、口元だけに薄い笑みを浮かべて千を見上げた。


「構わないよ。でも、君はあまりこういうことには慣れていないんじゃないの?」


千は少しも動じることなく、静かに笑う。


「まさか。私だって、それなりの経験はあるわ。遊ぶなら結婚前しか出来ないでしょう?」


その答えは少し意外だった。
千は真面目で慎み深い性格だ。
こうした話題とはどこか縁遠い人だと、勝手に思い込んでいた。


「へえ、それは意外だったな。君がそういう経験を積んできたなんて、正直あまり想像してなかったよ」

「経験を持つこと自体は悪いことではないでしょ。何も知らなければ、相手を見る目も養えないもの。それに身持ちが固い娘だと思われれば、余計な縁談を次々持ち込まれるから厄介だし。あなたならそのくらい分かるでしょう?」


いかにも千らしい考え方だ。
恋愛を楽しむためではなく、自分の立場を守るための処世術。
そう聞けば彼女の選択にも納得ができた。


「そこまで縁談を嫌がっていたのに、よく僕との結婚は受け入れたよね」

「言ったじゃない、あなたは私と少し似ている気がしたの。お互い余計な感情を持ち込まずに済みそうだったし、その方が気楽だと思っただけよ」

「まあ、今更なんでもいいけどね。ほら、やるなら早く試してよ」


彼女は静かに頷くと、ゆっくりと僕に近づいてきた。
豊かな胸の膨らみが上下に揺れ、その先端がわずかに硬く尖っているのがわかる。
彼女は僕の寝衣の前をはだけさせ、胸元から下半身までをゆっくりと露わにした。
冷たい指先が肌に触れるたびに、僕は微かに眉を寄せる。
セラ嬢以外の誰かに触れられることが、今の僕にはただ憂鬱でしかなかった。

彼女は僕の胸に手を這わせ、ゆっくりと撫で下ろしてくる。
指先が先端を摘み、軽く転がす。
それでも下半身は柔らかいままで、熱を帯びる気配すらない。
彼女はそれを確認するように視線を落とし、そのまま掌で優しく包み込むように触れ始めた。
指先で丁寧に扱くような動きを繰り返すものの、何も起きない。
僕はただ天井を見つめたまま、息を静かに吐いた。


「いくら頑張ってもらっても、厳しいと思うよ」

「まだ始めたばかりじゃない」


彼女は諦めずに、指先を湿らせ、先端を丁寧に撫でたり、掌全体で上下に動かしたりする。
時折り口を寄せ、熱い息を吹きかけながら唇で包み込むようにする。
柔らかな舌が這い、丁寧に刺激を加え続けるけど、僕の中心は一向に硬くならない。
むしろこの時間がただ不快で、胸の奥にセラ嬢の姿が浮かぶたびに、余計に拒絶反応が強くなる。

彼女の唇が僕の下半身を深く含み、舌を巧みに動かす音が静かな寝室に小さく響いていた。
それでも僕は何も感じられず、ただこの行為が早く終わることを願うばかりだった。
セラ嬢のなめらかな肌や、僕の指に絡みついてくる熱い蜜や、快楽に溶かされたような愛らしい表情が脳裏をよぎり、それ以外のすべてが色褪せて見える。
千がどれだけ丁寧に刺激しても、僕の下半身は柔らかいままで、反応する気配すらなかった。


「ほら、見て。全然でしょ。これ以上続けても無駄だと思うけど」


彼女の唇が離れ、僅かに潤んだ瞳で僕を見上げてくるけど、その視線に僕は何の興奮も抱けなかった。
ただ早くこの場を終わらせて、セラ嬢の部屋のまで行きたいという想いだけが胸を満たしている。


「……嘘だと思っていたけど、本当だったのね」


千はどこか困惑したように僕を見つめ、小さく息を吐いた。 


「そんな嘘をついて、僕に何の得があるのさ」

「でも、これは思っていた以上に深刻な話よ。一度きちんと医者に診てもらった方がいいんじゃないかしら」

「遠慮しておくよ。僕自身は何も困ってないし、不自由だなんて思ったこともない。このままで十分だから」


そう言って寝着を羽織り、前を整える。
視線を向けると、千は何とも言えない複雑な表情で僕を見つめていた。


「私ね、総司は私達の目を盗んで、どこかで女遊びを続けているものだとばかり思っていたの」

「だから……何度も言ってるでしょ。結婚してからは一度もしてないよ。信じられないなら騎士団の連中にでも聞いてみれば?僕の潔白くらい証明してくれると思うけど」

「それなら、どうして急に興味がなくなったの?」

「さあ、どうしてだろうね」


答えるつもりなんて、もちろんない。
だから僕は他人事のように肩をすくめて笑った。


「とにかく、これで納得してくれたでしょ。君が望んだから試した。でも結果は変わらなかった。それなら、この話はもう終わりでいいよね」


千は少し考え込むように目を伏せ、それから静かに頷いた。


「総司の身体の事情は分かったわ。でも、それとアルディオンに後継者が必要なことは別の話よ。そのことだけは、いずれきちんと考えなくてはならないわ」

「もちろん、そのつもりではいるよ。でも今すぐ結論を出す必要はないでしょ。それに僕の身体だってこの先どうなるか分からない。案外、何年かしたら何事もなかったみたいに治ってるかもしれないしね」

「……そうね」


ようやく納得したらしい千の表情を見て、胸の内で小さく安堵する。
これ以上この話を続けられても、お互い疲れるだけだ。


「じゃあ、僕は仕事が残ってるから行くよ。君もあまり夜更かししないで、早く休みなよ」


そう言って微笑み、彼女の肩に落ちていた彼女のナイトガウンをそっと掛ける。
千は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたあと、小さく頷いた。


「ええ。おやすみなさい、総司」

「おやすみ」


ようやく解放された。
部屋を出て扉を閉めると、胸の奥に溜め込んでいた息を静かに吐き出しながら、何事もなかったような顔で廊下を歩く。
三階まで登ると、人気がないことを確かめ、足は迷うことなくセラ嬢の部屋に向かっていた。

今日も無事を確かめるために、一目だけ見られれば十分だ。
自分にそう言い聞かせながら扉の前に立つと、音を立てないようゆっくり扉を開いた。
部屋の中は小さなランプの灯だけが揺れ、柔らかな橙色の光が静かな夜を包み込んでいる。
その穏やかな明かりの中、セラ嬢は寝台に身を預け、規則正しい寝息を立てながら眠っていた。

その姿を目にしただけで、胸を締めつけていた重苦しさが、嘘みたいにほどけていく。
血の匂いが染みついた一日も、千との煩わしいやり取りも、この子の寝顔の前では何もかも忘れ去ってしまうんだから不思議なものだ。
寝台の傍に寄ると、さらりと額に落ちた前髪を眺める。
無防備な寝顔は幼い頃と少しも変わらないのに、その横顔はいつの間にか、息をのむほど美しい女性になっていた。

この寝顔一つ、他の誰にも見せたくない。
そんな身勝手な独占欲に苦笑しながら、僕はそっと頬に指先を添えた。
触れた肌は驚くほど柔らかく、温かい。
その温もりを確かめるように、親指で一度だけ優しく撫でる。


「……今日も一日、よく頑張ったね」


返事はない。
それでも、その安らかな寝息を聞いているだけで十分だった。
僕は静かに身を屈めると、その額に羽が触れるほど淡い口づけをひとつ落とした。
それだけで胸が高鳴り、身体が勝手に反応する。
触れたくて、その吐息や体温を感じたくて堪らないのに、それが出来ないことが辛い。


「おやすみ、セラ嬢」


その囁きは、夜の静けさに溶けて消えていく。
名残を振り切るようにゆっくり立ち上がり、もう一度だけ穏やかな寝顔を胸に焼きつける。
そして誰にも気づかれないよう静かに扉を閉めると、執務室に続く廊下に足を向けた。

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