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あれからまた日は流れ、アルディオン領は日中もだいぶ冷え込むようになっていた。
私は部屋の中で、総司様の人形に一針一針、心を込めて糸を通していたけど、不意に手が止まり、そのまま窓の向こうに広がる庭園に静かに目を向けた。
色を失い始めた木々を眺めていると、胸の奥から懐かしい景色がゆっくりと浮かんでくる。

お父様、私がいなくなって、お身体は大丈夫かな。
薫様や千鶴様、はじめも……学院で変わらず元気に過ごしているかな。
騎士団や公爵邸の皆も、どうか誰一人怪我をしていませんように。
そんな願いばかりが胸に積もっていき、私は紅茶を淹れてくれたエイミーを見上げた。


『このお屋敷には、東部のことが載っている新聞や定期報は届いていないのかな?』


総司様には聞きづらいことでも、エイミーになら素直に口にできる。
思い切って尋ねてみると、彼女は申し訳なさそうに眉を下げ、首を横に振った。


「私には管理する権限がございませんので、ご用意するのは難しいかと思います。本当に申し訳ありません」

『ううん、謝らなくて大丈夫。もし街で東部のことが少しでも書かれた新聞や冊子を見かけたら、そのときだけ買ってきてもらうことはできる?』


私には、総司様がある程度の予算を用意してくださっている。
帝国で暮らすうえで必要なものや、欲しいものがあれば、エイミーに頼んで自由に買ってもらって構わないと言って頂けていた。
もちろん贅沢をするつもりはないから、今までお願いしたのは総司様の人形を作るための布や糸くらいだった。
けれど故郷のことだけは、どうしても知っておきたい。
離れてしまった今だからこそ、大切な人たちが元気に過ごしていると、それだけでも知ることができたら安心できる気がした。
でもエイミーはさらに表情を曇らせると、心苦しそうに視線を伏せる。


「……それも、お受けすることはできないんです。ご期待に添えず、本当に申し訳ありません」


思わず目を瞬かせる。
何かを問いかけるより早く、エイミーは静かに言葉を続けた。


「実は閣下から固く申し付けられております。お嬢様には東部に関する情報をお伝えしないこと、東部の記事が載った新聞や書物をお渡ししないこと、と」

『え……?どうして?』

「詳しい理由までは私も存じません。ただ……これから帝国で生きていくお嬢様が、故郷への想いに縛られ続けてしまうのは良くないというお考えだとうかがっております」


ここに来て、もうすぐ二か月。
私は故郷に一通の手紙も送れず、誰からの便りも届かないまま、このお屋敷で日々を過ごしてきた。
エイミーと他愛のない話をしたり、美しい庭園を歩いたりしている時間は穏やかだけど、その穏やかさは自由とは違う。
故郷の様子を知ることも、大切な人たちの無事を確かめることも許されない。
その当たり前の願いさえ叶わない現実が、私の立場を何より雄弁に物語っていた。
どれほど丁寧に扱われても、決して見えない檻の中から出ることは許されない。
まるで、広い庭を眺めることだけを許された鳥籠の鳥のように感じられた。


『そうなんだね、わかった。エイミーを困らせるようなことをお願いしちゃってごめんね』

「お嬢様は謝らないでください。それにお嬢様が故郷を気になさるお気持ちは、とてもよくわかります。私も故郷から遠く離れた土地で働いておりますから」

『エイミーも?』

「はい。私は西部の生まれなんです。幼い弟と妹がいるのですが、父が若くして亡くなりまして……。母も身体があまり丈夫ではないので、私が家族のために働きに出て仕送りをしているんです」


そう言ってエイミーが大切そうに胸元に手を添える。
細い鎖に下がっていた小さな銀のペンダントを開くと、その中には今より少し幼いエイミーと、まだあどけなさの残る男の子と女の子が寄り添い、眩しい笑顔を浮かべていた。
その笑顔は離れて暮らしていても色褪せることなく、彼女の心を支え続けている宝物なのだと、見ているだけで伝わってくる。


『そうだったんだね。それで、このお屋敷には住み込みで働いているの?』

「はい。私はいつも住み込みで雇っていただけるお屋敷を探して働いています。前のお屋敷は経費削減で使用人を減らすことになってしまい、職を失ってしまったんです。それで今回、ご縁があってこちらの侍女として採用していただきました」


優しい眼差しで写真を見つめるエイミーの横顔を眺めながら、この子もきっとたくさんの苦労を乗り越えてきたんだろうと思った。
私と同じ年なのに、大切な家族を養うため、自分で故郷を離れる決意をして、たった一人で働き続けている。
その毎日は決して楽なものではなかったはずなのに、彼女はいつも優しくて、明るく笑っていた。
その強さが眩しくて、胸が少し熱くなる。
私も自分の境遇ばかりを見つめて立ち止まっていてはいけない。
エイミーの笑顔は、そんなこと教えてくれている気がした。


『エイミーはすごいね。この子たちや、お母様にとって、とても自慢のお姉さんなんだろうな』


するとエイミーは照れたように笑い、柔らかく首を横に振る。


「そんなことありませんよ。家族のためと言ってますけど、本当は自分のためでもあったんです。故郷にいた頃は仕事が終われば弟や妹のお世話で、自分の時間なんてほとんどありませんでしたから。それが少し苦しく思えてしまうこともあって……。でも帝国に来てからは、今までより効率良く働けて、家族にも仕送りができますし、自分の時間も持てるようになりました。離れて暮らす寂しさはありますけど、それが今の私には一番良い形なのかなって。少し身勝手な考えかもしれませんけど」


自嘲するように笑う彼女に、私は静かに首を横に振った。


『そんなことないよ。エイミーが家族を大切に思っていることは、何も変わってないでしょう?好きだから、大切だからって、自分の全部を我慢し続けることだけが愛情じゃないと思うの。エイミーはエイミーが考えた方法で、お母様や弟さんたちを支えてる。それはとても立派なことだと思うよ。それにね、家族のお話をしているエイミーの顔を見たら、どれだけ大切に思っているかちゃんと伝わってきたから』


その言葉に、エイミーは大きく目を見開いた。
しばらく驚いたように私を見つめていたけど、やがてその瞳が潤み、慌てたように笑みを浮かべる。


「……ありがとうございます」


小さく零れたその声は震えていて、エイミーは照れくさそうに目元を指先でそっと拭った。


「家族のために働くのは当たり前だと言われることはあっても、そんなふうに言っていただけたのは初めてです」

『思ったことを言っただけだよ。私はまだ自分でお金を稼いだこともないから、エイミーのこと本当に尊敬してる』


アストリアにいた頃は、お父様や山南さんに教わりながら、公爵家の仕事を少しずつ学んでいた。
領内の孤児院や教会を訪ねて必要な物資を届けたり、炊き出しや慈善会の準備を手伝ったり、帳簿の見方や領民から寄せられる陳情のまとめ方を教わったこともある。
いつか公爵家を支えられるようにと与えられていた学びだったけど、それはまだ教わっている途中に過ぎず、自分一人で誰かを支えられたことなんて一度もなかった。

まして今の私は、その経験を生かす場所すらない。
毎日この部屋で静かに過ごし、総司様やエイミーに守られているだけ。
それはありがたいことなのに、心のどこかでは、この帝国で私にも誰かの役に立てることがあればいいのに、と願わずにはいられなかった。


「お嬢様は、本当にお優しい方ですね」

『私より、エイミーの方がずっと優しいよ』


エイミーは少し困ったように笑いながら、ふるふると首を横に振る。


「私は普通ですよ。初めてお嬢様にお会いした時は、とてもお淑やかで近寄りがたい方なのかなと思っていたんです。でも、一緒に過ごしてみると、私みたいな侍女の話まで真剣に聞いてくださって、こうして心まで軽くしてくださいました」

『そんな大したことはしてないよ。私こそ、いつもエイミーに助けてもらってばかりだもん』

「そんなことありません。私はこうしてお嬢様にお仕え出来ることが嬉しいんです」

『私もね、エイミーが傍にいてくれて本当に嬉しいの。これからも、ずっと仲良くしてくれる?』


その言葉に、エイミーはぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべる。


「もちろんです」


迷いのない返事が嬉しくて、私も自然と笑みがこぼれた。
離れた場所を想って、胸が苦しくなる日はある。
それでもこうして新しく結ばれた大切な縁も、確かにここにはあるのだと、胸の奥が温かく満たされていった。


「でも……お嬢様は私とは境遇が違いますよね。お手紙でのやり取りも出来ないとなると、不安になるお気持ち、よくわかります。今度、直接閣下に頼んでみてはいかがですか?」

『総司様に?』

「はい。閣下はお嬢様のことをとても気にかけていらっしゃいますから、お願いしてみたら案外簡単に承諾を頂けたりするかもしれませんよ」

『それは……きっと厳しいと思う』


総司様は、たしかに私を気にかけてくれるし、いつも優しく接してくれる。
けれど、それは私が総司様との約束をきちんと守っているからこそだ。
東部に関わる話になると、総司様の表情は途端に冷たくなり、エメラルド色の瞳には厳しさを宿す。
あの眼差しを向けられるたび、胸の奥がきゅっと縮こまってしまって、せっかく言いかけた言葉まで飲み込んでしまうのだった。


「そうですか?閣下はなんとなく、セラお嬢様には甘そうですけどね」

『全然そんなことないよ。どうしてそう思うの?』


エイミーは少し身を乗り出すと、悪戯を思いついた子どものように口元を緩めた。


「だって、あんなに細かくお嬢様のお世話について手帳に書き残す程、気にかけていらっしゃるんですよ?ですから今度、閣下のお顔をじっと見つめながら、お願いしますって甘えてみたらどうです?」

『ええ?何言ってるの?無理だよ』


思いも寄らない提案に、私はぱちぱちと目を瞬かせる。


「それでも駄目なら、少しだけ目を潤ませてみるとか」

『それはもっと無理』

「では、袖をちょこんと掴んでみるのはどうです?」

『エイミー……?』


思わずじとっと見つめると、エイミーは堪えきれないようにくすくすと肩を揺らした。
総司様を真っすぐ見つめるだけでも緊張してしまうのに、そんなことができるはずがない。
けれどエイミーは楽しそうな笑みを浮かべたまま言う。


「冗談です。でも、お嬢様なら本当に効果がありそうなんですけどね」

『もう、どうしてそんなこと言うの』

「それは、お嬢様みたいに可愛い方に真っすぐお願いされたら、あの閣下でも断れない気がするからですよ」


思わず苦笑してしまう。


『総司様は簡単に流されてくれるような方じゃないよ。それに、私は可愛くなんてないし』

「何を仰ってるんですか。使用人の間でも、お嬢様はとてもお綺麗な方だって評判なんですよ」

『そんなふうに言ってくださるなんて、皆は優しいね。それに総司様の好きな女性は、私みたいな人じゃないの』

「そうなんですか?」

『うん。長身で、大人っぽくて、落ち着いた綺麗な女性が好みなんだって』


ふと頭に浮かぶのは、総司様の奥様方の姿だった。
皆さん背が高く、立ち居振る舞いも美しくて、同じ女性の私でも思わず見惚れてしまうほど洗練されている。


『総司様の奥様方をご覧になれば、エイミーにもわかるでしょう?皆さん本当にお綺麗で、凛としていて……だから私は総司様の好みとは全然違うの』


そう口にすると、エイミーはきょとんと目を丸くした。


『だから甘えてお願いするなんて、余計にできないよ。きっと総司様を困せるだけだから』


私は笑ってそう言ったけど、エイミーは納得がいかないというように小さく首を傾げ、何か言いたげな表情で私を見つめていた。


「その閣下のお好みというのは、閣下ご本人がそう仰っていたんですか?」

『総司様が仰っていたわけではないけど……』

「それなら、本当かどうかわからないじゃないですか」

『でも、本当にそうなんだよ』


奥様方が仰っていたことだし、実際、総司様と奥様方が並ぶと本当に一枚の絵画のように美しい。
それに比べて私は……鏡に映る自分を見つめても、幼い頃とあまり変わっていない気がした。


「なぜ鏡を見てため息なんてつかれるんですか?」

『……ううん、何でもないの。ただ、どうしたら綺麗な女性になれるのかなって思って』

「何を仰ってるんですか?私はお嬢様ほど綺麗な方にお会いしたことありませんよ?」

『ふふ、エイミーは優しいね』


エイミーは困ったように眉を下げると、私の隣まで歩いてきて、鏡越しに私の顔をじっと見つめた。


「お嬢様は、ご自分のことになると急に鈍くなられるんですから」


エイミーは少し困ったように笑いながら、私の髪をそっと整えた。


「お嬢様には、お嬢様にしかない良さがあります。綺麗な方と一言で言っても、皆さん同じではありませんから」


そう言って、エイミーは鏡の中の私を見つめる。


「奥様方のような華やかさや、大人の女性らしい美しさを持つ方もいらっしゃいます。でも、お嬢様には別の魅力があります。それはなんと言っても、その天使のような愛らしさです」


あまりにも迷いなく言われて、私は思わず瞬きをした。


『え?天使?』

「はい。初めてお会いした時から思っていました。お嬢様は見ていると自然と守りたいと思ってしまうような、そんな雰囲気があります。それにお肌だって本当に綺麗です。白くて、柔らかくて、笑うとまるで赤ちゃんみたいで」

『……赤ちゃん?』


思わず聞き返すと、エイミーは一度きょとんとしたあと、慌てて首を振った。


「違います、変な意味ではありません!」

『ふふ。でも今、赤ちゃんって』

「はい、言いました……」


エイミーは少し恥ずかしそうに頬を赤らめる。


「でも、本当にそう思ったんです。お嬢様の肌は、それくらい傷ひとつないように綺麗で、触れたら壊れてしまいそうなくらい繊細ですから」

『なんだか、褒められているのか子供扱いされているのかわからなくなってきたよ』

「褒めています。それに私はお嬢様の優しい眼差しが好きですよ。一緒にいると安心できますし、お嬢様と過ごしている時間がとても居心地が良いんです。ですから、お嬢様にも、もっとご自分のことを好きになってほしいと思っています」


エイミーが私を励ますために一生懸命言葉を重ねてくれる、その真心が嬉しかった。
鏡の中の自分を見る。
さっきまで気になっていた幼い顔立ちも、不思議と少しだけ違って見えた。


『ありがとう。私、信じてみる。エイミーが言ってくれた、私の良いところ』


そう答えると、エイミーは満足そうに微笑んだ。

帝国に来てからは、ずっと誰かの評価ばかりを気にして、足りないところを探していた気がする。
けれど、私のことを大切に思ってくれる人がいるのなら、私自身も少しくらい自分の良さを信じてあげてもいいのかもしれない。

庭を飾る花だって、毎日早く咲こうなんて思っていない。
冷たい風の日も、雨に濡れる日も、ただ静かに時を重ねながら、その花だけの季節を待っている。
それでも気付けば、一番綺麗な瞬間はちゃんと訪れる。
私も、いつかそんなふうに、自分だけの花を咲かせられるのだろうか。
そんな小さな願いを胸に抱きながら、私はもう一度、鏡の中の自分に微笑んだ。

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