7
セラ嬢の部屋を出た僕が、あまり気乗りのしないまま足を向けた先は、一階にある大食堂だった。
その日の晩餐に僕がわざわざ顔を出した理由は、ただ一つ。
今日がニコラの誕生日だったからだ。
扉を開けば、いつもより華やかに飾られた室内に、甘い花の香りと料理の香ばしい匂いが漂っていた。
長い食卓には銀の燭台が並び、磨き上げられた食器には次々と豪華な料理が運ばれている。
屋敷の者達も普段以上に明るい声を響かせていた。
「ニコラ様、お誕生日おめでとうございます!」
使用人達が一斉に祝いの言葉を贈ると、料理人が腕を振るった特別な晩餐や、色鮮やかな菓子、果物をふんだんに使った大きな誕生日のケーキが運び込まれる。
中央に置かれた白いケーキには、細い蝋燭の炎が揺れていた。
ニコラは満足そうに笑みを浮かべながら、皆に見守られる中で願い事をするように目を閉じ、一息で炎を吹き消した。
「みんな、どうもありがとう!」
周りから向けられる拍手やお祝いの言葉に、彼女は嬉しそうに笑っている。
僕は少し離れた場所から、口元だけに穏やかな笑みを浮かべてその様子を眺めていた。
すると、ニコラがふとこちらを見上げた。
その瞳に浮かぶ期待を見れば、僕が何を求められているのかはすぐに分かった。
僕はゆっくりと立ち上がり、彼女の元に歩み寄る。
「ニコラ、おめでとう。君に誕生日の贈り物だよ」
そう言って侍従に持たせていた小箱を受け取ると、蓋を開いた。
中に収められていたのは、以前から彼女が欲しがっていた首飾りだった。
中央に飾られているのは、深紅の輝きを宿した大粒のルビー。
帝国内でも滅多に流通しないほど希少な宝石で、その鮮やかな赤色は古くから貴族達に愛され、権威や富の象徴として扱われてきたものだった。
濁りのない美しい輝きを持つルビーの周囲には、細かなダイヤモンドが贅沢にあしらわれ、白金で作られた繊細な装飾が宝石の存在感をさらに引き立てている。
華やかでありながら品を失わないその首飾りは、高位の貴族令嬢が身につけるに相応しい、誰の目にも高価な品だと分かるものだった。
僕は周囲にいる連中にも見えるように、その首飾りを彼女の首元に飾った。
「うん、よく似合っているよ」
ニコラは鏡を見るように胸元の宝石に視線を落とし、それから嬉しそうに僕に抱き着いてきた。
「総司様、ありがとうございます!ニコラ、とても嬉しいです!」
「喜んでもらえたなら良かったよ」
「もう、夢みたいです。こんな素敵な贈り物をいただけるなんて、本当に幸せ」
僕はそんな彼女の言葉に合わせるように笑みを深め、わざと周囲から見えるように彼女の髪に手を添えた。
柔らかな金色の髪を撫でれば、ニコラは目を見開いて頬を赤らめてから、さらに嬉しそうに目を細める。
この場にいる者達の目に、僕が彼女を大切にしているように見えることが必要だった。
「じゃあ、皆で食事にしようか」
僕の言葉を合図に、皆はそれぞれ決められた席に着いた。
高く掲げられたグラスにシャンパンが注がれ、祝いの乾杯が響く。
そのまま和やかな晩餐が始まった。
けれど、僕が席に着いた少し後。
食事を運ぶ侍女達の中で、エイミーが僕達の前で恭しく一礼した。
「お食事中に失礼いたします。先程、厨房より確認を頼まれました。本日のお祝いのケーキですが、セラお嬢様にもデザートと一緒にお持ちしてよろしいか、ご判断をお願いしたいと申しておりました」
その言葉を聞き、自然と視線は卓上の大きなケーキに吸い寄せられた。
白い生クリームが惜しみなく絞られ、柔らかなスポンジを包み込むように重ねられた祝いのケーキ。
セラ嬢は甘いものなら何でも嬉しそうに頬張るけど、生クリームをたっぷり使ったふわふわのケーキには、特に目を輝かせていたことを思い出す。
「もちろん、セラ嬢にも持っていってあげて。どのみち、僕達だけじゃこんな大きなケーキは食べ切れないしね」
「かしこまりました。ありがとうございます」
エイミーはほっとしたように微笑み、再び丁寧に一礼すると、ケーキを切り分けるため静かにナイフを手に取った。
でも銀の刃先がゆっくりと生クリームに触れた、その時。
「あーあ、私の誕生日ケーキがもう崩されちゃった。可愛いから、食べるまでは眺めていたかったのに」
拗ねたようなニコラの声に、エイミーの手がぴたりと止まる。
「ニコラ様、大変申し訳ございません……」
戸惑ったように謝る姿を見ながら、胸の奥に苦いものが広がっていく。
……誰のせいで、セラ嬢がこの食卓に着けなくなったと思っているんだ。
喉元まで込み上げた言葉は、そのまま飲み込み、僕はいつも通り穏やかな声を作った。
「ニコラ、わがままは言わない約束だったよね。困らせるようなことを言っちゃ駄目だよ」
「はあい、分かってますけど……少しくらい残念がってもいいじゃないですか」
肩をすくめるニコラを見て、リーシェが小馬鹿にしたように口元に笑みを作る。
「ですが、奥方の誕生日のケーキまで召し上がろうとなさるなんて、あの方も随分と食い意地がはっていらっしゃるのね」
「そうですよねえ。あの方、食べ物のことで私達に文句を言ってきましたし、食への執着心が異常なんじゃありません?」
「ええ、きっとその通りですわ。今更たくさんお食べになったところで、もう背は伸びませんのにね」
その言葉にニコラもくすくすと笑い声を重ねる。
笑うのは二人だけだった。
給仕に控える使用人達は誰一人として口を開かず、気まずそうに視線を伏せている。
以前のように彼女達に同調し、セラ嬢を蔑ろにした者達は、もうこの屋敷には残していないから当然だ。
それでも結局、あの子がいなくても、この人達の心根までは簡単に変わらないらしい。
そんな重苦しい空気を断ち切るように、エイミーは切り分けた皿を大切そうに盆に載せ、僕達に向き直った。
「それでは、セラお嬢様のお部屋にお届けしてまいります。本日はお心遣いを賜り、誠にありがとうございました。失礼いたします」
深々と頭を下げると、エイミーは静かに食堂を後にした。
僕は気付かれないように小さなため息を吐き出すと、気を取り直したように顔を上げた。
「来週の夜会のことなんだけどさ」
皇帝陛下ご臨席の夜会には、僕だけじゃなく、この三人も毎回出席している。
社交の場を何より楽しみにしている彼女達が、その話題に興味を示さないはずもない。
期待に満ちた視線が一斉に僕へ注がれるのを眺めながら、僕は続けた。
「新しいドレスを仕立てようと思ってるんだ。明日、ヴァルモンの仕立屋を呼ぶから、それぞれ好きなものを一着ずつ頼むといいよ」
その瞬間、リーシェとニコラは嬉しそうに顔を見合わせ、小さく歓声を漏らした。
けれど、千だけは素直に喜ぶことなく、不思議そうに首を傾げる。
「夜会は来週末だったわよね。今から仕立てても間に合うのかしら」
「普通なら難しいだろうね。でも今回は最優先で仕立てるよう話は済ませてあるから、一週間もあれば十分間に合うよ」
僕が用意したかったのは、セラ嬢のドレスだった。
だけど、あの子の分だけを仕立てれば、また余計な嫉妬や敵意を向けられるのは目に見えている。
だから三人の分も同時に用意する。
それが一番波風を立てずに済む方法だった。
「そう。総司にしては珍しく気が利くじゃない」
「それ、褒めてるつもりなのかな」
思わず苦笑すると、ニコラが唇を尖らせて口を挟んだ。
「千様、その言い方はないですよ。総司様は私達のためにお気遣いくださっているんですから」
「別に嫌味じゃないわよ。ただ総司って昔から衣装に興味なさそうだったでしょう。だからここまで段取り良く準備しているなんて意外だっただけよ」
「別に興味がまったくないわけじゃないけどね」
肩を竦めながら答えると、リーシェが穏やかに微笑んだ。
「旦那様、お心遣いありがとうございます。それで……今回の夜会にはセラ嬢もご出席なさるのでしょうか?」
ちょうどその話を切り出そうとしていたところだった。
僕はナイフで肉を切り分け、一口運んでから、静かに頷く。
「もちろん参加してもらうよ。陛下がそうお望みだからね」
その言葉に、ニコラとリーシェが露骨に顔を曇らせた。
「ええ?また、あの方もですか?」
「心配ですわ。また前回の狩猟会の時のような問題を起こされたら困りますもの」
「先に問題を起こしたのはセラ嬢じゃなくて、君達の方だったと思うけど」
穏やかな声で告げると、三人は揃って言葉を失う。
責め立てるつもりはないけど、事実を曲げる気はなかった。
重くなった空気の中、僕は何事もなかったように食事を続け、それから改めて口を開く。
「当日の段取りだけど、セラ嬢はアルディオン公爵家がお預かりしている来賓だし、陛下もご臨席される手前、僕が最初から最後まで責任を持ってエスコートする予定だから、そのつもりでいてもらえると助かるよ」
三人は互いに顔を見合わせる。
予想していなかったわけじゃないだろうけど、面白くはないらしい。
その表情から不服だと思っていることは容易にうかがえた。
「君達は公爵家の夫人として、それぞれ挨拶回りをお願いしたいんだ。必要な場面では僕も合流するけど、基本的には各自で動いてほしいから宜しくね」
「ずっとご一緒ではないんですね」
ニコラが少し寂しそうに尋ねる。
「夜会は大事な社交の場だからね。僕一人に付き添っているより、その方が公爵家のためにもなるでしょ」
そう話を結ぶと、三人は揃って押し黙った。
納得したというより、納得せざるを得ないといった表情だった。
まあ、彼女達の立場上、面白くないのは当然だ。
だから、少しでも不満を抑え込めるように準備だけは済ませておいた。
「とはいえ、皆に負担をかけてしまうのも事実だからさ。そのままっていうのも、僕としては気が引けるんだ」
僕が控えていた侍従に視線を向けると、銀盆に載せられた三つの箱が静かに食卓に運ばれてきた。
「これ、君達に」
「え?私達にですか?」
ニコラが目を丸くする。
「うん。ほんの気持ちだよ」
三人は不思議そうに顔を見合わせながら、それぞれ自分の前に置かれた箱を開くと、最初に声を上げたのはニコラだった。
「きゃあ……!」
箱から取り出した封筒を開いた途端、瞳が驚きに揺れる。
「帝都大劇場の特別公演……それも最前列のお席?」
「前に観てみたいって話してたじゃない。人気があり過ぎて席が空かないらしいけど、今回は何とか都合をつけてもらえたよ」
「本当に……?あの舞台のお席が取れるなんて夢みたい、ありがとうございます……!」
「喜んでもらえたなら良かったよ」
続いてリーシェが箱を開き、小さく息を呑んだ。
「まあ、なんて綺麗なんでしょう」
深い蒼色の宝石をあしらった繊細な髪飾りが、燭台の灯を受けて静かに輝いている。
「夜会の度に、こういう細工の髪飾りが欲しいって言ってたよね。君なら似合うと思って」
「覚えていてくださったのですか?」
「勿論、忘れないよ」
リーシェは嬉しそうに髪飾りを胸に抱き、お礼を言いながら微笑んだ。
最後に千が箱を開くと、中に納められていた硝子瓶を見るなり、少し驚いたように僕を見た。
「これ……帝都の工房が作る香水じゃない。完売してて、ずっと手に入らなかったのに」
「前に気になるって話してたからさ。ちょうど譲ってもらえる機会があったんだ」
「ずいぶん手間が掛かったでしょうに」
「そうでもないよ。少しお願いしただけ」
「何食わぬ顔をして、さらっと難しいことをやってしまうのが総司なのよね。ありがとう、大事に使うわ」
三人の表情が和らいだのを見届けてから、僕はワイングラスを手に取り、口を開いた。
「改めてお願いしたいんだけど、夜会ではセラ嬢の見張りも兼ねて、あの子から目を離すわけにはいかないから理解はよろしくね。その代わり、君達には公爵家の夫人として、出来る限り他家との交流を任せたいんだ。皆なら安心してお願い出来るから」
「分かったわ。当日は任せてちょうだい。あなたにも立場があるもの」
「ありがとう。そう言ってもらえると助かるよ」
千が頷くと、リーシェとニコラもそれ以上異を唱えることはなかった。
気遣うべきところは気遣ったし、当日に僕がセラ嬢の傍を離れなくても、もう文句は言えないだろう。
言わせないために、ここまで手を回したんだから。
ふと脳裏に浮かんだのは、今頃一人で夕食を取っているはずのセラ嬢の姿だった。
エイミーが付いているから心配はないと分かっていても、一人きりの食卓はどうしたって寂しく映る。
せめて今日の献立があの子の口に合っているといい。
そんなことを考えてしまう自分に、小さく苦笑が漏れた。
今日はあまり話せず部屋を出てきてしまったから、やっぱりだいぶ物足りないない。
もう一度あの子に会えないかと考えながら、目の前の食事に手を伸ばす僕がいた。
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