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任務に赴く前の執務室。
僕は用意された紅茶を一口含み、向かいに控える侍女に静かに視線を向けた。
「それで、昨日のセラ嬢の様子は?」
「はい。昨日もお変わりなくお過ごしでした。お食事も十分な量を召し上がり、軟膏も朝夕二度きちんと塗っています。夜も薬を飲まれ、定刻にお休みになりました」
「それは僕が決めた日課の報告だよね。それは守られて当然のことなんだけど」
そう言いながら、カップを静かに受け皿に戻す。
すると目の前に立つエイミーは、小さく息を呑み、背筋を伸ばした。
「僕が聞きたいのは、そういう決まりきったことじゃないって何回言えばわかるのかな。昨日は何をしたのか、何を気に掛けていたのか、君とどんな話をしたのか。セラ嬢の一日をそのまま教えて」
セラ嬢は、自分付きの侍女として年若い娘を自ら選んだ。
以前は地方貴族の屋敷に勤めていたらしく、採用前に行われた試験でも所作や礼儀、身の回りの世話に関する技量は申し分ないという報告が上がっていた。
もちろん、それだけで信用するほど僕も甘くはない。
念のため身辺も調べさせたところ、彼女は西部の生まれで、家族を養うため帝国に働き口を求めて来た娘だった。
祖国に残した幼い弟と妹、それに母親を支えるため仕送りを続けたい、それが面接でも語られていた彼女の働く理由だった。
ただ、その経歴には一つだけ伏せられていた事実があったことが先日の調査でわかった。
彼女の父親は他国で罪を犯し、罪人として名を残した男だったらしい。
帝国ではたとえ本人に非がなくとも、犯罪者の家族というだけで良い奉公先を得ることは難しいだろう。
血筋や家柄を重んじる貴族社会なら、その現実はなおさら覆らない。
だからこそ僕は、その事実を知った上で数日程前に新たな契約を彼女と交わした。
侍女一人に支払うには明らかに破格と言える給金を約束したのも、祖国に残した家族に仕送りを続けたい彼女なら、その条件を拒めないと分かっていたからだ。
それと同時に彼女には、自分が何を背負っているのかも理解してもらう必要があった。
もし僕が彼女の素性を公にすれば、帝国内で新たな奉公先を得ることはおろか、この国を離れたとしても罪人の家族という肩書は付きまとい続けるだろう。
そうなれば、祖国で肩を寄せ合って暮らす母親や幼い弟妹の生活まで穏やかなままではいられない。
その現実を、あえて明確な言葉にして彼女に伝えた。
事実は、時に脅しよりも重く人を縛る。
彼女はその意味を十分に理解し、静かに頷いた。
それにより、エイミーには早朝に僕の執務室を訪れ、セラ嬢の何気ない会話や表情の変化に至るまで包み隠さず報告する義務が課せられた。
それは破格の給金と引き換えに結ばれた僕と彼女の間の約束であり、同時に破ることの許されない契約でもあった。
「昨日はまず、朝の湯浴みの後で腕の傷がかなり目立たなくなったと喜んでいらっしゃいました。閣下の用意してくださった薬が大変効力があるのだと」
傷が薄くなったことを、あの子自身が喜んでいたなら良かった。
何よりあの綺麗な肌に傷が残るなんて、僕自身が許せない。
「それで?」
「朝食の後は読書をなさって、その後は庭園を散歩しました。その際、お嬢様に見知らぬ男性がお声を掛けられまして……」
「……は?誰?」
思わずエイミーを睨み上げると、彼女の肩が小さく震えた。
「シャルル様、と名乗っていらしたと思います」
「ああ……リーシェの愛人をしている画家か」
名前を聞いた途端、胸の奥に小さな苛立ちが灯る。
「あの男が、どうしてセラ嬢に話しかける必要があるの?」
「偶然庭園でお会いしただけです。庭に咲く花を描いていらしたようで、お嬢様に挨拶をなさっただけでした。その直後にリーシェ様がお見えになりましたので、お嬢様と私もすぐその場を離れました」
「そう」
短く返事をして紅茶を口に運ぶ。
けれど、喉を潤しても胸の奥に滲んだ不快感は消えなかった。
「もしまた同じことがあったら、君が自然に間へ入って遠ざけて。あの子が汚れる」
「……承知いたしました」
そもそも、素性の知れない男が僕の屋敷の庭を好き勝手に歩いていること自体、あまり気分のいいものじゃない。
まして、僕の許可もなくセラ嬢に話しかけるなんて論外だった。
だけど、男に対する執着が異様に強いリーシェのことだ。
自分が気に入っている男が他の女性に興味を示すような状況を、黙って見過ごすとは思えない。
そう考えると、その接触は本当にただの偶然だったのだろう。
小さく息を吐いて胸の内に渦巻く苛立ちを押し殺していると、エイミーはそんな僕をどこか怯えたような眼差しで見つめていた。
「何をぼんやりしてるの。報告はまだ終わってない筈たけど」
「は、はい。昼食の後は手芸をなさっていました。三時のお茶の時間になっても、ずっと針仕事を続けていらっしゃいました」
「それで、君とはどんな話をしたの?」
「……え?」
「セラ嬢って、親しくなると案外よく話すでしょ。昨日は何を話していたのか聞いてるんだけど」
エイミーは少しだけ目を見開き、戸惑ったように僕を見つめ返した。
視線を逸らさないまま待っていると、やがて観念したように伏し目がちになり、静かに口を開く。
「昨日、お嬢様は東部の様子を知りたいと仰っていました。東部の記事が載った新聞や定期報は屋敷にないのか、もし街で見かけることがあれば買ってきてもらえないか、と……」
予想していた言葉だった。
「勿論、断ったんだよね?」
「はい。以前、閣下からお嬢様が故郷への想いに縛られ続けることは望ましくないとうかがっておりましたので、そのお考えに従い、ご用意はできないとお伝えしました」
「セラ嬢は何か言ってた?」
「いいえ、すぐ納得してくださいました。その後も無理に頼まれることはありませんでした」
「そう」
納得したわけじゃなく、きっと諦めただけだ。
故郷を知る術を一つ失うたび、あの子は胸の内だけで寂しさを飲み込んでいる。
それでも僕は、その願いを叶えるつもりはなかった。
東部に心を残したままでいる限り、あの子は僕を見つめてはくれない。
恨まれたとしても、それだけは譲れなかった。
「他には?僕が知っておくべきことはないの?」
「いえ……特にはないかと」
「本当に?丸一日一緒にいて、随分と少ないね」
静かに指摘すると、エイミーの肩が小さく揺れた。
僕は彼女を見上げたまま、逃げ場を与えないよう穏やかな笑みを浮かべる。
「君には侍女としては破格の給金を支払ってるんだよ。それは身の回りの世話だけを期待しているからじゃない。セラ嬢の些細な変化も見逃さず、僕が知るべきことを一つ残らず報告してもらうためだってわかってるよね?その役目を果たせないというなら、君との契約を続ける意味はなくなるけど」
エイミーは息を呑み、慌てたように記憶を辿り始めた。
やがて何かを思い出したらしく、小さく「あっ」と声を漏らして僕を見つめる。
「そういえば昨日、お嬢様が閣下の好みの女性についてお話しされていました」
「はい?」
予想もしなかった言葉に、思わず眉が動く。
「閣下は背が高く、大人びていて、落ち着いた綺麗な女性がお好きだから、自分はまったく当てはまらないのだと仰っていて……」
「そんなこと、一度も言った覚えはないけど」
「私も、そのようなことはないのではと申し上げました。ですがお嬢様は、閣下が直接仰ったわけではないけど、本当にそうなのと自信を持って話していらっしゃいました」
意味が分からないな。
そんな話は誰にもしたことがないし、考えたこともない。
「そもそも、なんでそんな話になったの?」
エイミーは気まずそうに視線を伏せ、小さく肩を縮めた。
「その……私が少し軽率でした。せめてご家族とお手紙だけでもやり取りできるよう、閣下に可愛くお願いしてみてはどうですか、と申し上げてしまって……」
「君さ……そういう勝手な提案はしないでもらえる?もし僕が断ったら、まるで僕だけが冷たい人間みたいになるじゃない」
「申し訳ございません。お手紙でしたら、お許しに頂けるのではないかと思ってしまったんです」
「許すわけないでしょ。一つ認めれば、次は二つ、その次は三つと望みは増えていく。人間なんてそういうものだからね。最初の線引きを曖昧にするつもりはないよ」
呆れたようにそう言ってから、再びエイミーを見つめる。
「それで?君のその話を、セラ嬢は本気にしたりしてないよね」
「それは、おそらく大丈夫だと思います」
「おそらく、じゃ困るんだけど」
素直で従順な人間は扱いやすい。
命じたことは疑わず従うし、余計な駆け引きもない。
だけどその反面、一度情が移れば自分の判断で動こうとする危うさもある。
だからこそ、今のうちに教えておかなければならない。
主人が誰で、何のためにこの屋敷にいるのか。
小さく息を吐いてから、僕は穏やかに微笑んだ。
「君はセラ嬢の願いを叶えるために雇われたわけじゃない。あの子を守り、その様子を一つ残らず僕に報告するためにいる。その役目だけは、決して履き違えないで」
「……はい。以後、肝に銘じます」
「それならいいよ。君も、いつかは故郷に帰りたいと思ってるんでしょ?」
その問いに、彼女は少し驚いたように目を見開き、それから小さく頷く。
「だったら、その日を迎えるためにも自分の命は大事にしないとね」
その言葉の意味を理解したのだろう。
エイミーの表情が強張り、血の気が引いていく。
「……はい。閣下のお役に立てるよう、精一杯努めます」
「その気持ちがあるなら十分だよ。せっかく僕が雇ったんだから、それ相応の働きを期待してるから」
「承知しております」
満足そうに頷いてから、僕は話題を変えた。
「それで、セラ嬢はどう?君から見て」
エイミーは一度瞬きをすると、今度は安心したように頬を緩めた。
「とても素敵なお嬢様です。とてもお優しくて、使用人の私にも分け隔てなく接してくださいます」
「あの子は君にどんなふうに優しいの?」
「私の指先の傷に気づいて手当てしてくださいましたし、昨日はお嬢様にお出ししたケーキを、一人じゃ食べきれないからと半分ずつに分けてくださいました。それだけではなく、私のハンカチに刺繍までしてくださいましたし、他にも……」
この後も続いた彼女の言葉を聞いて、思わず苦笑が漏れた。
随分、この侍女を気に入ったらしい。
友人でもできたみたいな距離の詰め方だ。
あの子が僕以外の誰かをそんなふうに気遣うのは正直あまり面白くないけど、閉じ込められた毎日の中で、心を許せる相手がいるのなら、それは悪いことでもないか。
「セラ嬢に優しくされたからって、僕との契約まで忘れないでよ。君はあくまでも僕に雇われている人間なんだから」
「はい、そのことは十分承知しております。ですが……」
言いかけた途端、しまったというように口を閉ざす。
「何?気になることがあるなら聞いてもかまわないよ。答えるかどうかは僕が決めるけど」
その一言に背中を押されたように、エイミーは恐る恐る口を開いた。
「閣下は……セラお嬢様を、今後どうなさるおつもりなのですか?これほど気にかけていらっしゃるということは、お嬢様をとても大切に思っていらっしゃるのですよね?」
本当に、この子は分かっていない。
その問いが、使用人の立場を越えたものだということを理解してないのかな。
仕事は真面目で優秀らしい。
だけどこうして僕の感情まで気にするところを見ると、利益のためとは言え、割り切って行動することは苦手な方だろう。
まあ、だからこそセラ嬢ともすぐ打ち解けられたんだろうし、あの子の本音を引き出せる存在にもなれる。
結局は、僕がこの侍女の手綱をしっかり握り続ければいいだけの話だ。
「もちろん大切だよ。東部から預かっている人質であり、陛下から保護を任された子だからね」
「それだけ……ですか?」
「そうだけど?逆に、それ以外に何があるの?」
この子がいつどこで誰に何を話すかなんて分からない。
そんな相手に、胸の内を明かすほど僕は愚かじゃない。
エイミーはどこか納得できないような顔を浮かべたものの、やがて小さく首を横に振った。
「……いいえ」
「くだらないことは考えなくていいから、今日もセラ嬢をよく見ておいて。また明日、その様子を僕に報告してよ」
「承知いたしました」
「あとは……」
他に何か聞いておくことはあったっけ。
さっきの報告を思い返していると、一つだけ気になっていたことを思い出した。
「ああ、そう言えばさ。セラ嬢は最近よく手芸をしているみたいだけど、何を作っているの?」
あの子には、欲しいものまで我慢する暮らしだけはさせたくなかった。
だから生活に困らない程度どころか、少し贅沢をしても困らないくらいのお金を渡してある。
本人は「こんなには使いません」と遠慮していたけど、半ば押しつけるように持たせたものだ。
それなのにエイミーから上がる報告によれば、あの子が買い足したものは布や毛糸、綿、刺繍糸などの手芸用品だけ。
金銭を使うことに遠慮をしているだろうセラ嬢が、自分から望んで買った数少ない品々だ。
だからこそ、その材料で何を作っているのか純粋に気になった。
そんな軽い気持ちで尋ねただけだったのに、エイミーは返事をするどころか、まるで喉元まで出かかった言葉を無理に飲み込むように唇をきつく結び、助けを求めるような視線を宙に彷徨わせた。
言うべきか、言わないべきか。
そんな葛藤が、黙っていても伝わってくるような分かりやすい反応だった。
「……何?その顔。まさか僕に言えないことなの?」
「いいえ……そういうわけではないのですが……」
「だったら早く言いなよ。僕も朝から屋敷の中で剣を抜きたくないからね」
笑顔のまま促したつもりだった。
それなのにエイミーはさらに顔色を悪くし、瞳には涙まで滲ませ始める。
……おかしい。
この反応は、どう考えても普通じゃない。
よほど僕に知られては困ることらしい。
つまりセラ嬢は、僕には言えない何かを隠している。
手芸をしていること自体が問題じゃないとすれば、問題なのはその贈り先だ。
東部の誰か……そう、例えばルヴァン王国の王太子とか。
あの男は以前、セラ嬢に自分が必ずアストリアに連れ戻すと告げていた。
もしその言葉を信じ続け、迎えが来る日を待ちながら、あの男を想って針を動かしているのだとしたら。
毎日、僕の知らないところであいつのことだけを考えながら。
そこまで思考が至った時には、胸の奥底からどす黒い感情が噴き上がる。
やっぱりあの男は殺そうか。
そんな物騒な考えが脳裏に浮かび、それを表情に出さないよう押さえ込みながら、僕はエイミーを見据えた。
「お伝えすることはできます。ただ……お聞きにならない方が、閣下にとってもよろしいかと……」
「は?そんなことを判断する権限、君にはないんだけど」
「申し訳ありません……ですが……」
「余程僕の耳に入れたら困る話みたいだね。言わないなら、本気で斬るけど」
僕も、そろそろ屋敷を出なければならない。
これ以上、この侍女に時間を使う気はなかった。
ゆっくり立ち上がり、一歩ずつ距離を詰める。
そのたびにエイミーの肩が震え、逃げ場を失ったように息を詰まらせる。
そして、僕かわざと腰元の剣に手を伸ばす素振りを見せると、とうとう堪えきれなくなったように叫んだ。
「閣下への贈り物です……っ!」
「……え?」
「お嬢様が、公爵閣下にはいつも優しくしていただいているから、少しでも感謝の気持ちをお伝えしたいのだと仰って……閣下のお姿をした人形を、お作りになっているんです」
予想の外側から飛んできた答えに、足が止まる。
「……僕の人形?」
「本でお読みになったそうです。心を込めてその方のお人形を作り、お渡しすると、災いが降りかかった時、その人形が持ち主の身代わりになってくれるという言い伝えがあるのだとか……。だからお嬢様は毎日、閣下のご無事を願いながら一針一針、丁寧に縫っていらっしゃいます」
「そう」
そう答えるのが精一杯だった。
気づけば口元が勝手に緩み、それを悟られないよう手のひらで隠しながら、エイミーに背を向ける。
危ない。
あと少しで、この侍女の前でにやけてしまうところだった。
「セラ嬢らしいね。それで、それはいつ頃できそうなの?」
「もうほとんど完成しております。昨日はお洋服を縫っていらっしゃいましたので、それが仕上がれば閣下にお渡しできると仰っていました。ですから、今日か明日には完成するかと存じます」
「そうなんだ」
なるべく平静を装って言ったものの、その声は自分でもわかるほど柔らかく聞こえた。
「安心して。君から聞いたことをセラ嬢に話すつもりはないから。君も引き続き、余計なことは口にしないように」
「はい」
「それならもう下がっていいよ。報告、ご苦労様」
笑顔で告げると、エイミーはようやく安堵したように深々と頭を下げ、足早に執務室を出て行った。
扉が静かに閉まり、部屋には静寂が戻る。
一人になった途端、堪えていた笑みがまた口元に浮かび、外出用の革手袋をゆっくりとはめながら、小さく息を漏らした。
「……そういうことだったんだ」
東部にいる誰かのためでもない。
ルヴァン王国の王太子のためでもない。
あの子が毎日針を動かしていた理由は、僕だった。
「僕のため、か」
思わず笑いが零れる。
人形を縫うたびに、僕が怪我をしないように、僕が無事でいられるように。
そんなことを願いながら、小さな手で一針一針縫い進めてくれていたのだと思うと、その姿が目に浮かんできた。
自分にできる方法で僕の身を案じてくれる、その健気さが愛おしくてたまらない。
今すぐ顔を見に行きたい。
今すぐ会いに行って、その人形を縫うその姿を実際にこの目で見てみたい。
そんな衝動が胸を満たす。
でも、それは明日まで取っておこう。
幸い、明日は久しぶりに仕事が長引かずに済みそうだった。
セラ嬢ともゆっくり顔を合わせる時間が作れる。
そうだ。
以前、馬車の中からセラ嬢が眺めていた焼き菓子の店があった。
あの店の菓子を買って帰れば喜んでくれるかもしれない。
僕は口元の笑みを隠しきれないまま、鼻歌交じりに執務室を後にした。
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